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教皇のいないローマ。ベルゴリオはそこにいるが、ペトロはいない(教皇フランシスコのたくさんの活動にもかかわらず、「キリストの代理者」と「普遍的な牧者」の任務を実際には放棄している)

2021年03月11日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

Rome without a pope. Bergoglio is there, but not Peter
教皇のいないローマ。ベルゴリオはそこにいるが、ペトロはいない

2021年2月26日 FSSPX.NEWSサイト

著者の許可を得て、以下のコメントを喜んで掲載させていただきます。このコメントは、教皇フランシスコが、彼が携わっている洪水のようにたくさんの活動にもかかわらず、「キリストの代理者」と「普遍的な牧者」の任務を実際には放棄しているという事実を、賢明な方法で強調しています。私たちがこれを紹介しているのは、この観察自体が正確であるからであって、フランシスコに教皇の称号があることを否定するような神学的・教会法的な結論に至るためでは決してありません

教皇を特定するためにその名字を使うことはイタリアでは一般的であり(パチェリ教皇、モンティーニ教皇…)、このことが、著者が証明しているように、彼の教皇在位を認めるのを否定していることを示しているのではありません。たとえ現教皇自身が、主が「心を取り戻し」という条件の後に置かれた「兄弟たちの心を固めよ」という、その職責を放棄しているとしてもです。

この心を取り戻すことが実現するように、今日、教皇のために祈ることがこれまで以上に必要とされています。「Dominus conservet eum... et non tradat eum in animam inimicorum ejus」、「願わくは天主が教皇を守り…敵の手に渡し給わざらんことを」。

アルド・マリア・ヴァッリは、イタリアのバチカン専門家(Vaticanist)として最もよく知られている人物の一人です。しかし、この文章では、何よりも、まず第一に、教会のまことの子が持っているカトリックの魂が語っているのです。

ローマには教皇がいません。私が支持したいと思ったこのテーゼは、この五つの単語【ローマには教皇がいません】に集約されます。私がローマと言うとき、教皇が司教である都市だけを指しているのではありません。私がローマと言うとき、私は世界のことを言っています。今の現実のことを言っています。

教皇は物理的には存在していますが、現実にはそこにいません。なぜなら、彼は教皇が行うことを行っていないからです。彼はそこにいますが、ペトロの後継者として、またキリストの代理者としての義務を果たしていません。ホルヘ・マリオ・ベルゴリオはいますが、ペトロはいません。

教皇とはどのような人物のことでしょうか? その定義は、歴史的な面、神学的な面、司牧的な面のどれを強調したいかどうかによって異なるかもしれません。しかし、本質的には、教皇はペトロの後継者です。では、イエズスは使徒ペトロにどのような任務をお与えになったのでしょうか? 一方では、「私の羊を牧せよ」(ヨハネ21章17節)、他方では、「あなたが地上でつなぐものはみな天でもつながれ、あなたが地上で解くものはみな天でも解かれる」(マテオ16章19節)ということでした。

これが教皇のすべきことです。しかし、今日、この任務を遂行する者はいません。「あなたは心を取り戻し、兄弟たちの心を固めよ」(ルカ22章32節)。イエズスはペトロにそう言っておられます。しかし、今日のペトロは自分の羊を牧さず、信仰において兄弟たちの心を固めてはいません。なぜでしょうか? 誰かが次のように答えるかもしれません。「ベルゴリオは天主については語らず、移民、生態学、経済・社会問題についてのみ語っているからです」。しかし、そうではありません。実際、ベルゴリオは天主について語っていますが、彼の説教全体から浮かび上がってくるのは、聖書の天主ではなく、偽りの天主であり、私に言わせれば、弱められた、あるいはもう少し良く言うなら適応された天主です。何に適応されたのでしょうか? それは、人間にであり、また、まるで罪が存在しないかのように生きることを正当化しようとする人間の要求にです。

確かに、ベルゴリオは彼の教えの中心に社会的な問題を置き、散発的な例外を除いて、支配的になっている政治的に正しい(politically correct)ものの文化という同じ強迫観念の餌食になっているように見えますが、このことがローマに教皇がいない深い理由ではないと私は信じています。社会的なテーマを強調したいという点では、確かにキリスト教的・カトリック的な視点を持つことは可能です。ベルゴリオの問題は、別のものです。それは、彼の神学的な視点が逸脱しているということです。そして、これは、次の非常に明確な理由のせいなのです。その理由とは、ベルゴリオが語る天主は、赦す天主ではなく、むしろあらゆる非難を取り去る天主であるということです。

使徒的勧告「アモーリス・レティチア」(Amoris Laetitia)にはこうあります。「教会は最も弱い子どもたちに注意を払い、世話をしなければなりません」。申し訳ありませんが、そうではありません。教会は罪びとを回心させなければなりません。

また、「アモーリス・レティチア」には、「教会は、結婚についての教えとまだ一致していない状況、あるいはもはや一致していない状況でも、建設的な要素を必ず評価しなければなりません」とあります。

申し訳ありませんが、この言葉は曖昧です。教会の教えと一致していない状況で、「建設的な要素」も出てくるでしょう(でも、どんな意味でしょうか?)。しかし、教会の使命は、そのような要素に正当性を与えることではなく、むしろ、掟を守ることによって、霊魂たちを天主の愛へと回心させ、その愛から離れないようにさせることなのです。

さらに、「アモーリス・レティチア」には次のようにも書かれています。「しかし、良心は、与えられた状況が福音の全体的な要求に客観的に対応していないことを認識する以上のことをすることができます。また、今のところ天主に対して捧げられる最も寛大な応答であるものを誠実さと正直さをもって認識し、それが自分の限界の持つ具体的な複雑さの中で天主ご自身が求めておられることであると、一定の道徳的確信をもって理解することができますが、まだ十分に客観的な理想ではありません」。

もう一度言いますが、曖昧さがあります。第一に、福音の「全体的な要求」、福音を守ることが多いか少ないかといったものはありません。非常に具体的な内容をもった分かりやすい福音があり、明確さをもった掟があるのです。第二に、天主が人に対して、罪の中に生きるように求めることは決しておできになりません。繰り返します、決しておできにならないのです。第三に、「自分の限界の持つ具体的な複雑さの中で天主ご自身が求めておられること」について、「一定の道徳的確信」を持っていると主張することは誰にもできません。これらの混乱した表現には一つの意味しかありません。道徳的相対主義を正当化し、天主の掟をあざけることなのです。

この天主は何よりも人間が非難されることから解放するのに全力を注ぎ、この天主は事情を軽減することを探し求め、この天主は命令することを控えて理解することを好み、この天主は「子守唄を歌っている母親のように私たちの近くにいて」、この天主は裁くことなく「親密」であり、罪ではなく人間の「弱さ」を語るこの天主は、「司牧的な伴奏」の論理に夢中のこの天主は、聖書の天主の戯画なのです。なぜなら、聖書の天主である天主は、すべてにおいて忍耐強いお方ですが、手ぬるいお方ではありません。天主はすべてにおいて愛であるお方ですが、自由放任になさるお方ではありません。天主は非常に思いやりのあるお方ですが、もてなしてくださるお方ではありません。言い換えれば、天主は、この【父という】言葉の最も完全で最も真正な意味での父でいらっしゃるのです。

その代わりに、ベルゴリオが採用した視点は、天主のお考えを完全に拒絶するのはそれほどではなくとも、横行している自由放任とあまり調和していない天主の特徴を拒絶するという、この世の視点であるように見えます。この世は、愛しておられるがその同じ尺度で裁いてもおられる、まことの父を求めているのではなく、むしろ相棒を、もう少し良く言えば、したいようにさせてくれ、「私は誰を裁くのか?【誰も裁かない】」と言ってくれる"同伴者"を求めているのです。

他の機会に、私は、ベルゴリオによって本当のビジョンを覆すビジョンが勝利する、と書いたことがあります。それは、天主が権利をお持ちではなく、義務だけをお持ちだというビジョンです。天主には、天主にふさわしい礼拝を受ける権利も、あざけられない権利もありませんが、赦す義務があるのです。このビジョンによれば、人間についての真理は反転します。人間には何の義務もなく、権利だけがあるのです。人間は赦される権利を持っていますが、回心する義務はありません。まるで、天主にはお赦しになる義務があり、人間には赦される権利があるかのようです。

これが理由で、あわれみの教皇として表現されているベルゴリオが、想像し得る中で最もあわれみのない教皇のように私には思えるのです。事実、彼は、天主の属性であり、天主のみの属性である、あわれみの第一にして基本的な形を無視しています。それは、天主の法を説き、そうする際に、天主の至高なる権威の高みから、人間という被造物に救いと永遠のいのちに至る道を指し示すことです。

ベルゴリオがこの種の「神」(god)を考案したとすれば、それは私たちが礼拝する唯一にして三位一体なる天主(God)ではないため、私は意図的に小文字の「g」で示しているのですが、それはベルゴリオにとって、人間が赦しを願うべき過ちが、個人的にも集団としても、原罪も自罪もないからです。過ちがないならば、贖いもありません。贖いの必要性がなければ、ご托身も意味がなく、ましてや聖なる教会という救いの箱船による救いのわざも意味がありません。その「神」(god)とは、むしろ「シミア・デイ」(simia Dei)―天主の猿まねをする者―、つまりサタンのことではないのか、と疑問に思う人がいるかもしれません。サタンは、彼が私たちを誘惑する罪や悪徳が、私たちの霊魂を殺し、私たちに至高の善【天主】の永遠の喪失を宣告するということを彼が否定するまさにその瞬間に、私たちを永遠の滅びへと突き落とす者なのです。

ですから、ローマには教皇がいません。しかし、グイド・モルセッリのディストピア【ユートピア(理想郷)の反対の暗黒郷】小説「Roma senza papa」(教皇のいないローマ)では、物語の中の教皇がザガローロ【ローマの東にある地区】に行って住んでいたので物理的にそうだったのですが、もっと深遠かつ根本的な意味で、今日、ローマに教皇はいないのです。

すでに異論を聞くことができます。「しかし、フランシスコはどこにでもいるのに、あなたはローマに教皇がいないと言えるのですか? 彼はテレビや新聞に出ています。タイム、ニューズウィーク、ローリングストーン、フォーブス、ヴァニティ・フェアといった雑誌の表紙を飾っています。ウェブサイトや数え切れないほどの本にも登場しています。誰もが、ガゼッタ・デロ・スポルト紙【イタリアの煽情的なスポーツ新聞】でさえもが彼にインタビューをしています。おそらく、これまでに一人の教皇がこれほどまでに存在感を示し、人気を博したことはありません」。私はこう答えます。「それはすべて真実ですが、彼はベルゴリオであり、ペトロではありません」。

キリストの代理者がこの世のものに関心を持つことは、確かに禁じられていません。それどころか、キリスト教の信仰はご托身の信仰であり、キリスト教徒の天主は、人間となられ歴史となられた天主です。ですから、キリスト教は行き過ぎた霊性主義を避けています。しかし、この世に存在することは一つのことであり、この世に属するようになることは、それとは全く別のことです。この世が話すように話し、この世が論理を述べるように述べることによって、ベルゴリオはペトロを蒸発させて消し去り、自分自身を前面に置いたのです。

繰り返します。1968年の革命から生まれたこの世は、まことの父を求めていません。この世は同行者を好むのです。父の教えは、父がまことの父であるならば、責任ある自由というやり方を指図しているため、簡単ではありません。何も指図することなく、ただ付き合ってくれる人が隣にいる方がはるかに居心地の良いものです。そして、これはまさにベルゴリオが行っていることであり、彼は父ではなく同行者である「神」(god)を見せているのです。

ベルゴリオの「出て行く教会」(outgoing church, chiesa in uscita)が、ちょうどすべての近代主義と同じように、「同行する」(accompany)という動詞を好んでいるのは偶然ではありません。それは、旅路の同行者であり、(洞察力という歪んだ概念によって)すべてを正当化し、最終的にはすべてを相対化させる教会なのです。

その証拠は、遠く離れたところにいるがゆえに自分たちが遠くでベルゴリオに信仰があると感じている人々の間で彼が成功を収めている一方で、近くにいて当惑し、困っている人々は、彼に信仰があるとは全く感じていないということにあります。

イエズスはこの問題について、はっきりと述べられています。「みなからほめそやされるとき、あなたたちは災いである」(ルカ6章26節)。「人々があなたたちを憎み、破門し、侮辱し、そして、人の子のためにあなたたちの名を不敬のものとして排斥するとき、あなたたちは幸せである」(ルカ6章22節)。

ベルゴリオもベネディクト十六世と同じように辞任を考えているという噂が時々浮上します。私は、ベルゴリオにはそのようなことはないと信じていますが、問題は別のことです。その問題とは、ベルゴリオがペトロの義務から辞任する過程の事実上の主人公になっている【すでに教皇としての責任を果たしていない】ことです。

今ではベルゴリオが国連の所属司祭(チャプレン)になったことはすでに他の場所で書いたとおりであり、この選択は前例のない重大なものだと信じています。しかし、彼が国連のアジェンダ(行動計画)や政治的に正しいことを支持していること以上に深刻なのは、彼が聖書の天主について語ることを放棄したことであり、彼の説教の中心にいる天主は、人を赦す天主ではなく、人から非難を消し去る天主であるということです。

父親像の危機と教皇職の危機は密接に結びついています。拒絶され解体された父が、道を指し示す権利のない一般的な同行者へと変貌したのとちょうど同じように、教皇もまた、客観的な天主の法の担い手であり、解釈者であることをやめ、単なる同行者になることを好んだのです。

このようにして、私たちが、天主を万能の父として私たちに示してくれるペトロを最も必要としている時に、ペトロは蒸発して消えてしまいました。愛に満ちた父であるのは、中立だからではなく、裁いてくださるからです。あわれみ深い父であるのは、自由放任だからではなく、真の善への道を示すことを約束されているからです。思いやりのある父であるのは、相対主義者だからではなく、救いへの道を示すことに熱心だからです。

私は、ベルゴリオの自我がほしいままにしている主人公が新奇なものではなく、大部分は新しい公会議の人間中心的な定式文にまでさかのぼると見ています。それは、教皇、司教、聖職者が彼らの聖なる役務より前に自らを置き、教会の役務より前に彼ら自身の意思を置き、カトリックの正統性より前に彼ら自身の意見を置き、および儀式の神性な性格の前に彼ら自身の典礼的なやりたい放題を置いたことから始まったのです。

このような教皇職の個人化が明らかになったのは、キリストの代理者が「私たちと同じ一人」であるように見せたいと考えて、尊厳の複数形(plurale humilitatis)の使用を放棄してからです。この使用が、教皇が個人的な立場ではなく、すべての先任者および聖霊ご自身とともに語っていたことを証明していたのです。それについて考えてみましょう。無原罪の御孕りの教義を宣言する際にピオ九世を恐れさせ、近代主義を非難する際に聖ピオ十世を恐れさせた神聖なる「余」(We)は、パチャママの偶像崇拝を支持したり、「アモーリス・レティチア」の曖昧さや回勅「フラテッリ・トゥッティ」の無関心主義を形成したりするために使われることはありませんでした。

教皇職の個人化の過程(これには、マスメディアの出現と発展が重要な貢献をしています)については、少なくともピオ十二世までは、誰が教皇であるかは信徒にとってあまり重要ではなかった時代があったことを思い出さなければなりません。なぜなら、教皇が誰であっても、常に同じ教理を教え、同じ誤謬を排斥するということを、ともかく信徒は知っていたからです。教皇に拍手を送る際、信徒はその時に聖なる玉座にいた人に拍手を送ったのではなく、むしろ、キリストの代理者の聖なる王権であり、最高の牧者イエズス・キリストの声である教皇職に拍手を送ったのです。

ベルゴリオは、自分を使徒のかしらの後継者として見せることを好まず、「教皇年鑑」(Annuario Pontificio)の中で「キリストの代理者」という肩書を隠しているため、暗黙のうちに、私たちの主がペトロとその後継者に与えた権威から自分を切り離しているのです。これは単なる教会法上の問題ではありません。これは、教皇職にとって非常に深刻な結果をもたらす現実なのです。

ペトロはいつ戻るのでしょうか? ローマはいつまで教皇がいないままなのでしょうか? お尋ねするのは無駄です。天主のご計画は神秘的です。「われらの思いではなく、御旨の行われんことを。われら罪びとをあわれみ給え」と唱えながら、私たちは天の御父にただ祈るしかありません。

Original Italian article : Roma senza papa. C’è Bergoglio. Non c’è Pietro.
イタリア語の元記事 : ローマ教皇のいないローマ。ベルゴリオはいる。 ペトロはいない。
(Source : Aldo Maria Valli - Translation: FSSPX.Actualités)

 



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