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大いなる傷:ヴィトゥス・フオンダー司教との独占ビデオシリーズ(1)

2023年05月25日 | カトリック・ニュースなど

大いなる傷
ヴィトゥス・フオンダー司教との独占ビデオシリーズ

DIE GROSSE WUNDE
Exklusive Videoreihe mit Bischof Vitus Huonder

1.聖ピオ十世会への旅

2015年1月9日付の手紙で、私は聖ピオ十世会の代表者たちと対話を始めるようにという命令を受けました。この手紙は、当時のローマ教理省長官、ゲルハルト・ミュラー枢機卿からのものでした。アイデアは、この共同体との友好的な対人関係を構築するためでした。一方、教理に関する問題も議題に上げなければなりません。第二バチカン公会議(1962-1965年)の文書に関連する問題もあれば、ここ数年のローマのいくつかの宣言に関連する問題もありました。特に典礼に関する問題、特に真正のローマの聖なるミサに関する問題は特筆すべきものでした。さらに、教会の自己理解、エキュメニズム、教会と国家の関係、宗教間対話、信教の自由がテーマです。2015年4月9日以来、この任務により、聖ピオ十世会と、総長だけでなく他の代表者たちとも定期的に接触しています。この関係や議論は、聖ピオ十世会の教会法上の承認への道を開くはずのものです。

2015年4月17日にザンクトガレン(スイス)のオベリートで行われた対話は、特に重要な意味を持っていました。神学上の重要なテーマが数多く議論されました。その議論に基づいて、私はバチカンのエクレジア・デイ委員会のために報告書を書きました。接触が進むにつれて、私は聖ピオ十世会の創立者であるマルセル・ルフェーブル大司教の伝記や著作を掘り下げて調べました。こうして私は、聖ピオ十世会の神学的な主張、懸念事項、目的について、ますます詳しく知るようになっていきました。2019年、77歳のとき、私はクール司教区の司教としての務めを終えました。そのとき、聖ピオ十世会の団体に隠遁する機会が与えられました。このことは、エクレジア・デイ委員会によって肯定的に評価されました。同委員会はまた、私にそうするよう明確に奨励しました。これにより、私は聖ピオ十世会の内的生活と活動をもっとよく知る機会を得たのです。このようにして、司教区の経験を積んだ司教として、聖ピオ十世会における信仰の状況を、「普通の」司教区や小教区の状況と比較することができたのです。私は教皇フランシスコに報告書を送りたいと願っていました。

2.人生の各断面

公会議の同時代人の一人の人生経験は、聖ピオ十世会との対話に大きな意味を持つものです。そのため、まず、私自身の過去の概略を凝縮してご紹介したいと思います。私の人生を決定づけた何人かの教皇職は、私にとって重要です。なぜなら、教会と信仰に関することだからです。私がお会いしたのはどの教皇でしょうか。私が知っているのはどの教皇でしょうか。

私は1942年生まれですから、ピオ十二世の背が高くてやせた姿を今でもよく覚えています。私が特に覚えているのは、ピオ十世とマリア・ゴレッティという2人の列聖です。1958年にピオ十二世が亡くなったとき、私は16歳でした。この教皇は、一般的に高く評価されていました。何しろ、第二次世界大戦、共産主義時代、新たに出現した倫理的問題といった、さまざまな困難な状況の中で、賢明かつ慎重に教会を導いてきたのですから。彼の回勅やその他の宣言は、今日でも神学的に基本的なものです。これから私たちは、これらの文書に何度も立ち戻らなければならなくなります。

次に、私は教皇ヨハネ二十三世の教皇職を経験しました(1958-1963年)。現在使われている聖伝のローマ典礼のある1962年のミサ典礼書は、彼の在位中にさかのぼります。教皇ヨハネは第二バチカン公会議【の開催】を告知し、準備を命じ、1962年に開幕させました。この時、私は高校生でした。

パウロ六世の教皇在位中(1963-1978年)に、教会に大きな変化が起こりました。私はこの教皇のもとで、1971年に司祭に叙階されました。実質的な公会議の教皇であり、したがって教会内の転換点でもあります。教皇自身は、見たところは保守的ですが、リベラルで進歩的なグループをとても好んでいました。彼は、そういったグループを昇進させました。この教皇在位期間は、1969年に新しい典礼が導入されたことで独自の意味を持つようになりました。この導入は、使徒的憲章「ミサーレ・ロマーヌム」(Missale Romanum ex decreto Concilii Oecumenici Vaticani II instauratum)で行われました。これが、教会の大きな苦しみの始まりであり、それは内部から引き起こされたのです。それは現在に至るまで続いているはずのものです。過去数十年間、新しい典礼式次第【ノブス・オルド】ほど教会の一致を乱すものはありませんでした。

教皇ヨハネ・パウロ一世の教皇在位(1978年)は短く、一方、教皇ヨハネ・パウロ二世の治世(1978―2005年)は長いものでした。この治世は、第二バチカン公会議を誘因とする実施や強化を行うための教皇在位期間と呼ぶことができます。このことは、とりわけ、多くの回勅やその他の教理文書、新しい教会法の発行(1983年)、そして「カトリック教会のカテキズム」の発展(1992年)において具体化されています。この状況の中で、私たちは教皇主導によるいわゆるアッシジ会議(1986年10月27日)を強調しなければなりません。これは、世界の諸宗教の代表者たちとの祈りの会議でした。多くの信者にとって、この出来事はとてつもない衝撃でした。それに伴い、教会の指導者と正統性に対する信頼が大きく失われました。

教皇ベネディクト十六世(2005-2013年)は、ヨハネ・パウロ二世を踏襲しました。2007年、彼は私をクールの司教に任命しました。彼が教皇職にあった期間は、継続性の、少なくとも望ましい継続性の教皇在位期間です。教皇ベネディクト十六世は、第二バチカン公会議とそれ以降の時代に起こった教会の断絶に、誰よりも早く気づいていました。彼は、継続性の神学、特に典礼に関するものによって、この断絶を修復しようと試みました。そのために、彼はいわゆる継続性の解釈法を発展させました。彼の教皇職はバランスのとれた教皇職であり、まさにこの傷を癒やそうと試みた教皇職です。教皇ベネディクト十六世は、公会議による否定的な結果を正すことを切望していました。この点で、私たちは2007年を、7月7日の使徒的勧告の自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)の年を強調しなければなりません。これをもって、教皇は、聖伝のローマ典礼を教会に取り戻そうとしたのです。2009年、教皇はまた、ルフェーブル大司教と、大司教が聖別した聖ピオ十世会の司教たちに対する不当な破門を撤回しました。これによって、教皇は、教会に重くのしかかっていた不正を部分的に正したのです。

2013年、教皇フランシスコは教会の指導権を引き継ぎました。彼の教皇職は、これまでに明らかになっているように、断絶の教皇職と呼ぶことができます。聖伝との決別です。これは、彼自身が聖伝と聖伝に従う信者を繰り返し叱責しているという事実によっても強調できます。その一方で、明らかに聖伝に反する行為(例えばカナダでのように混合宗教的カルト[syncretistic cult]行為)を行っています。聖伝との決別への意志は、とりわけ二つの使徒的勧告「トラディティオーニス・クストーデス」Traditionis Custodes)(2021年7月16日)と「デジデリオ・デジデラーヴィ」(Desiderio Desideravi)(2022年6月29日)において明らかです。これらの著作によって、教皇は聖伝のローマ典礼を根絶しようと望んでいます。その一方で、彼はいわゆる世界宗教の率直な支持者でもあります。これは多くの信者にとって、つまずきの石となっています。告解の裁治権や婚姻を荘厳にする権限に関する彼の教令は、聖ピオ十世会にとって意味のあるものです。

3.修正撤回(retractatio)

聖ピオ十世会の話に戻りましょう。聖ピオ十世会との接触、その歴史の研究、神学的な問いの深化を通して、私は新しい視点を手に入れました。それは、教会の過去70年、80年に対する新しい見方です。公会議当時とその後の信仰のあり方を新たに判断する、「修正撤回」(retractatio)とでも言うべきものです。なぜ教会が今のような状態になったのか、その理由がはっきりしました。2023年の今日、教会は、歴史上最も大きな危機の一つにあります。それは、宣教、典礼、他者への奉仕(diakonia)、指導力など、教会生活のすべての領域に及ぶ内的な危機です。それは、深刻な信仰の危機なのです。

聖ピオ十世会の歴史的な発展と生活を掘り下げて調べる人なら誰でも、この危機の原因と根源に意識せずとも遭遇してしまいます。なぜなら、聖ピオ十世会とは、ある意味で、この危機のために生まれ出たものだからです。それは、その創立者がこの団体を設立することによって危機に対応し、それによって教会を助けようと望んだ限りにおいて、そうなのです。彼がとりわけ心配していたのは、教会の信仰と、不安のまま見捨てられた信者のことでした。第二バチカン公会議以降起こったことに続いて、多くの人々が牧者のいない羊になってしまいました。大司教にとって、行動の理由は、第一に霊魂の救いであり、信仰の純粋さを守ることでした。なぜなら、信仰は救いに至る道だからです。ですから、信仰を偽ってはなりません。聖ピオ十世会とその創立者を見て、判断しなければならないのは、この原則からです! 教皇フランシスコが私にお話しになり、「彼ら(聖ピオ十世会)は離教者ではありません」と言われたのは、この意味なのです。

4.危機の原因

「教会の深刻な危機の原因は何か?」という問いに進みましょう。すでに指摘したように、教会の深刻な危機の原因は、70-80年前の教会生活の進展にあります。それは、私のこれまでの生涯とほぼ一致します。しかし、私たちは正直に、「危機の始まりは、第二バチカン公会議より前にある」と言わなければなりません。一方、公会議とそれ以後の期間は、以前の教導権と以前の教会の実践に対する公式の(しばしば沈黙しながらも成功した)攻撃の出発点となりました。これらは、伝えられた信仰に対する攻撃でした。これらの攻撃は、近代主義の拒否を受け入れたくない司教たちや神学者たちによって行われました。同様に、彼らは、教会と、社会生活の特定の領域に境界線があることを受け入れようとはしませんでした。その結果、公会議の文書において、またそれに続く教導権と決定においても、聖伝から、教会の真の教えから、しばしば気づかれることなく、隠されたまま、秘密のまま離れ去っていったのです。ここに、教会の危機の深い原因があります。聖ピオ十世会の生みの親であるルフェーブル大司教が、公会議の教えと教理上の決定、そして公会議に続く教会の公式発表に無条件に従うことができなかった理由も、ここにあります。彼の態度は事実に照らして正当化され、完全に教会の信仰に沿ったものでした。人々は大司教にもっと耳を傾けるべきでした。彼に対する措置には重大な不公平がありました。なぜなら、教会の統治が聖伝から遠ざかっていることを証明するのは簡単なことだからです。それは【ルフェーブル】大司教の主観的、感情的な認識などではありません!

公会議についてのルフェーブル大司教の立場は、1978年11月18日の教皇ヨハネ・パウロ二世との会談で明確に示されています。この立場もまた、絶対的に正しいものです。ある手紙の中で、この高位聖職者は次のように報告しています。「公会議について、私は(教皇に)次のような文言に署名する用意があると告げました。『私は聖伝の意味で解釈された公会議の教令を受け入れます』。彼【教皇】には、それが完全に満足するもので、完全に正常なものだと分かったのです」。

ペトロの座とキリストの代理人に対する大司教の態度も、また正しいものです。例えば、彼はこう言っています。「教皇がリベラルな理念に染まっていることは確かです(…)もしこの事実によって、彼がこれらの誤謬に適合した行動や発言をしたときに、私たちが彼に従うことを禁じられるとしても、私たちは彼を軽蔑したり侮蔑したりするようになってはなりません。このことは、彼が占めているペトロの座に対する敬意からです。私たちは、彼がただ真理を断言し、私たちの主の統治を確立するためにのみ働くように、彼のために祈らなければなりません」。

5.ノブス・オルド・ミサ

聖ピオ十世会はある意味で、教会における危機の子です。私たちは、すでに次のように観察しています。教会の危機は、伝えられた信仰からの、聖伝からの、信仰の実践からの、部分的な背教の結果です。聖伝からの逸脱は、変更されたミサの聖なる犠牲の典礼において、最も痛みをもって感じられます。この変更は正当な動きだったのでしょうか。この変更は公会議の意向だったのでしょうか。

聖なるミサに関して、典礼に関する憲章「サクロサンクトゥム・コンチリウム」(Sacrosanctum Concilium)はこう言っています。「われわれの救い主は、渡されたその夜、最後の晩さんにおいて、自分のからだと血による聖体の犠牲を制定した。それは、十字架の犠牲を主の再臨まで世々に永続させ、しかも、愛する花嫁である教会に、自分の死と復活の記念を託するためであった。それは、いつくしみの秘跡、一致のしるし、愛のきずなであり、キリストが食され、心は恩恵に満たされ、未来の栄光の保証がわれわれに与えられる復活の祝宴である」【47番】。その一方で憲章は、改革に対しては、こう警告しています。「なお、真に教会のために確実に役立つものとして要求されている改革でなければ行ってはならない。また、すでに存在している形態から、新しい形態がいわば有機的に生ずるように、慎重に配慮する必要がある」【23番】。

それにもかかわらず、大きく変化した新しい儀式が、同様に変化した聖なるミサの神学とともに提示されています。すでに指摘したように、聖伝の聖体信仰からの逸脱は、1969年に、使徒的憲章「ミサーレ・ロマーヌム」(Missale Romanum ex decreto Concilii ecumenici Vaticani II instauratum)および「ノブス・オルド・ミサ」(Novus Ordo Missae)導入によって明らかになりました。同年のミサの新しい規則の検討の際、専門家による委員会は次のような結論を出しました。「ノブス・オルドには、トリエント公会議が教えた信仰を提示する意向がない。それにもかかわらず、カトリックの良心は、トリエント公会議に永遠に拘束されることは明らかである。そのため、ノブス・オルドの公布により、忠実なカトリック教徒は最も悲劇的な選択肢に直面している」。委員会【のこの言葉】は、あまり真剣に受け止められていませんでした。導入されたミサ典礼書が訂正されれば、この困難は解決されるはずでした。現実には、オルド【ミサ式次第】自体は、作られたそのままに残り、すなわち、もはやトリエントの信仰を十分に提示するものではありませんでした。長い年月を経て、使徒的勧告「デジデリオ・デジデラーヴィ」(Desiderio Desideravi、2022年)で、ついにそのこと【トリエント公会議で決定的に示されたカトリック信仰を新しいミサが示していないこと】が明らかになりました。一見すると、カトリックの用語や敬虔な態度、ミサ挙行という解釈があるにもかかわらず、大部分は聖なるミサについてのプロテスタント的な概念であると判断しないためには、目を逸らさなければならないのです。この教皇の書簡は公会議に言及しています。したがって、それは公会議の憲章の解釈として理解されます。ある比較・たとえだという考えは、ほとんど成り立ちません。

(続く)



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