Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

MISSA PRO DEFUNCTISで歌われる ” Dies irae ” ディエス・イレ

2016年11月12日 | グレゴリオ聖歌
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

11月2日は、全ての死せる信者の記念を行いました。ミサ聖祭では有名なディエス・イレ Dies Iraeが歌われますが、その中国語訳、韓国語訳、日本語訳をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ラテン語

Dies irae, dies illa
solvet saeclum in favilla:
teste David cum Sibylla.

Quantus tremor est futurus,
quando judex est venturus,
cuncta stricte discussurus!

Tuba mirum spargens sonum
per sepulcra regionum,
coget omnes ante thronum.

Mors stupebit et natura,
cum resurget creatura,
judicanti responsura.

Liber scriptus proferetur,
in quo totum continetur,
unde mundus judicetur.

Judex ergo cum sedebit,
quidquid latet apparebit:
nil inultum remanebit.

Quid sum miser tunc dicturus?
Quem patronum rogaturus,
cum vix justus sit securus?

Rex tremendae majestatis,
qui salvandos salvas gratis,
salva me fons pietatis.

Recordare, Jesu pie,
quod sum causa tuae viae:
ne me perdas illa die.

Quaerens me, sedisti lassus:
redemisti Crucem passus:
tantus labor non sit cassus.

Juste judex ultionis,
donum fac remissionis
ante diem rationis.

Ingemisco, tamquam reus:
culpa rubet vultus meus:
supplicanti parce, Deus.

Qui Mariam absolvisti,
et latronem exaudisti,
mihi quoque spem dedisti.

Preces meae non sunt dignae:
sed tu bonus fac benigne,
ne perenni cremer igne.

Inter oves locum praesta,
et ab haedis me sequestra,
statuens in parte dextra.

Confutatis maledictis,
flammis acribus addictis:
voca me cum benedictis.

Oro supplex et acclinis,
cor contritum quasi cinis:
gere curam mei finis.

Lacrimosa dies illa,
qua resurget ex favilla
judicandus homo reus.

Huic ergo parce, Deus:
pie Jesu Domine,
dona eis requiem. Amen.

中文

MISSA PRO DEFUNCTIS 追思亡者弥撒

Dies irae 继抒咏

达味圣王,蒙主默示,预言将来,有朝一日:主动义怒,火毁判世。
审判大主,赫赫来临,思言行为,全要审问,人人战栗,个个悔恨。
号角一响,死过众生,闻声而起,出离坟坑,齐集主前,战战兢兢。
复活之人,孤苦伶仃,交代自己,一言一行,或生或死,无不惊恐。
常生记录,摆在眼前,善功罪过,一一在案 ,永福永祸,由此定断。
审判天主,一登宝座,一切隐秘,全要揭破,善有善报,恶有恶果。
义人这时,也难心安,我大罪人,更有何言?又能找谁。替我申辩?
唯有投靠,仁慈君王,人要得救,全靠主赏,我今求主,对我宽让。
仁慈耶稣,念我为祢而赎,祢为救我,走过苦路,求祢来日,再把我救。
祢为救我,疲劳奔走,祢为赎我,受十字苦。但愿这苦,没有白受。
审判大主,公正威严,审判之日,来到眼前,求祢仁慈,救我罪恶。
我今痛苦,犹如囚犯,因我有罪,羞愧满面,求主垂怜,求主宽宥。
从前祢宽恕了玛达肋纳,也饶恕了右盗,祢也给了我得救妙法。
我的祈祷虽不堪当,但祢仁慈宽宏大量,求祢救我免遭永殃。
山羊绵羊分站两边,求将我列绵羊之间,脱离山羊站祢右边。
恶人被骂遭受祸殃,投入永火理所应当,善人蒙召返回天乡。
我今俯首苦苦哀求,真心痛悔一生罪辜,期望末日蒙主宽宥。
审判之日悲惨可怕,尘土之人要从土中复活,带着罪恶去受审判。
无依无靠唯有求主宽宥,仁慈耶稣求世主,求赐炼灵息止安所。阿们。


韓国語

부속가

1. 그 의노의 날이 오매 세상만물 재되리니 다위 시빌 예언이라.
2. 심판장이 강림하사 사언행위 엄밀사핵 놀라움이 어떠할꼬.
3. 만국만방 무덤위에 나팔소리 진동하여 모든이를 모으리라.
4. 만세만민 부활하여 심판장께 대답할제 사망만물 기절하리
5, 서언행위 기록한 책 만민앞에 펼쳐놓고 세상심판 하시리라.
6; 심판장이 좌정하매 모든은밀 탄로되어 벌 없는 죄 없으리라.
7. 의인 겨우 안심커든 불쌍한 나 무슨말까 어느번호 청할쏘냐.
8 지엄하신 대왕이여 구할 자를 구하시니 나를 또한 구하소서.
9.예수여 생각하소서 주 길의 연고된 자를 그날에 멸치마소서.
10. 피곤토록 나를찾고 십자정사 구원하니 이런 수고 무익할까.
11. 공의보수 심판주여 셈바치는 그날 전에 사죄지은 베푸소서.
12. 수치만면 붉어지고 통곡체읍 구하오니 천주여 용서하소서.
13. 마리아를 사하시고 우리기구 들으시고 내게희망 주셨도다.
14. 나의기구 부당하나 지선인자 베푸시고 영원화염 꺼주소서,
15. 산양에서 나를뽑아 면양중에 않히시고 주우편에 세우소서.
16. 악인들을 벽파하여 맹렬화염 던지시고 나는천국 부르소서.
17. 부복하여 간구할새 마음이 부서지오니 내종말을 돌보소서.
18. 저날눈물의 날이니 판단받을 죄인들이 먼지에서 나오리라.
19. 주여죄인 사하소서 인자하신 주예수여 저들에게 쉼주소서. 아멘.

日本語

かの日は、怒りの日、
この世が灰燼に帰す日、
ダビドとシビラの証言の如し。

いかばかり恐ろしきたらんや、
審判者が来たり給うて
個々のことが厳格に裁かれんとするとき。

驚きのラッパは音を鳴り散らし、
各地の墓を通して
すべての者を玉座の前に集めんとせん。

死も自然も驚くなり。
被造物がよみがえる時、
審判者に答えんとせんがために。

書かれた本がさしだされん、
そこにすべてが含まれている本が、
それによりてこの世が裁かれる本が。

よりて審判者が玉座に座し給うとき、
何であれ隠されていたことは明らかにされ、
そのまま隠されて残るものは何も無し。

その時哀れな私は何をば言わんや?
如何なる弁護者を頼まんとするや?
義人さえほとんど安全ではなきその時に。

恐るべき御稜威の王よ、
御身は救われるべき者を無償で救われ給う、
憐れみの泉よ、我を救い給え。

思い出し給え、憐れみ深きイエズスよ、
御身がこの世の生を受けたるは、我がためなることを、
かの日に我を滅ぼし給うなかれ。

御身は我を探し求めて疲れ座り給い、
十字架を堪え忍び、贖い給うた、
かくなる苦労が無とならんように。

正義なる最後の審判者よ、
赦しの賜をなし給え、
決算の日の前に

被告として我は嘆き、
罪は我が顔を赤らる、
天主よ、こいねがう者を容赦し給え。

御身はマリア(マグダレナ)を赦し給い、
盗賊の祈りも聞き入れ給いし、
我にも希望を与え給いき。

我が祈りは相応しからず、
しかれども優しき御身、大目に取り扱い給え、
我が永遠の火に焼かれざらんがために。

羊たちの間に場所を与え給い、
牡山羊から私を分離し給え、
右側に置き給え。

呪われし者どもは辱められ、
激しい炎が加えられるとも、
至福者たちとともに我を呼び給え。

我ひれ伏し額づきて願い奉る。
灰の如く砕かれた心もて、
我が最期を計らい給え。

かの涙の日は、
灰からよみがえる日、
裁かれるべき被告なる人間が。

故に、天主よ、この者を容赦し給え、
憐れみ深き主イエズスよ
彼らに安息を与え給え。アーメン。



2016年11月4-7日,の聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

2016年11月11日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

11月の初金、初土とミサ聖祭を大阪で捧げることができました。
ステンドグラスの入った御聖堂で、一段と美しくなり、お祈りもミサ聖祭もますます心を高く上げてすることができました。天主様に感謝!

11月6日の主日には東京で聖伝のミサを捧げました。

午後の公教要理には、カステラーニ神父様の書いた「聖ヨハネの黙示録」(El Apokalipsys de San Juan)に基づいてお話をしました。
ご参考までに、以下にスペイン語のPDFファイルのリンクをご紹介します。
いろいろな体裁のものが三つありますが、内容は同じものです。

カステラーニ神父著「聖ヨハネの黙示録」(El Apokalipsys de San Juan)
カステラーニ神父著「聖ヨハネの黙示録」(El Apokalipsys de San Juan)
カステラーニ神父著「聖ヨハネの黙示録」(El Apokalipsys de San Juan)

今週は、
11月12日(土)10時半から大阪でミサ聖祭が、

11月13日(主)10時半から東京でミサ聖祭があります。

来年、聖ピオ十世会アジア管区はファチマとローマに国際巡礼を行う予定です。
参加ご希望の方々は、どうぞ今日、お申し込みください。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

11月の初金、初土の御ミサの報告をお送りいたします。

11月4日 初金曜 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ には20名の方々が
11月5日 初土曜 聖マリアの汚れなき御心の随意ミサ にも20名の方々が御ミサに与る御恵みを頂きました。 デオグラチアス!

11月4日の御ミサには赤ちゃんと小さな女の子が来られていました。歌ミサと御聖体降福式が終わるまで2時間以上最後までおられました。
お聖堂に赤ちゃんの声がするのはとても嬉しいことでした。日本に多くの聖なる家族が与えられますようお祈りを続けたいと思いま す。

「私の心は、侮りと悩みしか期待できなかった。私は誰かがともに苦しんでくれると期待していた。しかし誰も苦しんではくれなかった。
私は人から慰められるのを待っていたが、慰めてくれる者はひとりもいなかった。」
このイエズス様の聖心のミサの奉献文のイエズス様の聖心の叫びを100年前にファチマで天使が代弁していた事について黙想いたしました。
イエズス様の聖心もマリア様の御心も、祈りと犠牲を求めていらっしゃる事をカトリック信者である私は毎日どれくらい真剣に考えているか?
と振り返ると、奉献文の「誰も苦しんではくれなかった」という言葉が胸に突き刺さります。
マリア様が100年前に三人の子供達にお願いされた祈りと犠牲は 、この100年の間に一体どれだけイエズス様とマリア様のみこころをおなぐさめできたのでしょうか?
自分がこの100年の間にこの世に生まれてきたことの意味をしっかりと心に刻んで天主様がお与え下さる全ての十字架を従順に快く担えるよう、御ミサでお祈りしました。

初土曜日のお説教を聞いて、いつも天国へ心をあげて、マリア様の愛の日でもやされ、マリア様の望まれるよう霊魂の救いのために祈りと犠牲を捧げる事を深く決心しました。


【報告】
アヴェ・マリア!
インマクラータ!
小野田神父様こんばんは。
日曜日に煉獄の霊魂の為にお墓参りに行きました。
11月2日から一週間は全贖有が頂けると教えて頂いてから3年目になります。
何故か毎年、道中トラブルが起こります。
今回もはやりトラブルが起こり、引き返そうかと迷いましたが、煉獄で苦しむ霊魂の事を思い、ロザリオをしてマリア様にお願いし、無事にたどり着くことができ、お墓の前でロザリオ一環、全ての死者のための祈り、デ・プロフンディスを唱えることができました。
デオ グラチアス!
主よ、永遠の安息をかれらに與え。耐えざる光をかれらの上に照らしたまえ。かれらの安らかに憩わんことを。


【報告】
+Ave Maria! Immaculata!
死者の月になり、「永遠」について、黙想してみました。

公教要理では・・・
173* 地獄とは、どのようなところでありますか。
   地獄とは、悪人が天主に棄てられて、悪魔と共に終なく苦しむところであります。
174* 地獄に行くのは、どのような霊魂でありますか。
   地獄に行くのは、大罪をもって死んだ人の霊魂であります。
   終ない天国と地獄との存在は、
  一、天主の啓示によっても明らかでありますが(コリント前 13:12、黙 21:4、ペトロ後 2:4、マテオ 8:12)
  二、道理を推し究めても、此の世に於ける幸不幸の不公平なことを改めるために、
     後の世で適当な賞罰がなければならぬことによって認められます。
     尚此の賞罰に終がないのは、人は不滅の霊魂を有して、永遠なる天主の御前に善悪を行うのでありますから、
     たとえその善悪は一時的の仕業であっても、永遠の賞罰を受けねばならぬことになるのであります。
     特に地獄については、人は死と共に取り返しのできぬ最後の決定を受けねばなりませんから、
     死後痛悔して罪の赦を蒙る余地がなく、従って罪人は終ない地獄の罰を受けねばならないのであります。
177 世の終の後にも煉獄がありますか。
   世の終の後には、天国と地獄とがあるだけで、煉獄はありません。
と、あります。

もし息を引き取る瞬間に、聖寵の状態でなかったら?それで万事休す。永遠に地獄。永遠。永遠。永遠。
ひとりの例外も特例もなく、地獄に行けば永遠!
永遠を考えると恐怖で息苦しくなります!

ヤシンタは特に地獄について、いつも黙想していたそうですね。
どれほど多くの人が地獄に行ったか、地獄に行った霊魂はどれほど哀れな状態かを見て。

マリア様は「彼らのために祈る人がいなかったから。」とおっしゃいました。
それで、ヤシンタたちは、ファティマの聖母マリア様の懇願のとおりに、地獄に落ちようとしている霊魂のために
祈りと犠牲を捧げつくそうと決心しました。あんなに小さな子供でしたのに!

ファティマ100周年の時代に生きている私たち(カトリック信者)のなすべきことは、

ファティマのマリア様の懇願のとおりに、ファティマの3人の牧童たちに倣って、
マリア様の汚れ無き御心に逃げ込んで、毎日ロザリオを握りしめて、
地獄に落ちようとしている多くの罪人の救霊のために、彼らのために、彼らに代わって祈り、天主対する侮辱、冒涜を
償い、犠牲をすることだと理解いたしました。

毎日、マリア様の汚れ無き御心と共に、汚れ無き御心に犠牲をお捧げするときに、この祈りを唱えながら。
“イエズスよ、これは御身を愛するため、罪人たちの回心のため、そしてマリアの汚れ無き御心に対して犯される罪を償うためです”

聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
ファティマの聖母マリア様、我らのために祈りたまえ。
我は弱き者ゆえ、御身の懇願に、従順たる御恵みを与えたまえ。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

イエズス様の聖心は嘆いておられるけれども、「この聖母の汚れなき御心聖堂に集う霊魂たちは例外だ」と仰って下さったのがとても嬉しかったです。
イエズス様とマリア様のお気に入るようにという事だけを考えて、「ここにいます」と、ファチマの天使様を真似てお祈りと、
日々の犠牲をお捧げすることができますように!

公教要理のレポートを書かせて頂きます!

《分かったところ》
ファチマの御出現の時代背景がこんなにひどい第一次世界大戦の真っ最中だとは知りませんでした。全く終わりの解決の糸口の見えない、状況は何も変わっていないのに、戦死者の数だけが膨れあがるという、まさにこの世の地獄という状況で、しかし、人間の力ではどうしようもできない状況でも解決に導いて下さるのが、マリア様で、小野田神父様が質問された方のお答えでも仰って下さっていましたが、天主様の憐れみマリア様の憐れみの力がより一層輝くために、もちろん人間の自由意志の濫用なのですが、天主様はこの第一次世界大戦が起こることをお許しになったのだなと思いました。

また東京の方もレポートで書いて下さっていましたが、第二バチカン公会議以降の今教会内部にある戦争は、上層部が「戦争は起こっていない、何も問題がない」と、敵に対して無抵抗のままなので、更に全世界で膨大な数の霊魂が死んでいる更に恐ろしい状況だなと思いました。
この時また、秋田のマリア様が天から介入して下さり、秋田のマリア様は、「私たちに残る武器は、ロザリオと、御子の残されたしるしだけです。毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって司教、司祭のために祈ってください」と、解決に導いて下さっているのだなと感じました。またより一層ロザリオの十字軍の重大さを感じました。

《分からなかったところ》
全てが新たな発見で、分からない所はなかったように思います。三部作にして下さりありがとうございます。これから天の介入の所に入っていくと思うので次が楽しみです!

デオ・グラチアス!


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
昨日一昨日と、御ミサ・御聖体降福式・ファチマの歴史の時代背景の御講話など本当に色々ありがとうございました!!(*^▽^*)
ステンドグラスが付けられた御聖堂は本当に天上的で美しいですね!!それを眺めているだけで心が天に上げられるようです。
ルフェーブル大司教様が、「…天主様との一致は、むしろ、宗教的な天的な音楽や、典礼行為を取り巻く全体的な雰囲気や、その場所の敬虔さとか沈潜、建築学的な美しさ、キリスト共同体の熱意、ミサ司式者の高貴さや敬虔の念、象徴を使ってある装飾、香の香り、などによって得られるのです…」と仰っていた事を思い出しました。

デオ・グラチアス!


【報告】
大変遅くなってしまいましたが、
御ミサでの所感をご報告申し上げます。(^_^;)

【霊的講話で】
これまで第一次世界大戦については、
「サラエボ事件でオーストリア皇太子夫妻が暗殺された、それが第一次世界大戦のきっかけとなった。」という
歴史の授業の内容しか記憶していませんでした。
今日の小野田神父様の霊的講話で、その真理が明らかになりました。
真の宗教、真理の観点では、これは国同士を巻き込んだ戦争ではなくて、
「カトリック」対「フリーメーソン、共産主義」の戦い、つまり「唯一の善」と「悪」の戦いだったことです。
真の、唯一の天主、唯一の宗教だけが、歴史も自然も、全てを完全に説明できると深く理解できました。

また天主を排除した世界が、どれほどみじめな状況になるかを悟りました。

【お説教で】
ファティマのマリア様は「私は天国からのものです。」とおっしゃいました。
どうして「天主の御母です」とか「無原罪の御宿りです」などとおっしゃらなかったのだろうと、
ずっとなんとなく疑問でした。その疑問にマリア様は小野田神父様のお説教を通してお答えくださいました。
それは私たちの心を天国に向けようとされていたのだと理解できました。
なぜなら、ルチアはすぐに自分やヤシンタ、フランシスコ、亡くなったお友達が天国に行けるか、行ったかを聞いたからです。

マリア様は、亡くなったお友達が煉獄に行ったこともおっしゃいました。
7月には地獄のビジョンを子供たちにお見せになりました。
ファティマのマリア様は死の次にある、天国、煉獄、地獄を
現代の私たちに、はっきりとお示しになられたのですね。

ファティマの天使が、大天使聖ミカエルであったことに驚きました!
天使の祈りを、額を地面につけて唱えるよう教えてくださったのが、
聖ミカエル様であったことに、深く納得し、天軍の総帥が自ら手本をお示しになってくださったことに
さらに尊敬と親愛が増しました。
ポルトガルも日本も、聖母の汚れ無き御心に捧げられた国家だから、
聖ミカエル様も保護者となってくださったのでしょうか?と思いました。

天使は祈ることはできても、苦しみ、犠牲を捧げることはできないので、
苦しんだり、犠牲を捧げることのできる人間を羨ましいと思ってさえ、いるということに、
はっ!としました。
そして犠牲をお捧げできる私たち人間はなんて幸せなんだろう。
天主様にもっともっと愛と犠牲をお捧げしたいと思いました。

つい最近、プロテスタントの布教の車のスピーカーから、「イエス様を信じるものは救われる・・・」とずーっと流れていました。
その大音量のテープを聞いた人は「ああ、”宗教”だ、”宗教”が何かやっている」と失笑していました。
テープの内容は「復活されたこと」「神を信じるものは救われる」というもので、確かに間違ってはいないことでしたが、
テープを聞きながら、カトリックとどこが違うのかを考えていました。
カトリックでは、車から大音量で布教をしたりしません。
カトリックは、天主を知ろうとしない、あまりにも多くの人たちのために、
その人たちのために、その人たちのかわりに祈り、犠牲を捧げて、自分の命を捧げてまでも、
罪人の回心を聖母を通して、天主に懇願します。
回心は天主からの憐れみの恩恵であり、聖母の御手を通して与えられるものです。
天主の無い、憐れみの御母のいない、聖なる御ミサの無い、真の秘蹟の無い、真の信仰の無い、プロテスタント。
そのスピーカーから流れるテープを聞いて、「回心」はあるのだろうか?と思いました。

聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
ファティマの聖母、我らのために祈りたまえ。


【報告】
Dear Fr Onoda:
今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 21人(内、子供2人)
女: 21人(内、子供3人)
計: 42人(内、子供5人)


【報告】
+アヴェ・マリア・インマクラータ!
トマス小野田神父様

小野田神父様、こんばんわ。いつも私たち霊魂のために奔走してくださって心身ともにお疲れのことと思います。いつも本当にありがとうございます。

御ミサのレポートをお送り致します。
・今日の御ミサでこれだ!と分かったこと
1つは、書簡で聖パウロは「憐れみの腑を着よ」とパウロ様は仰っており、これは「上辺だけでなく、腹の底から憐れみをもつ」ということであること。
書簡では私たちは天主様から「愛された者である、選ばれた者である」と述べられていることを考え直し、何と恵まれた有り難いことだと思いました。
しかし、その分の責任が伴うので、(堅振の時の霊魂に刻まれる印、印を受けたまま地獄へ落ちてしまった場合、地獄の更に深い場所へ行く話を思い出しました。)責任を果たせるように、更にマリア様におすがりしてお祈りしなければと思います。よく償いの行為と、ロザリオのお祈りをしようと思いました。

もう1つは、聖福音で敵が毒麦をまいたがこれは天主様のご計画の内で、しかし「毒麦は最後には集めて炉に入れられる」こと。
現代社会がすっかり忘れ去ろうとしており、カトリック教会さえもその存在を忘れさせようとしている「四終」を思い出しました。(私はノブスオルドの教会に通っていた時には「四終」という言葉さえ知りませんでした・・・)私たちは常にこれを意識すべきである事を再確認し、特に死者の月に当たって良い黙想をすることができました。

「憐れみの腑」「四終」という事を考えつつ、「ああ、天国への道はなんと遠い・・・・・・」と思っていたのですが、
聖体拝領誦の「汝らにいう、祈って願うことは、すでに得たと信じよ。そうすれば、得るであろう。」というお祈りでとても慰めを受けました。
天主様とマリア様に感謝いたします!


公教要理の時間には、聖ヨハネによる黙示録について、レオナルド・カステラニ神父様の著書を元にしたお話を伺いました。
黙示録は難解で意味がよく理解できておらず、意味を知りたいなと思いインターネット上で黙示録について検索するとオカルト的だったり終末論の要素が強調されすぎていたり・・・という検索結果や本しか発見できなかったので、これは見ない方が賢明だろう、と思いそのままにしておりました。
しかし、今回は神父様が解説してくださるということでとても嬉しかったです!

今回教えていただいたことを以下にまとめました。
・黙示録は、使徒聖ヨハネがパトモス島で書いた。
・始まりの言葉 "Apo-kalypsis" とは、「ベールを取る、隠れたものを明らかに啓く」という意味。
・黙示録には様々な解釈がある。ある人は、これは詩で、つまり文学であるから誰にも理解できないという。
 またある人は、これは預言書だが難解で誰にも理解できないという。しかし、この本の著者であるカステラニ神父様は、違った見方をして、
 「これは預言書で確かに難解だ。しかし天主様は難解で理解不能なものを聖書の正典として残されることは、なさらないはずである。
 つまり、難解だが意味を理解することができるはずであり、また、意味を探し求めることに意義がある。」と述べている。
・黙示録には2つの傾向がある。1つは、「終末論に重きを置いた歴史」 もう1つは、「歴史に重きを置いた終末論」である。
・聖ヨハネは、黙示録中で計20のビジョンを見る。初めの10は「終末論に重きを置いた歴史」、後の10は「歴史に重きを置いた終末論」に分類される。
・20のビジョンは以下の通り。
 「終末論に重きを置いた歴史」に分類される初めの10
 1.7つの教会への手紙
 2.本(巻物)と子羊
 3.7つの封印
 4.選ばれた者達が印をされる
 5.7つのラッパ
 6.本(巻物)が飲み込まれる
 7.神殿が測られる
 8.2人の証人 
 9.第7のラッパ
 10.冠を被る婦人
 「歴史に重きを置いた終末論」に分類される後の10
 11.2匹の獣
 12.童貞と子羊
 13.永遠の福音
 14.刈りとる者
 15.7つのさかずき
 16.大淫婦
 17.バビロンの壊滅
 18.千年王国
 19.最後の審判
 20.凱旋のエルサレム
・「1.7つの教会」とは、「歴史の中の7つの教会の段階」である。
 1.エフェゾ:「跳躍」の意。(意味はイエズス会士ビヨ枢機卿の解釈に依る)使徒達〜ネロ帝の時代を指す。
      「ニコライ派の異端」(2:7)とは助祭ニコラウスのこと。
       エフェゾはカトリックが盛んでありつつも、異教も盛んであった。
       ニコラウスはそちらに靡き人々に悪い手本を見せてしまった。
 2.スミルナ:「没薬」の意。殉教者の時代、ネロ帝〜デオクレティアヌス帝の時代。
       「10日間の試練」とはネロ帝〜デオクレティアヌス帝の10代の皇帝を
        指しているのだろうか。
 3.ペルガモ:「巻物、羊皮紙」の意。教父・博士達の時代。聖アンブロジオや聖アウグスティヌスが出た。
 4.ティアティラ:シャルル・マーニュ〜宗教改革の時代。キリスト教文明が最高潮を迎えた時代であった。
 5.サルデス:ルネッサンス〜フランス革命を経て現代まで。
      ルネッサンスとは、フランス語"re-naissance"「新たに生まれる」の意。
      黙示録3:1には、「あなたは生きる者だと思われているが、実は死んでいる。」とある。
 6.フィラデルフィア:「兄弟愛」の意。新しいエルサレムのこと。
 7.ラオディキア:千年の福なる教会

黙示録の解説を全く見たり聞いたりしたことのない私にとっては正に目からウロコでした。この難解な書物を素晴らしく研究なさった教父達や神父様達のお力と努力は素晴らしいと思いました。
カステラニ神父様の、天主様は(理解不能な書物を残すなどという)不要なことはなさらないはずだ、これは難解だが意味を理解することができるはずであり、また、意味を探し求めることに意義がある。という姿勢も本当にカトリック的で素晴らしいと思います。「分からないものは分からないから、いいや!」や
逆にこれまでの教会が教えてきたことを超越して異端的解釈・独り善がりの解釈をしてしまうのではなく、天主様が教会を通してこれまで教えてくださった事から決して離れずに、しかし、まだ良く理解できていない事柄に対する理解を深めようと天主様の恩寵を求めつつ努力する姿勢は、聖イグナチオが仰っている「中庸」だとも思い、これが素晴らしいカトリックの教義を深めてきた方々の、そしてカトリック教会の姿勢であると思いました。学問や事象等々、何か物事に対した時に人間は正にこのようにあるべきだと思うので、それを実践し続けてきたカトリック教会は本当に素晴らしいです!!! 私はよく分からない、理解できないことがあると「いいや!」と逃げてしまうタイプなので・・・さらにより良いカトリック教会の成員となるために天主様の恩寵を望み、しかし自らもよく努力する姿勢を身に付けなければ、と思うことができました。デオグラチアス!
また、神父様もおっしゃっていましたが、聖書には1つの言葉に対してだけでも二重・三重の意味があり、これはとても人間の力で書けるものではない大変素晴らしい天主様の御言葉です。信仰指導書には聖書を「奉読する」と書かれているものも多くあると思うのですが、聖書は正に「読む」ものではなく「奉読する」べきものであると思いました。

聖母の汚れなき御心への信心が一日も早く確立されますように!
+In Mary Immaculate,


【報告】
十アヴェ・マリア・インマクラータ!

今回も御ミサに与ることができまして感謝でした。
10月のミサでは、聖伝のごミサは まるで天国のようだと気づかされ、ミサの美しさと天国への憧れで気持ちがいっぱいになりました。ところが、いつ間にかその心のなかにはこの世のことがいっぱい満ちてしまって、苦しさに気づいた時には、自分ではもうどうすることもできないかのように、お手上げみたいになりました。そんななさけない状態で 聖霊降臨後第25主日の御ミサに与らせていただきました。
そして、ちょうどそのような私の霊魂を癒し慰め励ましてくださるかのようなこの日のお説教でした。
「どれほど多く天のことをかんがえたことか?」との問いかけには本当に地上のことだけ自分のことだけになってしまっておりました、と答えざるを得ないような者です。
けれど この世にはそして教会の中にさえも 敵が毒を撒いたのであり最後には毒麦は毒麦として集められ焼かれ、良い麦は集めて蔵に納められるのだから、選ばれたものとして聖なるものとして天主様から愛されたものとして特別のお恵みを受けたものとして「憐れみの腹わたを着よ! 謙遜 慎み 忍耐を着よ!」 と 励ましていただきました。
私は 選ばれ愛された者と言われる資格もなくただ惨めで恥ずかしい事ばかりの者ですが、天主様の恩寵をいただきましたことの感謝とともに「あなたの聖なる家族を守ってください!」と嘆願し祈らねばならないと勇気づけられました。
そして ご受難と復活を遂げ、私たちのために天国を獲得してくださったイエズス様への愛をもってその天国をもっといつも思い起こすようにしましょうとのお話しに ハッといたしました。
ここにいる私は 良い麦畑に憩っているかのように感じられ、聖なる平安が漂うごミサに与ることのできる幸せに感謝したしました。「私が悪い麦であっても 聖なるミサ聖祭の功徳と ここにいる皆様の祈りとにより いくらかでも良いものとされますように。」

帰宅し眠りに入るまで 「天国のことをもっとしばしば思いますように」、「ジャシンタのように自分のなされる悪を思うのではなくそれを罪の償いとして喜んで犠牲を煉獄の霊魂のためにお捧げすることのできますように」との2つを自分自身に言い聞かせました。この2つを心の留めて、ロザリオ十字軍を続けられたらと思います。 (私の場合 自分がにうっかりしていて周りの人に悪いことをしてしまっていると気づかされることの方が多いものです。)

公教要理では、黙示録の講話でした。1956年に Leonardo Castellani 神父さまの書かれたものを 元にした お話しということで、
聖ヨハネが見た20の幻視のなかで、特に7つという数字を用いた幻視について詳しく説明していただきました。
黙示録には7つという数字がいろいろなところにつかわれてます。
お話しのなかで、特に サルデスの教会の時期が、ルネサンスからフランス革命を経て 現代まで続いている時代を象徴した部分ですという説明が、印象深かったです。
新しく生まれる renaissanceは、
re(もう一度) + naissance(生まれる)
この時代について 「生きてると言いながら実は死んでいる、生き返ったと言いながら、実は古代の異教のものの生き返りで実は死んでいる」、との説明が特に心に留まりました。
帰宅して聖書の黙示録を開いて読みました。そうしたらサルデスの教会へ書き送られた言葉が活き活きとしたものとなってきました。
人間がルネサンス以降 神の方へ向かうのをやめようとし始め、人間性を重視する文明を築こうとし、政治においても神から付与された政権というものを捨て、ついには第二次世界大戦から第二バチカン公会議まで至ってきているいま、古い宗教に縛られた古い生き方を捨てさり、人間として生きることを目指しているかのように自分ではそう思っている今の人たちは、実はキリストの死と復活によって新しい命をいただいたことを捨て、古代の異教バビロンの死の生活をする死んだ者達に過ぎないと、言っているかのように思えてきました。
目を覚まして、死んでいるに過ぎない人間中心の生き方から 「どのように教えを受け、どのように聞いたかを思い起こして、それを守りなさい。そして 悔い改めなさい。」(黙示録3:3 )の助言を真摯に受け入れなければ、キリストによって得られた勝利の白い衣は着れない、というところは、聖伝の伝統的なカトリックの教えを守りなさいと言っているかのように思われてしまいました。人間中心の今の生き方は バビロンの時代のようなものなのでしょう。そして この部分が現代に当てはまる時期であるとのCastellani神父様の考察は なかなか鋭いのかなと 感じます。
 イエズス様がマリア・マルガリタ・アラコックにご出現されて聖心の信心が打ち立てられた過程を思い出したり、マリア様のファチマでのご出現でマリア様の御心の信心を通してイエズス様の聖心の信心へと向かうことをお望みになられたのも、この人間中心の生き方をあらため 私たちが本来そうであるようにつくられたところのイエズス様を心の中心に王として生きるようにとの 天主様のお計らいなのだろうとを思いうかべた次第です。

次回の黙示録の講話も楽しみにです。

今月は 小野田神父様が主日の御ミサを続けて三回捧げてくださるご予定で、またすぐに御ミサに与れると思うと 大変嬉しいです。本当にありがとうございます。

感想を書くことで 自分自身のなかで 信仰を確認する作業ができるようです。手元から流れいったかもしれないものを ちゃんと抱きとめ しっかり言葉にして大切にすることができるようです。
神父様、いつも大変ありがとうございます。

デオグラチアス!



聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

ロザリオの十字軍)2016年11月9日現在、日本からロザリオ3,526環、犠牲28,803回が報告されました。

2016年11月10日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年11月 09日現在、

日本から今までの総計で、ロザリオ3,526環、犠牲 28,803回が報告されております。天主様に感謝!

マニラからは、ロザリオ23,273環、犠牲15,484回が報告されています。

韓国からは、ロザリオ1,216環、犠牲260回が報告されています。

今週は、
11月12日(土)10時半から大阪でミサ聖祭が、

11月13日(主)10時半から東京でミサ聖祭があります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【報告】
+アヴェ・マリア・インマクラータ!

小野田神父様
諸聖人の祝日おめでとうございます!!
いつの日にか私達も諸聖人方のように天の国に凱旋することができますように、聖人方がみなマリア様を愛されたようにマリア様をお愛しすることができますように!

10/1~10/31のロザリオ十字軍の報告をいたします。
ロザリオ42環
犠牲99回
をお捧げすることができました。
デオグラチアス!

【報告】
下記に御報告を。
どうぞ、宜しく御願い致します

シスター   ロザリオ93  環      犠牲 報告なし
ヨゼフ・マリア    64  環      1860 回
アンナ        28  環        930 回
マリア         3 環         30  回
マリア        31環        1550  回
マリア        31環         310  回
バルナバ       80 環         467  回
アリア        93  環        310  回
ヨゼフ        93  環       0 回   
マリア        149 環       934 回
マリア         93 環       186 回
マリア         95 環    362 回
     計    853  環    6939 回  
以上です。


【報告】
8月15日から10月31日まで、ロザリオ228環、犠牲152回を報告します。デオ・グラチアス!

【報告】
追加です。聖なるロザリオ12環、犠牲 310回追加報告します。


【報告】
10月のロザリオ十字軍のご報告をさせていただきます。
6人で
ロザリオ:248
犠牲:817
お捧げいたしました。

【報告】
10月のロザリオ十字軍の報告をいたします。
10月1日〜10月31日
ロザリオ 117環
犠牲 396回
です。

デオグラチアス!

秋田巡礼-お説教-2016年5月5日シュテーリン神父様「主の御昇天」今日、天主イエズス・キリストは天の門を大きく開いて、天主聖父の右に座し給うた。

2016年11月07日 | お説教・霊的講話
2016年5月5日 秋田巡礼 主の御昇天のミサ
シュテーリン神父様御説教

同時通訳:小野田圭志神父



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

40日間の使徒たちへの御出現の後に、私たちの主イエズス・キリストは大きな凱旋を以て天国の国に戻ります。これは私たちの主の偉大な凱旋でした。この凱旋に私たちも、私たちの慰めの為に参与するように望んでいます。

永遠の最初の、その初めのない最も最初から、第2の天主のペルソナは全き幸せの中におりました。永遠のある時に、天主は天と地を創られました。この私たちがこの巨大さに感嘆する大宇宙は、天主様の前ではほんの一粒のゴミに過ぎませんが、それを天主は創りました。

天主がこれを創造されたのは1つの目的の為です。その目的とは、御自分に似た被造物が、つまり天使たちと人間たちが、御自分と同じ幸せに参与する事ができる為でした。これは天主様の巨大な憐れみの御業です。

無である私たちが在らされ、在らしめられて、天主の子供として、永久に永遠に無限の幸せを得る、参与するように望んでおられるのです。

天主様は、流されの身であるこの地上に長い間居る事は望まれませんでした。何故かというと、私たちの存在は2つの部分に分けられるからです。

ちょっとした準備の段階と、その次に本当の命が始まります。少しの旅の後に、本当の私たちの住まいの生活が始まります。ちょっとした仕事と試練の時の後は、永遠の休息が待っています。

しかし人間はその事がよく分かっていませんでした。この地上の無、この世の無にあまりにも重要性を置きすぎています。天主に背を向けて、この地上の事だけに専念しています。これが天主に対する侮辱であり罪です。天主にとって全く問題なく全てはキャンセルして、全くこれを無に帰する事もできました。

そうはなさいませんでした。天主は罪を、更にもっと巨大な憐れみの御業の機会としたのです。

天主の偉大なる三位一体の第2のペルソナが、この小さな無に等しい世界にやって来られました。正確に33年間、私たちの間に住まわれました。

私たちの主イエズス・キリストは、童貞女マリア様からお生まれになられた、真の天主・真の人であります。

30年間、貧しい大工の子として生活されました。それは私たちに模範を与える為です。どうやって生活するべきか、どうやって天主の御旨を果たすべきか、天主の御心に適うべきかという事を示す為でした。

3年間、私たちに真理を説教しました。天主の御国を地上に確立する為です、すなわちカトリック教会です。それは私たちが天主の御国に帰る事ができる為の「道」とその「道具」を準備する為でした。

地上での生活のその最後に、自分御自身の命を捧げられて、十字架の上で亡くなりました。私の為にその御血を全て流されました。私の罪を全て洗い浄めて下さいました。悪魔の支配とその鎖から解き放って下さいました。もう死の病にかかっていたのを今、元気にして下さいました。天主の命を私の心に注ぎ込んで下さいました。昔は単に悪魔の子であったのに、今は天主の子供として下さいました。失われたエヴァの悲しい子供であったにもかかわらず、今では天の御父の子、天の御母の子として下さいました。天主御父の御旨を果たし、この地上に於いて果たさなければならない使命を全て完璧に果たされました。

3日目の後に、死の内から甦り給うたのです。栄光に満ちた復活に於いて、「真にイエズス・キリストは天主である」という事を証明しました。イエズス・キリストは、確かに御自分の宗教だけが本当の真の宗教である、と証明しました。私たち全ての、私たちの人生の究極の目的は、終わりは何か、という事を示しました。それは「復活」です。

使徒たちの間に留まって40日間の間、御自分の復活のその効果を、復活体とはどのようなものか、という事をその目に示しました。それは彼らの信仰を強める為です。将来の教会の指導者としてそのミッションを準備する為でした。

この日がやって来ます。そこからいらした天主聖父のその元に、もはや帰る事ができます。この循環をご覧下さい。天主聖父から出てこの世に来られ、私たちの元に住まわれ、使命を全て果たされて、天主聖父の元に帰って行きます。

第1の運動は愛の発出です。天主聖父を愛し、天主聖父の御旨に適う為、また私たちへの大きな愛の為に、天主聖父を離れて私たちの元に来られて、私たちを愛するが為に全ての苦しみ困難を受けました。

良き牧者が羊を、失われた羊を探して、どこかに井戸に落ちていないか、迷子になっている羊たちを探してかき集めました。天主聖父の元に帰ります。

「天主聖父の元に戻られた」という事は、「皆さんと私の為の道が開かれた」という事です。何故なら原罪以降、天の門は閉ざされていたからです。誰も自分で自分を救う事はできません。

今日、天の門を荘厳にイエズス・キリストは開かれました。今日、天主イエズス・キリストはその門を大きく開いて、天主聖父の右に座し給うたのです。

この瞬間、天に一体どんな事があったか想像できますか?

数万、数億、数兆の天使たちがこのイエズス様を待っていたのです。天主聖子が遂に、地上での使命を果たされて天に戻ってやって来た。それを歓迎して、それを喜び受け入れるその天使たちの姿を。

そうやって天の御国を所有する為に戻って来るのですが、一人ではありませんでした。旧約聖書の多くの義人たちを連れてやって来られました。まず連れて来られたのは聖ヨゼフ。洗者聖ヨハネ。その次に全ての太古の義人と預言者たち。何百年も何千年も待ちに待ち焦がれていた、この命の人生の最終目的に到達したのです。

今すでに道は開かれています。イエズス様は皆さんと私の為に道を開かれました。この道というのは、イエズス・キリスト御自身です。

皆さん分かりますね?この私たちは、この地上の為にここに創造されているのではありません。天国の為に創られました。今まで太祖たちは追放の身でした。それが遂に今日、家に帰る事ができたのです。この太祖たちはこの時、各、各々がそれぞれの冠、それぞれの報い、それぞれの栄光を受けて、それを永久に所有するのです。

イエズス様が何と仰ったか覚えていますね?「私はお前たちの場所を準備しに行く」と。「準備が終わったらお前たちを皆連れて戻って行く。」

愛する信者の皆さん、これこそが今日の喜びです。しばらくの間、私たちの追放の逐謫の身であるこの地上での無を、苦しみを忘れて下さい。天の門が開いているのご覧下さい。このきれいな黄金の門が皆さんの前に大きく開かれていて、その中には皆さんの名前が金の文字で書かれています。

イエズス様がマリア様の為に準備したその栄光、聖ヨゼフ様の為に準備したその栄光、それと同じような栄光を、皆様の為に一人ひとりの為に準備しています。

注意して下さい、まだ到着してはいません。恐れおののかなければなりません。もしかしたらそれを失ってしまうかもしれないからです。

でも絶望してはなりません。何故ならイエズス様は約束されたからです、「もしも私と共に留まるなら、また私の母と一緒にいるなら、必ず天国に到達する。」

これは「希望」と申します。この聖なる希望は、ファチマのマリア様も繰り返して仰いました、「私の汚れなき御心は、あなたたちにとっての避難所です。天国へと導く道となるでしょう」と。

テ・デウムの中でこの聖なる希望について歌われます、「私はあなたに信頼を置いた。私は決して永遠に辱められない」と。

愛する信徒の皆さん、今日この日私たちは、天主様に信頼する大きな心を持たなければなりません。天主は全てができます。何故なら全能だからです。天主様は皆さんの救霊を望んで求めています。イエズス様は皆さんを愛しておられます。

もしも辛い事、悲しい事、苦しい事、困難がこの地上であったら、「あぁ、この地上はあっという間に消えてしまう。消えてなくなる」と思って下さい。10年15年前に苦しんで、苦しんでいたこの事を思い出して下さい。「もしかしたらもうこれで生きられないかもしれない。もう駄目かもしれない」と思ったかもしれません。もう感情が混乱してしまっていたかもしれません。もう「全てが万事休すだ」と思ったかもしれません。でも今日そんな事覚えていないじゃないですか。それと同じように今日の苦しい事も、5年後には同じ事です。

この世は新幹線のようにあっという間に過ぎ去ってしまいます。その後で一体何が起こるでしょうか?

マホメットや仏陀や他の人は何と言うでしょうか?「ニルバナ」とか、「無」とか、或いは下らない話し。

でも私たちの主イエズス・キリストは真の天主であり、この真の天主である事を御自分の身を以て証明されました。この真の天主が約束しています。マホメットさんの約束は私たちは信頼する事ができません。しかしイエズス・キリストの約束は信じる事ができます。

私たちはただ、ただ、ただ、天主様イエズス様に感謝、感謝、感謝のみです。何故ならばイエズス様は私たちの間に在して、私たちの為に天国に行く道を準備したからです。

人々が普通自分の人生の事を考えると恐れています。「あぁ年を取ったし、弱くなっているし、家族にとっては重荷だしもう巨大ゴミのようだ。年を取ると病気になるし、もう最後の死を待つばかりだ。」日々日々、人々はますますがっかりして憂鬱になってしまいます。

本当はその反対であるべきです。「今日はまた1日天国に近くなった!家にもうすぐ近く、帰るのにまた近くなった!」

1日が終わった後で私たちはこう言わなければなりません、「イエズス様、1日のこの仕事が終わりました。私がいつも御身に忠実であるますように助けて下さい。何故なら約束されたからです。」
『私にいつも終わりまで忠実であれ。そうすれば永遠の喜びの冠を受けるだろう。』


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

秋田巡礼-霊的講話【5】-2016年5月5日シュテーリン神父様「“天主の憐れみ”と“謙遜”」

2016年11月06日 | お説教・霊的講話
2016年5月5日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話5
「“天主の憐れみ”と“謙遜”」

同時通訳:小野田圭志神父


私たちは天主の属性の最も偉大なもの、つまり「天主の憐れみ」という事について理解を深めようとしました。

天主の、全ての所有者が無に施したという、その2つの状況が1つになったということを覚えて下さい。

Abyssus abyssum invocat.(詩篇41:8)深淵が深淵を呼ぶ。“Abyssus「深淵なる無限の天主」”が“Abyssus「深淵なる無」”と結びついた、という事をいつも覚えて下さい。無限の善と豊かさと美しさと、無限の無が1つになった、という事をいつも覚えて下さい。

第1の憐れみは、その天主の心から無を生み出した、無から有を生み出した、創造したという事です。創造した後には私たちを在り続けさせて、存在し続けさせて、それを保存し続けて、それが御摂理です。無に等しいような私たちをとってこれを私たちをして、天主の息子、天主の娘、聖なる子供たちとして下さった事です。何も持っていない奴隷が、天主の子供となって全てを持つ事ができるようになった。

天主の永遠の命がどうやって私たちに下さる事になったのでしょうか?どうやって?

天主様はただ配達の人を送ったのではなくて、御自身から、自ら、私たちのもとにやって来られました。色んな来方がありました。しかしその色んなやり方、来るやり方に於いて、どんなやり方で来られたでしょうか?色んなやり方がある中で、一番御自分の「憐れみ」というものをよく示す事ができるやり方で来られました。

無限の天主、誰も踏み込む事のできない天主が、ほんの小さな胎児になられました。無限の計り知れない天主が、ほぼもう目に見えない小さなものとなられた、という事を考えて下さい。天主が人となって人間の心を持ちました。この人間の至聖なる聖心に於いて、憐れみがますます光り輝きます。

何故かというと、「心がどれほど良いか、良い心を持っているか」という事は、「どれほど憐れみ深いか、どれほど愛するか」という事で計られるからです。母の、良き母の心というのは、自分の子供たちに与え、子供たちを愛するという事です。これが御自分の聖心を皆さんに見せようとした時に、理解させようとした事です。

聖マルガリタ・マリア・アラコックに現れてこう言います、「見よ、人類をこれほどまでに愛したこの聖心を見よ。」

明日は初金曜日ですから、イエズス様の聖心の連祷を唱えます。その時に、『全ての宝を秘めたるイエズスの聖心』という言葉があります。全ての宝、天と地の全ての宝と全ての徳に満ちた聖心です。

この天主の聖心は一体誰の為に鼓動を打っているのでしょうか?

このほぼ無に等しい存在の為に、鼓動を打っています。

しかし非常に恐ろしい事が起りました。皆さんの存在、天主が創られたすばらしい美しい宮殿、この宮殿は原罪によって罪によって廃墟となり、汚く汚されてしまいました。天主様が無限のものすごい贈り物をプレゼントを持ってやって来て、そのプレゼントを与えようとしてこの宮殿の前に来るのですけれども、ノックしてもドアは開かれないし、その神殿はすでに汚く汚されて、破壊されてしまっているのです。

もしも天主様が贈り物を与えようとして来て、せっかく来たのに宮殿に来てみたら、この自分の作った宮殿はもう汚く汚されて、壊れてもう入る事もできなくなっている酷い状況です。天主様は何をするべきでしょうか?

「無からあなたを創った時に、憐れみをもう既に見せたのではないでしょうか?この美しい宮殿を建てたのは一体誰ですか?私ですよ。美しい花と美しい装飾品であなたを飾って、この美しい美徳で飾ったのは才能で飾ったのは私ですよ。でも私があげたあなたに与えた全てのものを、ただ壊して、破壊して、濫用していただけなのです。私の愛をただ馬鹿にして笑って、毎日毎日馬鹿にするだけでした。私の心をもう与える事ができません。もしも最初に忠実である事ができないなら、2回目はもうチャンスがありません。この美しい宮殿はすでに屈辱されました。もう私の目に入らないで下さい。」

天主様はこうは言いませんでした。

天主様はこの悪に、この闇に向かい合います。天主様が自分の永遠の命をこの無に等しい被造物に与える為に、悲劇は起こります。天主様はこの世を贖う為に血を流す、流血の悲劇のドラマを今から行います。

憐れみに満ちた天主の御旨においては決心が立てられています、「悪魔はこの宮殿を破壊した。しかし私はそれを回復させよう、建て直そう。」

この世の中に天主が人となって来られた時に、イエズス様の聖心は鼓動を打ち始めます。天主様はこの破壊された宮殿の中に入ります。この閉ざされた門を強くたたいて、このドアが開けられるように求めています。私たちの冷たい石のような心にドンドンとノックします。

しかし、その開かれた冷たい門から、汚らしい水がドクドクと流れて来ます。私たちの心の奥からは、汚物が激流のようにドロドロドロと流れて来て、イエズス様のきれいな聖心を押し潰します。イエズス様はその汚い罪の杯を飲み干し、そしてその罪の結果を全てこの肩に背負います。

例えば人間の心をきれいな心をとって、それを千回、一万回、何十万回もそれを押し潰してしまったと考えてみて下さい。私たちがイエズス様にやったことはそれです。

イエズス様の聖心の憐れみは何をしているでしょうか?私たちの全ての汚物、汚らしいものを自分のものとして取って下ってくださいます。恐ろしい御受難によって、私たちの汚く壊れた霊魂を、また美しく建て直しました。

イエズス様は私たちの負債を全て支払いました。私が当然受けなければならない罰をイエズス様が全て受けられました。イエズス様は自分の可能な限り私たちを愛し尽くしました。

天主様の憐れみは終わりがありません。たとえ罪であっても、それは天主の憐れみの障害ではありません。その罪を打ち砕いても憐れみを与えます。

イエズス様の憐れみは、その完璧な従順によって、私たちの不従順と反抗を癒します。私たちの貞潔に背く罪も、イエズス様の体と頭とこの肉体が全て破壊し尽くされる事によって癒します。私たちの死も、御自分が最もひどい最悪の死を受ける事によって癒します。

ここに天主様の憐れみの全ての段階が、全てのリストがあります。

皆さん、私たちは今憐れみの聖年の中にいます。この憐れみの聖年を宣言された当局からは残念ながら、この「本当の天主の憐れみ、憐れみとは何か」というこの今私が申し上げた事についての一言の言及もありませんでした。天主様イエズス様がこの世の全ての悪、汚れ、汚物を自分に受け取った後には、1つ望んでいる事は、御自分の憐れみを全ての人に、「どのような罪人であれ、どのような極悪人であれ、全ての人々に自分の憐れみを示したい」という事です。

では私たちの救いの救霊の一番の障害は何でしょうか?

私たちの罪ではありません。私たちの弱さでもありません。私たちの性格でもありません。怒りっぽい事でもありません。問題は、「私たちが天主の憐れみを望まない事」です。

私たちはこう言わなければなりません、「私たちは誰も、天主の憐れみを十分に受け取ろうとしていない」と。

私たちが想像を超えたよりもはるかにもっと、もっと、もっと、もっと、イエズス様は憐れみを与えたいと願っています。

イエズス様がもっと下さろうとしている時、良きキリスト信者とはどのようにあるべきでしょうか?

良きキリスト信者というのはこうです、こうあるべきです。イエズス様に許可を与えて、「はい、憐れみを下さい」と憐れみを受け取ることです。

もしも皆さんが1億円私に下さるとしたら、もちろん私は、皆さんが私に1億円を下さる事を許可します。

しかしその反対に、もしも私が皆さんにこう言ったとしましょう。
「お金をくれる前に、私の足に接吻して下さい。私の服も洗ってください。2時間くらい待ってくれませんか。もっと別のことが、他にやる事があるからです。そのあとで、1億円もらってあげましょう」と。もしもそんなことを言ったら、皆さんは怒って、それならあげません、もういい!とおっしゃることでしょう。

実はこれが私たちのやっている事です。私たちがいつもやっている事はイエズス様の聖心に、「私の罪を赦しても良いですよ。私の汚物を取っても良いですよ。」
これはオーバーではありません。

時にはこうも言います、「でもイエズス様、でも全部汚物は取らないで下さい。ちょっとだけ残しておいて下さい。私は汚物が好きなんです。」「1億円も私に与えないで下さい、1億円もいりません。ただ千円だけ下さい、千円。」

私たちはイエズス様の贈り物をいつも制限しているのです。だから天主様は涙を流しています、悲しいのです。

聖マルガリタ・マリア・アラコックにイエズス様は仰って、「見よ、人類をこれほどまでに愛する聖心を。しかしこの返答として私の受けるのは、冷淡と、無関心と、冒瀆だけだ」と。

ではすると、一体誰に、一体どこに、イエズス様が全てを与え尽くす事ができるかという事が分かりますね?

遂にイエズス様が、御自分の与えようとした御恵みの全てを完璧に与える事ができる、この心にだけはイエズス様は全てを100%与える事ができるのです。何故かというとこの心は、イエズス様の贈り物を100%受けるように開いているからです。

それがマリア様です。だからですからマリア様は聖母は、天主様の最高の御恵みを全て受けた方です。これが聖母の無原罪の御宿りの正しい理解のやり方です。何故かというとマリア様は、無原罪の、原罪の汚れなき宿った方ですから、全て受ける事ができたからです。

聖トマス・アクィナスはこの点が理解できませんでした。2つの意見を提示して、マリア様が原罪を持って懐胎されたという意見に傾いているように思われます。何故かというとその理由は、「全ての人間は贖わなければならないから。そしてマリア様さえも贖われていなければならないから」という事です。もしも、「イエズス・キリストの贖いの業を必要としない」と言う人間がいたとしたら、それは異端者です。「原罪を除去する為にイエズス・キリストの贖いが必ず必要だ」という、キリスト以外の方法を、聖トマス・アクィナスは見出す事ができませんでした。

聖トマス・アクィナスはこの点に於いて正しいのです。つまり、「マリア様も、原罪を赦される為に、イエズス・キリストの贖いの御業を必要としていた」という事です。しかしマリア様の贖いは、更にもっと崇高なやり方で行われました。マリア様は天主様から与えられた特別のやり方によって贖われたからです。

ドグマの定義の文によればこうあります、「将来の人類の贖いの御業を見て通して、人類の贖い主は、マリアはその体内に宿るその創造を受けたその瞬間に、贖いの実りをすでに適用を受けて、天主はマリアの霊魂が原罪の汚れによって汚されるのを許さなかった。何故ならば、イエズス・キリストは後に彼女の為に、十字架の上で亡くなるから。」永遠の天主は、たとえ時に於いてイエズス・キリストがまだ死んでいなくても、そしてその実りが、その結果の功徳がなされていなかったとしても、そのそれを既に永遠のうちに見て、その結果をマリア様に適用させたからです。

ではマリア様が無原罪の御宿りであり、原罪の汚れから逃れたという事は一体何故でしょうか?マリア様の美徳だったでしょうか?

いいえ。ただ単に、天主の憐れみでした。マリア様がそれほどまでいと清く、そして無原罪であったとしても、汚れのない方であったとしても、それは天主の憐れみの最大の表れの結果です。

例えばこれはイメージですけれども、マリア様の霊魂が創られて、この創造されてそしてこの母の胎内に宿ろうとするその瞬間、霊魂がこう宿ろうとするその瞬間、イエズス様がその前に現れて、原罪の汚れがその霊魂を触るその瞬間、イエズス様の御受難がそれをストップさせたとでも言えるでしょうか。

皆さん話しが複雑になってきたので、皆さん確かにフンフン、フンフンと納得して下さっています。(^^;)

多くの人がこの無原罪の御宿りという事をよく理解していないので、皆さんが理解する事は非常に大切です。ですから別の例を挙げます。

多くの人は、「マリア様は贖いを必要としていなかった」と考えていますが、これは誤解です、これは異端です。幼きイエズスの聖テレジアはこういう素晴らしい例を挙げています。幼きイエズスの聖テレジアはこう言います、「天主は二重の、2つのやり方で私たちを罪から救う事ができる。」

第1のやり方は普通のやり方です。1つは、子供がよちよち歩きでこの汚い汚物の中にドターン!と倒れてしまって、うわ~ん!と言った時に、天主様の憐れみで、それをきれいにして下さるというやり方です。

それが強烈に倒れれば倒れるほど、また深くズブズブと中に潜ってしまえばしまうほど、そこから取り出してしまう天主様の憐れみはますます輝きます。ものすごい大きな罪人が回心する時に、より多くの天主の憐れみが輝きます。マリア・マグダレナ、放蕩息子、ザケオ、良き盗賊のディスマス、聖アウグスティノ、罪と誤謬に深く浸かっている人が回心する事です。これが天主の大きな憐れみです。

でも別の憐れみの表れ方があります。子供がかけっこをしています。お父さんが、その子供がかけっこをしているの見て、「あっ前に躓く何か石ころがある」というのを見ると、「もしもあれだと、それに躓いて転んで大ケガをする!」子供が走っている所に向かってお父さんも走って、案の定、子供はこの石に躓いて「あぁ~っ!」と泥の中にもう突っ込むか、という時に、お父さんがその子供を抱きかかえて、そして立たせてあげる。子供は汚く汚れませんでした。何の傷も受けません。何の罪も。

でもどちらが、どこに、より大きな憐れみがあるでしょうか?泥の中に倒れてしまったのを可哀相に思って助け出すのも憐れみですが、それが無いように防いだ、というのはより大きな憐れみです。そのような霊魂は、「あぁ天主様、あなたは本当に憐れみ深くて、私がそのようにあまりにも弱いので、そのように罪を犯す事さえもお許しになりませんでした。」

これはマリア様に起こった事を理解する為の、非常に遠くにあるそんな影のような例えです。原罪の汚れがマリア様の霊魂に触れてそれを汚そうとするその瞬間、天主がそれをマリア様の霊魂を取って抱えて、原罪の汚れから汚されるのを防いだ、とでも言いましょうか。

天主様の全ての聖心にある愛は皆さんに与えられました。ですから皆さん一人ひとり天主の憐れみをご存知のはずです。「私は天主の憐れみを永遠に歌おう。おぉ、憐れみの天主、御身は私を創造して下さいました。憐れみ、天主の憐れみは私を創り、私を保存し、私を導き、御摂理によって守ってくれます。憐れみのイエズスは私を浄め、守り、助けてくれます。イエズス様の聖心は憐れみは、私の霊魂を聖化し、天国を開いてくれます。」

同じ事をマリア様も言います。でもまた別の、全く別のやり方で仰います。何故かというとマリア様は、天主様の憐れみを全て、完璧に、与えられるがままに受け取るからです。「でも」とか、「しかし」とか、制限は無いからです。

マリア様が天主の憐れみにそれほどまで深く開かれて、それを全て受ける事ができたのは、1つの条件がありました。それは、「私たちが何でもない『無』であるという事を自覚する事」です。

「天主が無限の御方であり、無限の善であり、全知全能である、最高の方である」という事を自覚するだけでは足りません。それだけではなく、「私たちが無であり、もう天主がなければ何でもない」という事を自覚しなければなりません。何故かというと、私たちの中に何か天主以外のものを、別のものがあれば、天主はその中に入る事ができないからです。

私は先ほど申し上げました、「天主様の憐れみは私たちの中に入る事ができない。」何故かというと、私たちの中に障害物があるからです。私たちの中に、自分の事だけでいっぱいであるからです。私たちの心の中には汚物だらけなのにもかかわらず、その汚物を私たちの良い特徴だと考えています。

ミサのカリスを見て下さい。このカリスの中に汚いものとか何かゴミを入れたとします。貴重な液体をその中に入れる事ができません。ミサの時にはそのワインを注ぐ前に、司祭はちゃんとそれをきれいにして、ゴミの1つもないように確かめてから入れます。イエズス様の御血が入る為には、このカリスは清く、その中には何もゴミが入ってはいけません。

これがマリア様と私たちの違いです。憐れみを受ける為には、条件はただ1つです。私たちの弱さではありません。私たちの悪い性格でもありません。私たちのファンタジーや幻想でもありません。私たちがちょっと頭が狂っている事ではありません。私たちの中で欠けているのは「謙遜」です。

この御謙遜こそが、マリア様の中に憐れみのその激流が降り注いだその原因です。謙遜だけが、天主様のその偉大な憐れみの恵みを全て制限なく受け入れる事ができるようにさせる条件です。マリア様は御自分の事からすっかり目を逸らしていました。マリア様は自分の弱さについて嘆く時間がありませんでした。他人の弱さがどうのこうのと、ゴシップにおしゃべりをする時間はありませんでした。御自分がどれほど小さいのか、と考える時間さえもありませんでした。マリア様は天主様の事だけを考えていました。ですから全てを受ける事ができたのです。

天主の最高の属性は「憐れみ」だとすれば、被造物の最高の属性は「謙遜」であるべきです。

「憐れみ」というのは、天主としてのその基礎にある属性です。
「謙遜」というのは、私たちの霊性とこの全ての聖徳の基礎に、土台となるべきものです。

天主の憐れみは、他の天主の属性の父親のような基礎です。
謙遜は全ての徳の母となるべき徳です。

天主は能動的な原因であって、全ての原因の根源です。
聖人になるには2つの事が要求されます。天主の方からは「無限の憐れみ」が。霊魂からは「謙遜」が。

私たちの問題はこれです。いつも私たちは自分の事だけを考えて、「私はこんなに悪い、こんなに悪い、こんなに悪い、こんなに悪い」と思うことです。

では私たちの痛悔というのはどうでしょうか?「私は怒っている。そんなにそれを一生懸命直そうとするのですが、それができない。」「神父様、私は何で昔から同じ罪ばかりを犯して、あぁもう何でもありません。」「私は本当にもう何をやっても駄目で、天国に行けないかもしれません。」

そう仰る必要はありません。天主様はその事をよく知っていますし、私もよく知っていますし、皆さんもよく知っていますから、別に言わなくても分かっています。

私たちが言わなければならない事は、ただ謙遜であるという事です。

私たちは無です。でも、天主様は偉大です。それを認めることです。

では今から休憩を入れます。今からですね、皆さんが聞いた事のないようなやり方で、「マリア様の御謙遜」という事について話をしたいと思います。

それはそのこのお話しの後に、皆さんがマリア様のように御謙遜になる為です。

では休んで下さい、15分間休憩です。

聖なるロザリオの黙想【栄えの玄義】-2016年5月7日秋田巡礼にて シュテーリン神父様

2016年11月05日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年5月7日 秋田巡礼にて シュテーリン神父様の提案するロザリオの黙想をご紹介いたします。

【無原罪の聖母の騎士誌】
無原罪の聖母の騎士誌 第1号

無原罪の聖母の騎士誌 第2号

【ニュース】
 アジア管区のニュースレター「アポストル」第44号ができました。ここです。どうぞご覧下さい。Apostle No 44

【2017年ファチマ・ローマ巡礼】
「ファティマとローマへの聖ピオ十世会国際巡礼 2017」についてのご案内は、こちらをご覧下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



栄えの玄義黙想(2016年5月7日 秋田巡礼にて シュテーリン神父様)
同時通訳:小野田圭志神父



『栄えの玄義 第1玄義:この一連を捧げて、主の復活し給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて信仰の徳を乞い願わん。』


御受難の後に復活されたイエズス・キリストを受けたのは、まず最初にマリア様でした。イエズス・キリストが御体で受けた御受難を全て、マリア様は心で受けました。十字架のもとで、人類の受けるべき全ての苦しみをマリア様は、イエズス様と共に受けたからです。十字架のふもとでマリア様だけが、イエズス・キリスト様に最後まで忠実でした。マリア様だけがイエズス様のもとに霊的に一致していました。他の者が皆イエズス・キリストを疑い、信仰を失った時でさえも、マリア様だけはイエズス様に対する信仰を守りました。マリア様は疑った時が1つもありませんでした。マリア様はイエズス様が真の天主である、救い主である、という事をはっきりと確信していました。

イエズス・キリストが死者の内から復活するこの夜が来ました。御体はもはや傷だらけとなり、聖心は槍にて貫かされていた時、今突然イエズス様は復活して喜びに満ち、命に満ち、復活されます。傷はただ傷跡としてのみ残ります。この傷痕はもはや傷ではなく、光の源となります。

「私は復活であり、命である。」イエズス・キリストに於いて全ては、命を与える命です。この偉大な栄光において、イエズス様はマリア様に現れます。私たちは深い深い尊敬の念と、深い敬畏を以ってイエズス様とマリア様のこの出会いを目撃致します。イエズス様はマリア様のその忠実に、その信仰に報いを与え、そしてマリア様に喜びを与えます。

マリア様になさったのと同じように私たちにもイエズス様は、もしも私たちがイエズス様に忠実であるならば、最後まで忠実であるならば、報いを下さるでしょう。

この巡礼は、私たちの信仰を深めるという目的があります。私たちの主イエズス・キリストは救い主であり、天主であり、マリア様は私たちの母である、という事を確信する目的があります。

「あぁイエズスよ、マリア様、秋田の聖母よ、私の貧しい信仰を強めて下さい。」



『栄えの玄義 第2玄義:この一連を捧げて、主の昇天し給いたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて天国の福楽を深く望む心を乞い願わん。』

マリア様は私たちに天主の憐れみを下さります。特に、私たちにとって最も大切な臨終の時に。秋田のマリア様、そしてマリア様の御涙も同じメッセージを私たちに告げています。最も大切なのは、地獄の門が閉ざされ、天国の門が大きく開かれるという事です。イエズス様が天に上がった時に、「天に私たちの場所を準備しに行く」と約束されました。つまり私たち一人ひとりそれぞれの為に、終わりない命の喜びを準備しに行かれたという事です。

しかし私たちがその場所に到達する為には、どうしてもマリア様が必要です。ですからマリア様は、天主様の御恵みを全て携えて私たちの元にやって来ます。そして私たちが地獄の大きな道を駆け下っているのを見つけて、この場所にやって来ます。私たちがもしもこの世の喜びに身を委ねてしまっているならば、間違っている道に走っています。だからマリア様は涙を流しておられます。ですからマリア様は「償いをするように」と呼びかけています。ですからマリア様は、どれほど罪が天主を犯しているのかという事を思い出させ、ですからどれほど恐ろしい罰が待っているかという事を思い出させます。

しかしマリア様の御言葉を聞く子供を見つけると、御母としてマリア様はどれほどお喜びでしょうか。マリア様に従順である子供を見つけると、どれほど喜ばれる事でしょうか。もしもこの子供がマリア様にその小さな手を差し出すのなら、どれほど喜ばれるでしょうか。もしも私たちが手を少しでも差し伸べれば、マリア様はその手をとって天国まで必ず連れて行って下さいます。マリア様は罪と地獄に対する恐れを与えてくれます。と同時に、天国に対する大きな望みを与えてくれます。この御恵みを今乞い求めましょう。



『栄えの玄義 第3玄義:この一連を捧げて、聖霊の降臨し給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて聖霊の賜物を乞い願わん。』

私たちの主イエズス・キリストは、聖霊の事を「慰め主」と言いました。「慰める」という事は、誰か苦しみ、或いは悲しみ、或いは困難な状況にいる人を「助ける」という事です。孤独、或いは寂しい人を慰めます。

私たちの担いでいる十字架がますます重く感じられる時に、私たちは慰めが必要です。聖霊が来たり給うという時に、イエズス様は非常に深い言葉を使われました、「私はお前たちに慰め主を送ろう。慰め主が来ると彼は、お前たちに全ての真理を教えて下さるだろう。」つまり慰める人は、「真理を教える」という事です。

全ての真理とは何でしょうか?

つまり、「唯一の本当の真の天主と、その憐れみを教える」事です。言葉でえも言うこともできない、その無限の天主の愛の事です。

また全ての真理とは、「私たちが無であり、何でもなく、そして罪深い、全く何でも価値の無いものである」という事実です。

全ての真理とは、「この無限の善である天主が、無である私たちの罪人の元にやって来て、この泥の中からそれを救い出し、永遠の幸せに運び出す。」これが真理です。

全ての真理というのは、「この地上での生活はあっという間に終わってしまう、瞬く間に終わってしまう一瞬のものであって、その永遠の為の準備の期間であって、後には永遠の喜びが待っている」という事です。

マリア様が御出現になった所はどこでも、また特に秋田のマリア様では、私たちは慰めを頂く為にやって来ました。私たちはマリア様の元に、私たちの持っている悲しみ、苦しみ、不安、心配を全て持ってきました。私たちの病気、病、十字架を持ってきました。この家族の問題、国の問題をマリア様の元に持ってきました。

私たちがもしもマリア様を信じるならば、マリア様は私たちに心に慰めを下さいます。何故ならば、聖霊はその浄配であるマリア様に、慰める力を与えたからです。

「あぁマリア様、ですから私たちは御元にやって来ました。御身の開いた両手は私たちをいつも招いておられます。」

「あぁ私の苦しむ子供たちよ、私の御心にいらっしゃい。私の心に抱きしめてあげましょう。そしてあなたを慰め、力付けてあげましょう。」



『栄えの玄義 第4玄義:この一連を捧げて、聖母の被昇天を黙想し、その御取次ぎによりて善き終わりを遂ぐる恵みを乞い願わん。』

今朝黙想したように、マリア様がこの地上を離れ、天主の元に発ち行かれるその時がやって来ました。マリア様のこの地上での生涯の最後の瞬間は、最も偉大な愛の瞬間であり、最も深い謙遜の瞬間でした。何故ならば、マリア様はご生涯の間常にご謙遜だったからです。マリア様がこの地上を離れ、この霊魂が天へと上げられる時に、そのマリア様の心には自分の事は一切なく、ただ単に天主の事だけで、その愛で燃え上がっていました。このマリア様の燃える愛の火はあまりにも大きく、肉体はその霊魂を肉体の内に留めておく事はできないほどでした。そこでマリア様はこの地上を離れ、天国に上ります。

マリア様はファチマで、またルルドで、秋田で、何を私たちに教えて下さるでしょうか?

マリア様は1つの事を教えてくれます。「私たちの人生の毎日毎日、1つの事だけをしなければならない」と。それは、「私たちが愛において成長する事ができるように、マリア様がそうする事ができるように許す」という事です。

私たちの体は常に年を取りつつ、そして死に近づきます。この地上で私たちが関心を持っている、こう私たちの心を惹くようなものは全て失われます。私たちの美もなくなります。健康もなくなります。力もなくなります。私たちの影響力もなくなります。死に近づく時に私たちは全てを失います。しかしこれら全て、成長する為の手段です。

「私たちの健康が、肉体の健康がなくなったとしても、マリア様、私はこの苦しみを御身に捧げます。」「私の美しさがなくなります。でも関係ありません。御身こそが私の美しさです。」「死がもうすぐやって来ます。しかし構いません。何故ならば、死は永遠の命の始まりですから。」

「御母マリア様、天地の元后よ、私が愛に於いて成長する事ができるように助けて下さい、それを許して下さい。毎日少しでも少しずつ多く、天主を愛する事ができるようにさせて下さい。」

天主を愛するとは、天主の聖心に適う、天主を喜ばせるという事です。天主を幸せにする事です。そして悲しませない事です。或いはより少なく悲しませる事です。

「御母マリア様、私が隣人愛において成長するのを助けて下さい。私たちの隣人の永遠の救霊、永遠の幸せの事に心を砕く事ができますように、心配する事ができますように。汚れなき御手における良き、ますます良い道具とさせて下さい。御身が私を使って、回心と聖化の御恵みを霊魂たちに伝える事ができますように。そうすると私も、『死』に良い平穏な心で顔を向ける事ができます。」聖なる死をお祈り致しましょう。



『栄えの玄義 第5玄義:この一連を捧げて、聖母が天使と人類との元后に立てられ給いしを黙想し、その御取次ぎによりて永福の冠を乞い願わん。』

この天と地の元后としての戴冠式は、一度だけ起こった事ではありません。これは天国に於けるマリア様の永遠の凱旋です。これは何を意味しているでしょうか?

私たちがこの地上である事は全て、マリア様は天国で完全に持っておられるという事です。そして私たちのその天国に発つその瞬間を待っているという事です。マリア様は私たちが永遠の喜びに達するのを待っておられます。

マリア様は私たちの母であり、私たちはマリア様の子供です。でもまだ良い子供ではありません。忠実な子供でもありません。私たちはよく頻繁に悪い子供でもあります。天国に行けばマリア様は本当に私たちの良き母となって、私は本当に良い子供となります。永遠において、マリア様がお持ちのものは全て私に下さる事ができるようになります。最高の母であるマリア様から、天主様の全ての宝を、私は全て天国で受ける事ができるようになります。

マリア様は今、私たちの母であり元后です。私はマリア様の騎士であり兵士であります。何と弱々しい兵士でしょうか。よくこの戦いから逃げてしまっています。本当に怠慢で、マリア様の命令を実行するのにあまりにも不熱心です。でも天国に行けばマリア様は、本当に完全に私の女王様となります。そして私はマリア様の大勝利に参与します。永久に私たちの敵は破壊尽くされ、敗北を期します。悪魔はもういません。もう罪はあり得ません。暗闇も落胆も何もありません。問題も涙も悲しみもありません。愛の王国が永久に始まります。

マリア様はこの事をとても望んでおられるので、もう天国でただ単に待っているだけではできませんでした。マリア様は奇蹟を以って、「私はあなた達と一緒にいますよ」と教えてくれます。

マリア様は言います、「あぁこの場所に於いては、少なくともここに於いては、私があなたの母であるという事を許して下さい。もっと母であるという事を許して下さい。ここに於いてあなたを、あなたの女王としてあなたを導くのを許して下さい。そしてここではあなたは我が子よ、我が兵士よ、我が騎士よ、我が臣下よ、私にもう少し忠実であって下さい。」


長崎巡礼-お説教-2016年5月3日 「この剣はマリア様の御心をグサリと貫いた。マリア様はその時、千回死ぬかと思うほどの苦しみを感じた。」

2016年11月03日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年5月3日 長崎巡礼 聖マリアの七つの御悲しみの随意ミサでのシュテーリン神父様の御説教をご紹介いたします。

【無原罪の聖母の騎士誌】
無原罪の聖母の騎士誌 第1号

無原罪の聖母の騎士誌 第2号

【ニュース】
 アジア管区のニュースレター「アポストル」第44号ができました。ここです。どうぞご覧下さい。Apostle No 44

【2017年ファチマ・ローマ巡礼】
「ファティマとローマへの聖ピオ十世会国際巡礼 2017」についてのご案内は、こちらをご覧下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年5月3日 長崎巡礼 聖マリアの七つの御悲しみの随意ミサ
シュテーリン神父様御説教

同時通訳:小野田圭志神父


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

私たちはこの地にやって来て、多くの聖人たちのものすごい素晴らしい行為を見ました。その全ては、1つの源から源泉から、お恵みの源としてやって来て、その源とはイエズス様の、イエズス・キリストの聖心であって、その全ての聖心からのお恵みは、マリア様の汚れ無き御心に与えられました。

今回私たちは、日々ものすごい偉大な業を見ました。「全ての良い事、全ての英雄的な事、全ての偉大な事は、全てマリア様の御心から流れて来ている」という事も見ました。今日マリア様は私たちに、この事を黙想するようにと招いて下さいます。

では一体、その多くの恵みを湛えるこのマリア様の汚れ無き御心ですけれども、一体どうやって私たちの為に母となり、霊的母となり、全ての聖寵の仲介者となったのでしょうか?どうやって?

実は、命の源、真理の源、存在の源、全ての良い事の源は、天主様です。天主様だけです。マリア様は私たちにこの事をよく強調しています。「天主様の御前では私たちは、全く、もちろんマリア様を含めて、全く無に等しい何でもないものである」という事です。私たちには2人の仲介者があるわけではなく、2人の救世主があるのではありません。1人しかいません。これはドグマの、信仰のドグマであって、私たちの救い主はイエズス・キリストただ御一人であり、人となった天主の御子、私たちの為に十字架に付けられて苦しまれた、この1人しかいらっしゃいません。

しかしこの私たちの主イエズス・キリストが、私たちの救いの為に、「1人の方と共に、救霊の大事業を果たそう」と望まれました。これがその御旨でした。イエズス様は二重のやり方で、共にこの事業を果たす事を望みました。

まず第1に、イエズス様はマリア様が御自分の母である事を望みました。イエズス様はご自分の聖なる浄配である教会、公教会を作った時に、マリア様が同時に私たちの母である事をも望みました。そこで十字架の上で贖いの業を達成したその瞬間、公式にマリア様を任命します、人類の母となるように、「見よ、御身の母ここにあり」と。

イエズス様が十字架の上で亡くなって、苦しまれて、苦しまれて、苦しまれて、勝ち取った全ての功徳は、マリア様に与えられました。このイエズス様の望みは、意思は、その意向は、「自分の全て勝ち取った全ての恵みが、マリア様を通してのみ私たちに与えられる事、全ての母の最高の母、全ての女性の内の最高の女性の手を通して、私たちに与えられる事」を望んだのです。

私たちの為に、十字架の上で贖いの功徳を積まれた、という事の意味を理解しなければなりません。

イエズス様は、この世の全ての人々の聖化、その浄め、その回心の為に必要な、もうありとあらゆる御恵みを十字架の上で勝ち取りました。一人一人の為に勝ち取りました。それは回心の御恵みです。この回心の恵みが、日本の長崎において信じられないようなやり方で実りをもたらした事を見ました。何百万の人々が信仰を勝ち取る事ができるように、回心の御恵みをしましたが、それはこの十字架の贖いの功徳であって、マリア様を通して与えられました。永井博士の回心の御恵みもやはり、イエズス様の十字架からマリア様を通して到達しました。

単に、闇から光に、地獄から天国に、誤りから真理に、という回心の御恵みだけではありません。それだけではなく、天主様の「恵みの充満」にまでの恵みもあります。それが「聖化」のお恵みです。従って公教会は、十字架を、生ける木の樹木と比較します。この樹木の実りが、果実が、十字架に付けられたイエズス・キリスト様なのです。この十字架に付けられたイエズス様は、1人の女性にこの十字架の木の実りを全て集めて、「人々に配りなさい」と命令したのです。この事をして、マリア様を「全ての聖寵の仲介者」と呼びます。

でもイエズス様はもっと御望みになりました。イエズス様は自分の成し遂げようとした贖いの業に、もっと口で表現し尽くす事のできないような素晴らしいようなやり方で、信じられないようなこう崇高なやり方で、非常に高い、特異なやり方で、マリア様が自分の贖いの業に参与するように御望みになりました。イエズス様が無限の実りを、功徳を積んで、その全ての功徳をマリア様に譲って、マリア様はその功徳を皆に分配する、マリア様だけがそれを分配する事ができるという事だけでも偉大な事です。

しかしもしもそうだとしたら、マリア様は確かに分配者ではありますけれども、その分配の中身に対しては、何ら「自分のもの」と言う事ができない、「自分とは関係ないもの」と留まってしまったかもしれません。

しかし、イエズス様の御苦難をその目の前で直接に見たマリア様の御悲しみは、どれほど大きなものだった事でしょうか。何故かというと、マリア様の全生涯はイエズス様だったからです。マリア様はイエズス様をご自身よりも更に愛しておられました。もしも愛する、愛の深い母親がいたとして、その自分の愛する子供が苦しむのを見たら、その母はその子供が苦しむよりも更にもっと苦しむ事でしょう。もちろんその母の苦しみはその子供よりも更に大きいのです。

イエズス様は、マリア様が全ての被造物の中で最高の被造物である、という事をよく知り、誰よりもイエズス様を愛している、という事を知っています。イエズス様の全てのフィーリングは感情は、マリア様も同じく感じていました。イエズス様の望みはマリア様の望みでした。イエズス様の苦しみもマリア様の苦しみでした。これも信仰の真理です。

これについては、聖アウグスチヌスがきれいに表現しています、「イエズス様が御肉体において苦しんだ全てのものを、マリア様は御心に於いて、心に於いて霊的に苦しんだ。」

イエズス様の苦しみのシンボルは、イエズス様から滴り落ちる「御血」です。マリア様の御心に於ける、心に於ける苦しみのシンボルは「涙」です。

マリア様の御涙は、ご自分が私たちの救いの為にどれほど、どういう役割を示して、果たしているのかという事を明らかに示しています。

一方で、イエズス・キリストの贖いの御業、能動的な業があります。御体はただれ、朱の血に染み、御頭は冠をかぶせられ、釘を付けられ、贖いの業を達成されます。遂には、御心は貫かされ、それは開いて、そこから御血が流れ出ます。

この「受難」に対応して、マリア様の「共同受難」があるのです。マリア様の共同受難というのは、「イエズス様と一緒に、共に苦しんで、同じ感情を、同情をした」という事です。共同受難という事は、「2つの御心を1つに一致させた」という事です。イエズス様の聖心が槍で貫かされた時に、聖ベルナルドはこう言っています、「イエズス様は何も感じなかった。何故かというと、イエズス様はもう息絶えていたからだ。しかしこの剣は、マリア様の御心をグサリと貫いた」と言います。「マリア様はその時、千回死ぬかと思うほどの苦しみを感じた」と。

今日秋田に参りますが、私たちが秋田で黙想しなければならない事はこの事です。私たちはマリア様が涙を流しておられるのを見るでしょう。101回、木像のマリア様が涙を流されたという事は奇跡です。でもマリア様が本当に、現実に涙を流されたのは、カルワリオで十字架のふもとで御子が亡くなるのを見たときの涙です。ところで、このマリア様の涙についての素晴らしい黙想は、この七つの御悲しみのミサの続誦「Stabat mater」にあります。

イエズス様は御復活して、昇天されて、天国に行かれて、幸福にいらっしゃるにもかかわらず、それにもかかわらず、その以後全人類の歴史を見ると、マリア様の御像、或いは御影、或いはマリア様が御現れになった例えばラサレットのように、涙を流されている、という事が起こっています。これがカトリックの深い神秘であって玄義であります。これは、このマリア様の御涙は、近代主義に対するその強烈な鉄槌です。

近代主義の人々が何と言うか知っていますか?「イエズス様は昔々に亡くなったけれども、復活された。だから復活されたので、復活の神秘で、過越の神秘で、もう何もする必要は無いのだ。だから過越の神秘に従って、新しくミサを作らなければならないので、新しいミサはすでに天国の喜びを分かち合う、楽しいおもしろおかしいものでなければならない」と。

しかしこの考えはプロテスタントの考えで、キリスト教的ではありません。これが新しいミサです。

私たちの主は、ミサ聖祭を行う祭壇の上で、毎日、毎日、その御受難を神秘的に繰り返して、ミサで、現実に、いけにえが捧げられているのです。カルワリオで流された同じ御血が、このカリスの中に入り、私たちの前に入っているのです。それと同じようにマリア様も、この世の終わりまで御涙を流されているのです。

近代主義者はこう言います、「あぁ、マリア様というのは私たちのお姉さんで、私たちがこの地上の旅を続ける為の同僚者だ、一緒に旅をする人だ。」

でも本当は、マリア様というのは、イエズス・キリスト様と共に、共同に贖いを果たした共贖者であって、イエズス・キリスト様の贖いの業の共であるのです。

もう一度、この殉教者の御血、流した血を讃美しましょう。極めて難しい状況に置かれながらも、250年の間、何代にも何代にも渡って信仰を守ってきたキリスト信者の素晴らしい業を見ましょう。永井博士の素晴らしい生涯とその死を黙想致しましょう。もう一度マキシミリアノ・コルベ神父さまの素晴らしい生涯と死を黙想致しましょう。

これは御血と御涙の結晶であり、その実りです。イエズス・キリストが付けられた十字架の御下に、マリア様が立ち留まっておられる、という事です。マリア様はこの御体から流れる滴る御血を身に受けて、胸から流れ出る御血の滴りを受けました。その血と、マリア様の御涙は1つに混ざり合って、地上に降りたのです。

ではこの長崎の多くの聖人たちは、一体どこからその力を得たのでしょうか?なぜ彼らは残酷な拷問を耐え忍ぶ事ができたのでしょうか?どこからその力を得て、彼らはその自分の敵を許し尽くす事ができたのでしょうか?一体どこから、彼らの心に平和と、顔には微笑みをいつもたたえる事ができる力を得たのでしょうか?

それは、イエズス様の御血とマリア様の涙が混ざったそのところからです。

ではこの事が分かれば、なぜ御血と御涙のところに行かなければならないか、という事がよく理解できます。この事が分かると、聖ヨハネ・ボスコのビジョンの、夢のビジョンが分かります、「教会は二つの柱によって守られて固められている。1つは御聖体の柱であって、もう1つはマリア様の心であった」と。

そうすると、聖グリニョン・ド・モンフォールが、「終末の時代の使徒たちは、『イエズスとマリアの使徒』と言われる」というその理由が分かります。聖グリニョン・ド・モンフォールはその終末の使徒を描写して、「右の手には十字架、左の手にはロザリオ」と言っています。

もしも私たちが回心のお恵みを頂きたいのならば、もしも私たちが聖化の、聖となるお恵みを頂きたいのならば、同じ、彼らと同じ恵みの泉に行かなければなりません、源泉に行かなければなりません。

ですから私たちは皆さん、秋田に行きましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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