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「助産婦の手記」43章  『私は、もう家へは帰らない、どんなことがあっても。』

2020年09月06日 | プロライフ
「助産婦の手記」

43章

今では、私は墓掘人だ。もはや助産婦ではない。恐ろしい時代が、私たちの国民の上にやって来た。戦争が終ってからインフレーション時代にかけての、この数ヶ月間に、堕胎という伝染病が、ペストのように、国民のあらゆる階層に、都市に農村に、貧富、老若、既婚、未婚を問わず、拡がっていった。今では、私が来てくれと呼ばれる時には、それは大抵、流産だった。正常な出産は、稀れなこととなった。生育中の生命に対する殆んど信ぜられぬぐらいの無良心をもって、母親の生命と健康を無視して、堕胎の手段がとられた。人々は、もうわざわざ、そのような死刑執行者の務めに従事する医者を探しまわったり、あるいはまた秘密に堕胎をやっている人のところに行くようなことはしない。彼らは、自分自身でやるのである。夫は妻にしてやり、若者は娘に、友達は、ほかの友達にしてやる。多くの人たちが、非常に進んだ技術を持っているので、その手術を自分でやるのである。

私の職業は、もはや私を喜ばせない。正常な出産よりは、犯罪的な堕胎の方が多いのだ! 自分の母親によって、そんなに破廉恥的に母胎から追い払われて、死神の手へ渡された、憐れな小さな人間の子たちが、まだ命を保っているうちは、私はその子たちが、まだ永遠の幸福へ到達できるように、急いで洗礼を施すのである。そんな時でも、母親は、ただ重荷がやっと下ろされたのに満足して、産褥に横たわっており――母性愛の何の感動も覚えずに、わが子に対して憐れみの一瞥をすら与えようとはしないのである。彼女たちは、子供を普通のように埋葬させようとはしない。子供の小さな体は、ぞんざいに堕胎坑(あな)の中や、堆積した肥料の中や、河の中に投げこまれる。水浴中の子供たちが、河の中から、そのような赤児の死がいを引き上げたことがたびたびある。こういうことが起ってからというものは、私はその憐れな子供を墓掘人のところに持参し、教会墓地の一隅に埋めてもらった。

こうして私は、ほんとに墓掘人になってしまった――もともと私の天職は、新しい生命がこの世に出現するのを助けることにあるのであるが。
そして、かつては非常に賞讃されたドイツの母親たちの多くは、憐れむべき、卑怯な、冷酷な嬰児殺し人となってしまった。ある学者が、西洋の没落について、本を書いたのは確かに正しい。防ぐ術(すべ)もない赤児を卑怯にも大量に殺すような「不道德」に忠誠を誓うような西洋は、没落するに違いない。

この日、「自由母性全国連盟」の地方支部が、この村に設立された。その目的は、堕胎を無罪とすること、受胎予防を宣伝すること以外には、全く何もなかった。その知識と方法とは、家から家へと伝えられた。ある人が、警察に、この運動を取り締まるように要求したところ、警察では言った。これは単に、衛生に関する国民啓蒙であり、性病に対する予防方法に過ぎないと。この運動の背後には、何が潜んでいるかということは、余程以前から、みんなに知れわたっているに拘らず、誰もこの運動に停止命令を出すものはなかった。

私は、助産婦をやめたいと思ったが、主任司祭は、それを許そうとはされなかった。司祭は言われた。今こそあなたは、この職業に留まり、そしてまだ生れないものの権利と真の道徳とを擁護するために、戦いを続けて行くべきだ、と。今こそ我々は、動揺している人々を支え、迷っている人々を元へ導きかえし、脅迫されている人々を支持し、そして今でもなお世の中に存在している本当の真正の母親が、忠実な母親として留まっているように助けねばならぬのである、と。

この村出身の指物師のワルツは、全くやり切れない職人だ。彼は私と出くわすごとに、何かいやがらせを言おうと試みる。少し以前に、私があるお産のところへ行った時にも、その通りだった。彼は数名の気の合った連中と一緒に、議事堂の前に立っていたが、通りかかった私に呼びかけた。『お前さんも間もなく失業せねばならないんだ。女たちは、もうお産の機械にされてはいないよ!』と。ある日、私はワルツ奧さんのところへ呼ばれた。もちろん、流産。私も、それとは別のこととは全然思っていなかった。それは、彼女としては初めての流産ではなかった――。しかし、最後のものだった。半ば熱に浮かされ、半ば失望と胸中の苦しさとから、彼女は自分の結婚生活について、色んなことを物語ったが、その生活から推測されることは、お産の束縛から解放された女は、幸福な生活をするものではないようであった。

そして彼女の十七になる娘、それは目立って静かな可愛らしい子であるが、それは母のベッドのそばに坐り、室内を行ったり来たりしながら、色んな話を一緒に聞いていた。近所の女たちは、盛んにおしゃべりをし、その娘の前で用心するということは全然なかった。ところが、その娘のグレーテルは、人々が思ったよりも、余計にいろいろのことを知っていた。そして彼女が知らないことは、自分で総合して理解した。母の死後、その娘は、母の遺した手紙を読んでいるうちに、次のことに関するか確かな証拠を発見した。すなわち、自分もまた親から欲せられなかった偶然の子であるに過ぎないということ、つまり予防薬にも拘らず妊娠し、そして種々な堕胎な試みにも拘らず生長し、そしてとうとう生れて来たものであるということである。

ワルツ奧さんは、意識をはっきり回復することなしに死んだ。葬式がすんだ後、その娘は私のとこへやって来た。
『リスベートさん、助産婦さんたちは、お互いによく知り合っているんでしょう。あんたは、私に一つ勤め口を世話して下さるわけには行きませんか――もし、しっかりした家なら、女中だって構わないんです。私はただここから出て行ってしまいたいんです……』
『あんたは、お父さんを独りでほったからかして置こうとするのですか?』 私は、その娘が一体、全体、何を感じたのか知らなかった。
『なぜそうしてはいけないの? もしお父さんの思う通りになっていたら、私は生れて来なかったことでしょう……二日前のあの小さな弟のように。なぜ私は、ひとりきりなの? なぜ私はきょうだいがないの?なぜお母さんは死んだの?……あんたはそれをよく御存知だし、私だって知っているわ。私は、この家に留まっているわけにはいかないんです。私は、お母さんの写真を見ると、こう考えねばならないんです。お前のお母さんは、人殺しだ……ただ偶然に、お前は母の手からのがれたのだ――お母さんは、お前のきょうだいを殺したのだ、と……そして、もしお父さんを見ると、お父さんは、きょうでもまだ私をつけ狙い、そして私の生れぬうちにやったと同じように、私を殺そうとしているかのように思われるんです……』
『まあ一体どうしてあんたは、そんなことが判ったの?』
『お父さんがお母さんに出した手紙がまだ家にあるんです。私はそれをきのうの晚、読んじゃったんです。私の生れぬうちに、私を取り除こうとするため、どんなによい勧めが、その手紙の中に書かれていることでしょう……』
『多分お母さんは、それには全く従わなかったのでしょう。』
『いえいえ…「もしその方法が役に立たなかったなら」と、お父さんは書いてるわ。「もしそれがまたもや駄目なら。」と、その次ぎには言ってあるわ。「注射でさえ効き目がなかったのなら。」と、また書いてあるわ。いえ、私は家に留まっていることはできないのよ。私を助けだして、この人たちから逃がして下さい……あの人たちは、私を殺そうと思っているんです……もう私のきょうだいを殺してしまったんです……』
私は、父親のワルツのところへ行って、その娘の願いを持ち出した。すなわち、娘さんは、ここ数日間、昂奮しているから、暫らく村から離れて、違った環境に身を置く方が、娘さんのために良いことであると。彼は、不機嫌そうに、私の申出を拒絶した。妻が死んだ後は、彼は家の中に娘が必要だというのである。私は、あらゆる方法をつくして説得しようと試みたが無駄であった。彼は、家の中に女を必要とする。娘は十分そう出来る年頃だ。さもなければ、自分は、なぜあのお転婆を育て上げたのだろうか? 自分は父であり、決定権を持っているんだと。
なかなか名案が浮ばなかった。父親から親権を奪う処置は、法律上許されていなかった。子供は打ち見たところ、全くよく世話されていた。そのような心理的な葛藤に対しては、法律は干渉する使命を持っていないし、またそういうことは恐らく決してあり得ないであろう。それゆえ、父親が娘を普通に取扱っている限りは、仕方がないから家にいるようにと、その娘を説得するよりほか、私には何の施すべき術(すべ)も残っていなかった。

彼女は、私たちがどうすることも出来ないことを見てとった。逃亡の試みも、見込がなかった。なぜなら、彼女はまた父の家に連れ戻されるだろうから。父と娘の関係は、ただ悪化するに過ぎぬであろう。しかし、この際、私は全く娘と同じような不安な気がした。すなわち、私は一つの危険がひそんでいるという感じからのがれることは出来なかった。

三週間後、夜遅くなって、私の家のベルが、けたたましく鳴った。私は、もう床についていた。そこで、跳ね起きて、窓へ走り寄った。『下にいるのは、誰?』
『リスベートさん、早く、お父さんの来ないうちに開けて下さい、早く、早く……』
グレーテルだった。すく私は下に降りて、閂(かんぬき)をはずして、彼女を中に入れた。素早く街路を見渡したが、誰も見ていなかった。そこで私は、街路に光を投げていた燈火をも消し、そして慄(ふる)えているその娘を連れて梯子段を上り、部屋の中に入れた。いま彼女が私に物語ったところのことは、残念ながら、ちっとも驚くべきものではなかった。予期していた通りだった。父親は、彼女に――酒に酔って帰宅した時―一緒にベッドにはいることを強いようとした。そこで娘は、窓から高土間に飛びおり、そして私のところへ逃げて来たのであった。
『私は、もう家へは帰らない、どんなことがあっても。』

あくる朝、私は始発列車で、グレーテルを州の首府にいる私の同僚のところへ旅立たせ、そして本件を少年保護局へ報告した。今や、後見裁判所が、それに干渉することが可能だった。ワルツが、親権を奪われた後、一人の叔父が後見役を引き受けようと申し出た。そして この叔父さんは正しい人で、その娘を良い学校に入れ、そして民生委員になるための正しい職業教育を受けさした。グレーテルは、立派な娘である。彼女は、つい昨日も、私にこういう意味の長い手紙を寄こした。どうかリスベートさん、私が卒業するまでは、どうかその職業をつづけていて下さい。私は、いつかは、あなたの後継ぎとして助産婦になり、ほかの母親や子供たちのために尽くして、自分の両親がわが子に対して過ちを犯したその罪を償いたいのです、と。






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