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Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2018年7月15日 御復活後第8主日説教 「人間の自由について」―聖ピオ十世会司祭 ドモルネ神父様

2018年07月18日 | お説教・霊的講話
2018年7月15日 御復活後第八主日のミサ
エチエンヌ・ドモルネ神父様(聖ピオ十世会) お説教  日本語訳


はじめに

聖書や霊的作家の書物においては何度も、「天主の子の自由」に反するものとして「罪の奴隷」について述べられています。
私は本日、人間の自由という考えについて少しお話ししたいと思います。人間の自由を正しく理解することは、この聖書の表現を理解し、また私たちが霊戦と呼ぶものをもっとよく理解するのに役立ちます。

天主のご計画における人間の自由

天主は、ご自分の栄光のため、またご自分の絶対的幸せを私たちに分け与えるという目的のため、私たちを創造されました。このことは、次の二つの結果を導きます。

•第一の結果は、私たちが幸せに向かうよう定められており、幸せ以外の何物も望むことはできないということです。私たちが行うことは何であれ、究極的には幸せになるためにそれを行うのです。人々が狂気のようなことを行うときでさえ、その狂気のようなことを行うことに一定の幸せを見いだすか、一定の幸せを見いだすことを望むがゆえに、それを行うのです。

•第二の結果は、人間は天主以外には完全な幸せを見いだすことができない、ということです。三角形の物体が同じ大きさの三角形の穴以外には合わないように、人間は天主において以外に幸せを見いだすことは不可能です。皆さんは、聖アウグスティヌスの告白録にある次の言葉をおそらくご存じでしょう。「ああ天主よ、あなたは私たちの心を、あなたから離れたところではまったく安らぎを見いだすことができないように、あなたのためにお造りになりました」

さて、天主は私たちと、愛による関係を持つことを望んでおられます。天主は愛から私たちを創造され、そのお返しに私たちが天主を愛することを期待しておられます。それゆえに、天主は人間を、そのような愛のお返しをするのに必要な能力を持たせて創造されました。天主は自分自身の似姿として人間を創造されました。すなわち、天主を知る知性、天主を愛する意志、必要に迫られてではなく自ら進んで天主を選び天主を愛する自由を人間にお与えになりました。そのあと天主は、人間がその自由を実践する可能性を与えるために、地上では人間からその驚くべき栄光を隠されました。実際、天主は非常に偉大であり、その善は非常に甘美であり、天主を見るものはだれでも抗しがたいほど引きつけられてしまいます。地上では、聖パウロの言う鏡を見るように、私たちは啓示を通じて、そして信仰によってのみ天主を知ります。またそのため、私たちは天主に抗しがたいほど引きつけられているのではないので、天国へ行く功徳を積むために、天主を信じて天主を愛することを自ら進んで選ぶことができるのです。

さて、私たちが自由について話すとき、行うべき重要な区別があります。私たちは心理的自由と道徳的自由を区別しなければなりません。

•「心理的自由」とは、この行為を行うか別の行為を行うかを選ぶ私たちの心理的能力のことです。私はハイキングに行くか家にいるかを選ぶことができます。車を持つことが許されていれば、私は自分の車を使うかバスを使うかを選ぶことができます。気の狂った男は、心理的自由を失くした者です。自分が行うことを知らず、これやあれやの行為を行うことを理性的に選ぶことはできません。

•「道徳的自由」とは、正しいこと、すなわち天主の法に従うことを、進んでまた功徳を得るように選ぶ私たちの能力のことです。例えば、私には盗むか盗まないかについての道徳的自由はありません。天主は、はっきりと「なんじ盗むなかれ」と言われました。しかし、私は、よく知ったうえで進んで、「私は天主の法に従うことを決め、それゆえに誰かから盗むという考えを拒否する」と言う能力を持っています。これが、私たちが善い行為への報いを受けることができるように、天主が私たちにお与えになった道徳的自由です。

さて、この説教の残りの部分では、私は常にこの道徳的自由について述べようと思います。道徳的であることを、つまり天主の法に従うことを選ぶ私たちの能力、また不道徳なことを拒否する私たちの能力についてです。

原罪と私たちの道徳的自由

マルティン・ルターは、私たちの道徳的自由は原罪によって破壊されてしまっており、私たちは悪しきことを拒否する能力や正しいことを選ぶ能力をもはや持っていない、と教え、さらには、それゆえに誘惑に抵抗することは不可能である、と教えました。すると、もし誘惑に抵抗することが不可能であるなら、私たちは自分の犯す罪で有罪にはなり得ず、それゆえに天主は私たちを罪に定めることがおできにならず、私たちを地獄で罰することもおできになりません。言い換えれば、ルターは人間を、本能に従う以外のことができない動物のレベルにまで貶めたのです。

本当のところは、原罪は私たちの能力を傷つけている、ということです。私たちの知性は無知によって傷つけられており、私たちには真理を知るのに困難があり、それどころか、私たちは誤謬を信じやすい傾向にあります(セクトの指導者たちの非常に奇妙で、時にはばかげた教えを信じる人々が大変多くいるのを見ると、常に驚かされます)。私たちの意志は悪意によって傷つけられており、私たちは善を行うよりも悪を行いやすい傾向にあります。このことを、私たちは日々、誘惑によって経験します。私たちの感覚は弱さと情欲によって傷つけられています。私たちは善を行うに際しての困難に打ち勝つには弱く、常に楽しみを渇望しているのです。

原罪は私たちの能力を傷つけましたが、私たちの道徳的自由自体にはまったく影響を与えませんでした。私たちは、善きことを選び、悪しきことを拒否する能力をちゃんと持っています。しかし、このことはさらに困難になっています。なぜなら、先ほど説明したように、まさに私たちの知性と意志と感覚が傷つけられてしまっているからです。

私たちの道徳的自由を行使することは、私たちが悪徳と呼んでいる悪しき習慣を身につけてしまっていると、さらに困難になります。悪徳は、私たちが抵抗し難い衝動という本当の奴隷状態にまで至るほどの悪しきことを行う、より大きな能力のことです。毎日何時間もコンピューターでゲームをして時間を浪費している若者に、一週間まるまるそれをやめるよう言ってみてください。自分で不潔なことをする中毒になっている人に、それをやめるよう言ってみてください。自分の義務を先延ばしにすることに慣れてしまっている人に、時間通りに義務を果たすよう言ってみてください。いつも他人についてのうわさ話をする人に、それをやめるよう言ってみてください。他にもあるでしょう。すると、皆さんはお分かりでしょう。彼らがそれを本当にやめたいと思っているときでさえ、やめるのが難しいことを。罪深い習慣は本当の奴隷状態であり、大なり小なり深刻で、大なり小なり霊魂に根差したものですが、すべて奴隷状態に変わりありません。罪深い習慣は、私たちから正しいことを選ぶための道徳的自由を失わせてしまうのです。

恩寵の必要性

事実、原罪以来、人間がいつも、すべての罪を避けるということは不可能になってしまいました。私たちが自分の自由を失ってしまったのではなく、私たちが非常に弱くなってしまったため、自分の力だけでは、どうしても自分の自由を誤って使ってしまうのです。私たちは、自分について絶望し、自分を改めようとする決心を無益なものとみなすべきでしょうか? いいえ、天主が私たちに恩寵と助力を与えてくださるのですから、天主の恩寵によってすべてが可能となります。天主の恩寵は、悪しきものを拒否し善きものを選ぶという能力において、私たちに人間の尊厳を回復させます。私たちの主イエズスは、原罪によって傷つけられた人間の救いのために来られ、人間に霊的な健康を、道徳的自由をもう一度与えてくださる善きサマリア人でいらっしゃいます。私たちが成聖の恩寵によって天主と一致すればするほど、私たちはもっと霊的に自由になり、もっと誘惑に抵抗することができるようになり、天主でないものにもっと無関心でいることができるようになります。聖人たちはこの世において最も自由な人々です。その反対に、天主から遠く離れて生きている人々は、最悪の種類の奴隷です。自分の情欲の奴隷であり、自分の野心の奴隷であり、他の人々が自分のことをどう思っているか、の奴隷です。そして、彼らは、自分たちが自由であり、自分の運命は自分がコントロールしていると言い張るのです。

結論

さて、皆さんが道徳的自由とは何であるかを、すなわち正しいことを自ら進んで選び、悪しきことを自ら進んで拒否する能力であるということを理解してくださったのなら、皆さんは次の結論を理解してくださることでしょう。

•人間の自由とは、自分のしたいことを何でもする権利などではまったくありません。これは、フリーメーソンによって広められた自由についての偽りの定義です。このいわゆる自由とは、実際には人間は天主に依存しないと言い張ることなのです。

•人間の自由とは、私たちが天国を得るために、天主によって私たちに与えられた手段です。ノミが傑作を現実のものとするために彫刻家が使う手段であるように、私たちの人間の自由も、永遠の救いを得るために私たちが使える道具なのです。

•私たちの自由は道具のようなものなのですから、私たちはそれを適切に使う方法を学ぶ必要があります。親である皆さん、皆さんが自分の子どもに施す教育の主な目的は、子どもに自分の自由を適切に使う方法を少しずつ教えること、正しいこと、正直なこと、美しいこと、正義であること、聖であることを選ぶことによって、自分の真の幸せに至るものを選ぶように子どもにしつけること、そしてその反対に、悪しきこと、不正直なこと、醜いこと、不公平なこと、罪深いことを拒否することによって、自分の手に負えない情欲の奴隷にしてしまうようなものを拒否するように子どもにしつけることです。

•さて、若者の皆さん。皆さんが子どもだったころ、皆さんは両親の言いつけを守り、両親に従っていました。今や皆さんは大きくなり、自分の自由を全面的に使い始めているのですから、両親が皆さんに施してくれた宗教、家族の価値、礼儀正しさ、良き社会生活といった良きしつけが、皆さんの個人的な決断や選択とならなければなりません。もし皆さんがこういった個人的で、心からの、信念のある選択をしないなら、皆さんはこの世の人々によって提示される偽りの喜びに流されてしまう、という大きな危険のただ中にいるのです。もしそうなってしまうならば、永遠の不幸に終わってしまうことでしょう。皆さんがそのような個人的な選択を行ったとき、初めて皆さんが大人になったことが証明されるのです。

マリアの汚れなき御心が、私たち人間の自由を私たちが上手に使うよう助けてくださいますように。アーメン。

マーチフォーライフは、お恵みで大成功でした

2018年07月17日 | プロライフ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

こんにちは!

昨日のマーチフォーライフ2018は、多くの方々(昨年の倍ぐらい)の参加があり、喜びと成功のうちに終了しました。



来年も、また、多くの兄弟姉妹の皆様と、ファチマの聖母とともにマーチしたいと思います。





天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田神父

第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見 (続き15)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年07月16日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き15)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見


四、“心の取り締まり”は、内的生活の鍵である。ゆえに、使徒職には本質的な修業である

心の取り締まりの決心(2/3)

(Ⅰ)心の取り締まりの必要
わが天主よ、あなたは“聖”そのものでいらっしゃいます。ですから、ある霊魂が、あなたとの親しい一致の生活にはいるためには、どうしても、自分の心をけがすものを、すべて滅ぼし尽くすか、またはこれを遠くに捨て去らねばなりません。けがれたものを離脱する努力の度合いに応じて、かれとあなたとの親密さは深さを増していきます。

そんなら、どんなことがあなたとの親睦を妨げるもの――したがって私が、それを遠くに捨て去らねばならぬ、または全く滅ぼし尽くさねばならぬもの――なのでしょうか。

あなたに心を挙げることを面倒くさがって、それをしない精神的怠け、被造物にたいする過度の愛着、粗暴、すぐに怒りやすいこと、うらみ、移り気、柔弱、あまりに身の安楽を求めること、正当な理由もないのに他人の過失を人前にあばくこと、放念、好奇心――こんなものは、あなたの光栄のためには、なんの役にも立ちません。

まだまだ、たくさんあります。――無駄口、おしゃべり、他人をみだりに審くこと、うぬぼれ、他人を軽べつすること、他人の行為をみだりに批判すること、他人から尊敬されたい、賞賛されたい、という動機から、ある仕事をする、自分のためになることなら、なんでもこれを人前に見せびらかす、自負心、頑固、嫉妬心、権威者への尊敬の不足、不平不満、飲食の不節制、などなど。こういうものは、たくさんの小罪を、たくさんの故意の不完全を私におかさせ,どれほどゆたかな恩寵を、私から奪ってしまうことでしょう。永遠の昔から、あなたが私に、お与えになろうと当てにしておいでになる恩寵を。

私は黙想をしている、私は典礼生活をいとなんでいる。――なるほど、そうだろう。それなのに、私の霊魂はいっこう、内部に沈潜しない。沈潜して、純然たる弱さのために心ならずもおちいる過ちを、できるだけ避けようと警戒しない。私の意志が、ある誘惑にあって、まさにくじけようとしている。勇気をふるって、早く立ちなおりたい。だが、だれも助けてくれない。不幸にも、過ちにおちいる。良心に制裁を加えようともしない。――こんな調子では、どうして、私は黙想をしている、典礼生活をいとなんでいる、といえるのだろう。そんなものをやっていたにしても、それが何になろう。無用の長物である。

ああ、イエズスよ、心の取り締まりが十分でないため、私はこのように、私の霊魂におけるあなたのおはたらきを、台なしにしているのです。

私はどれほどしばしば、ミサ聖祭にあずかり、聖体を拝領し、告解の秘跡を受け、そのほか信心の務めにもあずかることでしょう。私の救霊のために、あなたの摂理はどれほど特別の保護を、私に加えてくださるのでしょう。私の守護の天使のご保護については、なんといったものでしょう。ああ、聖母よ、あなたの慈しみ深い母ごころのご加護にたいしては、申し上げることばもありません。ああ、それなのに、このありがたいすべてのお恵みも、せっかくのご聖寵も、ご保護も、私には何の役にもたっておりません。なんの実も結んでおりません。私の過ちのために、心の取り締まりが十分でないために。

ああ、イエズスよ、あなたはおっしゃいました――「天国は、暴力におそわれ、暴力の者のみ、これを奪い取る」(マテオ11・12)と。もし私が善意を欠いで、この“暴力”のみを私に加えませんなら、悪魔は絶え間なく活動し、どうかして私の心を迷いにおち込ませよう、どうかして私の心の力を弱めてやろうと、必死になることでしょう。そして最後には、私の良心を錯覚におちいらせ、すっかり堕落させてしまうのです。

わが魂よ、おまえはよくいっている。――これこれの過ちは、人間性の弱さから、やむをえず、おちいった過ちである、自分には責任がない、あってもごく軽いのだと。だがしかし、天主のおまなざしには、はたしてそれが、純然たる人間性の弱さからおちいった過ちだったろうか。それとは全然ちがったものではなかったろうか。――そうではない、純然たる人間性の弱さの過ちだ、とおまえは断言できるだろうか。 

もしおまえが、“心の取り締まり”の修業をしていないのなら、もしおまえが、自分は一つ一つの行いの動機を、みんなイエズスのために留保しておく、というプログラムを実行していないのなら、どうしておまえは、それが純然たる人間性の過ちだといって、すましておれるだろうか。

心の取り締まりの決心を取らなかったら、私は煉獄で恐ろしい、長い償いをしなければならない。そればかりか、なるほど今、大罪はおかさないだろう。大罪は避けることができるだろう。だが、おまえは、大罪の谷底を見おろす断崖のふちに立っているのだから、宿命的にそこに墜落していくだろう。

わが魂よ、おまえはまじめに、このことを考えたことがあるだろうか。

(Ⅱ)天主の現存の意識――これこそは、心の取り締まりの土台である
至聖なる三位一体の天主よ、もし私が“恩寵の状態”におりますなら――私は、そう信じているのですが――あなたは、私の心のなかに、お住まいになっておられます。あなたのすべての光栄、すべての完徳とともに。ですから、あなたは天国にお住まいになっておられるとおりに、いま、私の心のなかにも、お住まいになっていらっしゃるのです。むろん、信仰のとばりに、かくれてはいらっしゃいますが……。

あなたのおまなざしは、いつも、私の行為のうえにそそがれています。私の行為がどんなものだか、それを見究めるために、あなたが私の行為を、ごらんになっていない瞬間というものはありません。

あなたの正義も、あなたの慈悲も、たえまなく私の内に、救霊と聖化のしごとをしておられます。私があなたに不忠実なとき、その罰として、あなたは私から、特選の恩寵をお奪いになることもあるし、また、すべての出来ごとを私の利益のために、役立てようとの親ごころから出る、み摂理の御手のはたらきを、お止めになることもあります。しかしながら、私を再びあなたのもとにつれもどそうと、新しい恩寵をお恵みくださることもあります。

私の霊魂のなかに、あなたがお住まいになる――これは、私にとって、このうえない幸福であり光栄であって、また、最高に私の注意をひく出来ごとなのですから、どうして私がしばしば、そして長いこと、これを考えないで過ごされましょうか。

私の人生問題の根本をなす、この重要な事実に、私が注意しなかったからこそ、つまり、心の取り締まりをしなかったからこそ、私はこれまでいろいろの、失敗をしでかしたのではないでしょうか。

私が日中たびたびしている射禱こそは、私の霊魂の内部における、あなたの愛にみてるお住まいの事実を、私に思い起こさしてくれたはずなのに、いっこうにそうでなかったのは、いったいどうしたことでしょう。わが魂よ、おまえはこれまで、毎時間せめて一度、自分の生涯の旅路に里程標を立てることを、自分の生活に区切りをつけることを、十分に実行してきたろうか。

おまえはときどき、たとえ数秒間でもいい、おまえの内心の奥間にしりぞいて、至聖なる三位一体の天主を礼拝するために、毎日の黙想を、典礼生活を、よく利用できたろうか。――無限の美なる天主、広大無辺な天主、全能の天主、聖の聖なる天主、生命そのものなる天主、愛そのものなる天主、一言でいえば、最高善、最高完全の善なる天主、しかもおまえの内にお住まいくださり、かしこくもおまえの原初(はじめ)となり終局となってくださる、この三位一体の天主を礼拝するために。

霊的聖体拝領――これは、私の一日の生活において、どんな地位をしめているだろうか。わが魂よ、おまえはこれをよく利用するなら、おまえの内にお住まいくださる至聖なる三位一体の天主の現存を、身にしみて意識することができるはずだ、心ゆくまで。そればかりか、救い主の御血の功徳を、あらたに私の霊魂にそそぎ入れていただくことによって、この天主の現存意識を、ますます深めていくことができるはずだ。

私はこれまで、私の巡礼の途上に咲き乱れていた、これらの信心の花々を大切なものだと思って、これを尊重してきたろうか。それを手折るには、ただ少しだけ腰をかがめさえすればよかったのだ。私はなぜ、この美しい花々で、内心の天主の祭壇をかざらなかったのだろう。

世の中には、感心な霊魂もいる。かれらは、たとえ忙しい仕事にたずさわってはいても、たとえ他人と話はしていても、一日にいくたびとなく、内心の天主に、内心の賓客に、心をよびもどし、礼拝と感謝、祈願と贖罪のささげものをしている。この美しい習慣を、すでに身につけている。そしてかれらの宝のある処に、心もあるのだ。わが魂よ、おまえはどれほど、かれらから遠く離れていることか。どれほどかれらに、似かよっていないことか!

(Ⅲ)聖母マリアの対する信心は、心の取り締まりを容易にする
ああ、原罪のけがれなき童貞聖マリアよ、カルワリオの丘で、あなたの御子イエズスが、「婦人よ、ごらんなさい。これがあなたの子です」(ヨハネ19・26)と仰せられて、私をあなたの子にしてくださいましたのは、とりもなおさず、イエズスによって、至聖なる三位一体の天主と一つになった私の心を、よく取り締まることができるように、あなたが私を助けてくださるためでした。

私はあなたに向かって、ますます熱心なお祈りを、おねがいの叫びを挙げることでしょう。それは、とりわけ、心の取り締まりをめざしての祈りであり、念願なのです。――私の心を、すべての悪い傾向から、すべての不純な意向から、すべてのみだらな愛情と意欲から、きよめていただくためなのです。

私は、あなたのやさしいお声から、心の耳をはなしたくありません。あなたのお声は、私にこう申しておられます。「わが子よ、ちょっとお立ち止まり。そしてあなたの心をまっすぐにおし。いいえ、いいえ、あなたはいま、ただ天主さまのみ栄えばかり求めているとは申せない!」

私が放心しているとき、私が仕事の忙しさに取りまぎれて、心を見だしているとき、聖母よ、そのようなときどれほどしばしば、あなたはこういうやさしいお言葉を、私におかけくださったことでしょう。それなのに、どれほどしばしば、私はこのやさしいお言葉に、耳をかさなかったことでしょう。

ああ、わが母よ、こんご私は心して、慈母のお心からほとばしりでるこのお言葉に、耳をかたむけるでしょう。そして、このお言葉が、私の魂の秘奥にひびきわたりましたら、電光石化、すぐに飛び立って、あなたのお呼びごえに、忠実に従いますでしょう。私は次の問いを自分にかけるのです。『私は、誰のために、いま、この行為をしているのか。もしイエズスさまが、私の立場におありだったら、どんな風に、この仕事をなされるだろうか』と。このような自問自答が、私の心奥にくり返されて、やがてそれが一つの習慣となるとき、そのときこそ私は、心の取り締まりの習慣を身につけるのです。そしてこの習慣こそは、私の霊肉のすべての能力、すべての傾向を、日常生活のすべてのいとなみにおいて、私の霊魂に内住される天主に、常時に従属せしめ、この天主への従属をますます、完全なものにしてくれるのです。

2018年5月18日(金)殉教者聖ヴェナンチオのミサ 「私に留まれ」の御言葉の意味を黙想する

2018年07月15日 | お説教・霊的講話
2018年5月18日(金)殉教者聖ヴェナンチオのミサ
小野田神父説教


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2018年5月18日、聖ヴェナンチオ殉教者の祝日を祝っています。

明日、5月ではこの御聖堂では御聖体降福式をする事がまだ、5月ではする事ができなかったので、明日ミサが終わった後にする事に致します。

「私に留まれ。そうすれば私は、お前たちの内に留まる。」

イエズス様は福音の中で私たちにこう仰いました。そこで今日、聖ヴェナンチオ殉教者の祝日において、

⑴イエズス様が「私に留まれ」と仰ったその意味を黙想して、

⑵では聖ヴェナンチオは、どのようにしてその御言葉を実現させたのか、

⑶最後に3番目に、私たちはでは聖ヴェナンチオに倣ってどのようにしなければならないかを黙想する事にします。

⑴イエズス様は最後の晩餐の時に、弟子たちに非常に緊密な愛の話をしました、「私はぶどうの樹である。お前たちはその枝だ。私に留まれ、私の愛に留まれ。私に留まらなければ、お前たちは何もする事ができない。お前たちは私がいなければ実を結ぶ事ができない。もしも実を結ぶ事ができなければ、そのような枝は切り取られて火に焼かれてしまうだろう。私に、私の愛に留まれ」と。

全カトリック教会の、イエズス様の創った真の宗教の本質はここにあります。「天主は愛である」という事を信じて、天主が私たちを愛されて、極みまで愛されておられる、という事を信じて、私たちもその愛に応えて、愛に愛で愛し返す。これがカトリックの核心の教えです。

天主は私たちを創造されましたが、これは愛の御業でした。永遠の昔から、私たちを一人ひとりを御存知で、私たちを在らしめて下さいます。もしも私たちが今ここに生まれてきたとしたら、それは天主様が私たちを愛して下さっているからです。私たちがこう存在し始めたその瞬間から、愛を受けました。存在する前から、私たちは天主様によって愛されていますが、存在したその瞬間から本当に愛され、今でも愛され続けています。天主は私たちに恵みを与え、溢れるばかりの恵みを与えて下さっています。

もしも私たちが罪を犯した、あるいは何かの事で苦しみを受ける、罰を受けなければならない、という事も実は、これは天主の無限の愛の表現なのです。愛するがゆえにこそ、正義を実現させます。

もしも私たちがこの自然界の美しい大自然に恵まれているとしたら、これも天主が愛によって私たちに与えられた、素晴らしい贈り物です。私たちが今こう在るのも、こう生きているのも、私たちが持っているもの全ては、三位一体の天主様が私たちを愛するがゆえに与えて下さったものです。私たちの持っているもので、愛によって与えられたものでないものはありません。

その私たちの先祖が、そしてまた私たちが、その愛にどれほど応えなかったでしょうか。天主様の御恵みに、「No!」「嫌だ!」と言った事がどれほどあった事でしょうか。天主様の御旨を悲しませたばかりか、裏切ったり、あるいは御恵みを敢えて悪用したり、それを使って、与えられた才能、時間、能力を使って、天主に逆らう。

それにもかかわらず天主は、私たちの霊魂を探して、敵であったにもかかわらず、私たちを友人であるように、また元に戻して下さるように、憐れみと、また憐れみと、御情けを下さいました。寛大な忍耐と、寛大な御恵みとを頂いて、私たちはまた天主様の友人となり、友となり、天主様の子供の地位を獲得する事ができています。

それのみか、私たちを愛するがあまり、天主は人となって、貧しい生活をされて、そして苦しみを受け、御血潮を流されて、私たちの為に御死去をされました。天主の燃えるような愛の赤い、赤いこの燃える炎の赤と、天主様が流された血潮の赤さは、私たちにとって一致しています。

天主様はイエズス様は、私たちを愛するが為に復活され、私たちにその同じ命を与えようとされています。私たちに天の宝を準備する為に天に昇られました。私たちに天主聖霊を贈り物として与えようと、天に昇られました。聖霊を私たちに与えて下さるばかりか、御自身の御体を私たちに与えて下さいます。

「天主は愛である」と聖ヨハネは言いましたが、まさにここに、天主の全ての御業の核心があります。天主のなさる事は全て愛の御業であって、それ以外のものではありません。愛で始まり、愛で終わって、そして永遠の昔から私たちを愛し、私たちを永遠に愛そうと思っています。つまり私たちを幸せにしよう、私たちを無限に幸せにしようと思っています。

はい、この被造物の中には、被造物は「全て幸せでありたい」と思っています。動物もそのような欲求があります。しかし人間には、「無限に終わりなく、限りなく幸せでありたい。」そうでなければ、この地上のいかなる物も満足させる事ができない、無限の幸せを受ける為に創られてきました。天主を愛するが為に創られてきました。この地上のものでは満足できないように創造されています。

イエズス様は仰います、「私に留まれ、私の愛に留まれ。そうすれば私もお前たちの内に留まる。」

⑵聖ヴェナンチオは、この教えをよく理解した少年でした。15歳の少年、中学校3年生です。中学校3年生ですと、日本ではもしかしたら野球とかサッカーとかに熱中しているか、あるいは高校入試の受験だ、とか言っているまだガキ坊主のような子供ですけれども、このローマの聖ヴェナンチオという少年は、イエズス様のその教えの核心を生き抜きました。

聖ヴェナンチオの御影とかを見ると、首が取れています。お墓に埋葬されて首先に後光が差していて。

どんな事があったかというと、まず最初に、聖ヴェナンチオは鞭打たれました。鞭打たれて、体が傷だらけでボロボロになって、「さぁ、信仰を捨てろ!」と言われました。「捨てない。イエズス様を信じる。」

どのように鞭打たれて、体がもう傷だらけになっても、決して「嫌だ!」信仰放棄をしなかったのを見て、あきれた刑吏たちは、今度は別の手段を、その傷だらけの体に松明で火を付けます。「燃やしてやろう」と。非常に苦しみますけれども、信仰放棄をしませんでした。松明で燃やされて、燃やされて、燃やされて、焼け焦がれても、そのままです。

「これでもダメか」と思った第3に、逆さに吊るして、下に火を焚いて、煙をボーボー炊いて、ゴホゴホと焼き燻製にしようとしました。それでもしかしいくら残酷な拷問をしても、「これでもか」という事でも、聖ヴェナンチオはたとえゴホゴホ咳はしたとしても、苦しむ様子を見せたとしても、信仰は放棄しませんでした。

遂に「それならばいっその事、ライオンに喰わせてしまえ!」腹の減ったライオン達のいる所に競技場に、聖ヴェナンチオをほっぽり投げました。するとライオンは聖ヴェナンチオ、15歳の少年の前にグワーッ!と駈け寄るのですけれども、近寄ると突然、子羊のように優しくなって、顔をこう擦って、おとなしく彼の前に素直に座り込んで、お腹が減っている事をすっかり忘れて、ライオンである事をすっかり忘れて、優しく聖ヴェナンチオの傷口に寄り添うだけです。

それを見て非常に腹を立てた残酷な刑吏たちは、遂に、聖ヴェナンチオの首を切って、殉教させました。15歳の少年でした。

彼は、イエズス様からの受けた愛を愛で返そうと、受けた血を自分の血で返そうと、受けた命を自分の命で捧げて返そうと思ったのでした。

イエズス様も、私たちの全ての存在を、私たちの命とこの人生を、イエズス様の為に、天主の為に使うという事を、愛を愛を以て返す、という事を御望みです。

私たちにとって聖ヴェナンチオの模範はとても大きな励みになりますが、あまりにも偉大すぎるので、私たちは一体どうして良いかと戸惑ってしまいます。

⑶そこで、5月13日のファチマのマリア様の事を思い出します。トゥイのヴィジョンの事を思い出します。聖霊の御恵み、聖霊の愛、剛毅の賜物、聖霊の七つの賜物、あるいはイエズス・キリスト様の贖いの御血とその全ての御恵みは、マリア様の汚れなき御心を通してのみ、私たちに与えられる。

ですから聖ヴェナンチオも、また日本の殉教者も、聖ルドビコも、マリア様を通して殉教の御恵みを、イエズス様をお愛しする御恵みを頂きました。

私たちも、本当にそれに相応しくない身ですけれども、マリア様の御取次ぎによって、マリア様の汚れなき御心に避難して、ぜひ私たちも、聖ヴェナンチオの爪の垢を少し煎じて飲む事ができますように、イエズス様の愛に愛を以て返す事ができますように、イエズス様に私たちの人生を以て、血潮を流す事ができなくても汗を流して、愛を愛で以て返す事ができますように、マリア様の御取次ぎ、聖ヴェナンチオの取次ぎを乞い求める事に致しましょう。

「私に留まれ。そうすれば私もお前たちの内に留まる。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見 (続き14)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年07月14日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き14)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見


四、“心の取り締まり”は、内的生活の鍵である。ゆえに、使徒職には本質的な修業である
4. La Garde du Coeur, clef de voûte de la Vie intérieure, donc essentielle pour l'Apostolat.

心の取り締まりの決心(1/3)
Résolution de Garde du Coeur.

ああ、イエズスよ、願わくは私がいつも心遣いをしますように。それは、私の心がすべての罪のけがれから守られ、ますます御身の聖心と一つになること、日常生活のすべてのいとなみにおいて、会話の時も、休息の時も、その他どんなことをするときも。
Je veux, ô Jésus, que mon coeur ait la sollicitude habituelle de se préserver de toute tache, et de s'unir de plus en plus à Votre Coeur, dans toutes mes occupations, conversations, récréations, etc.

心の取り締りというこの決心は、消極的な要素ですが、必要欠くべからざるもので、私の行為の動機に、その遂行過程に、忍び入る不純な要素を、私から排除してくれます。(どうしたら意向の純粋さを得ることが出来るだろうか?それは自分に対して大きな注意を払うことによって、私たちの行動の初めと特にその課程において注意することによって得ることが出来る。Comment s'acquiert la pureté d'intention? — Elle s'acquiert par une grande attention sur soi, au commencement et surtout dans le progrès de nos actions.)

心の取り締まりには、しかし、積極的な要素も含まれています。それは、私の聖なる野心をかり立てて、私の行為を霊感する信望愛を、ますます深めようとの熱意に燃えたたせます。

心の取り締まりの決心は、私の朝の黙想と典礼生活の実績を検査するバロメーターです。なぜなら、私の内的生活は、せんじつめれば、心の取り締まりに帰着するからです。「油断することなく、あなたの心を守れ。いのちの泉は、これから流れ出るからである」(格言の書4・23)

黙想と典礼生活は、私の心に飛躍をあたえて、天主と一致させます。

霊魂は、天主との一致をめざして、勇み足で順礼の旅路につく。旅びとがいつも勇ましく、巡礼の途をたどりうるためには、出発の前に用意しておいた旅のかてをとらねばならぬ。また、巡礼の途上で見いだすかてを、常に摂取していなければならぬ。これらのかてを、霊魂に摂取させてくれるのが、“心の取り締まり”である。

では、心の取り締まりとは、どんなことをいうのか。――私の行為を、その動機においてか、遂行過程においてか、そのいずれかにおいて、不純にし有害にするものがある。それが霊魂に忍び入るや否や、すぐにこれを排除しようと、私は絶え間なく、またしばしば、警戒の目を光らせている。――これを、心の取り締まりというのである。

心の取り締まりは、一つの心づかいである。――冷静な、おだやかな、さわがしくない心づかい。同時に、謙遜にみちた、強固な心づかいである。なぜなら、それは、子供のような心で、天主に助けを求める、天主のお助けに絶対に信頼する、という二つのことに基づいているからである。

心の取り締まりは、頭のはたらきというよりむしろ、心と意志のはたらきである。このはたらきは、私の義務を果たすために、精神をいっさいの束縛から解放してくれる。心の取り締まりが、私の行為を束縛して、自由のきかないようにする、と思ったら大間違いである。かえってそれは、私の行為を、天主の精神にしたがって善導し、私を身分上の義務に順応させてくれるから、心の取り締まりは、私の行為を完成する、といわなければならない。

心の取り締まりの修業――私は、これを、時々刻々実行したい。それは、心の目で、私が現在なしつつある行為を、ちらッと眺めることである。私が、これからなそうとしている行為の、いろいろちがった構成要素に、じッと注意をかたむけることである。心の取り締まりは、とりもなおさず、「おまえが現在、なしつつある事をなせ」すなわち、全心全霊をかたむけて、おまえが現在なしつつある業に没頭せよ、との格言を、地で行くものである。

わが魂よ、おまえはちょうど忠実な歩哨のように、私の心のすべての動きに、心の目を光らせている。とりわけ、私の内心に去来するすべてのものにたいして、そうである。すなわち、私の受ける印象にたいして、意向にたいして、欲情にたいして、自然の傾向にたいして、一言でいえば、私の内的・外的のすべての行為にたいして、さらに別言すれば、私のすべての思い、言葉、行いにたいして。

心の取り締まりには、たしかに、ある程度の“潜心”が要求される。私の魂が、いつも気を散らしたままでいるなら、心の取り締まりは実現できない。
しかし、しばしば練習しているうちに、心の取り締まりの“習慣”が身についてくる。
「私は、どこへ行くのか? そして何をしに?」
イエズスだったら、この場合、なにをなされたろうか。イエズスが、私と同じ立場、同じ境遇におかれたら、どうなされたろうか。この場合、なにを私からお求めになるのだろうか。――このような質問が、内的生活に飢えている私の霊魂に、自然に発せられるのである。私がもし、聖母をへてイエズスに行く、という気持ちになるなら、そのとき、この心の取り締まりは、一つの新しい特長をおびる。すなわち、愛情にみちたものとなる。そうなれば、慈しみ深い天上の母君のみもとに馳せていって、そのお助けを求める、ということは、私の心にとって、一つの絶え間なき要求にすらなってくる。

このようにして、「あなたがたは、私につながっていなさい。そうしたら、私もあなたがたに、つながっていよう」(ヨハネ15・4)とのイエズスのお言葉が、私において、めでたく実現する。そして、このお言葉のなかに、内的生活のあらゆる原理が含まっているのだ。

ああ、イエズスよ、「私におり、私もまたその人におる」(ヨハネ6・56)とは、ご聖体の効果について仰せられたお言葉ですが、私はこのお言葉の実現を、私をあなたに一致させる“心の取り締まり”によって、手に入れたいのです。

「私におる」――そうです。主よ、私は、あなたの聖心のなかでは、ちょうど自分の家におるような気がしてならないのです。あなたのすべての宝を、意のままに処置する権利を、私は頂いております。成聖の恩寵のかぎりなき宝を、あなたの尽きざる助力の恩寵を、自由自在に利用する権利を、頂いております。

「私もまた、その人におる」――だがしかし、私の実行する心の取り締まりの修業によって、わがいとも愛する救い主よ、あなたもまた、私の心の中では、ちょうどご自分の家におられるような、気安さをお感じになります。なぜなら、私は絶え間ない努力を傾けて、あなたの支配が、私の霊肉のすべての能力のうえに及びますように、そのためには、あなたのお望みにならないことは何もしないようにと、いつも警戒し、用心しているからです。そればかりか、私の行いの一つ一つに、あなたにたいする愛熱の火をそそぎ入れるように、そしてこの愛熱の火が、日一日と盛んにもえていくようにと、いつも念願しているからです。

主よ、心の取り締まりからは、いろいろりっぱな効果が生まれます。――潜心の習慣が、心戦の習慣が、規則正しい生活が、超自然的功徳の限りない増加が、生まれてまいります。

このようにして、ああ、イエズスよ、私の業によるあなたとの間接的一致――換言すれば、私があなたのみ旨にしたがって、被造物と結ぶいろいろの関係を通じての、あなたとの一致は、黙想とか、典礼生活とか、秘跡とか、こういうもの通じてあなたと結ぶ、直接的一致の必然的結果となってくるのです。そのいずれの場合におきましても、あなたとの一致は、信仰と愛から生まれるのです。そしてあなたとの一致は、いつも、恩寵の影響下にいとなまれます。

直接的一致において、私がねらっておりますのは、ああ、わが天主よ、それはあなたご自身、ただあなただけなのです。間接的一致におきましては、私はあなた以外のものをねらっています。だが、それはただあなたのみ旨に従うためですから、私の注意の焦点をとらえているこれらの被造物は、私があなたとよく一致するために、あなたがお望みになった手段となります。私がいつも、おさがししている者は、主よ、ただあなただけなのです。一途に、そしてみ旨にしたがって……。

あなたのみ旨こそは、私があなたへの奉仕に、何かの活動をおこすとき、この活動を正しい方向にみちびくために、心の取り締まりがいつも、私に目をそそがせ、見つめさせる燈台なのです。直接一致をめざして、ひたすらあなただけをお探しする場合にも、また間接的一致をめざして、その一致の手段として、被造物をあいてにする場合にも、私はいつもこういうことができます。「私にとって、天主と一致することは、よいことだ」(詩篇73・28)と。

ですから、ああ、わが天主よ、あなたと一致するためには、私はこれこれの業を延期しなければならぬ、これこれの業がすむのをまっていなければならぬ、などと考えているなら、大きなまちがいです。ある仕事は、その性質上、またはそれをしている時間のあまり長い関係上、すっかり私の注意力を独占し、精神の自由を奪ってしまう、その結果、あなたのとの一致を不可能にしてしまう、などと考えるのもまた、大きなまちがいです。

いいえ、いいえ、けっしてそんなものではありません。あなたは、私を自由にしたいおぼし召しです。仕事が私を奴隷にし、身動きできないようにすることを、あなたはけっしてお望みになりません。私こそは、仕事の主人であって、けっして仕事の奴隷であってはならぬ。もし私が、心の取り締まりの修業に忠実でさえあれば、そのために必要な恩寵は、きっとあなたから与えて頂きます。

ですから、日中、私の生活に起きるいろいろの出来ごとや、いろいろの事態や、また、あなたの摂理によって、アレンジされる日常の茶飯事を通じて、これこれの仕事はあなたのみ旨から出ている、と私が超自然的感覚で悟るや否や、私の務めは、この仕事を絶対に拒否しないこと、同時に、あなたをすっかり忘れ去ってしまうほどに、この仕事に没頭しないことです。私はこの仕事を、ただあなたのみ旨を果たすため、というただ一つの目的をもって、それに着手し、それを遂行しなければなりません。なぜなら、もしそうでなかったら、私の自愛心が、知らぬ間に霊魂に忍び込んで、この仕事の超自然的価値も功徳も滅殺してしまうからです。

ああ、イエズスよ、もし私が、これこれの仕事はあなたのみ旨である、しかもあなたは、これこれの仕方で、それがなしとげられるのを望んでおられる、ということを悟りましたら、そのとき私は、ただあなたかこれをお望みになられるから、自分はこれをするのだ、というただ一つの動機から、この仕事をしたいのです。そんなわけで、仕事をしながらでも、あなたとの一致は、さまたげを受けるどころか、かえってますます深さを増していくだけです。

トマス・アクイナス前田枢機卿様の枢機卿任命を喜び、霊的花束をもってお祝い申し上げます。

2018年07月14日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

トマス・アクイナス前田枢機卿様の枢機卿任命を喜び、お祝い申し上げます。

先月、六月八日聖心の大祝日付けで、霊的花束として、ロザリオ1000環(大阪と東京の信徒ら有志から)を枢機卿様にお手紙でお送りしました。ご報告申し上げます。

同時に、次のような俳句(と言うより、俳句には今一つ足りないので、「俳八」)も寄せ書きしました。

季語は、六月末に枢機卿任命式があるので「枢機卿」、自分の司祭叙階銀祝が六月末にあるので「銀祝」、六月はイエズスの聖心の月なので「聖心」などを、アマチュア流にかってに「季語」としました。😅😓

アヴェ・マリア!
殉教の血に染まる地に生まれて、高山右近の地に働く大司教様が、イエズスの聖心の月に、使徒聖ペトロとパウロの祝日に枢機卿の赤い帽子を受けることを祝して。
大司教様の大阪で、司祭叙階銀祝の祝いを頂き、枢機卿になられるとの知らせを受けて、赤と銀が紅白のように重なって祝い、聖心への喜びの余韻を繰り返しつつ詠う。

紅(くれない)の
地(ち)から新たに
枢機卿

銀祝の
慶(よろこ)びぞ増す
逢坂(あうさか)に

祝されよ
千代に八千代に
聖心よ











おそらく大阪教区、また日本全国から大きな霊的花束が送られることと思いそれを期待します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田神父

今日は、ファチマの日、生命尊重の日

2018年07月13日 | プロライフ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
こんばんは!

今日は、ファチマの聖母が子ども達に秘密を教えた日。地獄の火を見せて下さった日。
日本では、1948年の今日から、胎児たちに大戦争が始まった日。


罪の無い胎児たちの生命を守ってください!
マリア様と生命の為に一緒に歩いてください。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田神父

【聖ピオ十世会】来たる7月16日(うみの日)には、東京では午前10時半から、大阪では午前8時から、聖伝のミサがあります。ミサの固有文をご紹介いたします。

2018年07月12日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 来たる7月16日(うみの日)には、

東京では午前10時半から、
大阪では午前8時から、

聖伝のミサがあります。
午後4時からは、マーチフォーライフもあります。東京カトリック築地教会から出発です。

ミサは、カルメルの聖母のミサを行う予定です。ミサの固有文をご紹介いたします。

【解説】聖マリアの恵みの感謝として、その昔カルメル修道会が行っていた本日の祝日は、ベネディクト十三世教皇によって、一七二六年、全教会の祝日とされた。
 この日と関係のある歴史は、一二五一年七月十六日、聖母マリアによって、カルメル山の聖母修道会の修道服が聖シモン・ストックに渡された史実である。
 多くの信者が、聖母マリアをたたえるために身につけている聖母のスカプラリオは、この修道服をかたどったものである。

die 16 Iulii 7月16日
BEATÆ MARIÆ VIRGINIS DE MONTE CARMEL カルメル山の聖母
Commemoratio 記念
Ant. ad Introitum. 入祭文
Gaudeámus omnes in Dómino, diem festum celebrántes sub honóre beátæ Maríæ Vírginis, de cuius solemnitáte gaudent Angeli et colláudant Fílium Dei. みな、主において喜ぼう。聖マリアの光栄のために、この日を祝おう。盛んなこの祝日を、天使も祝い、われらとともに天主の御子を讃美する。
Ps. 44, 2. 詩篇 44ノ2
Eructávit cor meum verbum bonum ; dico ego opéra mea Regi. 私の心からは、すぐれた讃美がわき出た。私はいう、私の讃美は王のためであると。
V/. Glória Patri. 願わくは、聖父と・・・(栄誦)
Gaudeámus omnes in Dómino, diem festum celebrántes sub honóre beátæ Maríæ Vírginis, de cuius solemnitáte gaudent Angeli et colláudant Fílium Dei. みな、主において喜ぼう。聖マリアの光栄のために、この日を祝おう。盛んなこの祝日を、天使も祝い、われらとともに天主の御子を讃美する。
Oratio. 集禱文
Deus, qui beatíssimæ semper Vírginis et Genetrícis tuæ Maríæ singulári título Carméli órdinem decorásti : concéde propítius ; ut, cuius hódie Commemoratiónem sollémni celebrámus offício, eius muníti præsídiis, ad gáudia sempitérna perveníre mereámur : Qui vivis. カルメル修道会に、終生童貞なる聖母マリアの御名をもつほまれを与え給うた天主よ、願わくは、御あわれみをもって、この祝日を行うわれらを、永遠のよろこびに至らせ給え。聖父なる天主とともに・・・。
Léctio libri Sapiéntiæ. 智慧の書の朗読
Eccli. 24, 23-31. 集会書 24ノ23-31
Ego quasi vitis fructificávi suavitátem odóris : et flores mei fructus honóris et honestátis. Ego mater pulchræ dilectiónis et timóris et agnitiónis et sanctæ spei. In me grátia omnis viæ et veritátis : in me omnis spes vitæ et virtútis. Transíte ad me, omnes qui concupíscitis me, et a generatiónibus meis implémini. Spíritus enim meus super mel dulcis, et heréditas mea super mel et favum. Memória mea in generatiónes sæculórum. Qui edunt me, adhuc esúrient : et qui bibunt me, adhuc sítient. Qui audit me, non confundétur : et qui operántur in me, non peccábunt. Qui elúcidant me, vitam ætérnam habébunt. 私は、葡萄の木のように、芳しい香の花を咲かせた。私の花は、栄光と富との果(み)を結んだ。私はうるわしい愛と、敬畏と、智識と、聖なる希望との母である。私において、聖なる生活と真理とのすべての恩寵があり、生命と徳とのすべての希望がある。私をのぞむ者は、私のもとに来て、私の実に飽かされよ、私の精神は、蜜よりも甘く、私の家督は、蜜の巣よりも香気がある。私の記念は代々に伝えられるであろう。私の甘さを味わう者は、また飢え、私を飲む者は、またかわくであろう。私の言葉を聞く者は、恥をうけないであろう、わたしをさがし求める者は、罪をおかさないであろう。私を光としてうける者は、永遠の生命を有するであろう。
Graduale. 昇階誦
Benedícta et venerábilis es, Virgo María : quæ sine tactu pudóris invénia es Mater Salvatóris. 童貞聖マリアよ、祝された喜ぶべき御者よ、御身の童貞聖の光栄は、汚されることなく、救主の御母となり給うた。
V/. Virgo, Dei Génetrix, quem totus non capit orbis, in tua se clausit víscera factus homo. V/. 童貞にして天主の御母よ、全世界も抱きえない御者は、人間となって御胎にやどり給うた。
Allelúia, allelúia. V/. Per te, Dei Génetrix, nobis est vita pérdita data : quæ de cælo suscepísti prolem, et mundo genuísti Salvatórem. Allelúia. アレルヤ、アレルヤ、V/. 天主の御母よ、失われた生命は、あなたによって再びわれらに返った。御子を天よりうけたあなたは、この世に救主を生み給うた、アレルヤ。
+ Sequéntia sancti Evangélii secúndum Lucam. ルカによる聖福音の続誦
11,27-28. 11ノ27-28
In illo tempore : Loquénte Iesu ad turbas, extóllens vocem quædam múlier de turba, dixit illi : Beátus venter qui te portávit, et úbera quæ suxísti. At ille dixit : Quinímmo beáti, qui áudiunt verbum Dei et custódiunt illud. そのとき、イエズスが、群衆に話し給うとき、そのなかのある女が声をあげ、「幸いなこと、あなたをやどした胎(はら)、あなたが吸った乳房は」といった、しかし彼は、「むしろ、幸いなこと、天主の御言葉を聞いてこれをおこなう人は」とおおせられた。
Ant. ad Offertorium. Ier. 18, 20. 奉献文 エレミア書 18ノ20
Recordáre, Virgo Mater, in conspéctu Dei, ut loquáris pro nobis bona, et ut avértat indignatiónem suam a nobis. 天主の御母よ、主の御前の立ち、われらを憶え給え。天主が、我らへの御怒りをおさめ給うよう、われらのために、一言、とりなし給え。
Secreta 密誦
Sanctífica, Dómine, quǽsumus, obláta libámina : et, beátæ Dei Genetrícis Maríæ salubérrima intercessióne, nobis salutária fore concéde. Per eúndem Dóminum. 主よ、願わくは、われらのささげ奉る供物を聖となし給え。天主の御母、聖マリアの、有力なとりつぎにより、この供物によってわれらに救いを与え給え。天主として、聖霊との一致において、・・・。
Præfatio de B. Maria Virg. 聖母マリアの序誦
Vere dignum et iustum est,æquum et salutáre, nos tibi semper et ubíque grátias ágere : Dómine, sancte Pater, omnípotens ætérne Deus : Et te in commemoratióne beátæ Maríæ semper Vírginiscollaudáre, benedícere et prædicáre.Quæ et Unigénitum tuum Sancti Spíritus obumbratióne concépit :et, virginitátis glória permanénte, lumen ætérnum mundo effúdit,Iesum Christum, Dóminum nostrum. Per quem maiestátem tuam laudant Angeli,adórant Dominatiónes,tremunt Potestátes.Cæli cælorúmque Virtútes ac beáta Séraphimsócia exsultatióne concélebrant.Cum quibus et nostras voces ut admítti iúbeas, deprecámur,súpplici confessióne dicentes. 聖なる主、全能の父、永遠の天主よ、われらが、いつも、どこにても、主に感謝をささげ、また,終世童貞なる聖マリアの記念において、御身をたたえ、祝し、宣言し奉ることは、実にふさわしく正しいことであり、われらの義務と救いである。聖母は、聖霊の能力によって、御独子をやどし給い、童貞性の光栄をそこなうことなく、永遠の光明なるわれらの主イエズス・キリストを、この世に生み給うた。かれによって、天使らは、主のみいずをほめたたえ、主天使は礼拝し、能天使はふるえおののく。天と天の力天使と、福なる熾天使は共によろこび、それをたたえ奉る。願わくは、かれらの声に、われらの声をも交えさせ給え。われらは深く礼拝しつつ、こう歌うであろう。
Ant. ad Communionem. 聖体拝領誦
Regina mundi digníssima, María, Virgo perpétua, intercéde pro nostra pace et salúte, quæ genuísti Christum Dóminum, Salvatórem ómnium. ふさわしき世の元后、終世童貞なるマリア、すべてのものの救主なる主キリストを生み給うた御者よ、われらの平安と救いとのためにとりつぎ給え。
Postcommunio 聖体拝領後の祈
Adiuvet nos, quǽsumus, Dómine, gloriósæ tuæ Genetrícis sempérque Vírginis Maríæ intercéssio veneránda : ut, quos perpétuis cumulávit benefíciis, a cunctis perículis absolútos, sua fáciat pietáte concórdes : Qui vivis. 主よ、願わくは、光栄なる主の御母、終世童貞聖マリアの尊いとりつぎによって、われらを助け給え。また、たえざる恵みで満し給うたわれらを、すべての危険より解放し、御慈悲をもって、われらに一致を保たせ給え。聖父なる天主とともに・・・。

「マーチフォーライフの歌」やどされた ちいさないのち えがおのきみを 守りたい!

2018年07月12日 | プロライフ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 来たる7月16日うみの日には、命のための大行進をいたしましょう。

 マーチフォーライフでは「ファチマの聖母のアヴェ・マリア」を皆で歌うことを提案します。できれば、次の「マーチフォーライフの歌」も同じメロディーで歌いましょう!

 楽譜は次をご覧ください。

やどされた
ちいさないのち
えがおのきみを
守りたい。

アヴェ、アヴェ、アヴェ・マリア

すやすやと
いねむるいのち
おなかのきみを
迎えたい。

アヴェ、アヴェ、アヴェ・マリア

むぼうびの
かよわいいのち
未来のきみを
助けたい。

アヴェ、アヴェ、アヴェ・マリア

生まれ来る
ぼくらのたから
いのちのために
歩きたい。

アヴェ、アヴェ、アヴェ・マリア





↑上の画像をクリックすると楽譜がダウンロード出来ます。




【聖ピオ十世会】来たる7月15日の主日(聖霊降臨後第8主日)は、午前10時半から東京で、午後6時から大阪で、聖伝のミサがあります。ミサの固有文をご紹介いたします。

2018年07月12日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 来たる7月15日の主日(聖霊降臨後第8主日)は、

午前10時半から東京で
午後6時から大阪で

聖伝のミサがあります。ミサの固有文をご紹介いたします。

【解説】聖霊と聖寵とによって、われらは、霊的に復活して天主の子となった。しかしわれらは未だに、たえず悪の方へとさそわれている。故に、天主の恩寵にしたがって生きるためには、たえずキリストによりたのまねばならぬ。主日ごとに信者が教会に集まるのは、より一層天主のあわれみをうけるためである。

我们藉着圣洗而成了天主的子女,向天上永生的道路行进。当我们生活于此下土之时,我们当该奋斗,为制服那在我们心中常冲动着罪恶的倾向(书信)。我们必须不断向基督求援,为能度圣化而对天主绝对孝爱的生活。为这个缘故,我们每周该凭藉结合于祂的圣祭,来恢复我们的勇力。祂赐给我们自己的圣神,指导我们,并使我们常以天主子女孝爱的精神,运用思想和进行活动(书信)。

Introitum(Ps. 47. 10, 11) 进台咏(咏47:10,11) 入祭文  詩篇 47ノ10-11
SUSCEPIMUS, Deus, misericórdiam tuam in médio  templi tui: secúndum nomen tuum, Deus, ita et laus tua in fines terræ:  justítia plena est déxtera tua. Ps. 47. 2. Magnus Dóminus, et laudábilis  nimis: in civitáte Dei nostri, in monte sancto ejus. V. Gloria Patri. 天主啊!我在祢的殿中,默念祢的仁慈。天主啊!祢受的称,正如祢的名,直到地:祢的右手充。——上主至尊至大,在祂的圣城中、在祂的圣山上,大的美。——光荣于父……。 天主よ、主の神殿の中にあって、われらは御あわれみをうけた。主と主の御名との称讃は、地上あまねくひびきわたる。正義は御右手のものである。主は、天主の町、その聖なる山において、偉大なもの、あらゆる称讃に値する御者である。
Oratio  集祷经 集禱文
LARGÍRE nobis, quǽsumus, Dómine, semper  spíritum cogitándi quæ recta sunt, propítius et agéndi: ut, qui sine te esse  non póssumus, secúndum te vívere valeámus. Per Dóminum. 主,求祢恩赐我们,能在祢的默感下常想正理,常行正道;我们既非祢而不能存在,望祢使我们能循着祢的圣意而生活。因我们主……。 主よ、願わくは御慈悲によって、常に正しく考えかつ行う恩寵を与え給え。御者なくして存在しえないわれらが、思召にしたがって生きうるように計らい給え。天主として……。
Epistolae(Rom 8. 12-17) 书信(罗8:12-17) ローマ書 8ノ12-17
FRATRES: Debitóres sumus non carni, ut  secúndum carnem vivámus. Si enim secúndum carnem vixéritis, moriémini: si  autem spíritu facta carnis mortificavéritis, vivétis. Quicúmque enim spíritu  Dei agúntur, ii sunt fílii Dei. Non enim accepístis spíritum servitútis  íterum in timóre, sed accepístis spíritum adoptiónis filiórum in quo  clamámus: Abba (Pater). Ipse enim Spíritus testimónium reddit spirítui nostro  quod sumus fílii Dei. Si autem fílii, et herédes: herédes quidem Dei,  coherédes autem Christi. 弟兄们:我们对于肉体不欠债了,不可再随从肉体而生活。如果你们随从肉体而生活,你们必定要死亡;但是如果你们随从圣神,使肉体的妄动灭亡,你们才得生活。凡受天主圣神指导的人,都是天主的子女。的确,你们并没有领受了奴隶的精神,使你们重陷于恐惧;你们所领受的是义子的精神,它使我们高呼:“阿爸!父呀!”圣神也向我们的心证明我们是天主的子女。但是如果我们是子女,也就是继承者,是天主的继承者,基督的共同继承者。 兄弟たちよ、私たちは負債をおっているが、肉にしたがって生きるための、肉に対する負債をおってはいない。あなたたちが肉にしたがって生きるなら、死に定められており、霊によって体のおこないを殺すなら、あなたたちは生きる。実に天主の霊によって導かれている全ての人、それが天主の子らである。あなたたちは、再び恐れにおちいるために、奴隷の霊を受けたのではなく、養子としての霊を受けた。これによって私たちは「アッバ、父よ」と叫ぶ。霊おんみずから、私たちの霊とともに、私たちが天主の子であることを証認してくださる。私たちが子であるのなら、世つぎでもある。キリストとともに光栄をうけるために、その苦しみをともに受けるなら、私たちは、天主の世つぎであって、キリストとともに世つぎである。
Graduale(Ps 30. 3; 70. 1) 台阶咏(咏30:3;70:1) 昇階誦 詩篇 30ノ3
ESTO mihi in Deum protectórem, et in locum  refúgii, ut salvum me fácias. V. Deus, in te sperávi: Dómine, non confúndar  in ætérnum. 天主啊!求祢做我避难的处所,做搭救我们的保障。——天主啊!我投靠了祢;上主啊!我必永远不蒙羞辱。——阿肋路亚。 天主よ、わたしの保護者、避難所、救主となり給え。V/. 詩篇 70ノ1 天主よ、私は主によりたのみ奉る。主よ、永久に、私がはずかしめられるのをゆるし給うな。
Alleluia!(Ps. 47. 2) 阿肋路亚!(咏47:2) アレルヤ 詩篇 47ノ2
ALLELÚIA, allelúia. V. Magnus Dóminus et laudábilis  valde, in civitáte Dei nostri, in monte sancto ejus. Alleluia. 阿肋路亚,阿肋路亚。上主至尊至大,在祂的圣城中、在祂的圣山上、应受绝大的赞美。阿肋路亚。 アレルヤ、アレルヤ。主は、天主の町、その聖なる山において、偉大なもの、あらゆる称讃に値する御者である、アレルヤ。
Evangelium(Luc 16. 1-9) 福音(路16:1-9) ルカ  16ノ1-9
IN illo témpore: Dixit Jesus discípulis  suis parábolam hanc: Homo quidam erat dives, qui habébat víllicum: et hic  diffamátus est apud illum, quasi dissipásset bona ipsíus. Et vocávit illum et  sit illi: Quid hoc áudio de te? redde ratiónem villicatiónis tuæ:  jam enim non póteris villicáre. Ait autem  víllicus intra se: Quid fáciam, quia Dóminus meus aufert a me villicatiónem?  Fódere non váleo, mendicáre erubésco. Scio quid fáciam, ut, cum amótus fúero  a villicatióne, recípiant me in domos suas. Convocátis itaque síngulis  debitóribus dómini sui, dicébat primo: Quantum debes dómino meo? At ille  dixit: Centum cados ólei. Dixítque illi: Accipe cautiónem tuam: et sede cito,  scribe quinquagínta. Deínde álii dixit: Tu vero quantum debes? Qui ait:  Centum coros trítici. Ait illi: Accipe lítteras tuas, et scribe octogínta. Et  laudávit dóminus víllicum iniquitátis, quia prudénter fecísset: quia fílii  hujus sǽculi prudentióres fíliis lucis in generatióne sua sunt. Et ego vobis  dico: fácite vobis amicos de mammóna iniquitátis: ut, cum defecéritis,  recípiant vos in ætérna tabernácula. 候,耶稣给祂的门徒个比喻说:“有一个富人,他有一个管家,被人在他面前告发说是浪了他的钱财。他叫管家来,:‘我听到了人家你的,究竟是怎么一回事?可把你所手的交出来吧!因从今以后、你不能再做管家了。’管家心中思量:‘那我怎么呢?我的主人撤了我管家的司了。——耕田?却没有力量;乞食?又得羞耻……。我得怎么了!我被撤了管家的司,要叫人接我到他家里去。’于是把欠他主人的债户,一个一个叫来;问第一个说:‘你欠我主人多少?’这人说:‘一百桶油。’管家说:‘拿你的债券,快坐下来写五十。’又问另一个说:‘你欠下多少?’他说‘一百石麦子。’管家的说:‘拿你的债券写下八十。’于是主人称赞这个不义的管家,说他办事精明。因为这世俗之子对于自己的同类,却比光明之子还要精明。”——“我又告诉你们:你们尽可用那不义之财,交结几位朋友吧!好到钱财无用的时候,他们接待你们到永远的帐幕(天堂)里去。” そのとき、イエズスは弟子たちに、次のたとえをいい給うた、「ある金持に、一人の支配人がいた。主人の財産をつかいこんでいるという訴えがあったので、主人はかれをよび、"あなたのことについて聞いたが、あれはなんだ。会計の報告を出しなさい、もうあなたを支配人にしておくわけにはいかないから"といった。支配人は、"さて、主人が私の管理職をうばったらどうしよう。土を耕す?それもできないし、乞食する?それも恥しい。ああそうだ、どうすればよいかがわかった。管理職をやめさせられても、人々がむかえいれてくれる方法が!"と心の中でいった。それから、主人に負債のあるものを一人一人呼んだ。はじめの人に、"あなたは、私の主人にどれだけの負債がありますか?"ときくと、"油百樽です"と答えたので、支配人は、"証書をとり、腰かけて早く五十と書きなさい"と答えた。また、ほかの人に"負債はどれほどですか?"ときくと、"麦百石"と答えたので、かれは"証書をとって八十と書きなさい"といった。ところで、主人はこの不正な支配人のしたことを、巧妙なやり方としてほめた。この世の子らは、自分の仲間に対しては、光の子らよりも巧妙なものである。私はいう。不正の富で友人をつくれ。そうしておけば、金がなくなったとき、その友人か、あなたたちを永遠のすみかにむかえてくれるだろう。
PÓPULUM húmilem salvum fácies, Dómine, et  óculos superbórum humiliábis: quóniam quis Deus præter te, Domine?  上主啊!祢必解救困苦的百姓,贬抑那些目空一切的人。上主啊!除祢以外,谁是天主呢? 主よ、御身はへりくだる民を救い、高ぶる者の目を下げ給う、何故なら、主よ、御身以外の誰が天主であろうか。
Secreta  密祷经 密誦
SÚSCIPE, quǽsumus, Dómine, múnera, quæ tibi  de tua largitáte deférimus: ut hæc sacrosáncta mystéria, grátiæ tuæ operánte  virtúte, et præséntis vitæ nos conversatióne sanctíficent, et ad gáudia  sempitérna perdúcant. Per Dóminum. 主,求祢收纳我们所受自祢的厚惠而复献给祢的礼物;望此神圣的奥迹,在祢圣宠大能的作用下,帮助我们妥度圣善的生活于世,并领导我们到达永远的喜乐于天。因我们主……。 主よ、願わくは、われらが、御身の寛容によって受けた子の賜物をうけいれ給え。恩寵の強力な御業によって、この聖なる奥義がわれらの現在の生活を聖とし、またわれらを終わりなきよろこびに至らせんことを。天主として……。
PRÆFATIO DE SS. TRINITATE  天主圣三的颂谢引 三位一体の序誦
Communionem(Ps. 33. 9) 领主咏(咏33:9) 聖体拝領誦 詩篇 33ノ9
GUSTÁTE et vidéte quóniam suávis est  Dóminus: beátus vir qui sperat in eo. 你要尝试,要瞻望,上主是何等的和蔼。凡投奔祂的人,是有福的。 主はいかに甘美に在すかを、味わい見よ。主によりたのむ者は幸せである。
Postcommunio 领后经 聖体拝領後の祈
SIT nobis, Dómine, reparátio mentis et  córporis cæléste mystérium: ut, cujus exséquimur cultum, sentiámus efféctum.  Per  Dóminum. 主,伏望这天上的奥迹,恢复我们的神形力量,使我们感受到我们所敬行了奥迹的实效。因我们主……。 主よ、この天の奥義によって、われらの身心を新にし、われらがうやうやしく行うことの効果を感じさせ給え。天主として……。





ラテン語典礼 ローマ聖務日課 2018年7月の聖務日課をKindleの中に入れるためのmovi ファイルをご紹介します

2018年07月12日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様が作って下さった大変良くできた聖務日課のファイルを愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。レネー神父様のために、感謝を込めて天使祝詞をたくさん唱えて下さい。

 2018年7月分のローマ聖務日課のmoviファイル

I am very happy to be able to share a well done file in movi format in order to pray the Divine Office (Breviary) during the whole month of July 2018. This was made by Rev. Fr. Laisney. Please offer prayers for him as well while you are praying with his file.

 Breviarium Romanum mensis Julii anno MMXVIII


 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【参考資料】

 2018年6月分のローマ聖務日課のmoviファイル

 Breviarium Romanum mensis Junii anno MMXVIII


 2018年5月分のローマ聖務日課のmoviファイル

 Breviarium Romanum mensis Maii anno MMXVIII


聖ピオ十世会新総長パリャラーニ神父(当時イタリア管区長)が2011年7月26日に行ったインタビュー

2018年07月12日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2011年7月26日に行われたパリャラーニ神父様とのインタビューを再掲してご紹介いたします。




 パリャラーニ神父様についての記事は、次もご覧ください。

s聖ピオ十世会 SSPX イタリア管区長ダヴィデ・パリャラーニ神父様とのインタビューその1

聖ピオ十世会 SSPX イタリア管区長ダヴィデ・パリャラーニ神父様とのインタビューその2

聖ピオ十世会 SSPX イタリア管区長ダヴィデ・パリャラーニ神父様とのインタビューその3

【要約】

ダヴィデ・パリャラーニ神父:

【聖ピオ十世会とローマとの神学義論】

 2009年から2011年まで行われた聖ピオ十世会とローマの間で行われた神学上の会談の目的は、具体的な合意に達する事では決してなく、むしろ双方の教義上の立場を記録した、明確で完全な書類を編纂し、さらにそれを教皇様と聖ピオ十世会総長に提出する事だった。

 カトリック教会と聖伝の善の為に、聖ピオ十世会がこのような信仰の証をすることの大切さと、いま何が失われつつあり危険に晒されているのかということを明確にすることができたものであった。

 聖ピオ十世会の意図は、単に、公教会が自分の聖伝をそのまま完全に取り戻すことが出来るように協力する事だけである。聖ピオ十世会には一日で公教会を変える使命もカリスマもない。

 教会法上の正常化があろうとなかろうと、躓きの石であり逆らいの印であり続けるなら、公教会の善の為にゆっくりと働き続ける事は出来る。教会法上の正常化は、御摂理が機が熟していると判断する時にのみ実現するだろう。

 現時点で、正常化が仮にあったとしても、だからといって、カトリック教会の緊急事態が突然なくなるのではない。緊急状態はカトリック教会内に存在し続けるだろう。まさにこの緊急状態のために、今までの聖ピオ十世会の活動が正当化されている。

【聖ピオ十世会以外の保守主義】

カトリック教会の革新的状況について基本的に失望し、不安を感じている信徒或いは司祭たちがいる。

この保守派不満分子は、聖ピオ十世会の行っている信仰の戦いに参加しようと望まず、あるいはこの戦いに伴う重荷や様々な否定的な結果を受けることを望まないが、教会法による聖ピオ十世会の正常化からは何らかの利益を期待している。

彼らは、「評論家」らのように、むしろ功利主義的な観点から興味を持っている。もしも聖ピオ十世会が、自分のためにかなり重要なものを獲得するなら、他の司祭たちも懇願出来る教会法上の前例を作り上げるだろう、と。

この功利主義的な評論家たちの態度は、(1)聖ピオ十世会の立場が、結果としては何か興味深いものを生じさせる事の出来る唯一の信じるに値する立場である事を証明している。

また、(2)もしも教義に優先権---これはカトリック教会が自分の聖伝の回復を可能にする為なのですが---が与えられていなければ、外交的・政治の観点へと必然的に滑り込み、悲劇的に失望的な結果を見るだけだと、立証している。

保守派不平分子らは、一方で聖ピオ十世会を「不従順」だと批判する事により、自分たちの「教会法厳守」を見せびらかそうと努めている。他方では、聖ピオ十世会を批判はしておきながらも、聖ピオ十世会の非妥協的な態度も自分たちの為に何か建設的なものを間接的に手に入れてくれるだろうと期待している。彼らは「成り行きを見ようと離れて付いて行った“sequebatur a longe ut videret finem”」(マテオ26:58)という、功利主義的期待がある。


【聖ピオ十世会の教会法上の状況】

現在聖ピオ十世会が置かれている教会法上の状況は、公教会に蔓延する誤謬に抵抗した結果であり、従って、聖ピオ十世会が教会法上の正常な場所に到る可能性は、私たちに懸かっているのではなく、公教会の復興に向けて聖伝がすることの出来る貢献を聖職位階が受け入れるか否かに懸かっている。

もし私たちが教会法による何らかの正常化に達しないなら、それは単に聖職位階が未だに十分この貢献の切迫した必要性を確信していないという意味になる。

聖ピオ十世会はカトリック教会がその聖伝を取り戻すことができるように、出来る事は何でもやる。

聖伝のミサの最も聖なる典礼様式というものは、それ自体で内在的な価値を持っている。聖伝のミサの典礼様式には、典礼様式自体が持っている天主に対する崇拝(latria)という固有の目的と関係した価値がある。

聖伝のミサに与る人々、聖伝のミサを要求する人の主観的な心情によって典礼様式の価値が決まるのではない。聖伝のミサを求める人々が、パウロ六世の新しいミサに不服だろうがそうでなかろうが、それとは関係なく、聖伝のミサは、何世紀もの歳月を経た典礼様式の価値と、それを執り行う正当性を有している。

【ルフェーブル大司教】

 ルフェーブル大司教様はカトリック教会の聖伝という不滅なものを体現化した。

 当時誤って廃止され禁じられたものとして見做されていた聖伝ミサの執行を公然と一度も止めなかった唯一の高位聖職者が、聖ピオ十世会の創立者だった。彼は、祭壇上に日々現存される正真正銘の生きる宝物を守りそして伝えた。

ルフェーブル大司教について良かれ悪しかれ、語る人は、聖伝を語らずして語る事は出来ない。この聖伝こそが、“ルフェーブル派”などではなく、それどころか、永遠に、カトリック的である。


2018年6月29日のエコン神学校での叙階式の動画をご紹介いたします。

2018年07月12日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2018年6月29日のエコン神学校での叙階式の動画をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



2018年6月29日のエコン神学校での叙階式 from Society of St Pius X on Vimeo.







2018年7月11日、聖ピオ十世会の第4回総会によって12年の任期でダヴィデ・パリャラーニ神父が新しく選出されました。

2018年07月12日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2018年7月11日、聖ピオ十世会の第4回総会によって12年の任期でダヴィデ・パリャラーニ神父が新しく選出されました。



 新総長は、47歳でイタリア人、1996年に司祭に叙階され、イタリア管区、アジア管区で聖務をつとめた後に、イタリア管区長と任命されました。日本にもアジア管区にいる間、二回ほど訪問したことがあります。

 2012年からはアルゼンチンの「共償者なる聖母」神学校校長として働いていました。

 総会は、総長の第一補佐として、この8月に初来日される予定のデ・ガラレタ司教を選びました。61歳でスペイン人のこの聖ピオ十世会補佐司教は、1980年に司祭として叙階され、アルゼンチンの「共償者なる聖母」神学校校長として働いていたこともあります。2002年から2006年まで聖ピオ十世会の第二補佐を務めました。

 第二補佐は、フランス人のクリスチャン・ブシャクール神父(59歳)です。1986年に司祭として叙階され、パリのサン・ニコラ・デュ・シャルドネ教会の主任司祭、南アメリカ管区長を経験し、2014年からフランス管区長をつとめています。

 新しい総長と補佐たちの指導の下で、聖ピオ十世会の総会は7月21日まで続きます。

 天主様に感謝!

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

日本のお母さんたちのお腹の中にいる赤ちゃんたちの命も、どうぞ守ってください。罪のない弱々しい赤ちゃんたちの命を生まれてくるまで守ってください。

2018年07月12日 | プロライフ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 西日本での豪雨で被災された多くの方々、命を落とされた方々がおられることをニュースで伺い、胸が痛くなります。毎日新聞の11日午後10時現在のまとめによると、死者は13府県で176人になったとのことです。安否不明者は依然として61人あるそうです。命を守るために助け合ったり、美しい実話を聞いて私たちは感動しました。

 同時に、タイの洞窟に閉じ込められたサッカーの少年チームの13人全員が、洞窟から脱出したとのことです。国際ニュースとなって全世界でこの子供たちの救出に注目していました。自然に涙ぐむ感じを覚えました。

 日本のお母さんたちのお腹の中にいる赤ちゃんたちの命も、どうぞ守ってください。罪のない弱々しい赤ちゃんたちの命を生まれてくるまで守ってください。

 あなたにできることがあります。
 いのちのために行動を起こして下さい。
 いのちのために一緒に歩いて下さい。
 いのちのためにファチマのマリア様と一緒に歩いて下さい。
 私たちといっしょに、ファチマの聖母と一緒に、歩いて下さい。

日  時:2018年7月16日(月)海の日:午後4時から
集合場所:築地カトリック教会
歩く場所:佃大橋通り=>新大橋通り=>鍛冶橋通り=>国会通り=>日比谷公園
参  加:誰でも参加できます
行動内容:微笑んでファチマのマリア様とともに歩きます

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)









--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】