ご受難会の「悲しみの聖母の聖ガブリエル」は、何をして聖人になったのか?列聖に値する何をしたのか?
聖ベルナデッタの生涯を飾ったような御出現はなかった。
リジューの聖テレジアのように自叙伝を書かなかった。
聖ジェンマ・ガルガーニのような聖痕も受けなかった。
聖マリア・ゴレッティのような殉教をしなかった。
一度も伝道や黙想会の説教をしたこともなかった。
司祭に叙階されなかった。ミサを挙げたこともなかった。
本も書かず、改宗者を出したこともなく、修養所を建てたわけでもない。
一生涯、影に隠れて、沈黙していた。
誰も知らなかった。
知るものはただ、人里を遠く離れたイタリアの修道院でのわずかな兄弟たちだけだった。
とくべつなことは何もしなかった。
ただ、かれは自分のしたことを真心をもってしたのだった。
「ご受難会の聖ガブリエル わが青春は幸いであった」E.バーク C.P.著 中村巳喜人訳
Happy was My Youth, a Study of Saint Gabriel of Our Lady of Sorrows, Passionist Student
by Edmund Burke (c.p.)の「まえがき」より
O beatum juvenem,
quem caeli dederunt
senescenti mundo magistrum:
quem candore fulgentem praedicat Ecclesia,
virtute praeclarum !
Communis visus in opere,
et prodigiis ostensus
cordis sanctitate sublimis.
ああ幸いなる若者よ
この世を教えんとて
遣わされし天国の使者よ。
輝ける美徳を映(うつ)すべく、
聖会の定めたる導きの光よ!
その歩みし道は平凡に見ゆれども
ああ その奇しきわざに映(は)ゆる
清らけき心よ。
聖ガブリエル祝日晚歌よりの交誦
まえがき
一見したところ、悲しみの聖母の望ガブリエルの生涯は、ほとんど解説を要しないように思われる。それは純粋な単純さの生活であり、人を驚かす事件もない隠れた生活である。
おもな事実は数個の短い文に圧縮できるであろう。かれは1838年にアッシジの良家に生まれた。18歳までスポレートのカレッジに通った。1856年にご受難会にはいり、修道会では6年間も過ごさなかった。1862年に24歳の若さでイゾラで死去した。
聖ベルナデッタの生涯を飾ったような直観(ヴィジョン)は、かれの短い生涯に何も現われなかった。かれはリジューの聖テレジアのように自叙伝を書かなかった。聖ジェンマ・ガルガーニのように聖痕も受けなかったし、聖マリア・ゴレッティのように殉教を受けたこともなかった。
説教という、使徒職として一般の人に考えられている修道会に召されたけれども、ついに一度も伝道や黙想会の説教をしたこともなかった。かれは叙階まで生きなかった。ミサを挙げたこともなかった。本も書かず、改宗者を出したこともなく、修養所を建てたわけでもない。一生涯、かれは背景にあって、隠れており、沈黙していた。知るものはただ、あの遠く離れたイタリアの修道院でのわずかな兄弟たちだけである。それでは、かれは、列聖に値する何を、いったいしたのであろうか?
この同じ問は、それに答えるべき立場にいた人――ノルベルト神父――にも与えられた。かれはご受難会司祭で、聖人が死ぬ日までかれの聴罪司祭であり、霊的指導者であった。神父はしばしば質問された――「ガブリエルは何をして聖人になったのか?」。考えた末の、神父の回答はこうであった――「あの青年は、べつにとくべつなことは何もしなかった――ただ、かれは自分のしたことを真心をもってしたのである」。ガブリエルの秘密は、この簡単なことばにひそんでいる――「かれは自分のしたことを真心をもってした」。
1920年の列聖ののち、聖ガブリエルの話はカトリック界に知られるようになった。このご受難会の聖人に対する信心はたちまちにしてひろまり、まもなく、かれの祝日をカトリック全教会にひろめるようにという嘆願書が教皇庁に達した。短期間のうちに、教会聖職者からの787通の嘆願書が受理された。そのなかには、28名の枢機卿と、約600名の司教の嘆願書がはいっていた。それゆえ、1934年に、悲しみの聖母の聖ガブリエルの祝日が、全教会の祝日表に挿入され、毎年2月27日に守られるようになったのは、驚くにあたらないであろう。教皇庁はこの決定を早くした理由を重要視して、それが「大学や神学校の青年たちに、いな、実にすべてのキリスト教青年に、学ぶべき新しい模範をひろめるもっとも効果的な方法」と考えられた旨を宣言している。
悲しみの聖母の聖ガブリエルの生涯に関するこの本は、顕著な事実をすべて網羅しようと努めたけれども、しかし、単なる伝記ではない。いわばそれは「召しだしの物語」ともいうべきものであろう。事実、これは霊的な動機の研究である。なぜなら、ここで、かれを行動にかりたてたかずかずの複雑な心理的な動機を解釈しようとこころみているからである。なぜ、かれは家を出るのをあれほど長くおくらせたか? いかなる理由が、ご受難会へのかれのとくべつな召しだしを鼓吹したか? 強い家族の反対に対して、かれの決心を保持する力となった動機は何か? 6年足らずの短期間に、かれを聖徳に導くべく鼓舞した霊的生活の理想は何であったか? これらの点は、本書が解答を与えんとした疑問の一部にすぎない。
聖ガブリエルの伝記作家たちは、みな、ノルベルト神父の証言にひじょうに頼っている。それは列聖の審理手続において、もっとも大部な、もっとも貴重な、(そして付言されなければならないことは)もっと普及した証言である。しかし、ごく最近になって、さらに重要な資料が明るみに出た。1958年9月に、ノルベルト神父の、長い間紛失していた自筆原稿「悲しみの聖母の兄弟ガブリエルの生涯と聖徳に関する回想録」が、レカナーティのご受難会黙想の家の管区長文書局に発見された。そして当時、それ以上に発見されるべきものは何も残っていないと信じられた。ところが、1960年1月になって、もう一つの原稿が発見されたのである。それはノルベルト神父の、新しい回想録のオリジナルな覚え書きである。この原稿はぎっしりつめて書いた32ページから成り、ガブリエルの死後二か月の1862年4月29日に、聖人の父親サンテ・ポセンティあてにノルベルト神父が書き送った、実に貴重な文献である。この二つの原稿には、列聖審議手続に見いだされないおおくの興味ぶかい詳細がしるされている。
本書を書くにあたって参照した他のオリジナルな資料は、モロヴァルレのご受難会修練者寮の公文書と記録、イゾラに保管されている聖人に関するおおくの文書(そのなかには、聖人みずからの自筆原稿やメモなどが含まれている)、そしてまた、ローマの聖ヨハネ・聖パウロ教会のご受難会歴史委員会の公文書である。
聖人のすぐれた伝記として、特筆に値するものが二つある。その一つは、列聖審議要請者、ジェルマーノ神父の書いたもので、この書はもっとも有益であるばかりでなく、もっとも権威あるものである。すでに数版をへており(最新版は1956年)、その文体の簡明さ、その内容の敬けんさで有名である。もう一つ、高い業績と見られるものは、テラモの司教モンシニョール・スタニスラウス・バッティステリの筆になるものである。この書はおそらく、さらに客観的な内容で、年代誌にいっそうの注意を払っている。モンシニョール・バッティステリはまた、最後まで生きていた聖人の兄ミカエル・ポセンティ博士と親交があり、かれからガブリエルの幼少のころの個人的な回想をおおく学んだ。
さらにもう一つの貴重な資料は、聖人の書簡である。今もなお、約30通が残っている。大部分は父親あるいは家族にあてたものである。そぼくな、飾らない文体で、のちに刊行しようという考えもなく、真心から書いたもので、そこにはかれの心の奥がうかがえるし、また、かれの霊魂の美と単純さがみごとに示されている。
終りに、本書の草稿を忍耐づよく読み、貴重な教示と助言を与えてくださった同胞に感謝する。とくにイゾラのサン・ガブリエル教会のナターレ・カヴァタッシ師に、深い感謝をささげたい。師は最後の原稿を綿密に校関してくださり、その専門的知識は、年代誌その他の詳細を検討するにあたって、かぎりなく貴重であった。
本書によって、聖ガブリエルの名を知り、うやまうおおくの人々が、かれを人間として、また広く呼ばれる「ほおえむ聖人」として、悲しみのおん母マリアに対する信心の使徒として、愛するようになれば筆者は幸いである。
1960年聖ガブリエルの祝日 ———
ローマ 聖ヨハネ・パウロ教会にて
ご受難会会員エドマンド・バーク