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一体なぜ聖ヨゼフがこれほど偉大な栄光を受けているのか?聖ヨゼフの作った最高作品、人生の傑作とは?

2022年05月13日 | お説教・霊的講話

2022年5月1日(主日)勤労者聖ヨゼフの祝日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(東京)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

レネー神父様、親愛なる兄弟姉妹の皆様、

今日は勤労者聖ヨゼフの祝日を祝っています。

レネー神父様が、私たちの為にミサを捧げるために、しばらく日本に滞在することができるようになりました。天主様に、マリア様に、聖ヨゼフに、この御恵みを感謝致します。これから主日は、日本に三人の司祭がいる時には、司祭がここ東京に二名いる予定になっています。ですからミサの途中で告解の時間が足りないという方も、ぜひ神父様に告解をお願いして下さい。ミサの途中でも神父様は告解を聞いて下さいます。

今日はアジア管区の全てのチャペルで、新アジア管区の神学生の為の特別献金があります。教会の入り口にありますので、もしもできる方はご協力を感謝致します。日本の国籍の神学生が、アメリカに今一人、勉強しています。アジア管区には、またフィリピン人の神学生、あるいは中国人の神学生、韓国人の神学生もいます。

今日は、勤労者聖ヨゼフの祝日です。カトリック教会の教えによれば、聖ヨゼフというのは、イエズス様とマリア様のその次に続く、偉大な立派な大聖人です。今日、特に聖ヨゼフの特別な祝日、勤労者聖ヨゼフにおいて、一体なぜ聖ヨゼフがこれほど偉大な栄光を受けていて、一体どこが聖ヨゼフの選ばれたところなのかを一緒に黙想致しましょう。

聖ヨゼフがなした業績というのは一体何なのでしょうか?一体そのその勤労者として作ったどの作品がこれほど偉大であって、今天国でイエズス様やそのマリア様のその直後に置かれるほどの偉大な最高の大聖人となることができたのでしょうか?それとも偉大さとは、その生まれの良さだったのでしょうか?あるいはその集めた富だったのでしょうか?あるいはその政治的な力だったのでしょうか?
今日はこれらを少し考察することに致しましょう。

聖ヨゼフの職業は大工でした。しかし聖ヨゼフが作った作品というのは残っていません。

聖ヨゼフは実は王家の王室の生まれでした。本当ならば王様の椅子に座るべき方でした。しかし当時はとても貧しくて、王としてのあるべき椅子はありませんでした。別のユダヤ人ではないイトゥレア人のヘロデという残酷な人がユダヤを支配していました。しかもこれはローマ帝国によって王に据えられた人で、難しい単語で言えば「傀儡政権」、言ってみれば「操り人形」でした。ユダヤの人々は半分政治的な自由も失っていました。ローマの属国になっていました。

聖ヨゼフはしかも、そのヘロデの後継者アルケラオが来た時には、身の危険を感じてナザレトという全く名前の知らないような寒村に避難しました。「一体ナザレトからどのような良いものがで出るだろうか」とその当時ユダヤの人さえも言ったような寒村に行きました。そして何も知られずに貧しい生活をし、労働をして日々の糧を得て生活をしていました。

聖ヨゼフがなさった作品、あるいは私たちが聖ヨゼフについて知っていることをいくら見ても、なぜ聖ヨゼフが天でこれほど偉大で、イエズス様マリア様のすぐ次に続く最も偉大な方であるか、ということを理解できることは、この一つしかありません。それは「聖ヨゼフの信仰と希望と愛」です。

聖ヨゼフが偉大なのは、聖ヨゼフの信仰と希望と愛が、あまりにも純粋であって、完全だったからです。私たちの模範であったからです。この信仰と希望と愛の生活こそが、聖ヨゼフの作った最高作品、人生の傑作だったのです。そして私たちにもそれを作るようにと、その為に労働するようにと招いています。

では、聖ヨゼフの信仰というのはどういうものだったのでしょうか?
聖ヨゼフは、「イエズス・キリストが真の天主であって、人間となった天主であった、約束された真のこの世の救い主である」ということを全て固く信じていました。そして「マリア様が天主の御母である」ということを信じていました。そしてその信仰に全てを従属させていました。

日本の人は、よく、信仰について誤解しているようです。というのは「あぁ、信仰すると何か良いことがある、ご利益がある」だから信仰すると思っておられる方々が多いように見受けられるからです。たとえば「この信仰を持っていると、遂には商売も繁盛するし、交通安全だし、試験は合格するし」というように思っているかもしれません。ともすると私たちもそのように思ってしまいがちです。つまり「信仰というのは何かの道具、何かの手段であって、その目的は自分の利益だ」と錯覚する危険があります。

しかし、もしも信仰がそのようになってしまうと、私たちの考えや、あるいはこの世俗の考えが信仰を変え、自分の思う通りに信仰を作り変える、という近代主義の異端に陥る危険があります。本当の信仰ではなくなってしまう危険があります。

ところが、聖ヨゼフはそうではありませんでした。信仰というのは、最高の価値であって、真理であって、全てがそれに従属するものであって、その反対するものでありません。聖ヨゼフはそのことをよく分かっていました。

純粋な信仰、つまり「イエズス・キリストが天主であって、この方こそが絶対であって、私たちはそれに従わなければならない。だから全てをこの方の為に捧げる」という信仰でした。

ですから、たとえヘロデがイエズスの命を狙っている、天使が「さぁヨゼフ、起きて、エジプトに行きなさい」と言った時も、一つも疑うことなく、「はい」と従いました。夜中に黙って起きて、子供と母マリア様を連れて、エジプトに行きました。

何故かというと、全ては天主によって、全能の聖父によって統治されていて、全てはその支配の下にある、ということを知っていたからです。いくらたとえ何か私に辛いことがあっても、それはすべて三位一体の支配の統治の下にあるので、安心していたのです。その誰も主の支配を抜け出すことができない、ということを固く信じていたからです。それが本当のことだからです

聖ヨゼフはこの信仰の為に生きて生活していました。たとえ貧しい生活だったとしても、たとえこの境遇が難しかったとしても「全ては天主の御旨である」と深い信仰で、それに従順に従ったのでした。この信仰に人生を全て従わせたのでした。イエズス・キリストの為に、マリア様の為に、どのような苦しみがあっても、どのような困難があっても、全てを捧げていました。

また聖ヨゼフには本当の希望がありました。この本当の希望というのは、何かこの世で「ある日、王様になるじゃないか」とか「ある日お金持ちになるんじゃないか」とか、この世で何か良いことが起こるだろう、ということを甘く幻想するのではありませんでした。

そうではなくて、本当の希望というのは、「私たちは遂に、永遠の変わることのない命を、最高の幸せを勝ち得ることができる。地獄の火を避けることができる。本当の喜びに入ることができる。天主の命を受けることができる」ということこそが本当の希望です。「イエズス・キリストと共にあるならば、そしてイエズス・キリストとともにあるという条件でのみ、永遠の命が与えられる」という希望でした。聖ヨゼフはそのことをよく分かっていました。

その為にこそ、聖ヨゼフの愛の対象は、イエズス様とマリア様でした。イエズス様とマリア様だけを愛していました。自分よりもイエズス・キリストを、そしてイエズス・キリストの為にマリア様を愛していました。聖ヨゼフは全く何も福音書で仰った言葉を記録されていない、「沈黙の聖人」と言われています。しかし聖ヨゼフの全生涯が、イエズスへの愛を声高く叫んでいます、聖母への愛と信頼を雄弁に物語っています。

聖ヨゼフのなした人生こそが、最大の傑作であって、この聖ヨゼフの労働の実りでした。その人生そのものが作品となっています。

愛する兄弟姉妹の皆様、そして小さなお友達、聖ヨゼフという方がとても偉大な方だ、ということを知って下さい、聖ヨゼフの偉大なその徳に学ぶことができるように、どうぞお祈りして下さい。

この聖ヨゼフの御取次ぎによって、私たちも聖ヨゼフに倣って、この私たちの人生を、良い作品として、イエズス様とマリア様の為に御捧げ致しましょう。聖ヨゼフのようにイエズス様を愛し、そしてマリア様を愛することができるように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



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