Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

最大の2つの掟はイエズス・キリストへ向かっている。イエズス・キリストは、天主であることを言葉と行いで証明された。だから私たちはイエズス・キリストに真の礼拝を捧げ、愛を捧げる義務がある。

2020年09月28日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2020年9月27日は聖霊降臨後第十七主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第十七主日の説教」の動画をご紹介いたします。

今日の主日を聖として良くお過ごしください。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

【説教全文】

兄弟たちよ、主において鎖につながれた[囚人となった]私は、あなたたちに願う。あなたたちが召し出された召命にふさわしいように歩き[生き]、すべての謙遜と柔和と忍耐とをもって、互いに愛によってたえ忍び、平和の鎖[きずな]において精神の一致を守るようにせよ。体は一つ、精神は一つ、あなたたちが召出しによって一つの希望に召されたのと同様に、主は一つ、信仰は一つ、洗礼は一つ、天主は一つで、すべてのものの父であり、すべてのものの上にあり、すべてのものの上に働き、すべてのものの内に在す。

そのとき、ファリザイ人たちがイエズスの近くに相集まった。そしてそのうちの一人の律法学士が、イエズスをこころみるために、「先生、律法のうちどの掟がいちばん大切ですか?」とたずねた。そこでイエズスは、「"あなたは、すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ" これが第一の、最大の掟である。第二のも、これと似ている。

"隣人を自分と同じように愛せよ"。全律法と預言者とは、この二つの掟による」とお答えになった。ファリザイ人たちが集まっていた時、「あなたたちはキリストについてどう考えているのか?それはだれの子か?」とイエズスがお問いになると、かれらは「ダヴィドの子です」と答えたので、イエズスは、「そうすると、ダヴィドが霊感をうけて、かれを主と呼ぶのはなぜだろう?"主は私の主におおせられた。私があなたの敵をあなたの足の下におくまで、私の右にすわれ"と書かれている。ダヴィドはかれを主と呼んでいるのに、なぜ、子なのか?」とおおせられた。だれも一言も答えられず、またその日から、あえて問いかける者もなくなった。

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は2020年9月27日聖霊降臨後第十七主日です。一緒に主日の黙想をいたしましょう。

【天主の十戒の第一戒】

「天主は愛である」と使徒聖ヨハネは宣言します。天主は愛によって私たちを、天国での永遠の婚宴に招いておられます。これこそが、今日聖パウロの語る、私たちが「召し出された召命」です。

私たちは、天主との愛による一致による永遠の幸せという「召出しによって一つの希望に召された」のです。従って、私たちを愛する天主を、私たちが愛し返すのは全く同然です。私たちにとって第一の最大の掟は「あなたは、すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ」です。

天主の十戒の要点は、天主を愛し(一戒~三戒)、天主のために、天主に従って隣人を愛する(四戒~十戒)です。十戒の内で、一番重大で、荘厳で卓越している掟が第一戒です。つまり「第一 われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。」です。第一戒に反する罪は、第五戒の殺人罪よりも、第六戒の邪淫の罪よりも、重大な罪です。

第一戒は、超自然の徳である愛徳を命じるだけではありません。第一戒は、超自然の徳である信仰の徳をも私たちに命じます。聖パウロは言います。「信仰がなければ、天主によろこばれることはできない。天主に近づく者は、天主が存在しておられること、天主を求めるものに報いをくださることを信じなければならないからである。」(ヘブレオ11:6)また「「義人は信仰によって生きる」と書きしるされているとおりである。」(ローマ1:18)

【第二バチカン公会議で活躍した神学者イエズス会のカール・ラーナーは「無名のキリスト者」論を提唱しました。キリストを知っていようがいまいが、宗教を信じていようがいまいが、「無神論者」であろうが、良心の命令に従って生きていればすべての人は「キリスト者」であり、キリスト者という名前だけがない「無名のキリスト者」で救われているとしました。残念ながら、ラーナーはよく聖書を読んでいなかったようです。「信仰がなければ、天主によろこばれることはできない。」ということさえ知らなかったのですから。】

第一戒は、超自然の徳である希望の徳も命じています。私たちが希望するのは、完全な絶対の果てしない幸福です。全能永遠で無限の天主のみが私たちに与えることができる、無限の幸せです。

私たちが希望しているのは、この世界の進歩でもなければ、世界の統一でも、地球環境保全でもありません。聖パウロはこういいます。「私たちが、キリストに希望をかけたのが、この世のためだけであるなら、私たちは、すべての人の中で、もっともあわれなものである。」(コリント前15:19)

聖パウロはまたこうも言います。「今の時の苦しみは、私たちにおいてあらわれるであろう光栄とは比較にならないと思う。…霊の初穂をもつ私たちも、心からの嘆きをもって、自分が養子とされ、自分の体があがなわれることを期待している。まことに私たちが救われたのは、希望においてである。目に見える希望はもう希望ではない、見えるものをどうして希望することができよう。私たちがもし、見えないものを希望しているのなら、忍耐をもってそれを希望しよう。」(ローマ18:18, 24-25)

私たちの望徳はこの祈りにうまく表されています。「恵みの源なる天主、主は約束を違(たが)えざる御者にましますが故に、救世主イエズス・キリストの御功徳によりて、その御約束の如く、われに終りなき命と、これを得(う)べき聖寵とを、必ず与え給わんことを望み奉る。」

私たちは、信仰・希望・愛徳をもって、真の天主を愛さなければなりません。私たちの主イエズス・キリストは、こういわれました。「まことの礼拝者が、霊と真理とをもっておん父を拝む時がくる。いやもう来ている。おん父は、そういう礼拝者をのぞんでおられる。天主は霊であるから、礼拝者も、霊と真理とをもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:23)

礼拝(latria)とは、いとも高き創造主にのみなされなければなりません。いかなる被造物にも礼拝を捧げることをしてはなりません。

【約束のキリストは、真の天主である】

ところで、私たちの主は、ファリザイ人たちにご自分が誰であるかをわからせるために、次のように質問します。「あなたたちはキリストについてどう考えているのか?それはだれの子か?」と。ファリザイ人らはイエズスに反対し、キリストをただの人間であると思っていました。そこでかれらは「ダヴィドの子です」と答えます。しかしこれに対して、イエズスは詩篇109を引用して言います。ダヴィドは、自分の考えではなく、聖霊によって、キリストを主であると呼んでいる、と。

「主(御父)は私の主(キリスト)に言われた、私(御父)の右に座れ」これは、御父の御稜威と同じ御稜威と光栄を受ける方である、という意味です。つまり、キリストは、肉体によっては、本当にダヴィドの子孫ですが、天主の本性によってはダヴィドの主(天主)であるということです。御父は、キリストの敵どもを、キリストの足の下に置く、と。

「私があなたの敵をあなたの足の下におくまで、私の右にすわれ。」sede a dextris meis, donec ponam inimícos tuos scabéllum pedum tuórum. 聖レミジオは、この「まで」donec という言葉は「無期限」を意味し、永久に私の右に座れ、永久に敵をキリストの足の下に置く、という意味であると言っています。御父によって敵が足元に置かれるのは、御父と御子キリストとが同じ天主の本性を持っているということを意味しています。

「ダヴィドはかれを主と呼んでいるのに、なぜ、子なのか?」これにはこう答えるしかありません。聖霊によって息吹かれたダヴィドは、キリストがダヴィドの子孫であると同時に完全な真の固有の意味で天主である、と言っているからだ、と。

時において人としてダヴィドの子孫として生まれなければならなかったが、時の始まる前から、永遠の昔から、天主であり天主の御子であったからだ、と。

同じ詩篇109にはこの一節もあるからです。ex útero ante lucíferum génui te.「私はおまえを暁の前、懐から生んだ」と。ファリザイ人らは「だれも一言も答えられず」、ちょうど、御父が御子キリストの敵を足の下に置いたかのようです。

イエズス・キリストに関する真理の中核はまさにここにあります。イエズス・キリストは言葉の固有の意味で、完全な真の人間となった完全な真の天主である、ということです。

もしも「キリストはとても聖なる方で預言者だったとしも単なる人間だ」と考えるのならそれは間違っています。イエズス・キリストは、御父天主によって「御子」の地位を与えられて「天主」となった人間でもありません。

単なる被造物である人間を「主」(つまり天主)と呼ぶことは絶対に許されないことです。また、時間のうちに存在をし始めた有限の単なる人間が、本性による永遠の昔から始めなく存在している無限の天主になる、などというようなことは、全能の天主でもできないことです。

そうではなく、イエズス・キリストこそが、旧約の預言を全て成就した約束の救い主で、人となった真の天主です。

【イエズス・キリストは天主として行動した】

この詩篇の一節ばかりではありません。イエズスは天主御自身として多数の奇蹟を行っています。「私が父のわざをしないなら、私を信じないでもよい。しかし、もししているなら、たとえ私を信じないでも、私のすることを信じよ。そうすれば、父が私におられ、私が父にいることを、知って悟るだろう。」(ヨハネ 10:38)

イエズスはこうも言います。「私の羊は私の声をききわけ、私にしたがい、私もかれらを知っている。私はかれらに永遠の命をあたえる。かれらは永遠に亡びず、そして私の手からだれも、かれらをうばえない。父が私にくださったものは、なにものにもまさって尊いもので、それを私の父の手からうばえるものはない。私と父とは一つである。」

イエズスは人々に自己を天主として礼拝することを要求しています。キリストが生まれつきの盲者を癒した時その盲者に尋ねて言います。「「あなたは天主の子を信じるか?」とおおせられた。そこで彼が、「主よ、それはだれのことですか?私がその方を信じますように」といった。イエズスは、「あなたはそれを見ている。あなたに話しているのがそれだ」とおおせられた。すると彼は、「主よ、私は信じます」といって、そのみ前にひれ伏した。」(ヨハネ 9:35-38)

【「あなたは天主の子を信じるか?」συ πιστευεις εις τον υιον του θεου の「天主」は、一部のギリシア語の写本では「人」となっていると指摘されています。ηκουσεν ο ιησους οτι εξεβαλον αυτον εξω και ευρων αυτον ειπεν αυτω συ πιστευεις εις τον υιον του θεου [ἀνθρώπου WH NIV ] θεοῦ Treg RP]】

イエズスは天主に固有の権をもって罪を赦します。「イエズスが、かれらの信仰を見て、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と中風の人におおせられると、そこに座っていたある律法学士たちが、「この人はなぜあんなことをいうのだろう。あれは冒涜だ!天主以外に罪をゆるせるものはない!」と、心の中で考えた。

すると、イエズスは、かれらがそう考えているのをすぐ心に悟り、「なぜ、そんなことを考えているのか。中風の人に、"あなたの罪はゆるされた"というのと、"起きて、床をとって行け"というのと、どちらがやさしいか。人の子が、地上で罪をゆるす権力をもっていることをあなたたちに知らせよう!」。

そして中風の人に向かい、「私は命じる。起きよ、床をとって家に帰れ!」とおおせられるや、病人は、起きて、すぐ床をとり、人々の目のまえを出ていった。皆はおどろいて、天主をあがめ、「今まで、こんなことを見たことがない!」といった。」(マルコ 2:5-12)と。

ある時には、泣きながら、イエズスのうしろ、そのおん足の近くに立ち、涙でおん足をぬらし、自分の髪の毛でそれをぬぐい、おん足にくちづけして、香油をぬった罪の女性がいました。共に食卓についていた人々に向かってイエズスは言います。「私はいう。この人の罪、その多くの罪はゆるされた。多く愛したのだから。」(ルカ 7:48)それからマグダレナに向かってこう言います。「あなたの罪はゆるされた。」

天主に対する愛によってのみ罪は赦されるのです。イエズスは自分に対する愛によって赦されるというのですから、自分に対する愛は天主に対する愛に等しいと宣言しています。別の言葉でいえば、イエズスは天主であることを断言しているのです。

【イエズス・キリストは、天主である】

イエズス・キリストはご自分の権力と知識とにおいて天主と等しいと主張しています。「すべてのものは、私の父から、私にまかせられました。子が何者かを知っているのは、父以外にはなく、父が何者かを知っているのは、子と、子が示しを与えた人の他にはありません。」(ルカ 10:22)

イエズス・キリストは、更に、全人類を裁くために再臨することを宣言しています。天主だけが、全ての人々の良心の秘密を知り、それにふさわしい正義の賞罰を与えることができますが、イエズスは全人類の最後の審判者であると宣言しています。「人の子は、その栄光のうちに、多くの天使をひきつれてきて、光栄の座につくであろう。そして、諸国の人々を前に集め、ちょうど牧者が羊と牡山羊とを分けるように、羊を右に、牡山羊を左におくだろう。」(マテオ 25:31-32)

審判の日に、イエズスは善人に向かってはこう言うでしょう。「まことに私はいう。あなたたちが、私の兄弟であるこれらのもっとも小さな人々の一人にしてくれたことは、つまり私にしてくれたことである"というであろう。」

悪人たちに向かってはこう言うでしょう。「まことに私はいう。これらのもっとも小さな人々の一人にしてくれなかったことは、つまり私にしてくれなかったことだ」と。

またこうも宣言します。「御父が、死者を復活させて命をおあたえになるように、御子もまた、自分の望む者たちに命を与えるのである。御父は、審判をなさらず、御子に審判のことを全くお任せになった。それは御父を尊ぶのと同じように、みなが御子を尊ぶためである。」(ヨハネ 5:22-23)

イエズス・キリストは、天主御自身であることを言葉と行いで証明しています。ですから、私たちはイエズス・キリストに真の礼拝(latria)を捧げ、愛を捧げる義務があります。

しかし、ファリザイ人らをはじめとする人びとは、イエズス・キリストを受け入れず十字架に付けることによって、天主に対する愛と隣人に対する愛とに背いてしまいました。天主への愛と天主のための隣人への愛にこそ、全律法があったにもかかわらず、です。私たちの主は今日の福音でこう言います。「全律法と預言者とは、この二つの掟による。」

しかし、私たちがイエズス・キリストを愛するなら、全ての法を全うすることができます。何故なら、イエズス・キリストこそ、真の天主であり同時に真の人間、しかも私たちを極みまで愛された救い主なる恩人、王、大司祭、この地上でのすべての正しい愛の直接の対象であるからです。

聖アウグスチヌスは、天主が私たち人間を愛するのは、御子の神秘体の一員であるから、或いは一因となることができるからだ、天主が人類全てにおいて愛しているのは御子である、と言っています。

もしも私たちが天主を愛するなら、その愛とは天主においてある愛であって、私たち被造物である人間に聖霊によって伝えられた愛によって天主を愛するのです。この愛によって私たちが愛さなければならないのは、私たちにおける、また隣人における、天主の御言葉なるイエズス・キリストです。

もっとも小さい者たち、もっとも憐れな者たちにすることは、善であれ、悪であれ、イエズス・キリストにするのです。私たちは、イエズス・キリストのために、隣人を私たち自身のように愛するのです。

聖パウロはこう言います。「律法の目的は、清い心と、よい良心と、偽りのない信仰から生じる愛をひろめることである。」(ティモテオ前1:5)またこうも言います。「キリストは律法の目的である。」(ローマ10:4)

つまり、法の目的とは、愛徳であり同時にキリストです。ですから、私たちの行動を律する法は、愛徳のうちに完成されますが、その愛徳の究極の対象はキリストである、ということです。

私たちがキリストのおいて完全となること、私たちの完成とはキリストに到達すること、これが私たちの完徳です。聖アウグスチヌスの有名な言葉を借りて言えばこうです。「主にのみ愛着しよう、主をのみ楽しもう、主と一つに留まり続けよう」haereamus uni, fruamur uno, permaneamus unum.

私たちが、真の天主であるイエズスだけを全てを超えて愛することができますように!天主の聖母マリア様が、いつも私たちのために祈り続けてくださいますように!

"あなたは、すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ"これが第一の、最大の掟である。



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