Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

レオ十三教皇の回勅「ミレ・カリタティス」:御聖体という本当の天主の愛を信じ、天主を愛し返す、御聖体を愛すことから、本当の平和が始まる、生まれる

2022年07月26日 | お説教・霊的講話

2022年6月17日(金)司教証聖者聖グレゴリオ・バルバディコのミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

昨日は御聖体の大祝日でした。今日は一緒に、御聖体の黙想を致しましょう。

今日最近、120年前に書かれたレオ十三世の御聖体の祝日に対する回勅を読む機会がありました。『ミレ・カリタティス』1902年に、御聖体の大祝日に書かれたもので、それによると教皇レオ十三世は、御聖体の信心を高める為に、教会は過去、全ての力を尽くしてやってきたし、そして教会は御聖体を大切にする聖人たちを列聖、列福、そして特別の名誉を与えてきた。そして御聖体に対する信心を高めるように色々な贖宥などを与えてきた。それでも足りないので、今度は今、この回勅を書いていると言って、御聖体がどれほど大切であるか、ということを説明しています。

レオ十三世はまず、御聖体が信仰の秘跡であることを語っています。今日特に、私の黙想を提案したいのは、その次に書かれた、愛の秘跡であるという項です。

もちろん愛は、真理を信じることから成り立つものです。私たちの御聖体に対する信仰は、ただの迷信ではありません。事実、真理に基づく、本当のことであるから、たとえ目に見えなくても、真の天主であるイエズス・キリストが「そうだ」と仰ったので、私たちは教会と共に固くそれを信じて、2000年間教会が信じてきたようにそれを信じ、教会が愛してきたようにそれを愛し、教会がそれをその為に荘厳に祝ってきたように、私たちも荘厳に祝おうと思っています。

この信仰から生まれ出る愛は何のことかというと、まずこれは、天主の私たちに対する愛だということです。

天主、この万物を創られた無限の全能の方が、全く不足がない方が、私たちを愛するがあまりに御子を送って、人となって、私たちの内に御生活されたばかりか、その御子が無となって、十字架の死に至るまで、御父に従順となったばかりか、それをもはるかに超えて、私たちしもべの為に、主の主が、奴隷の食べ物となることさえも厭わなかった、喜んでそうされた、無となった、この御聖体として留まろうとされた、世の終わりまで留まろうとされた。

これを見て、私たちはどうして天主に対する愛が沸き起こらざるを得ないだろうか。私たちの心に、主に対する愛が燃えたたざるを得なくなる。

もしもこの世界に不和が起こるのならば、これは御聖体に対する信仰が消えて、冷たくなってしまったからだと訴えています。

なぜかというと、隣人に対する愛は、天主に対する愛によって私たちの心に火が点きます。天主がこれほどまでに私たちを愛して下さったので、天主を愛するが為に、目に見えない天主を愛するが為に、目に見える隣人を愛そうとすることができるからです。

イエズス様が、「私は地上に火をもって来た。」(ルカ12:49)と言ったのはまさにこのことです。天主に対する愛を、そして天主を愛するが為に、私たちが隣人の為に愛することができるように、その愛の火を点けに来られました。

この愛の燃える火のかまどは、この元は、『御聖体』にあります。全ての宝の恵みの源は、御聖体だからです。なぜかというと、私たちは御聖体において、御恵みの創り主、聖寵の与え主、天主イエズス・キリスト御自身を受けるからです。

ですから、御聖体の神秘を黙想すればするほど、御聖体の真理を、御聖体が一体何であるかが理解できれば理解するほど、それに対する信仰が深まれば深まるほど、私たちは特に隣人に対する愛が発展します。

特にレオ十三世は、この愛は、私たちをして一致させると言います。貧しい者も豊かな者も、学んだ者も無学な者も、主人も奴隷も召使いも、同じ御聖体の、同じ祭壇から、同じ主を受けるから。イエズス・キリストの模範に倣おうとするから。ですから御聖体を大切にすればするほど、カトリックの信仰が燃えれば燃えるほど、そこには愛と一致と平和があると教皇様は言います。

なぜかというと、力ある者は、なぜ力が与えられたか、権力が与えられたか、ということをよく理解できるので、弱い者をその力を使って助けようとします。保護しようとします。なぜカトリックの社会で、レディーファーストとか、あるいは子供たちを守ろうとするのか、これは御聖体の信心から生まれるものです。

なぜカトリック教会では、たとえ悪人であっても、なるべく憐みを以って取り扱おうとしたり、あるいはたとえ刑罰を「こうだ」とあったとしても、しかし恩赦があったり、あるいはその刑を実行するのには、憐れみと優しさがあったりします。なぜかというと、イエズス・キリストの憐れみをよく知っているからです。

カトリックの社会では、できるだけ残酷なことは避けようとします。特に、天主が私たちを子供として非常に憐れんで下さったので、両親は子供たちに対する特別の愛をかき立てられます、その義務をかき立てられます。天主の第四戒は、子供が親に対する勤めのみならず、親が目下に対する、あるいは目上が目下に対する特別の義務をも教えています。イエズス・キリストの、その御聖体における模範は特にそうです。御聖体を大切にする社会においては、社会の中の調和と一致と平和があり、そこには階級闘争や妬みや嫉妬や、あるいは自分の利益だけの追求というよりはむしろ、相互の助け合いがあります。

レオ十三世は特にこのことを言っています。ただ法律を厳しくすれば良い、あるいは人間が知恵を使って何かをすれば、全ての社会の悪が解決するのでは決してない。御聖体の、本当の天主のこの愛を信じ、そして天主を愛し返すこと、御聖体を愛すことから、本当の平和が始まる、できる、生まれると言っています。

では愛する兄弟姉妹の皆様、私たちも、このイエズス様の愛をよく黙想することができますように、お祈り致しましょう。イエズス・キリストの愛に愛を以って応えることができますように、特にこの過去50年間、御聖体があまりにも粗末に扱われたので、あるいはなおざりにされたので、今、社会がおかしくなっている、全世界がおかしくなっているということは、非常に理解ができます。あまりにもそこにはロジックがあります。レオ十三世が言った通り、御聖体への信心が無くなった所においては、権力者が、弱い人をもっと押し潰すような社会ができてしまいます。ですから私たちは今この現代、御聖体に対する愛を、信心を、ますます深く致しましょう。

ファチマのマリア様にお祈り致しましょう。ファチマの天使がその私たちに教えてくれたその祈りを、その償いの精神を、私たちが身に付けることができますように、その御聖体をお愛しすることができますように、そうしてこの世界に、本当の平和の為に貢献することができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



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