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御聖体に対する信心が減少した結果:神聖なものが世界から消えていった:命の軽視

2022年07月26日 | お説教・霊的講話

2022年6月18日(土)助祭証聖者教会博士聖エフレムのミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

一昨日は御聖体の大祝日でした。御聖体を礼拝する所には、その祝福があり、そしてその御聖体を大切にする所では、その天主への愛によって、人間に対する愛が生まれるということを昨日一緒に黙想致しました。今日はその続きを黙想致しましょう。

聖パウロは今日の書簡の中で、後の世には、人々は真理から耳を遠ざけて、作り話に耳を傾ける、自分の気に入るようなことを話す人々を探して、彼らの話だけを聞くだろうというようなことを言っています。

教会は、地の塩として、塩の味を持っていなければなりません。世の光として、光を照らされなければなりません。これは人々を断罪する為ではなくて、人々を愛して、彼らを助ける為です。教会が望んでいるのは、闇に住んでいる、暗闇の無知の中にいる人々を光で照らして、光の方に導こうとすることです。

現代の御聖体に対する不信心、これは、この世に対する妥協から始まりました。御聖体を礼拝しない人、信じない人がいるから、その人たちに合わせようとすることから始まりました。新しいミサです。プロテスタントのカトリックの中に取り入れて、プロテスタントの分かれた兄弟たちを傷付けないようにした為です。

その結果は、御聖体に対する信心を、ミサに対する正しい理解を、司祭職に対する正しい理解を、失ってしまうことでした。御聖体はただの記念であるか、あるいは象徴であるか、あるいはただの食べ物であるかのように取り扱われるようになってしまいました。司祭が一体何であるかも分からなくなってしまいました。司祭ではなくて平信徒が中心であって、平信徒が司祭であって、平信徒が教会をリードする、プロテスタントのように誤解する人々が増えてしまいました。

その結果何が起こったかというと、世界中で革命が起こりました。神聖なことに関する革命が起こりました。命の伝達という神聖なことに対する軽視です。世界中で「道徳的な解放」と言われるものが起こりました。命に対する軽視が広まりました。

世界中で堕胎が合法化されるようになりました。今もっと進んでいます。安楽死が合法化されたので、あるいは婚姻に関することが、自然に反するようなものを婚姻として認めようとか、あるいは胎内にいる子供たちを生まれた後でも、自由に命を処分することができるかのように錯覚している人が増えてしまいました。私たちが手を触れることの出来ない崇敬すべき神聖なものとは、あたかもないかのようです。

今、堕胎について申しますと、世界中で、新しいミサが増えたような頃から、合法化の動きがどんどん進みました。お金を持っている人や、あるいは権力がある人が、弱い者を自由にして良い、という考えでした。

堕胎は、命を殺害してはいけないという天主の第五戒「汝、殺すなかれ」に背くばかりではありません。
命の伝達についての第六戒「汝、姦淫するなかれ」に反するばかりではありません。
「汝、父母を敬うべし」親が子供に対する義務を命じている第四戒に反するばかりでありません。

天主の礼拝に関する、生まれてくる霊魂が洗礼を受けることを奪い、そしてまたその子供たちの体を、あるいは医薬品に使ったり、あるいは改造したりする為に使う、天主の第一戒に、特に永遠の命に対する権利を、子供たちの権利を奪うことにも繋がっています。

この多くの天主の十戒の掟に反するこの堕胎は、特にその幼い、弱い、弱者を攻撃するところからも、あまりにもその罪の重さが分かります。

カトリックの信仰がなかったとしても、天主の啓示がなかったとしても、そして天主の十戒というものを、たとえ良心があまりにも麻痺して知らなかったとしてもお金があるから、権力があるから、力が強いから、弱い者を亡き者にして良い、ということが許されないということは誰にも分かります。

そんなことが許されるのなら、お金持ちがお金を持っているから、お金の無い者に毒を撒いたり、あるいは注射を打ったり、あるいは邪魔だからといって殺害しても良いか、ということになります。あるいは権力がある者が、弱い、自分を守ることができない人たちを亡き者にして良いのか、ということになります。

もしもこの地上でそのようなことが行なわれたとしたら、私たちは義憤に駆られます。しかし堕胎においては、全く自分を守ることも抵抗することもできない、無防備の子供たちが殺害されています。弱い者を、強い者が勝手に排除することが行なわれています。

そればかりではありません、堕胎においては、罪の無い者が排除されています。

たとえ悪いことをした人であっても、極悪の犯罪人であったとしても、たとえ目の前で何かが悪いことが行なわれていたとしても、だからといって私たちが裁判を経ずに自分の手でその悪をしている人を殺害したら、正当防衛以外において、これは大きな罪です。たとえ相手が悪人であったとしても、私たちは罪に問われます。しかし殺害されるのは、最も安全な場所にいる、最も正当な場所にいる、罪の無い、何も悪いことをしていない子供たちです。それが「邪魔だ」と言って、「迷惑だ」と言って殺害されています。これは、天主の啓示がなくても、あまりにも残酷であるということが私たちによく分かります。もしも誰かがそのようなことを目の前にしたら、私たちはきっとそのような人たちを非難するに違いありません。

更に堕胎は、その行なう人が、誰をするか、ということについて、重大な罪です。なぜかというと、最も愛するべき義務を持っている親が、最も愛される権利を持っている子供に対して、命を奪うという罪を行なうからです。

もしも国家の政府が、自分の国民をテロで殺害したとしても、あるいはあえて国家が、そのような国民を、保護すべき国民を苦しめて、あるいは逮捕して、あるいはいきなり殺害するとしたら、それは国家が成り立たなくなる犯罪です。しかし堕胎においては、そのようなものが行なわれています。

しかも堕胎においては、その方法があまりにも残酷です。たとえ死刑囚があったとしても、もしも私たちが堕胎に対して行われていると同じようなことをしたとしたら、それはどんなに残酷な罪を犯した殺人犯だとしても、そのような死刑のやり方には非難の嵐が起こるに違いありません。しかし堕胎においては、麻酔もなく体は引き裂かれ、口で言うのも恐ろしいほど残酷な手段で子供たちが亡き者とされています。

これは、天主の教えがなくても、私たちが理解できるようなものです。しかも、そのもしもそのような罪の無いような子供たちが、あるいは殺害された、あるいはそのような残酷なことがあったということが一件あれば、新聞で、何日もテレビで、マスコミが騒ぐようなものです。恐ろしい!何でこのようなことがあり得るのか!?と。

しかし、その行なわれている数が尋常ではありません。普通に行なわれています。毎日何百、一年で何十万、世界中で何百万。

これを見て天主は「よくやった」と私たちのことを思うとでもいうのでしょうか。むしろ「この幼き命たちは、誰か助ける人はいないか!?助けてやって欲しい!」と思われるのではないでしょうか?

あるいはそれを知っている、それを知った人は、知っていても何もしないでいてよいのでしょうか?

教会はいつも声を上げてきました。人間の命は、天主から与えられているものであって、人間が自由にすることはできない。もしも罪の無い命を殺害するようなことがあったら、それは天から復讐を呼ぶ大きな罪である。幼い者や弱い者を圧迫することは、天から復讐を呼び起こす罪である、と。

もしも弱い者を圧迫することがそうであったら、殺害することはどれほど恐ろしい罪でしょうか。天に復讐を呼ぶ罪はまだあります、正当な賃金を労働者に与えないこと。正当な食べ物、正当な命を守る保護を与えないことは、どれほどの罪でしょうか。これを見て主は、あぁ、そのまま、このまま人類がその道をまっすぐ歩んでも良いと思われるのでしょうか?それとも何とかして、私たちの目を覚まそうと、その警告のしるしを送られるのでしょうか?

私たちは一体どうしたら良いでしょうか?

御聖体の信心をぜひ盛り上げなければならないと思っています。命が大切にされる為に、本当の平和が来る為に、戦争が、子供に対する戦争が終わる為にも、私たちには御聖体に対する信心が必要です。

マリア様にお祈り致しましょう。マリア様が私たちにもその信心を与えて下さいますように、そして私たちが足りないところがたくさんあるので、マリア様が補って下さるように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



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