聖霊降臨後第十八の主日の説教―罪の赦し
ブノワ・ワリエ神父 2024年9月22日(主日)大阪
親愛なる兄弟の皆さま、
福音の冒頭で、私たちの主は、洗者聖ヨハネによって、「天主の小羊、世の罪を取り除く天主の小羊」と呼ばれています。
たとえ隣人だけしか侮辱しないように見えても、罪は何よりも天主に対する侮辱です。天主は、世の罪を取り除くために、ここにおられるのです。そして、このことは、中風の人の癒やしを語っている今日の福音に、はっきりと示されています。私たちの主がなさった中風の人の癒やしは、主がまず霊魂になさったこと、つまり霊的な癒やしを、外的な癒やしを通して、人が見て分かるようにするためなのです。
私たちの主は、この人の罪を消して、赦されました。「あなたの罪は赦された」。私たちの主は、世の罪を取り除くことのできる唯一のお方です。福音の他の箇所には、主がマグダラの聖マリアの過ちを赦される場面(多くを愛したのですから、彼女の罪は赦されたのです)、後には姦通の女の過ちを赦される場面があります。「あなたを罰した人はいなかったか。私もあなたを罰しはしない。行け、これからはもう罪を犯さぬように」。
1 人の子は罪を赦す
私たちの主が、今日の福音で語っておられるように、人の子は、ここ地上で罪を赦す力を持っています。実際、私たちの主は、天主であると同時に人間であり、福音のテキストには、天主だけでなく、「人の子は罪を赦す力を持っている」とはっきり書かれています。私たちは、天主が罪を赦す力を持っておられることを知っていますが、ファリザイ人たちはこう断言しています。「この人は冒涜の言葉を吐いた。天主でなければ、誰が罪を赦すことができようか」と。しかし、福音のテキストには、「人の子は地上で罪を赦す力を持っている」とはっきり書かれています。私たちの主は、その人間人類の本性によって、霊魂を成聖の恩寵の状態に回復させるために、この罪を赦す力を行使されたのです。それはなぜでしょうか。この天主の力を他の人々に伝えることができるようにするため、まず使徒たちに、次に聖なるカトリック教会で司祭に叙階されるすべての人々に伝えることができるようにするためなのです。
2 人の子は他の人々に自分の力を伝える
私たちの主は聖ペトロに、すでにこう告げておられました。「私はあなたに天の国の鍵を与える。あなたが地上でつなぐものはみな天でもつながれ、地上で解くものはみな天でも解かれる」。ここで、私たちの主は、聖ペトロに非常に多様な力を約束されましたが、その中には、悔悛の秘跡を通して、霊魂を天国に行かせたり行かせなかったりする力も含まれていました。
私たちの主はまた、最初にペトロに個人的に言われたのと同じ言葉を、使徒たちに繰り返して、この力を使徒たちにも与えられました。
そして次には、おそらくもっと明確にされました。ご復活の日に、私たちの主は、首を吊ったユダと不在のトマスを除いて集まった使徒たち全員にご出現になり、こう告げられました。「父が私を送られたように、私もあなたたちを送る」。この意味は、「私は父から使命を受けた。霊魂たちを救うという使命を」ということです。(洗者聖ヨハネの、「世の罪を取り除く天主の小羊を見よ」という言葉を思い出してください。)。私たちの主は、御父から救いの使命を受けられ、その同じ使命を教会に委ねられたのです(教会は、司祭の役務を通して、私たちの主イエズス・キリストの救いのみわざを継続するという使命を持っています)。
ですから、私たちの主は、ご復活の日の晩に、使徒たちに、「父が私を送られたように、私もあなたたちを送る」と言われ、そして聖ヨハネは、こう続けます。「イエズスは、そう言いながら、彼らに聖霊を与えるために息を吹きかけて、『聖霊を受けよ。あなたたちが罪を赦す人にはその罪が赦され、あなたたちが罪を赦さぬ人は赦されない』と言われた」。このように、私たちの主は、使徒たちに罪を赦す力を明確に与えられますが、同時に、悔悛者が必要な心構え(天主を侮辱したことに対する痛悔と、自分の生活を改めるという堅固な意向、あるいは真心からの望みと呼ばれるものが欠かせない心構え)を持っていない場合には、罪を赦さない力も与えられるのです。
3 司祭は罪を赦す力を使徒たちから受けた
ご復活の日に、私たちの主が使徒たちに言われた言葉を、今日(こんにち)、司祭叙階式の中で司教が繰り返すとき、この罪を赦す同じ力が司祭に与えられます。
私たちの主は、マグダラの聖マリアに、「あなたの罪は赦された」と言われました。同じように、告解室で司祭はこう言います。「Ego, autoritate ipsius, te absolvo a peccatis tuis, in nomine Patris et Filiæ et Spiritus Sancti-われ、彼の権威によりて、御父と御子と聖霊との御名によりて、なんじの罪を赦す」。ですから、司祭が世の罪を赦すのは、自分自身の権威によるのではなく、私たちの主イエズス・キリストの権威によるのです。
ファリザイ人は、私たちの主の言葉につまずきました。「この人は冒涜の言葉を吐いた! 天主でなければ、誰が罪を赦すことができようか」。そうです、繰り返しますが、罪を赦す力は天主の力です。しかし、私たちの主は、人の子として、その人間人類の本性によって、この力を行使され、その力を使徒たちに伝えられ、使徒たちはその力をカトリック教会の司祭や司教に伝えたのです。
ラザロの復活の場面で、私たちの主が使徒たちに、「解いて行かせよ」と言われたことについて、聖アウグスティヌスが注釈を加えて、こう言っています。「これは、罪に捕らわれた霊魂を解くために、彼らを解いて、成聖の恩寵の自由を、成聖の恩寵の状態を取り戻させるために、私たちの主が司祭に与えられた力のかたどりである」。ここで、聖アウグスティヌスは、そして彼とともに教会の全聖伝は、私たちの主によって制定された悔悛の秘跡を通して、罪がいつも赦されるということを明確に示しています。したがって、プロテスタントが主張するように、「悔悛の秘跡を受けなくても、天主に立ち返るだけで罪は赦される、と言うことができる」というのは偽りです。私たちは、司祭の役務を通して、この秘跡を受け、謙遜に自分の罪を告発し、天主から罪の赦しを得なければなりません。
4 なぜ直接天主から罪を赦されないのか
私たちの罪が、私たちの主から直接赦されるのではなく、司祭を通して赦されることを、私たちの主が望んでおられる理由は、二つあります。
1―本当に赦されているという確信を、私たちが持つためです(私たちは、天主を見ることはできませんが、司祭が次の言葉を繰り返すのを、見たり聞いたりすることはできます。「Ego te absolvo-われ、なんじの罪を赦す」)。
2―そしてまた、この秘跡が罪の赦しに不可欠な心構え、すなわち謙遜を与えてくれるからです。私たちは、天主の役務者である司祭から罪の赦しを得るためには、(同じく罪人である)司祭の前で謙遜にならなければならないのです。
親愛なる兄弟の皆さま、この福音を読むとき、私たちの主の行いにつまずいて、「この人は冒涜の言葉を吐いた!」と言ったファリザイ人のようにならないようにしましょう。いいえ、私たちの主は、冒涜の言葉を言ってはおられません。私たちの主は、天主であると同時に人間です。私たちの主は、罪を赦すという天主の力を持っておられ、その大いなるあわれみによって、主は、教会が霊魂を救う使命を継続できるよう、教会にその力を委ねられたのです。私たちの主は、目に見えない力である、霊魂を癒やすという主がお持ちの力の明白なしるしとして、この中風の人を外的に、明白に癒やしたいと思っておられたのです。そして、教会の役務者は、奇跡(あるいは外的な癒やし)を行う力を与えられることはあまりないとしても、その一方で、私たちが信仰の目を通してだけ見ることのできる、さらに偉大でさらに重要な目に見えない力、すなわち罪を赦す力を持っているのです。
エゼキエル書の中で、天主はこう言っておられます。「もし悪人が、自分の犯したすべての罪を悔悛し、私の掟をすべて守り、正しく行動すれば、その人は本当に生きる」、すなわち成聖の恩寵の命を取り戻し、自分自身を救うことができるということです。天主の御あわれみは、秘跡を通して、特にこの悔悛の秘跡を通して伝えられるのです。
ですから、この秘跡を利用し、「世の罪を取り除く天主の小羊」である私たちの主イエズス・キリストに頻繁に近づき、司祭の役務を通して罪の赦しを受け、救いの恩寵を取り戻しましょう。
アーメン。