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「助産婦の手記」23章 常に繰り返される一つの歌、悩みの歌

2020年08月11日 | プロライフ
「助産婦の手記」

23章

『マルガレーテさん。』 郵便局の窓口にいたその娘は、驚いて耳をそばだてた。郵便局長が、 彼女に、そのように姓ではなく名を呼んで、話しかけたことは、これまでにないことであった。局長は、いつも非常に形式張って固苦しかった。――『あんたは、今晚、僕と一緒に町へ行きませんか。僕は芝居の切符を二枚持っているんです。ところが、きょうは、家内は都合が悪いんです。女というものは、妊娠すると、そうなるんですね……』

町へ! 劇場へ……長い間の熱烈な憧れ! まだ劇場へ行ったことがなく、それをただ聞いたり、読んだりして知っているに過ぎない若い娘にとつては、そういうところには、一体、どんなあらゆるものがあると思えるのであろうか。素晴らしい幻像が電光のような速さで、そびえ立った。戦争前の幾年間というものは、小さな村の娘たちは、独りでそんな探検旅行をあえてしようとはしなかった。

マルガレーテの家には、一緒に行く人は誰もいなかった。父母は、静かに暮していたかった。恐らくまた、そんな新しい事物に対しては、あまりにも不安な感じがしたのであろう。弟や妹は、まだ小さすぎた。――彼女は、ただもう一緒に行きたくて堪らなかったので、大喜びで、はいと言った。これが一つの運命になるか知れないという考えは、全然、彼女には起らなかった……それは、一つの譲歩であったということ――および、乙女が、生存のための戦いにおいて、道德的に身を守るために絶対に必要とするところの「人格的自由」を失う最初の譲歩であるということを。――

昼食のとき、マルガレーテは言った。『私は今晚、郵便局長さんと一緒に町へ芝居を見に行くんです、局長さんが私を招待して下さったの、奧さんはきようは都合が悪いというんで……』
『それやお前、いけないよ。』 と父親が答えた。彼は昔風の正直な職人気質(かたぎ)の指物師である。『娘というものは、贈物をもらってはいけないんだよ。芝居の切符だってそうだ。きょう昼行ってから、こう言いなさい、御招待下さって有難うございますが、お断わりせねばなりません、と。』
悲しげに、娘は頭をうな垂れた。ところが、母親が口をさしはさんだ。『あんた、お願いですよ! もし局長さんの御機嫌を損じたら、娘は首になるかも知れませんよ。いつか、町からわざわざ一人の女を雇おうとしたことがあったのを、あなたはもう忘れたのですか? この村の娘たちは、まだ殆んど自由を認められていなかったので、あの頃、言われたことには……』
『何ももらっちゃいけない。』と父親は、頑固に言いはった。『もらうと、義理が出来る。今度の場合は、恩返しができないんだから、それこそ二重に不愉快なんだよ。』
『そんなに昔風にしないで、娘を喜ばしてやりなさいね。』と母親は弁護した。『今日では、もうそのことを、そんなに生真面目に取る人はありませんよ。郵便局長さんは、結婚していらっしゃるのです。局長さんが、いま持っていらっしゃる切符を無駄になさる代りに、娘を連れて行って下さっても、それは局長さんにとっては別に何ということもないでしょう……』
『結婚していようが、いまいが……全く同じことだ。娘よ、このことを決して忘れないように、よく覚えておきなさい、人は何ももらってはいけない、と。全く何も。人に支払ってもらってはいけない。汽車の切符でも、コーヒー代でも……お前がこのことを知らないために、行きますと、もう言ってしまったのなら、仕方がない、ぜひ一緒に行きなさい。 だが、将来のために、このことをよく心に銘じて置きなさい。そして、もしお前たちが今晚、飲食店にはいるようなことがあっても、支払ってもらってはいけないよ。卒直に言いなさい、私は自分で払いますと。そして、この次にまた招待されたら、お礼を言って断ってしまいなさい。』
『まあ、あんた、何を言うんです。相手は局長さんですよ。私は、ほんとにあんたの気持が知れませんよ。あの娘が、大変上役の気に入っていることを喜びなさいよ。あのお方は、部下を昇進させる権力を握っていらっしゃるんですよ。ほかの親なら喜ぶだろうに……』
『よその家庭を御覧よ、お母さん。きょうまでに工場の事務所に務めていた十人の娘のうち、もう三人が私生児の母となっているのだよ。これは、「娘たちが、大変気に入られている」ということから来たことなんだ。残念ながら、以前とは経済事情が変わった。しかし、だからといって、昔からの賢いことまでが、変わるものではない。我々は、悪魔に小指をさし出すような危険なことは、してはならないよ。それどころか、誤ちの機会が大きければ大きいだけ、それだけ娘は、自分の廻りに砦(とりで)を高く築かねばならないんだよ……』

しかし、母と娘は、ついに勝利を占めた。マルガレーテは、日曜日の晴着を着、そしてサンドウィッチを持って出て行った。彼女は郵便局の窓口を閉めた後、すぐ駅へ行かねばならなかった。
『よく楽しんでお出でよ、お前!』と母親が言った。
『お父さんは、私の喜びにけちをつけたのよ……』
『お前知っての通り、お父さんは旧式な人なんだからね。今日では全く世の中のことは、いろいろ変わって来ているんだよ。そして、人は、時代と一緒に進んで行かねばならないものだね。』
その憐れむべき母親は、自分の娘の成功を非常に誇っていたので、そのことを私に話して聞かせた。
私は、その父親の意見の正しいことを主張しようと試みた。しかし、それは失敗した。『そんなことは、私の娘に限ってありませんよ! あんたは一体、何を考えていらっしゃるの……それに、相手は郵便局長さんですよ、結婚なさったお方ですよ……よくお考えなさいな!』

その夜、父親の指物師は、駅で終列車を待っていて娘を迎えた。郵便局長は、驚いて機嫌を悪くした。マルガレーテは、満足しきって輝いていた。このようにして人生の中に初めて巣立って行った若い娘が、そういう気持になったことは、よく判る。彼女は、その晩、非常に多くの新しいものを一度に経験したので、もはやそれを全部思い出すことはできなかった。父親の戒めは、もちろん全部、忘れてしまっていた。人は、時代と一緒に進んでゆかねばならないよと、お母さんもほんとに言ったのだ……『あんたは、今夜は、僕のお客さんですよ。』と郵便局長は言った。彼は、汽車の切符を買い……そして当時一般に行われていた観劇客の悪習にならって、チョコレート菓子を買い……それから、なおブドー酒を飲んだ……時代はまさに変わり、そして父親は旧式になったのだ。
その翌朝、郵便局のマルガレーテの席には、チョコレートが一枚置いてあった。『きのうの残りですよ。』と局長は言った。『あなたのお父さんは、いつもあなたのことを心配していらっしゃるんですか? 全く敬服ですね! しかし、今日では、生活は変って来たのです。古いお方は、変わった時代の中では、もう勝手がよく判らないのですよ……』

三日後、彼は彼女の方に菓子を一箱押しやって、『これで一日中、あまり退屈しないように。』と言った。その際、彼は彼女に非常に接近して、彼女の手をそっと撫でることができるような段取りにすることを知っていた。小さな御機嫌取り……小さな愛撫……厚かましさ……もし、それに触れると、無邪気さが葬り去られるところの縄(なわ)が、どのように綯(な)われているかということを、誰が知らないであろうか……それなのに、その娘は、一たび誤った道に第一歩を踏み出した後、見かけ上の幸福のために、非常に心を奪われていたので、いかに男女の境界線が、おもむろに、いよいよ遠くへ押しやられ、そして消滅してしまったかということに気がつかなかった。――
『お母さん、わたし今夜、音楽会へ行けるといくんだけど。でも、お父さんが……お母さんは、よく判っていて下さるんだけれどもね……』二週間後には、こういう調子であった。
『お前、多分お断わりはしなかっただろうね?』
『そうよ、局長さんに向っては、断われないわ。私がはじめに一緒に行って、そしてあのお方がとても親切にして下った後ではね――もし断わると、ほんとに侮辱だと思うわ。』
『お父さんには、こう言っておいていいだろうね、 お前はあるお友達のところへ行きました――なぜなら、クリスマスが近づいたのだからって……』父親が、そんなに分らず屋であるなら、どうしたらいんだろうか? と母親は、自己弁護をした。世間の人のするようにしておれば、どんな場合でも、うまい具合に行くものだと……
二人だけでの楽しみは、お定(きま)りのこととなった。交際はますます濃やかな形をとっていった。御機嫌取りはますます大きくなった。 新しい財布だの、絹のブラウスだの……母親は、それらの品物は、自分が調達してやったものだということにして、家庭でのごたごたが起らないようにした。もう娘にとって、そういうものが、似つかわしくなって来たからには、娘にもそれを当てがってやらねばならないと母親は言った。ああ、その母親は、娘が大へん局長の気に入っていることを非常に誇りとしていたのである!……

二月に郵便局長は、誕生日を迎えた。『マルガレーテさん、誕生日のキッスをして頂けないでしょうかね?』娘は当惑した。警戒心が起った、電光のように速く――父の姿が。お父さんは、何と言うだろうか? しかし、彼女はそんな小さな害のない願いを断わることはできなかった。――そんなに親切にしていただいた後は……? 何がまたそこに潜んでいるであろうか。――
『なるほど、僕は結婚した男です。しかし、そこには本当に何もないのです。僕は、いつもあなたに親切ではなかったですか? ですから、いま僕もまた、あなたが少し僕によくして下さることを一度見せていただきたいんです、そう、小さな誕生日のキッスを……』
黄金の鎖――それは、どんなに堅く縛りつけることか……
それは、誕生日のちょっとしたキッスだけに止まっていなかった。いな、それからは、さらに敬意を表わすキッスが要求された。しかし、そこには一体、何があるか? 間もなく、キッスは、每日の勤務上の義務となった。そして……然り、そして――

ある晩、彼らは町へ行ったが、もう劇場へは、はいらずにヴァライエティーへ行った。そこでは、いろいろな刺戟的なものがあった。多かれ少なかれ、ただ一つしか意味のないものが。半裸体の女が、現われて踊った。二人は、強い酒を飲んだ――終列車に乗りおくれた。そこで、その娘は大へん昂奮した。お父さん! もし彼女が家に帰らなかったなら、どうなることであろうか? 停車場で彼らは自動車を拾った。村へ車を走らす途中、郵便局長は、興奮、アルコール、目覚めた官能を利用して、最後のものへの大胆な攻撃を敢行した。そして多くの抵抗なしに勝った。何が一体あったのかということは、もはや全然、娘の意識に上らなかった。――
翌朝、マルガレーテは、しかし、相当な二日酔を押して出勤した。『僕たちは、きょうは、少し長く働かねばなりませんよ、』と局長は言った。そして午後おそく、強い赤ブドー酒をお八つに出した。
『マルガレーテさん、きょうは大へん顔色がよくないですね。 赤ブドー酒を沢山飲まねばいけません。さもないと、具合が悪くなっても、僕は責任を負いませんよ……』
なるほど、その通りに彼らは、 窓口を閉めた後、一緒に居残っていたが、食事はしなかった。娘は、涙を抑えようと努めた。『マルガレーテさん、いま僕は、あなたが僕を愛していることを知っています。きのう、あなたはそれを僕に示して下さったのです。僕の結婚は、あまりにも不幸でした……家内は、全然僕に適していません……僕を全然理解しないんです。もしあなたと一緒になれたら、どんなに幸福になれるでしょう! そうすると、生活は全く違ったものとなるでしょう。』

もうすでに、いかに多くの娘たちが、この鳥黐(とりもち)の上に足を踏み入れたことであろうか!
もちろん、局長は、離婚しようと思った。そうすれば、道は新しい幸福に向って自由に開けるわけであった。もっとも、当分の間は、彼らは結婚せずに、ただ愛し合っていなければならないのであったが。しかし、この相愛は、今はもはや変更することのできないものであった。彼らは、互いに相手のものとなっていた……
『リスベートさん、男というものは、よくも美しいことがしゃべれるものですね。それなのに、私たちは馬鹿で、それを信じこむんですね。そしてそれは、全くその通りだと考えるんですね…… あの人は、いまお前を掌中に握っている……お前は、あの人にしっかりすがっていようとする以外には、もうどうすることもできないのだ、とね。人間は実に馬鹿なもので、もし自分で愛を感じるなら、その愛を信じこんでしまって……心変わりすることなんか、考えることができないんですね……』

産褥で、私は彼女から、その「人生の懺悔」を聞いた。しかし、残念ながらその懺悔は、この種類の唯一のものではない。それは、常に繰り返される一つの歌である、誤った道に第一歩を踏み出した悩みの歌である……
郵便局長は、転任を命ぜられた。女の郵便助手は、局内での妊娠が知れわたったとき、免職となった。今や、その娘の母親は手を揉み、髮をかきむしった。『何という不名誉! 信仰が、ぐらついて来る。每日、私は娘の守護の天使にお祈りしたのに! 每晚! それなのに、今この恥辱……』と、母親は私のところで嘆き悲しんだ。
『目を覚まし、そして祈れ、と救い主は、おっしゃいました。キリストは、目覚めることを第一位に置かれましたが、それは何故かということを御存知だからでした。あんたがなさったように、お子さんを危険の真中に送りこむということは、天主を試みることです。このような瞞着(まんちゃく)【ごまかし】を、救い主は、お護り下さるわけには行きません……』
母親は、娘を家から出そうとした。しかし、父親が執りなした。 いつもと同じように、彼は単純で、真直ぐで、正しかった。『お前に責任があるんだ、』と彼は妻に言った。『だから、お前は、今お前のやり方の結果を引きうけたらいいだろう。』
郵便局長は、もちろん、真面目に結婚しようという気は毛頭なかった。以前その家にいた女中も、局長の子供を一人生んだことがあるということを知ったとき、父親はきっぱりと一切の関係を断ち切った。なるほど、彼の娘は、一度その自由を売った――しかし、局長のような人間の屑に対して娘がそうしたことは、父親としては、今なお勿体なさ過ぎたことに思われたであろう。――
数年後に、世界戦争が勃発したとき、マルガレーテは再び郵便局に雇われた。そして今や自分で子供の世話をすることができるのである。





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