Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

私たちの主は、私たちが贖いのわざに参加することを、望まれます。

2022年01月03日 | お説教・霊的講話

有限の罰についての説教

ドモルネ神父 2021年11月14日

はじめに

11月には、私たちは、煉獄の霊魂たちのための、全贖宥を得ることができます。特に今年は、教皇フランシスコが、11月中の毎日、私たちがこの贖宥を得ることができることを、定めました。贖宥とは何かを、よりよく理解するために、今日はみなさんに、有限の罰という概念を思いおこしていただこうと思います。

1.有限の罰という概念

罪とは、天主の掟を破ることです。私たちが罪を犯すとき、何かに対する乱れた愛のために、天主から離れます。それは、二重の動きのようなもので、天主から離れることと、そして、特定の被造物に向かうことです。例えば、私たちがお金を盗むとき、私たちは天主の掟を拒否することで天主から離れ、そして、私たちが悪しき欲望を持つ、お金の方へと向かいます。ですから、罪を犯すことで、私たちは、二重の罰を受けるに値するのです。

天主から離れたため、地獄の宣告という「永遠の罰」を受けるに値します。地獄の宣告とは、天主から永遠に離れてしまうことです。また、何かに誤った愛着を持つことで、何かを奪われるという、「有限の罰」を受けるに値します。

具体的に言えば、この「有限の罰」とは、私たちが犯した罪の数や重さに応じて、一定の肉体的・感情的な苦しみを受ける、ということを意味します。地獄にいる人々のことを考えてみると、彼らは同じ永遠の罰を受けていますが、彼らの苦しみ、すなわち有限の罰は、彼らが犯した罪の数と重さによって決まります。

2.罪の償いの必要性

私たちが罪を償うためには、罪の二重の動きを、逆転させなければなりません。私たちは、心からの痛悔の祈りと告白によって、天主に立ち返る必要があります。私たちは、有限の罰を受ける必要があるのです。

しかし、これに関して、プロテスタントは、カトリックの信仰に反対します。プロテスタントは、天主が罪をお赦しになるときには、罪による罰も、同時にお赦しになる、と主張します。したがって、私たちの罪を償う必要はなく、受けるべき有限の罰もない、というのです。でも、これは偽りです。私たちをお赦しになった後も、天主は、私たちに、有限の罰を受けることを要求されます。例えば、聖書において、ダヴィド王は姦淫と殺人の罪を犯しました。ダヴィド王は心から天主に赦しを請い求めて、天主に赦されました。しかし、ダヴィド王は天主によって厳しく罰せられ、自分の罪のために、長く、厳しい償いをしました。

また、プロテスタントは、私たちの主イエズス・キリストが、私たちの罪を完全に償われたので、それ以上の償いをする必要はない、とも主張します。もし、それでも、私たちが自分の罪を償う必要があるとすれば、それは、イエズスの十字架上の犠牲が十分ではなかったことを意味することになる、と言うのです。でも、これは偽りです。イエズスの犠牲は絶対的に完全で、人類のすべての罪を償うのに、十分です。しかし、私たちの主は、私たちが贖いのわざに参加することを、望まれます。主は、こう言われました。「義人ではなく、罪人を招いて悔い改めさせるために、私は来た」(ルカ5章32節)。また、こうも言われました。「私は言う。あなたたちも、悔い改めないなら、あなたたちもみな、同じように滅びるだろう」(ルカ13章3節)。さらに、聖アウグスティノは、こう言っています。「あなたがたなしに、あなたがたを創造されたお方が、あなたがたなしに、あなたがたを救われることはありません」。

しかし、なぜ、天主と私たちの主イエズスは、私たちをお赦しになった後も、私たちが、自分の罪のために、有限の罰を受けることを、望まれるのでしょうか? それは,私たちが、罪の重さを理解して、将来、掟を守ることができるように、助けるためです。実際、私たちは、悪い行いのために罰を受けた後は、普通、二度とそれをしないように、もっと気をつけるようになります。

私たちが自分の罪を償うことは、必要なことです。私たちは、自分の罪を完全に償うまで、天国に行くことはできません。煉獄にいる霊魂は、天主から罪を赦されていますが、地上で生きている間に、十分な罪の償いをしていなかったのです。

3.罪を償う方法

さて、問題は、私たちは、具体的に、どのようにして罪を償えばよいのか、です。

まず第一に、忍耐強く、償いの精神で、人生のあらゆる苦しみに耐えることです。これらの苦しみは、私たちが犯した罪の結果です。しかし、私たちが償いの精神でそれを受け入れるならば、これらの苦しみはもはや単なる罰ではなく、私たちの罪の償いになります。

次に、私たちは、祈り、良い告白、聖体拝領、大斎、小斎、施し、14のあわれみのわざのいずれか、巡礼などの善業を行うことで、罪を償うことができます。最後に、贖宥を得ることで、罪を償うことができます。贖宥とは、罪による有限の罰の、特別な免除のことで、教会から与えられるものです。教会は、どのようにして、そんなことができるのでしょうか? それは、イエズス・キリスト、童貞聖マリア、そして聖人たちの功徳を、特別な方法で適用することによって、です。天主のお許しがあれば、次の主日に、この贖宥という概念について、もっと詳しくお話ししたいと思います。

結論

今のところ、皆さん一人一人が、次のことをすることで、毎日一人の霊魂を煉獄から救うことができる、ということを、覚えておいてください。
・墓地を訪れ、亡くなった人のために祈ること。カトリックの墓地でなくても構いません。
・成聖の恩寵の状態にあること。
・小罪も含めて、いかなる罪への執着をも、持たないこと。
・墓地訪問の前後、20日以内に、告解をすること。
・墓地訪問の前後、20日以内に、聖体拝領をすること。
・教皇のために、祈りを唱えること。

全贖宥を複数得る場合も、一度の告解で十分です。しかし、各々の贖宥には、別々の聖体拝領が必要です。



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