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【聖体の黙想】聖体の礼拝は、いともたやすく最も楽しい祈りである

2020年06月26日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より

聖体礼拝の理由

聖体の礼拝は、いともたやすく最も楽しい祈りである

 礼拝 あなたに間近く、あなたの眼前においでになる祭壇上の主イエズス・キリストを礼拝しよう。あなたが努力をしないで、容易に楽しく祈らせようとして、あなたのそば近くにおいでになる慈愛にあふれる天主を礼拝しよう。
祈りは、私たちが聖徳に進んで確実に天国の幸福を得るために必要で欠くことのできないものである。しかし、もし天主がこの世においでになり、聖体の秘蹟によって私たちの目を見えるものとされなかったなら、私たちは信頼と愛と忍耐とをもって、ふさわしく祈ることは、かなり困難であったにちがいない。けれども幸いに、主は聖堂を祈りの家とされたから、そこにはいれば、私たちは主のここにおいでになることを感じて自然に祈ることができるのである。ことに祭壇に近づいて、聖櫃のみ前に出ると、私たちは、その中にとどまっておられる御者の気配を感じて、祈りをやめようとしても祈らなければならなくなる。
この祝福、この恩恵、自然にあふれ出るこの熱情は、いうまでもなくイエズスの賜物である。このためにこそ主は私たちに近づいて、私たちのために卑しい姿をおとりになった。もしこのことがなければ、自分の虚無と卑賤とをわきまえ知るなんぴとか、あえて至聖なる天主の御稜威のみ前に進み出ることができよう。
だから、あなたの祈りを聞き入れるために、あなたに近づかれたホスチアの中の愛すべき天主を礼拝しよう。
しかしながら主は、まだこれで十分と思われず、さらに天主と人間との仲介者として、また祈りの大司祭の資格をもって聖体の中にとどまられ、万人の名において祈り、万人のために天父の御怒りを和らげて罪の赦しをお願いになる。聖体が私たちの祈りをたやすくする第二の理由はこれである。私たちは罪によって、天主にふさわしくない反逆者となって、天主の怒りと憎しみと復讐とに価する者となった。刑罰を受けなければならない罪人だと知るとき、私たちは、どうして天主の祝福をあえて願うことができようか。しかし、イエズスは罪人のために祈り、御血とご受難の際の苦痛とを天父に捧げてくださる。だから私たちがこの全能なる仲介者の背後に隠れ、主の御功徳を利用して折るならば、私たちの罪悪を忘れて私たちの祈りを受け取ってくださるのである。
ああ愛すべき慈悲に富んだ聖なる秘蹟よ。私たちを天主の御もとに導いて、私たちのためにその御憐れみをたれたもう御者よ。私は心の底から御身に感謝し、御身を礼拝し、無限の信頼をもって御身に祈りたてまつる。

感謝 私たちは安心して、祝福と喜びとに満ちたこの秘蹟を賛美しよう。この秘蹟によって、私たちは地上のどこにも、またどんな日にも、慈悲と柔和の限りない救い主をもっている。主は恵みを施し、私たちを癒し、救い、慰め、照らし、赦すためにのみ、私たちのもとに来たもうた。
その昔、ユダとガリレアとの地で、病人、不具者、その他ありとあらゆる不幸な人々が、主に従い、主に願って、必ずその求める賜物を得ることができたように、私たちもまた主をもち、主に願うことができる。
主の清い御まなこは、悲しみのうちにある者らの上にいつも同情深く注がれ、主の御耳は、罪人の叫びを聞き、主の聖心は、彼らに対する憐れみに鼓動した。その同じ主を私たちは今、所有している。
主は一度も祈りを拒むことがおできにならなかった。主は自ら自分が医者であり、よきサマリア人であり、友であり、幼児の父であるとおっしゃった。その同じ主を今、所有しているのである。
その昔、ユデアの国を巡られたように、主は今日、聖体の中に隠れて、荒涼とした地上にさすらいの旅を重ね、恵みと情けとの聖役を続けられている。
主は私たちの間に実在を続け、(ちょうど私たちにとって最も有利な状態のもとに)私たちの祈りを促される。これについて、私たちはどれほど主に感謝しなければならないだろうか。主のホスチアは、どこにあっても『われに来たれ、われなんじを慰めん、そはわれは心柔和にして謙遜なればなり』と言っておいでになるのである。

償い イエズス・キリストが、聖体の秘蹟によって祈りをこのようにたやすくしてくださった以上、私たちが主に祈らず、必要に際して主の御助けを願わず、主を少しも信頼しなかったなら、それが主にとってどれほどの苦痛であり、辱めであるか、あらためて説く必要もない。
恩を知らないエルサレムは、主を信じようとせず生命の御言葉を聞こうとも思わない。せっかく主がもたらされた救いをも受けなかった。主はこれを見て、いかに激しくお悲しみになったことか。今では、主が地球上のすべての地点においでになるにもかかわらず、人々は歓楽を追い、黄金を求めて主を忘れ、主にそむいているのである。あなたはこの聖体の中から『われ終日慈悲のかいなを伸ばせども、わが民はわれにそむき、われを受け入るることを拒めり』との御嘆きの声の聞こえるのに気がつかないのか。
主は使徒たちに『求めよ。わが名によりて祈れ。今までなんじらはわが名によりて求むること知らざりしも、求めよ、さらば与えられん』と仰せになった。これは主がすべての人々に対して仰せになったお叱りの言葉である。主の友と自称する私たちもまた、十分な信頼をもって主に祈ろうとせず、主の御力と、愛と、私たちに恵んでくださろうとする主のお望みとを信じようとしない。
ああ、聖体の秘蹟によって、私たちのために祈りをかくもやさしくしてくださった救い主なる天主に、もっと多く信頼し、もっとたびたび祈り、これによって必要な償いをしよう。

祈願 深い信頼の念をもって、祈りの恩恵を熱心に願おう。私たちが祈りの大切なことを悟り、祈りの中に、まことの平和と幸福とを発見できるのも、全く天主の恩恵によるからである。
旧約時代において、天主は預言者に『彼らの上に祈りの霊を注がん』と仰せになった。この祈禱の霊は、おもにイエズスの永遠の祈り、秘蹟なる聖体によって与えられる。私たちが聖櫃の前に出るとき、特に顕示された聖体のみ前にひれ伏すとき、私たちは自然に神聖で甘美な感情に満たされ、それが私たちを自然に出る祈りへと導く。また聖体拝領の時に、私たちの心は自然にイエズスを思い、イエズスと一致して、主は私たちの中でお祈りになり、私たちはまた主において祈るようになる。これらはすべて祈りのあらわれである。
だから、私たちは毎日聖体を訪問し、できるなら毎日聖体を拝領し、そこで他の一切にまさる賜物、すなわち信頼と愛とをもって祈禱する恩恵を請い受けなければならない。

実行 よく祈るために、たびたび聖体のみ前に出ることを決心しよう。











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