2019年8月12日(月)童貞聖クララのミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父様御説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年8月12日、聖クララの童貞女の祝日を祝っています。
そこで今日は、このミサを聖クララの一生を一緒に黙想したいと思っています。
今日このミサが終わりましたら、8月15日の聖母の被昇天に本当ならばしたかった聖母行列や御聖体降福式など、あるいは日本の聖母の汚れなきへ御心の奉献など、2017年にしたものなど、できないので、今日その代わりにしたいと思っています。
どうぞ今日このミサの後に、簡単な聖体降福式があって、聖母の連祷や、そして聖母への奉献などを更新致しましょう。どうぞ与って行って下さい。
「聖クララ、我らの為に祈り給え。」
聖父と聖子と聖霊の御名によりて、アーメン。
今日は聖クララの祝日ですので、
⑴その聖女の生涯を黙想する事を提案します。
⑵そして聖クララがした奇跡もあります。どんな奇跡か、この奇跡を見ると、どうしてもマリア様の被昇天の事を思えざるを得ないので、マリア様の被昇天を準備する為にも、聖クララのした奇跡も黙想致しましょう。
⑶そして最後に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。
⑴聖クララは、イタリアのアシジのウンブリア地方の村に、非常に高貴な家に生まれました。同じ村に、やはりお金持ちの坊ちゃんであったフランシスコがいて、そして自分の財産を全て放棄して、裸一貫となって、そして修道生活に入ったのを見て、その模範に従おうと、自分の持っていた物をみんな売り払ったり、分配して、貧しい人に与えて、そして聖フランシスコについて行きました。
ポルティンクラという教会で、聖フランシスコが彼女の髪の毛を切って、そして罪の償いの修道服を着せました。1212年の3月18日の事です。
聖クララの両親は、何とか世俗の世界に彼女を戻そうと、惹き寄せようと、何とか努力するのですけれども、聖クララはそれを受け入れようとしませんでした。
アシジの聖フランシスコの指導に従って、聖ダミアノ教会で共同生活を始めます。後に「クララ会」と呼ばれる修道女修道会を創ります。そしてその修道女の共同体の頭として、どうしても聖フランシスコのお願いを断りきれずに、譲歩して、それを長上となる事を、修母となる事を承諾し、42年間長上として、非常に賢明に、非常に熱心に、その任務を達成します。
特に聖クララが心を尽くしたのは、修道女たちが会則を、そして規則を、与えられた規則を、よく守る、完璧に守るという事でした。なぜかというと、これこそが修道女たちに与えられた天主の御旨だったからです。そして聖クララの生活自身も、その生きた模範こそが大きな教えであって、修道女たちの修道生活への目に見える挿絵でありました。
特に聖クララの苦業の生活は目を見張るばかりで、周りの修道女たちが本当に驚いていました。自分の寝る所は地面で、枕は木の材木で、服も非常にごわごわとした荒い材料で、寒い冬も薄着で、しかも昔の修道者たちがしていた、金属のトゲが付いたような鎖を、チリチウム(cilicium)という物を体に巻いていました。一週間に3度は全く何も食べない断食をして、そして残りの食べる日でさえも、ほんの少ししか食べずに、周りの一緒に生活をしていたシスター達は、「一体、修母様はたったこれだけで、よくもこうやって働いて生きていける事ができるのか」とびっくりしたほどです。1年には2回、四旬節をしました。そして四旬節の間には、パンと水だけで生きていました。
祈りを、昼も夜も、時には夜を徹して行ないました。遂に年を取り病気になると、自分で立つ事が、身を起こす事さえもできなくなりました。しかしただ寝ているばかりではなく、シスター達にお願いして体を起こしてもらって、そして背中に何か支えを付けてもらって、そして手仕事をして、決して無駄に時間を使う事がないように、勤勉に働いていました。
特に聖クララは、アシジの聖フランシスコに倣って、清貧の生活を愛していました。
⑵第2の点は、聖クララのした奇跡ですけれども、これには色々な奇跡があります。
ある時には、言葉の話せなかったシスターに修道女に、奇跡的に言葉が言えるように治したとか、あるいは耳の聞こえなかったシスターが耳が聞こえるようになったとか、あるいは熱が出ていたシスター、あるいは色んな病気をしていたシスターを治したとか、あるいはあるブラザーが、「男子修道院ではもう油がないから、シスター、油を分けて下さいませんか?」と来た時に、シスターの所の修道院を見たら、シスターの所にも油がなかった。それでもクララは聖女は、このブラザーズの事を思って、空のピッチャーを容器を持って、水で洗って、見たら、油が満たされていた。
あるいはシスターたちの食べるもうパンもなかった。ほんの小さなパンの欠片がちょっとひとつあっただけだった、でもその欠片をシスターに配って、50人のシスター達が皆満腹するまで食べる事ができた等、色々な奇跡が起こりました。
しかしその中でも一番有名なのは、ちょうどイスラム教徒がイタリアに攻撃してきて、占領しようと入って来た時でした、侵入して来た時でした。
アシジの城壁の所にも、イスラム教徒が登って来て、ついて登って、「さぁ、これから町の中に入ろう」とするその時でした。そのニュースを聞いて、「シスター、サラセン人達がやってきました。危ないです」と言うと、病気の身であったにもかかわらず、その時に特別のインスピレーションを得て、御聖体の前で祈り、そして御聖体の入ったチボリウムを取って、そしてシスターたちに修道院の、玄関まで自分を運んでくれるように頼みました。
そして御聖体を持ったまま運ばれて、そして玄関に立ち、イエズス様にお祈りしました。詩編を、詩編73:19を唱えました。Ne tradas bestiis animas confitentes tibi!
「主よ、御身を讃美する霊魂たちを、獣たちに与えるなかれ。御身の尊き御血によって贖われたこの霊魂たちを救い給え」と祈りました。
すると、その深い祈りの中に、イエズス様から声が聞こえたとの事です、「私は、お前たちを守る。常に守る。」
そしてその時、アシジの方に来たサラセン人のイスラム教徒の大群は、どうした事か、恐れをなして退却し、そして壁に登っていた軍人たちも、いきなり目が潰されたようになって、落ちて、そして姿を消してしまいました。
この奇跡は非常に有名ですけれども、もしも聖クララが御聖体を持って、そうやってイスラム教徒を撤退させたならば、祈りを以て撤退させたならば、私たちに、聖女クララのみならず私たちに御聖体を与えて、御聖体を御自分の胎内にお持ちになっていたマリア様、その御方から御聖体が御生まれになった方は、一体どれほどの力を持っていただろうか、という事です。
マリア様の祈りはどれほど力強く、イエズス様はマリア様をどれほど御守りになろうとしたか、という事に思いが行きます。
マリア様の御体が腐敗せずに天に上げられたという事も、イエズス様がマリア様を御愛しなさっていたことを考えると、そしてクララがイエズス様がお愛ししたよりも更に勝って、マリア様がイエズス様をお愛しなさっていたという事を思うと、この聖女クララのした奇跡よりももっと大きな奇跡が、マリア様に起こって当然だろうと思わずをいられません。
⑶第3に、聖女クララは1253年の今日、8月12日にアシジで亡くなりました。その死後2年の後に、聖人として宣言されました。
600年間、アシジのその教会の中に、お墓にずっと埋葬されていたのですけれども、1850年、福者ピオ9世は、このお墓を掘り起こして確認する事を特別に許可しました。すると、聖女クララの体は、完璧に腐らずに残っていました。特に頭、歯はそのままでした。全く傷んでいない姿で現れました、600年の後に。
これを思うと、聖母の被昇天の事もどうしても思わざるを得ません。聖女クララについて伝記を書いた、トマス・チェラーノという人は、聖女クララについてこう言っています、“Clara nomine, vita clarior, clarissima moribus.”「名前はクララ、すなわち『輝いている』であった。しかしその生涯は、より輝いていた。そしてその聖徳は、最高に輝いていた」と。
今日、私たちは聖女クララの生涯を少し垣間見ましたけれども、聖女クララは、イエズス様・マリア様を倣おうとした方でした。特にアシジの聖フランシスコは、イエズス様の到来であるかとさえ噂された人でした。聖女クララも同じでした。
もしも聖女クララがそのようであれば、一体マリア様はどれほどそうだったでしょうか。マリア様のその御生活、清貧の生活、イエズス様に対する愛、苦業の生活、苦しみを愛した生活に、思いを馳せざるを得ません。
今日は聖女クララの御取次ぎによって、私たちがマリア様の被昇天をよく黙想して、よく祝う事ができますように、お祈り致しましょう。そしてマリア様の被昇天をますますより良く讃美する事ができますように、聖女クララにお祈りをお願い致しましょう。
「聖クララ、我らの為に祈り給え。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖ピオ十世会司祭 小野田神父様御説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年8月12日、聖クララの童貞女の祝日を祝っています。
そこで今日は、このミサを聖クララの一生を一緒に黙想したいと思っています。
今日このミサが終わりましたら、8月15日の聖母の被昇天に本当ならばしたかった聖母行列や御聖体降福式など、あるいは日本の聖母の汚れなきへ御心の奉献など、2017年にしたものなど、できないので、今日その代わりにしたいと思っています。
どうぞ今日このミサの後に、簡単な聖体降福式があって、聖母の連祷や、そして聖母への奉献などを更新致しましょう。どうぞ与って行って下さい。
「聖クララ、我らの為に祈り給え。」
聖父と聖子と聖霊の御名によりて、アーメン。
今日は聖クララの祝日ですので、
⑴その聖女の生涯を黙想する事を提案します。
⑵そして聖クララがした奇跡もあります。どんな奇跡か、この奇跡を見ると、どうしてもマリア様の被昇天の事を思えざるを得ないので、マリア様の被昇天を準備する為にも、聖クララのした奇跡も黙想致しましょう。
⑶そして最後に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。
⑴聖クララは、イタリアのアシジのウンブリア地方の村に、非常に高貴な家に生まれました。同じ村に、やはりお金持ちの坊ちゃんであったフランシスコがいて、そして自分の財産を全て放棄して、裸一貫となって、そして修道生活に入ったのを見て、その模範に従おうと、自分の持っていた物をみんな売り払ったり、分配して、貧しい人に与えて、そして聖フランシスコについて行きました。
ポルティンクラという教会で、聖フランシスコが彼女の髪の毛を切って、そして罪の償いの修道服を着せました。1212年の3月18日の事です。
聖クララの両親は、何とか世俗の世界に彼女を戻そうと、惹き寄せようと、何とか努力するのですけれども、聖クララはそれを受け入れようとしませんでした。
アシジの聖フランシスコの指導に従って、聖ダミアノ教会で共同生活を始めます。後に「クララ会」と呼ばれる修道女修道会を創ります。そしてその修道女の共同体の頭として、どうしても聖フランシスコのお願いを断りきれずに、譲歩して、それを長上となる事を、修母となる事を承諾し、42年間長上として、非常に賢明に、非常に熱心に、その任務を達成します。
特に聖クララが心を尽くしたのは、修道女たちが会則を、そして規則を、与えられた規則を、よく守る、完璧に守るという事でした。なぜかというと、これこそが修道女たちに与えられた天主の御旨だったからです。そして聖クララの生活自身も、その生きた模範こそが大きな教えであって、修道女たちの修道生活への目に見える挿絵でありました。
特に聖クララの苦業の生活は目を見張るばかりで、周りの修道女たちが本当に驚いていました。自分の寝る所は地面で、枕は木の材木で、服も非常にごわごわとした荒い材料で、寒い冬も薄着で、しかも昔の修道者たちがしていた、金属のトゲが付いたような鎖を、チリチウム(cilicium)という物を体に巻いていました。一週間に3度は全く何も食べない断食をして、そして残りの食べる日でさえも、ほんの少ししか食べずに、周りの一緒に生活をしていたシスター達は、「一体、修母様はたったこれだけで、よくもこうやって働いて生きていける事ができるのか」とびっくりしたほどです。1年には2回、四旬節をしました。そして四旬節の間には、パンと水だけで生きていました。
祈りを、昼も夜も、時には夜を徹して行ないました。遂に年を取り病気になると、自分で立つ事が、身を起こす事さえもできなくなりました。しかしただ寝ているばかりではなく、シスター達にお願いして体を起こしてもらって、そして背中に何か支えを付けてもらって、そして手仕事をして、決して無駄に時間を使う事がないように、勤勉に働いていました。
特に聖クララは、アシジの聖フランシスコに倣って、清貧の生活を愛していました。
⑵第2の点は、聖クララのした奇跡ですけれども、これには色々な奇跡があります。
ある時には、言葉の話せなかったシスターに修道女に、奇跡的に言葉が言えるように治したとか、あるいは耳の聞こえなかったシスターが耳が聞こえるようになったとか、あるいは熱が出ていたシスター、あるいは色んな病気をしていたシスターを治したとか、あるいはあるブラザーが、「男子修道院ではもう油がないから、シスター、油を分けて下さいませんか?」と来た時に、シスターの所の修道院を見たら、シスターの所にも油がなかった。それでもクララは聖女は、このブラザーズの事を思って、空のピッチャーを容器を持って、水で洗って、見たら、油が満たされていた。
あるいはシスターたちの食べるもうパンもなかった。ほんの小さなパンの欠片がちょっとひとつあっただけだった、でもその欠片をシスターに配って、50人のシスター達が皆満腹するまで食べる事ができた等、色々な奇跡が起こりました。
しかしその中でも一番有名なのは、ちょうどイスラム教徒がイタリアに攻撃してきて、占領しようと入って来た時でした、侵入して来た時でした。
アシジの城壁の所にも、イスラム教徒が登って来て、ついて登って、「さぁ、これから町の中に入ろう」とするその時でした。そのニュースを聞いて、「シスター、サラセン人達がやってきました。危ないです」と言うと、病気の身であったにもかかわらず、その時に特別のインスピレーションを得て、御聖体の前で祈り、そして御聖体の入ったチボリウムを取って、そしてシスターたちに修道院の、玄関まで自分を運んでくれるように頼みました。
そして御聖体を持ったまま運ばれて、そして玄関に立ち、イエズス様にお祈りしました。詩編を、詩編73:19を唱えました。Ne tradas bestiis animas confitentes tibi!
「主よ、御身を讃美する霊魂たちを、獣たちに与えるなかれ。御身の尊き御血によって贖われたこの霊魂たちを救い給え」と祈りました。
すると、その深い祈りの中に、イエズス様から声が聞こえたとの事です、「私は、お前たちを守る。常に守る。」
そしてその時、アシジの方に来たサラセン人のイスラム教徒の大群は、どうした事か、恐れをなして退却し、そして壁に登っていた軍人たちも、いきなり目が潰されたようになって、落ちて、そして姿を消してしまいました。
この奇跡は非常に有名ですけれども、もしも聖クララが御聖体を持って、そうやってイスラム教徒を撤退させたならば、祈りを以て撤退させたならば、私たちに、聖女クララのみならず私たちに御聖体を与えて、御聖体を御自分の胎内にお持ちになっていたマリア様、その御方から御聖体が御生まれになった方は、一体どれほどの力を持っていただろうか、という事です。
マリア様の祈りはどれほど力強く、イエズス様はマリア様をどれほど御守りになろうとしたか、という事に思いが行きます。
マリア様の御体が腐敗せずに天に上げられたという事も、イエズス様がマリア様を御愛しなさっていたことを考えると、そしてクララがイエズス様がお愛ししたよりも更に勝って、マリア様がイエズス様をお愛しなさっていたという事を思うと、この聖女クララのした奇跡よりももっと大きな奇跡が、マリア様に起こって当然だろうと思わずをいられません。
⑶第3に、聖女クララは1253年の今日、8月12日にアシジで亡くなりました。その死後2年の後に、聖人として宣言されました。
600年間、アシジのその教会の中に、お墓にずっと埋葬されていたのですけれども、1850年、福者ピオ9世は、このお墓を掘り起こして確認する事を特別に許可しました。すると、聖女クララの体は、完璧に腐らずに残っていました。特に頭、歯はそのままでした。全く傷んでいない姿で現れました、600年の後に。
これを思うと、聖母の被昇天の事もどうしても思わざるを得ません。聖女クララについて伝記を書いた、トマス・チェラーノという人は、聖女クララについてこう言っています、“Clara nomine, vita clarior, clarissima moribus.”「名前はクララ、すなわち『輝いている』であった。しかしその生涯は、より輝いていた。そしてその聖徳は、最高に輝いていた」と。
今日、私たちは聖女クララの生涯を少し垣間見ましたけれども、聖女クララは、イエズス様・マリア様を倣おうとした方でした。特にアシジの聖フランシスコは、イエズス様の到来であるかとさえ噂された人でした。聖女クララも同じでした。
もしも聖女クララがそのようであれば、一体マリア様はどれほどそうだったでしょうか。マリア様のその御生活、清貧の生活、イエズス様に対する愛、苦業の生活、苦しみを愛した生活に、思いを馳せざるを得ません。
今日は聖女クララの御取次ぎによって、私たちがマリア様の被昇天をよく黙想して、よく祝う事ができますように、お祈り致しましょう。そしてマリア様の被昇天をますますより良く讃美する事ができますように、聖女クララにお祈りをお願い致しましょう。
「聖クララ、我らの為に祈り給え。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。