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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

私はどれほどイエズス様を口では「王」と言いつつ、実際には世間体で人の目を気にしてイエズスを無視してきた事か。

2020年04月10日 | お説教・霊的講話
苦しみの玄義 第4玄義黙想
2020年4月4日(初土)御聖体降福式にて
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父

『苦しみの玄義 第4玄義:この一連を捧げて、主が十字架を担い給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、苦難を甘んじ受くる恵みを乞い願わん。』

御聖体の内に真に在すイエズス様の聖心の御前で、初土の信心として、15分間、15のロザリオの玄義の1つを黙想致しましょう。

特に昨日は、悲しみのマリア様、イエズス様の十字架の下を、イエズス様の御跡を慕って、十字架を担がれるイエズス様と共に歩かれたマリア様を黙想する事を提案致します。苦しみの玄義、第4玄義を黙想する事を提案します。

聖金曜日のエルサレム。5日前はあれほど王として受け入れた、この同じエルサレム。突如として、同じイエズス・キリストを、「十字架に付けよ!」と叫び、その騒ぎは、マリア様の元に伝わってきます。

マリア様は、イエズス・キリスト、御自分の御子が、十字架を担いでおられるのをご覧になり、目も当てられないその御姿に、心は叫ぶほど悲しみ給います。

マリア様は一言も不平不満を仰らずに、イエズス様と共に、イエズス様のすぐ傍で、十字架の道を共に歩まれます。

昨晩から一睡もしておらず、殴られ、足蹴にされ、食べ物も与えられず、疲れ果てたイエズス様。鞭打たれ、血を流され、その傷の痛みと、喉の渇きで苦しんでおられるイエズス様。

十字架の重さ、その重量、また茨の冠、茨の一つ一つが頭に差し貫かれ、イエズス様は力尽き、マリア様の目の前で、倒れてしまいます。

イエズス様は敵に囲まれ、友は、味方は誰1人おらず、皆逃げてしまいます。

悪口や讒言、嘘の告発、冒瀆、嘲笑い、辱め、唾き、イエズス様をかわいそうだと思う人も、近寄って助けようとする人も、1人もいません。マリア様はそれをご覧になっています。

マリア様の胸はどれほど、悲しみで張り裂けんとしていた事でしょうか。

ユダヤ人は、心の中では、イエズス様を真のメシア、奇跡を行なってくれた救い主と知っていたかもしれませんが、理解していたかもしれませんが、周りの目があまりにも怖かったので、世間体がありました。

「皆から何と言われるか。」「嫌がらせをされるのではないか。」「後でどんな仕打ちに合うか。」「都合が悪くなるんじゃないか。」「仕事が無くなるんじゃないか。」「もうここに住めなくなるんじゃないか。」

そこで、一緒になって、イエズス様をからかい、嘲ります。

それでも、ベロニカと言う女性は、イエズス様を決して馬鹿にする事ができませんでした、「どんな事があっても、イエズス様を慰めたい」と思って近寄りました。

イエズス様はどれほど大きな慰めを受けた事でしょうか。マリア様はどれほどこれを、このベロニカに喜んだ事でしょうか。

私はどれほど、イエズス様を口では「王」と言いつつ、実際には、世間体で、この人の目を気にして、イエズス様を一緒になって無視してきた事でしょうか。

キレネのシモンのように、ベロニカのように、イエズス様をお助けする事ができる勇気と力を、マリア様、与えて下さい。

イエズス様は、この十字架を担い給う間、ひたすらに、聖父の栄光、罪の償い、私の事を、愛を込めてお考えでした。

十字架の重さに倒れても、屈辱を受けても、体がどれほど痛んでも、痛みを感じても、ひたすらに、聖父の栄光と、霊魂の救いの為に、捧げて下さいました。

マリア様は同じ心で、イエズス様の後を慕い、歩まれます。憎しみも恨みも全くなく、愛に満ちて、この十字架の道を歩まれます。

「私の弟子になりたいならば、自分の十字架をとって、私に従え」と、私たちを招いておられます。







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