Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

主イエズス、聖母、聖人たちが積みあげた償いの価値はすべて、全人類の有限の罰を償うことができる、莫大な霊的宝となっている。

2022年01月03日 | お説教・霊的講話

贖宥という概念についての説教

ドモルネ神父 2021年11月21日

はじめに

この前の主日は、有限の罰についてお話ししました。私たちが罪を犯すとき、私たちは何かに対する乱れた愛のために、天主から離れてしまいます。私たちは、天主から離れたため、永遠の罰を受けるに値します。私たちは、被造物への乱れた愛を持ったため、有限の罰を受けるに値します。有限の罰とは、私たちが犯した罪の数と重さに応じた、一定の苦しみを意味します。私たちは、有限の罰の償いを完全に実行するまで、天国に行くことはできません。私たちの主イエズスは、福音のなかで、こう言われました。「まことに私は言う、一厘残らず返すまで、あなたはその牢を出られない」(マテオ5章26節)。

しかし、天主は、御あわれみによって、有限の罰が特別に赦免される可能性を与えてくださいます。それを、贖宥、あるいは、免償といいます。


1.贖宥一般について

贖宥には、2種類あります。有限の罰の全体が赦免される場合、それは、「全贖宥」と呼ばれます。有限の罰の一部のみが赦免される場合、それは、「部分贖宥」と呼ばれます。いずれにしても、このような赦免は、「人は、愛徳から、他の人の負債を支払うことができる」という、一般的な原則に基づいています。贖宥は、私たちの主イエズス・キリスト、童貞聖マリア、そして聖人たちが、御自らの功徳によって償いをされることで、有限の罰が赦免されることです。これから、ご説明しましょう。

誰かの負債を支払うためには、「支払うのを許可されていること」、「支払う手段を持っていること」、「負債を負っている人の同意があること」という、三つのことが必要です。

2.誰かの負債を償うことが可能であること

他の人の罪を償うことは、可能でしょうか? はい、可能です。私たちがあわれみからする善業には、功徳を積む価値と、償いをする価値という、二つの価値があります。功徳を積む価値とは、私たちの善業が、報いを受ける権利を、私たちに与えることを意味します。償いをする価値とは、私たちが善業をすることで、自分の罪を償うことができることを意味します。例えば、私が、天主への愛のために、貧しい人々に施しをするとき、私は天国で報いを受けるに値しますし、また、自分の罪、特に、愛徳に反する罪を、償うのです。

私たちの善業による功徳は、完全に個人的なものです。それを、他の誰かに与えることはできません。しかし、私たちの善業による償いの価値は、他の人に与えることができます。それは、私たちが、自分の善業によって、他の人の罪を償うことができる、ということを意味します。私たちは、他の人の罰を自分で引き受けて、その人に代わって、罪を償うことができるのです。それは、私たちの主イエズスが、十字架上でなさったことです。主は、私たちの罪を償うために、ご自分の命を捧げられたのです。預言者イザヤは、こう言いました。イエズスは、「私たちの労苦を背負い、私たちの苦しみを担った…彼は、私たちの罪のためにつきさされ、私たちの悪のために押しつぶされた」(イザヤ 53章4-5節)。

3.償うための手段を持っていること

誰でも、他の人の罪を償うことができます。しかし、私たち自身の罪の償いとして、天主にお捧げすべきものを持っているのは、誰でしょうか? それは、私たちの主イエズス・キリスト、童貞聖マリア、天国の聖人たち、そしてこの世に生きている聖なる人々です。私たちの主イエズスは、いかなる罪も犯されませんでした。ですから、主のすべての行いの持つ無限の償いの価値は、他の人々のために使われることができます。童貞聖マリアは、いかなる罪も犯されませんでした。ですから、聖母のすべての行いの持つ償いの価値も、他の人々のために使われることができます。天国の聖人たちや、この世に生きていた聖人たちの多くは、非常に多くの善業を行ったため、自分たちの罪を完全に償い、さらにそれ以上の、他の人々のために使われることができる償いを得ています。聖トマス・アクィナスは、こう説明します。「すべての聖人たちは、天主のために、自分たちが行ったり苦しんだりしたことはすべて、自分たちだけでなく、全教会に益をもたらすものとなるべきだ、という意向を持っていた」。ですから、私たちの主イエズス、聖母、聖人たちが積みあげた償いの価値はすべて、全人類の有限の罰を償うことができる、莫大な霊的宝となっているのです。私たちの主イエズスは、この宝を分配する権限を、教皇に与えられました。

4.利益を受ける人の同意があること

さて、問題は、この宝の恩恵を受けられるのは誰か、ということです。それは、自分の罪を反省し、この宝が自分に適用されることを望む人々に、限られます。第一に、私たちは、私たちの罪について、大罪についても、小罪についても、心から、悔い改めなければなりません。実際、私たちが自分の罪について悲しまなければ、天主は、私たちを赦すことが、おできになりません。ですから、これらの罪による罰は、残るのです。イエズス・キリストや、聖母や、聖人たちの功徳を、私たちに適用することもできません。

第二に、私たちの主や、聖母や、聖人たちの功徳は、私たちに自動的に適用されるではありません。私たちは、それを求めなければなりません。では、どのようにすれば、よいのでしょうか? 教皇が贖宥の本のなかで示したわざを果たすことによってです。現在の贖宥の一覧は、1968年に教皇パウロ六世が制定したもので、インターネットで見つけることができます。

結論

贖宥の教理は、美しい現実です。この教理は、罪が償われることを、天主が望まれる、という、天主の正義を示します。また同時に、有限の罰を償うための非常に簡単な方法を、天主が私たちに与えてくださる、という、天主の御あわれみも示します。この教理は、キリスト教徒を一致させる、兄弟愛と相互扶助を、はっきりと示しています。この教理は、私たちが、もっと頻繁に秘跡を受け、もっと信心をもって祈り、もっと多くのあわれみのわざを実践するように、促します。要するに、贖宥の教理は、私たちの個人的な聖化に役立ち、また、天主や、キリスト、童貞聖マリア、聖人たちに栄光をもたらし、私たちの間の愛徳を奨励します。ですから、この贖宥を、頻繁に使うことにしましょう。



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