2023年1月28日(土)大阪での堅振式 フェレー司教様お説教
受堅者の皆様 そして親愛なる信徒の皆様、
私たちは今日、堅振の秘跡を与えるというとても大きな喜びに満たされています。
【自然のレベルを超える秘跡というものの素晴らしさ】
秘跡ということを私たちが語るときに、それは私たちが考えつくことができる私たちが望むことができる最もすぐれたものよりも、さらに高度な最も高貴なものを意味します。なぜかというとこれは天主のレベルのものであるからです。
天主は私たちを無から何もないところから創造されました。創ってくださいました。そして私たちに完成を完璧さを与えようと望まれておられます。これは人間の完成ではありません。天主は、私たちにご自分自身の天主の完成を与えようと伝えようと望んでおられます。しかし私たちには、それがいったい何であるかを見たり聞いたりあるいは触ったりすることはできません。その能力がありません。なぜかというとそれは、天主の高みのレベルにあるのものだからです。
それでも天主は御自分のお持ちになる豊かさを私たちに伝えようと思われたので、その素晴らしさを伝えるために、天主は私たちのレベルにまで下りてくださるようにしなければならなかったのです。そしてこれが秘跡と呼ばれるものです。秘跡の定義というのは、目に見えないお恵みを聖寵を私たちの霊魂に生み出すことができる目に見えるしるしである、ということです。ですから秘跡を見ると、天主様が私たちの霊魂にどのような素晴らしい御業をなさってくださるかということを示す何かがあります。
【堅振の秘跡には重要な二つの点がある】
そこで教会は、私たちに、堅振の秘跡によって一番何が行われているかということを、二つのことを特に強調して教えています。もちろん二つのことだけには限りません。それ以上たくさんありますが、特に二つを強調しています。一つは霊の刻印――霊魂に刻みつける刻印であって、もう一つは聖霊の賜物です。
【霊の刻印とは】
堅振を授ける時には司教は、親指に聖香油をつけます。聖香油というのは、オリーブ油とそれからバルサムとが混ぜ合わされて祝別された、しかも司教様だけが聖木曜日に祝別することができる、特別の油です。オリーブの油は、聖霊の働きを意味しています。なぜかというと、聖霊と同じように霊魂に浸みとおるという働きをするからです。油を私たちが皮膚に塗油すると、その油は私たちの気がつかないうちに深くやさしく浸透します。聖霊も同じように働きます。私たちの霊魂に非常にやさしくやさしく浸透して、ドアをノックするように入るのではなくて、浸み通っていきます。ちょうど油が塗油されると私たちの細胞をもう一度生かして新しくすることができるように、聖霊も私たちに浸透して私たちをまたふたたび生かしてくださいます。昔は油で火をともしました。それと同じように、聖霊も私たちの霊魂を照らし出します。火と言えばもちろん聖霊は聖霊降臨のその日に舌の形をした炎として表れて、そして御自身が炎であるということを明かしています。
司教は、親指に聖香油をつけて、そして皆さんの額に十字架のしるしをしながら聖香油を塗油します。それと同時にこう言います。「私は救いの聖香油をもってあなたに十字架のしるしをする」。その瞬間、聖霊は皆さんの霊魂に特別な霊魂の刻印を刻み込みます。この刻印は、ちょうどハンコのように。印鑑のように刻印・しるしと呼ばれています。このしるしを持って、皆さんを兵士とされます。実はローマの時代には、ローマの兵士たちは自分が所属していた将軍の刻印を身体に打っていたのです。ですからこの兵士がどの軍隊に属していたかということは、誰でもわかりました。これは外見でわかるものでした。そしてこれによって兵士かどうかわかるのです。しかし堅振では皆さんの霊魂に刻みつけられて、皆さんがキリストの兵士であることをわかるようにします。
【天主の愛の炎】
聖霊が使った火という炎というイメージを使ってみましょう。石を火の中に入れたらどうなるでしょうか。この火の性質というか望みは自分の熱を伝えることですから、石であってもその火の性質が伝えられます。この石も、火の中に置かれると熱を吸収するばかりか火のような色にさえなって、火の性質が伝えられます。私たちは石ころよりももっと高貴なものです。天主の炎である聖霊が皆さんにご自分の炎を伝えようとされる時に、いったい皆さんにはどのような素晴らしいことが起きるでしょうか。石を見てください。火のなかにずっと置かれた石は、誰も触ろうとしません。なぜかというと、その石はあまりにも熱くて、火のようであって、熱を私たちに伝えようとするからです。聖霊も今日皆さんの霊魂に同じことをします。そして聖霊は皆さんの霊魂にご自分の炎を伝えますけれども、この炎というのは、聖徳の聖なる炎です。そしてこの炎で皆さんを燃やしめて、この炎を皆さんが他の人々に伝えることを望んでいます。
あれっ、道路を見ると何かきらきら光っていて太陽があるようだ。近づいてみると実は割れたガラスだったりとか何かなんですけれども、しかし太陽の光を燦然と輝かして、あたかも太陽があるかのようです。ちょうどそのように、皆さんの霊魂に刻まれた霊の刻印は、聖なる、聖別された、聖なるものに属している、ということのしるしです。ですから皆さんは、聖なる、特別の、聖霊に属するもの、となります。そしてこの聖なるしるし、この霊の刻印は、私たちを聖霊の道具として変化させてくださいます。日常のことばでいうと聖霊の道具というのは、「兵士」と言われています。
【十字架のしるし】
キリストのしるしというのは、十字架のしるしです。この御聖堂では何度も十字架のしるしをしますので、いったい何度するかは数えきれないほどです。では今日御聖堂の外に、レストランに行ったらどうでしょうか。ところでレストランに行って私たちは食べる前に必ず食前の祈りをしなければなりません。で、お祈りをするためには十字架のしるしもします。しかしカトリック信者で十字架のしるしをレストランでする人は、ほとんどいません。いったいなぜなのでしょうか。なぜかというと、今私たちは戦場にいるから、闘う場所にいるからです。悪魔はもしもキリスト信者が自分の務めをキリスト信者としての務めを果たすと、どれほどの霊魂を救うことができるかということを知っているので、それをしないようにできるだけ邪魔しようとします。ですから私たちがオープンにカトリック信者であるということを表明するようなことをさせないように働いているからです。
悪魔が最も良く使う武器は恐れです。それは使徒たちもそうでした。使徒ペトロを見てください。一人の女中の声に怖れをなしてしまいました。これは迫害のときだけではありません。いつでもありうることです。それは、他の人は私のことを何と思うだろうか、なんといわれるだろうか、ということを怖れているのです、そのために私たちは、私たちのなすべきことをしないように怖れさせてしまっているのです。世間体といわれているものです。
この怖れ、世間体を気にする、あるいは恥ずかしがる、キリストを赤面するということは、よく額に現れます。そこで司教様は額に十字架のしるしをして、怖れるなとサインをします。この怖れはキリスト教生活を麻痺させます。では、レストランで十字架のしるしをしたと考えてみましょう。何が起こるでしょうか。もしも私たちが十字架のしるしをしたとしたら、聖霊は私たちを通してお恵みの滴(しずく)を、この私たちを見るすべての人に与えるのです。これは何が起こるかというと、ちょうど私たちが聖人伝を読んだ時と同じことが起こります、何故かというと、聖人伝を読むとああすごいなあと言って私たちは勇気をもらいますし、その見本に倣いたいなあと思いますし、そしてその聖人の人生は私たちが信者として生活するための助けとなります。それと同じようなことが、皆さんがよいカトリックの信者としての義務を果たした時に周りに与える影響です。
私がこのいま申しあげたお説教をしたのちに、どこでもいろんな方が私に同じことをおっしゃるんです。あるときには異教徒、あるときには無神論者、あるときにはプロテスタントが、私たちが十字架のしるしをしたのを見て回心したという話です。簡単な十字架のしるしをするだけで、私たちは霊魂を得ることができます。レストランだけではありません、私たちの全生涯がそうです、いつもそうです。
では別なことを考えてみます。お恵みを受けて回心する方もいれば、そのしるしを見てそれを拒否する方、それを拒絶する方々もいます。そういう人は非常にしばしば皆さんを攻撃します、そして皆さんを批判します。それは時には、あの重大なものではないのですけれども、あるときには馬鹿にした態度とか、馬鹿にした嘲笑いとかですが、時にはこれは殉教にまで発展します。
【秘跡の言葉の通りに、現実に起こる】
司教は聖香油をもって、「私は十字架のしるしをする」と言うのみならず、「私は救いの聖香油をもってあなたに堅振を授ける、あなたを固める」とも言います。司祭あるいは司教は、確かに叙階の秘跡を受けた時に別の霊の刻印を受けました。これは司祭としての刻印ですが、その刻印を受けると、もはや司祭が秘跡を行う時には自分ではなくて、天主の道具として秘跡を執行することができるという刻印です。この最も目に見えるしるしというのは、証拠というのは、それはミサのときの聖変化の言葉のことです。司祭はこれを「私の体」という意味です。しかしそれは誰それ神父の身体ではなくて、キリストの体のことです。でもこれは、「私の体」と言って本当のことです。しかしこの言葉は真理です、本当です、なぜ本当かというと、実はこの聖変化のことばを発するときに、これはイエズス・キリストに属しているからです。ですからイエズス・キリストの体なので、「私の体」となります。この聖変化のことばはただイエズス様に属するのみならず、もっと深い意味があります。それは天主の全能の力が、この言葉に宿っているということです。人間が言葉を発するときには、自分の頭の中の考えを皆さんの頭の中に伝えるだけです。ところが、天主の御言葉は現実に有らしめます。それが本当に起こることになります。創造のことを考えてください。天主は無から御言葉によって創造しますけれども、たとえば、光あれというと本当に光があるようになりました。
イエズス様も、このことを行います。めくらに見えよ!というと、見えるようになります。足萎えに、歩けない人に「歩け!」。歩きます。死人に命令します「ラザロ、起きろ!」。死人が起き上がります。この天主の御言葉イエズス様の言葉は、すべての秘跡において行われます。ですから、これはただ言うだけではなくて、その言ったことが本当に皆さんの霊魂に生じるのです。司教が「私はあなたを固める!堅固にする!堅振を授ける!」という時に、皆さんの霊魂にはこのことが本当に生じて、現実に起こっているのです。
【洗礼の聖寵の御業が固められる】
ラテン語で、このコンフィルモというのは、固めるという意味があります。では何が固められるのでしょうか。それは天主様が洗礼のときから始められたその御業が固められるのです。では洗礼の時に何が起ったでしょうか。すべての罪が赦されました。そしてその罪の代わりに、そこを聖霊の恵みが聖寵の恵みが満たしました。そして私たちは天主の神殿となって、天主の子どもとなりました。それから天主の命が私たちに宿り、つまり成聖の恩寵を受けることになりました。今日、ですから皆さんの霊魂に聖霊が来られて、そして皆さんの霊魂を聖とする成聖の恩寵が豊かに与えられます。
【堅振は、キリスト教信者を完成させる秘跡】
聖トマス・アクィナスは、堅振の秘跡のことを聖寵の充満の秘跡だと言っています。教会は、キリスト教信者の完成の秘跡であると言います。聖霊は皆さんを最も堅固にして、そして完璧にしようと望んでおられます。この完璧さというのは、皆さんが成聖の恩寵を 充満を受けるということです。それと同じ程度で、皆さんは超自然のすべての聖徳を受け入れます。その超自然の徳についてもありますが、しかし教会は特に聖霊の賜物について強調しているので、これについても触れなければなりません。
皆さんは、公教要理で、聖霊の賜物というのは聖霊の息吹に私たちがより敏感で従順であるようしてくれる能力だということを学びました。ちょうどイメージで話しますと、二歳の子どもにこのペンを与えたとします。もしもペンを与えられないのならば何も書くことはできませんけれども、どんな小さな子どもでもペンがあれば何かを書くことができるようになります。天主だけが、私たちに超自然の徳を注入することができます。そうすると私たちは、たとえ子どもであっても、天主のレベルの行為までもできるようになります。問題があります。それは、子どもはこう何かを書く時に自分のやりたいことだけ自分の思うままにやるんです。ですから、何か子どもの書いたものをみると、あっこれは子どもの書いたものだとすぐに誰でもわかります。天主は無限に完ぺきな方で完成された方であって、無限に私たちを愛しておられる方です。ところで愛しているということは相手に最高の最善のことを望むということです。ですから、天主は最善のことを無限に望んでおられます。ですから、ちょうどたとえて言うと、子どもにペンを与えて、それから「さあお前は今から大傑作を書きなさい、ただ落書きではなくて、美術品を書きなさい」というようなことです。じゃどうやったらこの子供が美術品の最高傑作を書くことができるでしょう。何かそのようなことを求めるのは不可能ではないでしょうか。
イエズス様は私たちにこのことを命じました。これは掟です。完璧であれ、と。完全であれ、と。しかもこういわれました。あなたたちの天の御父が完全であるように完全であれ、と。つまり、私たちは天主様が完璧であると同じ程度に完璧であれと、掟を命じられたのです。でも私たちはこの小さな子供のようなものなので、どうやったら完璧になることができるでしょうか。ここに天主の原理があります。天主がもしも私たちになにか使命を、あるいは掟を与えたら、それを果たすことができるお恵みも、必ず与えるということです。もしも天主が私たちに完全であれと命令を下すのならば、天主はそれと同時に、私たちが完全であることができる手段も方法も与えてくださらなければなりません。そしてこの手段が、堅振の秘跡です。
子どもの例にもどります。ではこの子どもがペンを持って何かを描こうとするその瞬間に、偉大な芸術家がやってきて、そして子どものペンと一緒に描くのなら、そして子どもがそれに従って手を動かすなら、その時に偉大な芸術作品が出来上がります。これは子どもが書いたのであって、同時に芸術家が書いたものです。この芸術家は聖霊と呼ばれています。そして、この天主である芸術家・聖霊は、皆さんの手のみならず全生涯をつかんで、そして皆さんの生活を聖化しようとされます。それが聖霊の七つの賜物で、すべての活動をフォローしています。難しいと仰らないでください。子どもがただこの芸術家の手の動かされるままに手を動かすというだけの簡単なことです。そして秘跡は皆さんにこのお恵みを与えますけれども、しかし聖霊がどのように働くは、皆さんの心の持ち方次第なんです。皆さんが聖霊に働くことを許せば許すほど、聖霊に熱心に信心を持てば持つほど、聖霊は皆さんをよくつかまえて動かすことができます。
これはどういうことか言うと、皆さんに良い考えが起こるときに――たとえば罪を避けなさい、あるいはよいことをしなさい、嘘を言ってはいけないなどという時に――それに従った場合、それは聖霊に自分の手を任せたことです。そして聖霊に導かれるがままに生活したことになります。そして、聖霊が皆さんを導かれるままに従ってするときに、それは芸術作品になります。
【聖母に祈る】
では最後にマリア様にお祈りいたしましょう。マリア様が皆さんの霊魂をよく準備してくださいますように。聖霊の恵みをたくさん受けることができるように助けてくださいますように。そして第二のお恵みとして、すでに堅振の秘跡を受けた方も、私たちが聖霊の息吹に敏感に従うことができるそのお恵みを請い求めましょう。
そしてそうすることによって、私たちが本当に天主の子どもとして生きることに、天主の御父のまなざしに注意して生活できるように、そしてこの世の怖れとか世間体とかこの世とか、あるいは悪魔が私たちに何を恐れさせるかということにも打ち勝つことができるようお恵みを請い求めましょう。
それはみなさんが、ついには天主御父が私たちに望んだ完成を受けることです。それは、完ぺきな永遠の無限の天主の幸せを私たちがうけて、父と子と聖霊とともに永遠に幸せであるためです。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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カナ氏名:シヤ)ニホンセイピオジツセイカイ