Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

カトリック信仰を保ち続ける為に、カトリック教会がいつもやり続けてきた、聖伝のミサに与り、御聖体を礼拝し拝領して下さい。カトリック教会の破壊に、カトリック信仰の破壊に協力しないで下さい。

2020年06月10日 | お説教・霊的講話


2020年6月7日(主日)三位一体の主日
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆さん、今日は三位一体の主日です。

今日は、
【1:カトリックの信仰である聖三位一体とは何か】
次に、
【2:三位一体は私たちにとって一体どのような意味があるのか】
第3に、
【3:私たちは三位一体に対して何をしなければならないのか】
を黙想して、最後に、
【4:遷善の決心】
を立てましょう。

【1:カトリックの信仰:三位一体とは何か】
まず、三位一体とは一体何でしょうか?

私たちを取り囲んでいる、そして私たちが今その中に住んでいるこの現実世界、この世界をよく観察してみると、二つの事が分かります。

まず一つは、「この現実世界は、どうしても、否定しようもなく、存在している」という事です。この私たちの周りをいくら否定しようとしても、それをする事はできません。

もう一つは、この現実の世界には秩序があって、どんな物も私たちの身の回りにある物は、誰かが創ったりしたものであって、素晴らしい目的と秩序があって出来ていて、たまたま偶然に出来たのではないという事が分かります。

つまり、一体なぜ、どのような原因で創られたのか、在るのか、という事を突き詰めていくと、原因されない唯一の究極の原因・根拠・純粋な現実態、そして自らによって在る者というものがどうしてもなければ、今この世界が存在し得ないという事が分かります。

つまり、私たちの目に見えない究極の原因、世界を超越する存在がましまして、そして私たちを今、現に在らしめているという事です。そのような方がどうしてもいなければ、私たちが今ここに、全世界がここに存在し得ない、という事です。

私たちはこの究極の存在の事を、『天主』と呼んでいます。

この唯一の天主は、私たちが今住んでいるこの全世界、全宇宙を、愛によって無から創造されました。そして今これを有らしめていて、存在させて生かしていて、そしてこの世全てを、全宇宙を統治しておられます。

この私たちが住んでいるこの被造の世界は、天主の全能と、溢れるばかりの愛の現れで、その結果です。私たち人間はそれを、私たちを生かして在らしめて下さっている天主と比べれば、全く無に等しい、ちっぽけな存在に過ぎません。

この唯一の天主は、目に見えない真理、超自然の現実について、私たち被造物が到底知る事ができない、天使でさえも知る事ができない、御自分の永遠の秘密を私たちに、私たちを愛するがゆえに、啓示されました、教えられました。

天主は、私たちに溢れる愛の恵みで、無に等しい私たちを御自分の本当の子供として、養子として、天主の本性に参与する事ができるようにして下さいました。天主と共に、天主のように、永遠に限りなく幸せであるように、して下さいました。

永遠に天主の秘密として留まる事ができた、天主の命の秘密の中に、三位一体の玄義の中に、私たちを招いて下さったのです。本性においては私たちをはるかに上回って優れている天使でさえも与えられていない事が、私たち人間には与えられました。

三位一体とは、唯一の天主において、天主の三つの位格があって、聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊とがある、という事です。

聖父は天主、聖子は天主、聖霊は天主ですけれども、三つの天主があるのではなく、唯一の天主のみがましますのです。
聖父は主であり、聖子は主であり、聖霊は主でありますけれども、三つの主があるのではなく、一の主がましますのです。

三位は全て、共に永遠であって、共に等しいのですけれども、唯一、起源の違いだけがあります。

天主聖父は聖子を、永遠の昔から永遠の今に、お産みになります。

天主聖子は天主聖父から、生まれ続けておられます。

天主聖霊は天主聖父と聖子とから、あたかも唯一のものから来るかのように、発出しています。

三つの御父でもなく、三つの御子でもなく、三つの聖霊でもなく、聖父と聖子と聖霊の、三つの、三位のペルソナからなる、唯一の天主を信じています。

【2:三位一体は私たちにどのような意味があるのか】
では第2に、この三位一体の秘密、この玄義は、私たちにどのような意味があるのでしょうか?

永遠の意味があります。

三位一体の愛の中に入る為に、つまり、この全宇宙を創造した真の天主に行く為には、私たちは聖子、イエズス・キリストを必ず通らなければなりません。

天主聖子は、私たちが三位一体の天主の命にあずかる事ができる為に、私たちと同じ人間となりました。これがイエズス・キリストです。人となった天主であります。

「私は道、真理、命である」と、仰せになりました。「私を通らなければ誰も聖父の元に行く事はできない」(ヨハネ14:6)とも、仰せになりました。

聖ペトロは、初代教皇様はこう言います、「天上天下、私たちが救われる為に、たった一つの名前しか与えられていない。イエズス・キリストである」(使徒行録4:12)と。

聖霊を受ける為にも、私たちはイエズス・キリストを通らなければなりません。イエズス様は、天に昇られるその時に、御昇天のその時に、弟子たちに宣言しました、「私には、天と地の一切の権力が与えられている。だからあなたたちは諸国に弟子をつくりにいき、聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて洗礼をさずけ、私があなたたちに命じた事をすべて守るように教えよ。私は、世の終わりまで、常にあなたたちとともにいる。」(マテオ28:18-20)

これが真理です。「真理」というのは、一つの国、一つの地方、一つの時代だけに通用するものではなく、全世界に、いつの時代にも、変わらず、変わる事なく、通じるものが、「真理」です。私たちがどうしても変える事ができない、これが「真理」です。

1929年6月13日、ファチマのシスター・ルチアは、スペインとポルトガルの国境の境にあるトゥイという所で、そこにある修道院で、三位一体のビジョンを見ました。

シスタールチアは長上から許可を取って、夜の11時に、暗い聖堂でお祈りをしていました。すると突然、光り輝く、天井まで届くような十字架が、大きな十字架が、祭壇の前に現れました。

十字架の上には、光り輝く雲の内に、人の姿が上半身が見え、そしてその方の胸の所には、光輝く鳩のような姿の形のものが見えました。これは、天主聖父と天主聖霊のビジョンでした。

十字架には、釘付けにせられた別の方が見えて、そしてその方の腰の辺りに、御聖体のホスチアと、その下に御血を入れるカリスが、宙に浮いていました。そしてこの十字架に付けられた方の額から頭から、そして胸の脇腹から、御血が滴り落ちて、ホスチアの上に流れて、そしてホスチアからはカリスの中に、御血が流れ出ていました。

十字架の右の腕の下には、ファチマのマリア様が、汚れなき御心をお持ちになったマリア様の御姿がお見えになりました。マリア様の汚れなき御心には、バラも剣もなく、その代わりに茨の冠がかかっていて、そしてその御心は炎がボウボウと燃えていました。

十字架の左の腕の下には、あたかも水晶のように透き通った水が流れているかのように、「恩寵」という字と、「御恵み恩寵と憐れみ」という文字が形作られていました。

このトゥイのビジョンには、三位一体の玄義、御托身の玄義、贖いの玄義、御聖体の玄義、イエズス・キリストの聖心の愛の玄義、聖母の汚れなき御心の玄義が、すべて含まれています。

聖父と聖子と聖霊との聖名による十字架の印、イエズス・キリストの十字架、これに私たちの信仰の全てが詰まっているからです。

私たちに聖霊の聖寵を与える「秘蹟」、これは十字架に由来します。十字架のいけにえに由来します。「ミサ聖祭」、これも十字架の再現です。

聖寵の状態にある私たちには、聖三位一体が住まわれておられます。これは愛の業であって、三位一体の愛の業であって、私たちはこの愛を信じています、天主の愛を信じています。

「天主は愛であります。」(ヨハネの第一の手紙4:16)聖ヨハネがそうはっきりと断言しています。天主は、イエズス・キリストの十字架の玉座から流れ出る命の水、御恵み、恩寵と憐れみを、私たちに与えようとしておられるのです。

ちょうど聖ヨハネに黙示録によると、新しい天と地についてこう記述があります。「天使は、水晶のように輝く命の水の川を私に見せた。それは天主と小羊の玉座から流れでていた」(ヨハネの黙想録22:1)と。

【3:私たちは三位一体に対して何をしなければならないのか】
では第3に、私たちはこの三位一体、愛に満ちた愛に在す三位一体に対して、何をしなければならないのでしょうか?

今日の三位一体のミサの入祭誦では、天主の憐みを讃美してこう歌っています、「聖なる三位であり、分かちえない一者は、祝せられ給え、私たちは天主を告白する。なぜならば主は、私たちに御憐れみを与えたからである」と。

天主が私たちをどれほど憐み、愛しておられるかという事は、私たちの言葉は到底言い尽くす事ができません。感謝をし尽くす事もできません。それにふさわしいお礼をする事も、私たちの力では到底及びません。

ファチマでは、天使が私たちに、天主に対してどうやって礼拝したら良いのか、感謝をしたら良いか、償いをしたら良いか、懇願すれば良いか、という事を目に見える形を以って模範で示してくれました。私たちよりも遥かに優れた天使は、跪いて、額づいて、地面にひれ伏して、こう祈りました。

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る。世界中のすべての御聖櫃のうちにましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂と御神性を、イエズス・キリスト御自身が受け給う侮辱、冒涜、無関心を償う為に、御身に捧げ奉る。イエズス・キリストの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る。」

この祈りを何度も唱えた後に、天使は子供たちに御聖体を拝領させました。

この素晴らしい礼拝の姿勢は私たち、特に私たち日本人にとって、どれほど感性にぴたりと来るものであるでしょうか!

皆さんご存知の通り、日本人なら誰でも知っているように、日本の徳川家のあるお爺さんは、水戸黄門という人は、その家来がその印籠の印を御紋を見せただけで、「控え!控え!」と言っただけで、ひれ伏して恐れおののきました。

歴史によると、江戸幕府が幕を閉じるその直前、似たような事を私たちは見る事ができます。最後の将軍が二条城で大政奉還をするときに、将軍は大名らを呼び寄せました。その時、庶民に対しては偉ぶっていた大名たちでも、一番弱々しいこの将軍の前で、ひれ伏して、面会しました。

人間に対して、日本人は、このような態度を取っていました。

終戦直後、昭和天皇が日本各地を行幸されたとき、私に洗礼を授けて下さったヨゼフ・マリ・ジャック神父様というフランス人の神父様は、日本にいてそれを見ていました。陛下が通られる、というので他の日本人に混ざって、天皇陛下を拝見しようと、お姿を見ようと、道に出ていたのです。

すると、陛下が通られると、日本人は皆ひれ伏して、顔も上げようとせずに、姿を見ようともせずに、ただただ恐れ多くひれ伏して、誰も姿を見た人はいませんでした。

これが、日本人の態度です。昔から取っている態度です。

もしも日本人が、人間である天皇陛下にそのような態度を取るならば、人間を生かし、人間である天皇陛下を生かしておられる三位一体の創造主、至高の天主に、至聖なる天主様に対してはどのような、どれほどの敬意を、愛を捧げ、表明するべきであるでしょうか。私たちが天皇陛下に対してするような敬意を表すだけでは決して足りません。もっと深い礼拝と、讃美を、捧げなければなりません。

一体私たちにどのような事ができるでしょうか?跪いて、額を地面にこすり付けて、感謝して、「恐れ多い!」と言ったとしても、それでも足りません。

私たちにできる天主三位一体への最高の礼拝は、「聖伝のミサ聖祭」です。

イエズス・キリストが、天主の聖子が、御自ら、聖父の御旨を従順に捧げた十字架のいけにえ、それの再現である「聖伝のミサ聖祭」であります。

この昔からのミサでなされる色々な祈り、色々な仕草には、全て、三位一体への礼拝、讃美という事が深く織り込まれています。

まず十字架の印を、33回切ります。

あるいは三回繰り返されるキリエ・エレイソン、三回繰り返されるクリステ・エレイソン。

あるいは、奉献の時に唱えられる“ Suscipe Sancta Trinitas hanc oblationem”「至聖なる三位一体よ、どうぞこのいけにえをお受け下さい。」

あるいは、司祭が香を奉献する時に、ホスチアとカリスの上に十字架の印を、香を持って三回、印をします。そして天主の本性と人間の本性を意味するが為に、二回時計と反対回りに、輪を描くように香を焚きます、捧げます。そして唯一のペルソナを意味して、時計回りに一回、香を捧げます。

あるいは、“Sanctus,Sanctus,Sanctus”「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」あるいは“ Agnus Dei”「天主の子羊」 を三回ずつ繰り返します。

あるいは最後の祝福をする前に、“ Placeat tibi Sancta Trinitas ”
三位一体への直接なはっきりとした言及が、あらゆるところであります。

何故かというと、ミサの究極の目的は、この「至聖なる三位一体に対する讃美のいけにえ」だからです。

主日のごとに「至聖三位一体の序誦」がこう祈られます。「主よ、聖なる父よ、全能永遠の天主よ、われらが御身に、いつもどこにても感謝を捧げるのは、実にふさわしく正しい事、義務と救いである。御身は、御独り子と聖霊と共に、唯一の天主、唯一の主にて在す。すなわち、御身は、一の位格の単一にて在すのではなく、唯一の実体(substantia)の三位にて在す。御身の御光栄について、御身が啓示するがゆえに、われらが信じ奉る事を、聖子について、聖霊について、差別なく、われらは信じ奉る。真の永遠の天主の本性を告白するにおいて、位格における固有性が礼拝され、本質(essentia)における唯一性と、御稜威における等しさも礼拝される為である」と。


ところで、今から50年前にできた「新しいミサ」では、この「三位一体に対する讃美のいけにえ」という目的は消え失せています。「エキュメニズム」という目的の為です。

奉献の祈りから、聖三位一体に対するはっきりとした祈り"Suscipe, Sancta Trinita”が消されてしまいました、取り除かれました。

またミサの終わりにあった三位一体への祈り"Placeat tibi Sancta Trinitas"も省略されました。

「至聖三位一体の序誦」、昔は主日ごとに唱えられていた祈られていたこの序誦も、たった一年に一回だけ、三位一体の主日だけに限定されています。エキュメニズムという名前で、インカルチャレーションという名前で、日本ではミサ中に礼拝する事が禁止されています。ミサ中の間に、突っ立ったままいなければなりません。

【4:遷善の決心】
では、愛する兄弟姉妹の皆さん、遷善の決心を立てましょう。

三位一体、真の天主、本当の天主、これ以外の天主はない、本当の創り主、創造主、三位一体を信じ、礼拝し、希望し、お愛し致しましょう。

カトリック教会が2000年間続けて信じてきたこの信仰の真理を、天主の御恵みと御助けを以って、そして御憐みで、そのまま変えずに、信じ、礼拝し、希望し、愛し続けなければなりません。

皆様の行かれている教会では、カトリックという名前が付いているけれども、でもカトリックらしい事をしているのでしょうか?御聖体を、2000年間やってきたように、礼拝する事ができるのでしょうか?それとも禁止されていますか?御聖体を礼拝すると、迫害を受けるのではないですか?プロテスタントのようにしていれば良いけれども、カトリックらしい事をすると、嫌がらせをされるのではないでしょうか?

エキュメニズムだからです。「カトリックらしいところを消さなければならない」と言われているからです。

愛する兄弟姉妹の皆さん、どうぞ、何も恐れないで下さい。カトリックの信仰を保ち続けて下さい。三位一体を礼拝し続けて下さい。カトリック信仰を保ち続ける為に、カトリック教会がいつもやり続けてきた、聖伝のミサを、これに与って下さい。御聖体を敬虔に、尊敬をもって礼拝し、拝領して下さい。カトリック教会の破壊に、カトリック信仰の破壊に協力しないで下さい。

「ああ、言われたままにしただけです。」「私には責任がありません。」「神父様がそう言ったから」「司教様がそう言ったから」等と言って、ポンシオ・ピラトのように手を洗って、「俺には関係ないよ」等と言って済む事では決してありません。

私たちの為に、御自分の命を与え尽くしたイエズス・キリストが、無視されて、単なるパンのように、無造作に取り扱われていて、それで良いのでしょうか?一緒になって不敬に取り扱わないで下さい。私たちの主イエズス・キリストを愛して下さい、礼拝して下さい。私たちの主は、どれほど私たちの為に苦しまれた事でしょうか。このまま苦しめ続けるのでしょうか。

イエズス・キリストは、真の天主です。三位一体の聖子、永遠の天主の御言葉、私たちの為に人となって下さった御方です。私たちの救い主です。永遠の司祭、全ての人間の王です。天国にはイエズス・キリストだけが王であり、全ての天使と聖人たちを支配しておられます。全ての天使と聖人たちは永久に、終わる事なく、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と言って、イエズス・キリストを礼拝しています。ポルトガルのファチマで出た天使のように額づいて、イエズス様を、その玉座を礼拝しています。私たちの救いは、これ以外にはありません。

私たちの為にこのように愛される真の救い主、イエズス・キリストを、不敬に取り扱わないようにして下さい。

聖母の汚れなき御心にお祈り致しましょう。私たちも聖母のように、至聖三位一体を心から信じて、礼拝し、希望し、愛する事ができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



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1 コメント

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アヴェ・マリア!小野田神父様 お説教をありがとうございます。 (Lourdes)
2020-06-12 14:13:11
私にとっても伝統的なカトリック信仰を保つために聖伝のミサは絶対に必要なことを告白いたします。

私はここ数年前から小野田神父様にお世話になっているのですが、それまでは洗礼を受けてから長いことずっとまるで目くらましにあっているかのようでした。カトリック教会の不自然さの意味がまったく理解できませんでした。心底苦しみ悩みました。

カトリック信仰が内的なものであることを否定されていること 聖母マリアの共償の意味を無視され 御聖体をないがしろにすることが横行していることも、まったく気づくことができないままに洗礼後の生活の大半がむなしく過ぎていたのでした。

それでも挫折を乗り越えて教会に縋りつく中で見えてきたのが、カトリック教会が内包している第二バチカン公会議の時に顕著になった、伝統的カトリック信仰と 新しく操作されたカトリック信仰との間に横たわる険しい断絶でした。誰もが口を閉ざして伝統的なカトリック信仰を教えようとしないなか、奇跡的にその意味に気づかされました。

聖母マリア様がしめしてくださったのは、この迷いの時の信仰のことなのだと思いました。
古くから続いてきている道を歩むか、新しい道におもねるかを決めるのは個人ですが、私は信仰を守るために救霊のことを第一番にしなければならないと思うようになりました。

いま巷では洗礼のための要理教育にも新しい考え方に沿ったものが混ぜ込まれ、洗礼の後のミサもすっかりプロテスタントに近いものに替えられていますが、でも本当のカトリック信仰はそのような新しい道には無いように思えて仕方ありません。ほとんどの今の巷のカトリック信者はもう昔からのやり方を守るカトリック司祭に出会ったことがないかもしれませんが、それはあまりに可哀そうすぎることです。でも、今は東京と大阪とで毎週この素晴らしい聖伝のミサに与ることが可能です。

心の中で御聖体とマリア様につながれていらっしゃる日本中の神父様修道者カトリック信者の皆様が隠れキリシタンのままでいることなく、ご自分のカトリック信仰を曇りなく表明できるような時が来ますようにお祈りします。多くの方々がますます聖伝のミサに与ってくださいますように。よき司祭が増え、皆がこの聖伝のミサ聖祭に与ることができるようになりますように。マリア様だけが、私たちをサタンとの闘いから守ってくださるとのこと、ロザリオを祈ります。

聖母の汚れなき御心 われらのために祈り給え。
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