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ヴィガノ大司教の童貞聖マリアの七つの御悲しみの祝日についての黙想

2022年09月23日 | カトリックとは

ヴィガノ大司教の童貞聖マリアの七つの御悲しみの祝日についての黙想

2022年9月15日(木)

VIGANÒ MEDITATION On the Feast of the Seven Dolors of the Blessed Virgin Mary

カルロ・マリア・ヴィガノ

Iuxta crucem tecum stare
Et me tibi sociare
in planctu desidero.
われ十字架の側(かたわら)に御身と立ちて、相共に歎かんことを望む。

教会が、御悲しみの至聖なる童貞マリアの七つの御悲しみをお祝いするこの荘厳な日、私の黙想は、聖画において聖母の汚れなき御心を貫く七つの剣で象徴される「七つの御悲しみ」について考察します。私は、聖母がその母にして元后である教会で起こっている出来事に関連して、その御悲しみを観想したいと思います。しかし、これだけではありません。聖母は教会のかたどりであり、私たちが天主の御母について語ることはすべて、何らかの形で小羊の花嫁【教会】にも適用され得るのです。このことは、両者の凱旋と栄光だけでなく、両者の悲しみとキリストの贖いにおけるご受難への参加にも当てはまります。

I. 聖母、神殿でシメオンの預言を聞き給う

「この子は、イスラエルの多くの人が、あるいは倒れあるいは立ち上がるために、逆らいのしるしとして立つ人です。そうして、多くの人のひそかな思いが明らかにされるのです。あなたの心も、剣で貫かれるでしょう」(ルカ2章34-35節)。これはシメオンが聖母に語った言葉ですが、その言葉の中には、天主なる救い主の贖いのご受難と、至聖なる御母の共贖があります。しかし、この言葉は、「多くの人が、あるいは倒れあるいは立ち上がるために、逆らいのしるし」である教会にも当てはまります。教会もまた、「キリストの苦しみの欠けたところ」(コロサイ1章24節)、新しいイスラエル、「異邦人を照らす光」(lumen ad revelationem gentium)、山の上にある町、新しいエルザレムにおいて、神秘体に参加しているのです。

このため、教会の子である私たちも、小羊の花嫁、すなわち、「異邦人の元后」(Domina gentium)となる運命にある教会が、闇の中を歩む者たちによって永遠のみ言葉【キリスト】のように拒絶されてカルワリオを昇るのを見て、私たちの心が貫かれるのを感じるのです。「世はそれを認めなかった」(et mundus eum non cognovit)(ヨハネ1章10節)、「その人々は受け入れなかった」(et sui eum non receperunt)(ヨハネ1章11節)。そして、天主の御母が、私たちの主が取りやめようとは望まれなかった辱めを免れられたとしても、それにもかかわらず、神秘体は、そのかしらがそうであったように、新しい最高法院(サンヘドリン)によって鞭打たれ、辱められるのがふさわしいのです。

Quis est homo, qui non fleret,
Matrem Christi si videret
in tanto supplicio?
キリストの御母のかく悩み給えるを見て、たれか涙を注がざる者あらん。

II. エジプトへの逃避

ヘロデの迫害を前にして、聖母と聖ヨゼフは、幼子イエズスを救うためにエジプトへと逃避されます。ヘロデの殺人的な怒りから主を守り、隠すために、お二人は家も活動も、親族も友人もすべて捨てられます。御子の命が脅かされるのを目の当たりになさった聖母の御悲しみを想像してみましょう。異国の地、異教徒の中に追放の身となり、妻と幼子イエズスだけになった聖ヨゼフの心配を想像してみましょう。

私たちも、迫害されたキリスト信者と同じように、主が犠牲を永続される手段である司祭職と聖なるミサとを守るために、追放・逃避を余儀なくされ、家と愛する人たちから離れなければならないという、千の未知に直面しなければなりません。私たちは教会、修道院、神学校からでさえも逃げ出さなければならないことにさえ気づきます。なぜなら、新しいヘロデは自分を非難する「逆らいのしるし」を排除しようとし、それをエキュメニカルかつエコロジカルで汎神論の人類教で置き換えようとしているからです。キリストのいないキリスト教、超自然の霊魂のない司祭職、犠牲でないミサです。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心を貫くこの剣は、私たちの心をも貫くのです。しかし、エジプトへの逃避が比較的短かったように、私たちの逃避もまた短くて済むでしょう。私たちは、天使が、聖ヨゼフに告げた言葉を私たちに繰り返すのを待っています。「起きよ。子どもとその母を連れて、イスラエルの地に帰れ。子どもの命を奪おうとした者どもは死んだ」(マテオ2章19-20節)。

Tui Nati vulnerati,
tam dignati pro me pati,
pœnas mecum divide
わがためにかく傷つけられ、苦しみ給いたる御子の苦痛を、われに分かち給え。

III. 私たちの主の神殿での発見(主を見失う)

過越祭をお祝いするためにエルザレムに行かれた聖母と聖ヨゼフは、巡礼団に加わって家に向かわれますが、イエズスが自分たちとも親族とも一緒におられないことに気づかれます。三日間捜してエルザレムに戻ると、イエズスが、神殿で律法の学者たちと一緒におられ、旧約聖書のメシア預言を解き明かそうと熱中して、ご自分のことを啓示なさっているのを発見されます。マリアとヨゼフは、大天使ガブリエルが、「それは偉大な方で、いと高きものの子と言われます。また、その子は、主なる天主によって父ダヴィドの王座を与えられ、永遠にヤコブの家を治め、その国は終わることがない」(ルカ1章32-33節)と告げたお方を失った恐怖で、どれほど苦悩なさったことでしょうか。神殿で少年イエズスを発見なさった時のお二人の喜びは大きかったに違いありませんが、「いつも彼らに従った」(subditus illis)(ルカ2章51節)はずの御子が、ご自分たちのそばにおられなかった苦悩の三日の間、本当にぞっとするような恐怖にさいなまれたことでしょう。このような非常に人間的で真正な反応を前にして、私たちは、自分の罪のせいでイエズスを失い、イエズスご自身の召命に従わずに自分の霊魂の住居(すまい)を汚して不潔なもので満たしたために、イエズスが私たちから離れていかれるとき、私たちの態度はどうあるべきかを自問すべきです。

教会が置かれている現状を見てみましょう。教会の中に入って、現存のしるしであるご聖櫃の近くで燃える赤いランプをむなしく探すとき、マグダラのマリアの言葉(ヨハネ20章13節)を繰り返す尊者ピオ十二世の「預言」[1]の言葉とともに、「彼らが主をどこに持って行ったのか分からないのです」と、私たちは自問することができるでしょう。

改革された典礼の儀式に参加して気が付くことは、「集会の司会者」が高められていたり、信者の祈りを読み上げる神殿の熱狂者の役割があったり、ベールをかぶらない修道女が尊大にご聖体を配ったりしていることです。しかし、ご聖櫃のベールの下に現存なさっているご托身された天主、王の中の王、天主なる贖い主に対しては、ふさわしい場所もなく、中心に置かれることもなく、注意を払われることもないのを見るとき、「彼らが主をどこに持って行ったのか分からないのです」と、私たちは自問します。

昨日まで古代の儀式による典礼の挙行が保証されていた教会に入るとき、その代わりにプロテスタントのテーブルや、空っぽのご聖櫃の前に置かれた司式司祭の椅子があるのを見て、「彼らが主をどこに持って行ったのか分からないのです」と、私たちは自問します。「私たちは心配してあなたを捜していたのですよ」(ルカ2章48節)。

では、主はどこにおられるのでしょうか。主は神殿におられます。小さな隠れ家のような教会に、個人の礼拝堂に、屋根裏や納屋に設置された仮設の祭壇に。私たちの主が好んで留まられるところ、それは、主のみ言葉に心と精神を開いて主によって癒やされるがままにする人々と共に、また、私たちが主を見ることを阻むような霊魂の盲目を癒されるがままにする人々と共におられるのです。「なぜ私を捜したのですか。私が私の父のことに従事すべきだと知らなかったのですか」(ルカ2章49節)。私たちが、主を見つけられず、苦悩と絶望に浸っているとき、私たちは自分のこれまでの足取りをたどり、主が私たちを待っておられるところを探さなければなりません。

Fac, ut ardeat cor meum
in amando Christum Deum,
ut sibi complaceam.
わが心をして、天主たるキリストを愛する火に燃えしめ、一(いつ)にその御心に適わしめ給え。

IV. 聖母、十字架を担われるイエズスに出会い給う

V. 聖母、十字架のふもとにただずみ給う

VI. 聖母、イエズスの十字架刑と死を目撃し給う

聖母と教会には、もう一つの悲しみがあります。それは、私たちの主が鞭打たれ、茨の冠をかぶせられ、十字架を担われ、侮辱され、叩かれ、唾をかけられるのを見ることです。一方には悲しみの人、他方には「悲しみの御母」(Mater Dolorosa)。御母は、「なれかし」(Fiat)以来用心深く守られてきた御子のご神性について知っておられるがゆえに、帝国権力の臆病な共犯者である大司祭と律法学士に扇動されたご自分の民によって、ユダヤ人の王が殺されるのを(聖母が)ご覧になるとき、その御心は引き裂かれるのです。「その子は、主なる天主によって父ダヴィドの王座を与えられ、永遠にヤコブの家を治め、その国は終わることがない」(ルカ1章32-33節)。

ダヴィドの王座を見てください。ヤコブの家の国を見てください。御父は、アダムの罪によって壊された秩序を回復させ、私たちの先祖の無限の過ちを償うために、聖霊の愛のうちに、御子という供え物を受け入れてくださいます。Regnavit a ligno Deus(天主は木から統治し給うた)と、私たちは聖歌Vexilla Regis(王の御旗は)で歌います。茨の冠をかぶせられ給うたキリストが統治しておられるのは、まさに十字架からなのです。

しかし、民の過ちと罪を象徴的に負わされた贖罪の身代わりの山羊が軽蔑の対象となり、エルザレムの城壁の外で死ぬように送り出されたとすれば、世の罪を自ら負われて、ご自身の御血でその罪を洗い流すために、エルザレムの城壁の外にあるカルワリオ山の上で死なれることがないとすれば、その身代わりの山羊をただの前表に過ぎないものとされるお方を、ほかにどんな運命が待ち受けていたというのでしょうか。【死のほかにあるはずがありません。】天主の御母は、ご自分の御子が辱めを受けて死に至らしめられるのをご覧になった御悲しみにより、「共贖者」という称号を得られました。「このように、彼女は苦しみにより、死にゆく御子と共にほとんど死んだかのようになり、このように、人間の救いのために、彼女は御子に対する母としての権利を放棄し、天主の正義をなだめるために、御子をいけにえとして捧げたのです。その結果、彼女は、キリストとともに人類を贖ったと正しく言うことができるのです」(教皇ベネディクト十五世、使徒的書簡「インテル・ソダリチア」[Inter Sodalicia])。

聖母と聖ヨハネとともに、まさに十字架のふもとで始まった教会も、主のご受難を観想する中で、大きな悲しみを味わわなければなりませんでした。

天主の恩寵によって洗礼を受けて教会の息子や娘になった私たちも、ご聖体にましますイエズスが、ご自身の役務者によってどのように扱われておられるかを見て、心を貫かれています。何故なら主は、「積極的な参加」(actuosa participatio)の自己中心的な人々とエキュメニカルな対話の狂信者たちとを見えなくさせる邪魔な客として扱われているからです。

私たちは、位階階級の最高指導者たちが、キリストの神性、秘跡におけるキリストの現存、聖なる犠牲の四つの目的【礼拝、感謝、祈願、償い】、そして永遠の救いのための教会の必要性を否定するのを聞くとき、心が引き裂かれるのを感じます。なぜなら、これらの誤謬、これらの異端、これらの愚かな嘘の中に私たちが読み取るものは、キリストの敵どもに対する臆病さや不愉快な卑屈さだけでなく、キリストが制定なさった目的に反して、簒奪した行政権を維持するために、世俗の権威に頼ろうとさえする最高法院(サンヘドリン)の、同じ悲痛で偽善的な態度だからです。教会の権威が倒錯していることは、あたかも息子が母親の姦淫や父親の裏切りを目撃するかのように、存在し得る最も残酷で悲痛なものなのです。

Cujus animam gementem,
contristatam et dolentem
pertransivit gladius.
歎き憂い悲しめるその御魂は、鋭き刃もて貫かれ給えり。

VII. 聖母、十字架から降ろされしイエズスの御体を両腕に受け給う

いと高き御者の御子をご胎内に宿され、天使の聖歌隊に囲まれながら、みすぼらしいまぐさ桶に御子をお生みになった聖母は、今や汚れなきいけにえの保護者として、救い主の亡骸を御腕に受けなければなりません。赤ん坊のとき、そして少年のときに何度も胸に抱かれた御子の成人した御体を抱かれるときの、聖母の深い沈黙の痛みはいかばかりだったでしょうか。すべての使徒が逃げ去った後も、信仰を持ち続けておられた聖母にとって、命が全く去った主の手足は、さらに重く感じられることでしょう。ロレトの連祷の祈りで私たちが唱える「きずなき御母」(Mater intemerata)、この御母は、恐れを知らず、御子のためなら何でもされる覚悟をお持ちです。

新秩序という地獄の世界は、この御母を、消すことのできない憎しみをもって憎んでいます。この御母に、天主への愛のため、天主への愛から来る隣人への愛のために御自らをいけにえとする覚悟をお持ちである、無敵の愛徳の力を見ているからです。この背教の世界は、母性のイメージそのものを堕落させ、子どもの命を守るべき者を冷酷な殺人者にすることによって、「きずなき御母」を取り消そうとし、罪、慎みのなさ、不純さで、「いと潔き御母」(Meter purissima)を崩壊させ、女性らしさを醜くさせて、その品位を落とすことで、すべての女性から「愛すべき御母」(Mater amabilis)を思い起こさせるものを取り去ろうとしているのです。

今日、教会は、世俗化したメンタリティーに服従させられて、また童貞性を忌み嫌い、夫婦の聖性をあざ笑い、家族を解体し、男女の平等に対する歪んだ権利を主張する、反抗的な女性を高めることで、御悲しみの聖母とともに苦しんでいます。今日、位階階級は、至聖なるマリアの凱旋について沈黙し、代わりにパチャママという卑劣な地獄の偶像において母なる大地を崇拝しています。そのわけは、聖母と教会はサタンの最大の敵であり、聖母と教会はユダヤ人を恐れて高間の家に集まっている小さな群れの守護者であるからです。

私たちは、私たちのこれらの苦しみをお捧げし、それを教会と、御悲しみの聖母なる至聖なるマリアの御苦しみと一つにし、ちょうど三日目に、番兵が眠っているときに教会のかしらが復活なさったように、キリストの神秘体である教会の凱旋を目撃する特権を私たちに与えてくださるよう、天主の御稜威に請い願いましょう。そうなれば、私たちは、御悲しみの聖母が再び元后の衣をまとわれ、永遠のマグニフィカトを唱えられるのを、見ることになるでしょう。

Fac me cruce custodiri
morte Christi praemuniri,
confoveri gratia.
われをして十字架によりて守まれ、キリストの死によりて保護され、恩寵によりて恵まれるようになし給え。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2022年9月15日
童貞聖マリアの七つの御悲しみの祝日

[1] http://www.itreamoribianchi-araldidelvangelo.com/fatima-verra-un-giorno-la-profezia-ritrovata-di-pio-xii/

 

Méditation en la fête des Sept Douleurs de la Bienheureuse Vierge Marie, par Mgr Viganò

En ce jour solennel, où l’Église célèbre la Bienheureuse Vierge Marie des Douleurs, ma méditation aura pour objet les Sept Douleurs

medias-presse.info

 

 



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