Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

内的生活は、使徒職にたずさわる人に、喜びと慰めをあたえる。内的生活は、純潔な意向をさらに純化する。【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年02月16日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
三、福音の働き手の聖性 ―― その土台は内的生活である(続き3)
 をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
三、福音の働き手の聖性 ―― その土台は内的生活である(続き3)

(D) 内的生活は、使徒職にたずさわる人に、喜びと慰めをあたえる

 人生を愉快にし、晴ればれさせるもの――それはただ愛だけである。
 熱烈な、ゆるがない、愛だけである。
 われわれの心が、どれほど大きな悲愁のさなかにあっても、どんなにはげしい疲れのなかにあえいでいても、愛はりっぱにこれを微笑ませる、秘訣を心得ているからである。
 使徒職にたずさわる人の生涯は、苦悩と労苦に織りなされた一生である。
 だからして、もし使徒が、自分はイエズス・キリストに愛されているのだ、との深く強い確信がないなら、たとえかれが自然的に、どんなに明朗活達な性格の持ち主であろうと、その人生には、どれほどの悲しい時があることだろう。不安で憂うつな時が、どれほど多いことだろう。
 そういう暗い時、かれは過ぎゆく地上のはかない事物に、慰安を求めないだろうか。
 待っていました、といわんばかり、地獄の鳥さしなる悪魔が、好餌をたずさえて現われる。
 かれの目のまえに、世間的慰安のパノラマを、ごく上わッつらな成功の栄冠を、鏡にうつして、見せびらかす。そして、無邪気なヒバリにも比すべきこの霊魂を、ひっかかったら最後、どうしても脱けでられないあみのなかにさそい込もうとする。
 ただ天主の人イエズス・キリストだけが、霊魂に、「わたしは、あらゆる患難のなかにあって、喜びに満ちあふれている」(コリント後7・4)との、人間ばなれのした叫びを、口びるにのせることがおできなる。これは、聖パウロの言葉だが、その意味はこうである。

 「深い苦悩にとざされて、霊魂の空は真っ暗だが、霊魂の先端――その最深奥部には、ちょうどゲッセマニの園におけるイエズス・キリストのように、いうにいわれぬ、ある幸福感がただよっている。むろん、この幸福は、すこしも感覚的ではない。だが、それはあまりに真実な幸福である。それで、たとえわたしは、霊魂の下級能力が、死の苦しみにもだえてはいても、この幸福をうしなうよりはむしろ、地上のあらゆる人間的歓喜をぎせいにしたほうが、よほどましである……」

 試練の日がやってくる。他人からの反対が、屈辱が、苦しみが、くびすを接して襲いかかる。地上的善はうしなわれ、愛する人たちからさえも見放される。霊魂は、十字架の重さにたえかねて、うめきごえを発する。だが、回心の初期とは全くちがった気持で、こころよくこの十字架をになう。
 霊魂は、日に日に、愛のうちに成長していく。その愛は、外部には光りを放たないだろう。人目にもつかないだろう。聖主はかれを、強い霊魂として処遇される。そして、日に日に深刻さをましていく自己放棄の道に、かれをみちびいていかれる。贖罪の狭くけわしい小みちを通って、かれをみちびいていかれる。霊魂は、自身の罪のためにも、世の人の罪のためにも、身をこらして、償いをする。それはつらいことだ。だが、そのつらさがなんだろう。かれの愛は、潜心によって深められ、強められている。聖体の秘跡によって、養われている。だからして、ますます成長していく。
 その愛の証拠は、霊魂がおのれをぎせいにし、おのれを全く天主にゆだねてしまう、この惜しみなく寛大な心にある。いかなる苦悩も恐れず、おのれの使徒職の対象となっている人びとの霊魂を救い、これを聖化しようと、その聖業にむかって勇ましく突進させる、この奮発にある。仕事をするときは忍耐づよい。用心に用心をかさねる。機知に富み、同情ぶかく、そしてなによりも熱烈である。これこそは、イエズスのご生命が、かれの全人格を浸透しつくした、なによりの証拠ではないか。
 「キリストが、わたしのうちに、生きておられる」(ガラツィヤ2・20)

 聖体の秘跡は、愛の秘跡である。愛の秘跡は、喜びの秘跡でなければならぬ。霊魂は、聖体にたいする信心がなければ、ほんとうに内的でありえない。聖体は、天主が人類におあたえになった最大の賜ものであるのに、その甘美さを、心から味わいえない。キリストの現存を楽しみえない。おのれの心に持っている、おのれが礼拝するこの天主から、自分が愛されている、との実感を持ちえない。こんな調子では、とうてい内的の人になることができない。

 使徒職にたずさわる人の生涯は、祈りの一生でなければならぬ。
 「ああ、祈りの生活!」アルスの聖司祭は、感きわまって叫んでいる。「ああ、祈りの生活! それは、地上における最大の幸福なのだ!
 ああ、なんと美しい生活! それは、聖主と霊魂の美しい一致の生活だ。
 祈りの幸福を、完全に理解するためには、永遠のながい日も、短かすぎよう。
 内的生活は、霊魂がそのなかにひたる、愛のゆあみである。
 霊魂は、おぼれるほど、愛のあまい水にひたるのだ。
 母が、そのいとし子のあたまを、自分の手のひらに入れて、これをいつくしむように、天主も内的な霊魂を、ご自分の胸にだきかかえて、これにくちづけと愛撫の雨をおふらしになるのだ!」
« La vie de prière, dit le bienheureux Curé d’Ars, voilà le grand bonheur ici-bas. 0 belle vie! belle union de l’âme avec Notre-Seigneur ! L’éternité ne sera pas assez longue pour comprendre ce bonheur... La vie intérieure est un bain d’amour dans lequel l’âme se plonge... Elle est comme noyée dans l’amour... Dieu tient l’âme intérieure comme une mère tient la tête de son enfant dans sa main pour la couvrir de baisers et de caresses. »

 このほかに、喜びはまだある。
 霊魂は、自分がお愛しする御者を、他の人びとにも愛させ、これに仕えさせ、これを尊ばせるために働くことのなかに、いいしれぬ喜びを感じる。
 使徒職にたずさわっている人だったら、これらの喜びを、みんな知っていよう。
 天主への愛をふやし、これをますます燃えたたせるためにこそ、使徒的事業にたずさわっているのではないか。
 愛がふえるのと同時に、喜びも、天上的のなぐさめもふえていく。
 使徒職にたずさわる人――それは、霊魂のハンター(かりうど)である。
 霊魂のハンターの喜びは、どこにあるのか。――自分の働きがなければ、地獄におちるであろう霊魂たちを、永遠の苦しみから救いだすために、救世主に協力することができる。微力ながら、キリストの人類救済の聖業に、寄与することができる。したがって、永遠に、天主から離れねばならなかったであろう人びとの霊魂を、天主にお与えすることによって、天主のみ心を、おなぐさめすることができる。……これは、使徒にとって、大きな喜びでなければならぬ。
 このようにして、自分はこの世では、善業と功徳にますます進歩しているのだ、さらに後の世で自分を待っている、いいしれぬ光栄と幸福を、ますますふやしていっているのだ、使徒的事業によって、その保証を日に日にいっそう強く固めていっているのだ、ということを考えるとき、霊魂のハンターの喜びは、大海原のように、はてしもなく広く深いのである。

(E)内的生活は、純潔な意向をさらに純化する

信仰の人は、ただ外面的に上わッつらな生活をしている人とはちがって、事業というものを、他の観点から、もっと高い次元から、判断する。
 事業が、どんなぐあいに進行しているか、というその表面的な姿よりも、むしろ事業が、天主のご計画において、いかなる役割を果たしているか、また、それが超自然的に、いかなる成果を収めているか――この点にだけ、かれは注目している。
 そんなわけで、自分はただ天主に使われている、一箇のつまらぬ道具にすぎないのだ、とかれは謙遜に考えているので、事業の成功を、もっぱら自分の無能の自覚と、天主への信頼にのみおいている。また、そうであればあるだけ、自分の才能への自信や誇りや愉快が、すこしでも心に浮かんでくると、なにか恐ろしいものでも見たかのように、ぞッとする。
 このようにしてかれは、天主へのおまかせの精神に、定着している。
 事業をやっているあいだに、思わぬ困難が起こってくる。このような困難に対処して、かれはどんな態度をとるか。――同じ使徒といっても、イエズスとの親しいむつみに生きている内的な人と、そうでない人とのあいだには、そこに無限の差遺が見いだされる。内的なかれにおいて、天主へのこのおまかせの精神は、事業への熱心を、すこしも減らしはしない。なるほどかれは、事業の成功がもっぱら、自分自身の努力いかんにかかっているかのように、それほど必死に働きはするが、しかし実際は、ただ天主にだけ、成功を期待している。(聖イグナチオの思想)

 どんな苦しみがあっても、いったん始めた事業を捨てはしない。どんな困難に見舞われても、人知にこえた天主のご計画への信頼と希望を捨てはしない。天主はしばしば、霊魂の利益のために、成功よりむしろ失敗を利用されることを、かれはよく知っているからである。この信念から、かれの霊魂には、事業の成功・不成功への、無関心の状態が生まれてくる。かれはいつも、天主にむかって、こう申し上げる心の余裕をもっている。
 「ああ、わたしの天主よ。あなたは、わたしがせっかく始めたこの事業が、成功裏におわることを、おのぞみになりません。あなたのおぼし召しはただ、わたしがこの事業を、いかなる犠牲も惜しまない大きな心で、しかも常に平静な心でいとなむこと、――成功を期して、一生懸命に努力すること、――しかし、この事業に成功することが、失敗してそれを機会に、善徳の行為をいくつもするより、はたしていっそう大きな光栄を、あなたに帰せることができるかどうか、の判断はただあなたにだけ一任すること――これだけです。どうか、この聖にして拝むべき、あなたのおぼし召しが、千たびも祝福されますように!
 また、もしあなたが、わたしの事業を祝福されて、それがうまく成功しましたとき、わたしの心にすこしでも、ウヌぼれの徴候がきざし始めましたら、あなたの恩寵のお助けによって、この愚かな心を、遠方へおしのけることができますように。もしあなたのみ摂理が、わたしのせっかくの努力と労苦の結晶を無に帰して、事業が失敗に終わることを、お望みになりますなら、そのときは心からへりくだって、あなたのおぼし召しを礼拝することができますように……」

 ほんとうの話、教会が迫害され、困難に見舞われるとき、使徒たる者の心は悲嘆の涙にかき暮れる。だが、その悲嘆にたいするかれの態度には、超自然的に生かされていない人のそれのように、取り乱したところは少しもない。論より証拠、内的精神をもたない人は、そのおちつきのない、そわそわした態度で、その熱に浮かされたような動作で、すぐに見分けがつく。なにか困難でも起こると、すぐにカンシャク玉を破裂させる。もうダメだ!と愚痴る。失望する。取り返しのつかぬ不幸が起こったときは、スッカリしおれてしまう。
 これに反して、内的生活に生かされたほんとうの使徒は、成功も失敗も、すべてこれを利用して、天主のみ摂理にますます希望し、かつ心をひろくして、信頼にみちた、天主へのおまかせを実行するすべを、心得ているのである。
 かれのいとなむ使徒職の、どんなに小さな事がらでも、信仰から霊感されないものはない。その事業に従事している間は、ただの一瞬間でも、天主への愛を証拠だてる機会を、かれに提供しないものはない。なぜなら、心の取り締まりの実行によって、ますます完全になっていく純潔な意向をもって、万事をおこなう境地に、また、天主へのおまかせによって、自分の職責を、日に日にいっそう没我的に果たす境地に、すでに達しているのだからである。
 かようなわけで、かれの行いの一つ一つには、聖性のかんばしい香りが、いつもただよっている。その香りは、行いをくり返すごとに、ますますかんばしく、ますます強烈になっていく。人びとにたいするかれの愛は、最初のうちこそ、多くの不完全を混じてはいるが、それもしだいに浄化されていき、しまいにはイエズスにおいてのみ、またイエズスをとおしてのみ、人びとを見るようになる。イエズスにおいてのみ、人びとを愛するようになる。かようにして、イエズスによって、かれらを、天主のために産むのだ。
 「ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内に、キリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために、産みの苦しみをする」(ガラツィヤ4・19)と聖パウロがいっているのは、このへんの消息を伝えるものである。

(この章 続く)


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