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2019年6月9日 聖霊降臨大祝日の説教 サマーズ神父様「この世はキリストの平和を失った」

2019年06月14日 | お説教・霊的講話
聖霊降臨の祝日の説教「この世はキリストの平和を失った」
パトリック・サマーズ神父(聖ピオ十世会アジア管区長)


1954年の聖霊降臨の祝日に、教皇ピオ十二世は、世界に向けたラジオメッセージの中で、当時の世界の動向について彼が感じた心配を表明しており、彼がそれを言明して以来、事態は改善されていません。この地上の人間は、キリストの弟子であるべきであり、また、「地には善意の人々に平和」というメッセージとともにキリストが来てくださり、「私の平和をあなたたちに残す」という言葉をくださってこの世を去られたにもかかわらず、あらゆる種類の戦争で自分自身を破壊しつつあります。そうです、軍事的な戦争のみならず、最も悪い種類の戦争…私たちの主の道徳律に対する戦争です。

なぜでしょうか? キリストはただ単に平和を望まれたのではなく、私たちに平和を与えてくださいました。それならば、なぜ私たちは平和を享受していないのでしょうか? 私たちが聖書を調べれば、理由の一つが分かります。「悪人には平和がない、と主なる天主は仰せられる」(イザヤ57章21節)。

この世に平和がない原因は、キリストの平和の喪失以外の何物でもあり得ません。この平和が何において存しているのかを見てみましょう=「平和は秩序の平穏に存する」と、聖トマス・アクィナスは聖アウグスティノの教えに倣って言っています。

平穏とは、「安らぐこと」すなわち、完全に静かであることの別の言い方です。
秩序とは、すべてのものあるいはすべての人が正しく適切な場所にあるときのことです。
ですから、これら二つの要素を合わせれば、私たちは「平和」が秩序の平穏とともに到来することがわかるでしょう。

ですから、この平和は、私たちが天主を愛し天主にお仕えすることを知るときに、私たちにやって来ます。私たちが自分の適切な場所および自分の生活の正しい秩序を知っていれば、このすべてが平和をもたらします。
罪は、この平和の反対です。なぜなら、罪は無秩序だからです。罪は安らぎをもたらすのではなく、不安と心配、死をもたらすのです。

例えば、家庭において、父親に愛すべき権威があり、母親に愛すべき服従があり、子どもたちに従順があるという、まことの秩序が支配していれば、家族が生きている平和は、みんなによって称賛されるものです。しかし、どのようなレベルであってもいったん無秩序が入り込めば、あらゆる種類の混乱が発生するのです。

しかし、この世の平和についてはどうでしょうか? 何が必要なのでしょうか?

(a)普遍的な平和には、そのすべての要素となる部分において秩序が必要です。

 1.私たち自身の内における秩序、理性と知性へ感情を従わせることです。そうでないなら、個人自身の内に平和はあり得ません。
 2.私たち自身の間の人間関係における秩序、正義や権威などによってすべての人に課される制限に従うことです。
    そうでないなら、内戦や階級闘争が起こらざるを得ません。
 3.天主に対するすべての行いの秩序、天主を至高の主であり立法者であると認めることです。

キリスト教徒の平和の本質は何でしょうか?
(a)聖トマスは、平和は愛から来るのであり、まず天主への愛があって、それから天主のゆえの隣人への愛がある、と言っています。このまことの愛がなければ、本当の永続する平和はあり得ません。

この世はキリストの平和を失いました。どのようにしてでしょうか?

前世紀において、そして今でも、私たちは、政府が天主に取って代わってしまうという社会秩序にどんどん近づきつつあります。
家庭道徳の原則、結婚の聖性などが公に侵害されていますが、これらは人類自身の社会生活の基本的原則です。
宗教の自由が自然権として提案されていますが、これは健全なカトリック神学では聞いたことがないものです。霊魂における恩寵の生活を台無しにする誤謬には、権利などあってはなりません!

解決法は、諸教皇によって何度も繰り返し述べられてきました。

(a)私たちは、聖霊に対して、聖霊降臨の奇蹟を繰り返し、人間の心にもう一度愛の火をつけてくださるように願わなければなりません。
(b)この世と、この世の各人は、平和の王である私たちの主イエズス・キリストへの愛と奉仕へと立ち返らなければなりません。
(c)私たちの一人一人が、自分自身の方法で、自分自身の生活および行動の範囲内において、これに向けて協力しなければなりません。
    それは長く続く仕事であって、希望のないように見えますが、私たちは、パン生地の中のわずかなパン種が全体を変化させることができる、
    というキリストの言葉を心に留めなければなりません。各個人が回心しなければなりません。
    そうすれば、私たちはこの世がキリストの平和へ回心するのを見るかもしれません。

それゆえに、愛する信者の皆さん、一年中で最も大きな祝日の一つである聖霊降臨というこの大きな祝日に、私たちのもとにやって来る多くの恩寵を忘れないようにしましょう。この祝日は、私たちの主イエズス・キリストの生涯とみわざを網羅する典礼年の締めくくりです。
ご降誕、ご生活、ご受難、ご死去、ご復活、ご昇天、そして最後に主は、来て私たちとともに住み、私たちを聖化させる聖霊を送られるのです。

聖ピオ十世会 聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ)2019年6月 SSPX Japan Traditional Latin Mass

2019年06月13日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖霊来たり給え!信者の心に満ち給え!彼らに愛の火を燃えつけ給え!

聖霊降臨の主日には、大阪に住む姉妹の一人が霊魂を天主様にお返しになりました。アジア管区長のサマーズ神父様が翌日の月曜日に葬儀ミサをして下さいました。

愛する兄弟姉妹の皆様のしもべである私は、聖霊降臨の主日にはマニラで義務を努めており、皆様のために祈りを捧げておりました。

今日は6月13日で、マリア様がファチマで汚れなき御心を啓示して下さった日で、またトゥイでシスタールチアに三位一体のヴィジョンをお見せになって90周年の日です!

トゥイの三位一体のヴィジョンの御影(ごえい)には、十字架のイエズス様から、「憐れみと御恵み」という文字が書かれています。

マリア様には天主の王国の「憐れみ」が委ねられており、同時にすべての「御恵み」の仲介者です。

至聖三位一体は、イエズス様の十字架の功徳を、全て十字架の梺に立ち留まっておられるマリア様の汚れなき御心を通して、ロザリオを通して、私たちに分配して下います。

10日後の6月21日、22日には大阪で、6月23日には東京で予定通りミサがあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
小野田神父様、

本日は、聖霊降臨の大祝日に加え、クララさんの帰天がありました。
月曜日には聖霊降臨の月曜日のミサと葬儀ミサがあります。

また、新しく来てくれた男子高校生がいます。ご両親はノブスオルドだそうですが、本人が自分で調べて聖伝のミサにあずかりたいと思ったようです。交通費が大変とのことで、月に1回来るのを目標にしているそうです。

ミサは、侍者4人で香をたいた歌ミサにチャレンジしました。ちょっと厳しいところがありましたが、何とか終了しました。

では、神父様とご両親に絶えざる御助けの聖母と秋田の聖母の御取り次ぎが豊かにありますように。

【報告】【大阪】
ミサの報告をお送り致します。

6月9日 聖霊降臨の主日には24人、
6月10日(月) 葬儀ミサには15人が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

聖霊降臨の大祝日に、アジア管区長サマーズ神父様が来日して下さり、歌ミサを捧げてくださいました。
お説教では、平和とは何か、現代に平和が無いのはなぜか、秩序と平和の関係、を黙想し、平和を取り戻すために天主がお送り下さる聖霊の御恵みを願うこの 大きな祝日の大切さを深く感じました。
小野田神父様が特訓して下さったお陰で、グレゴリオ聖歌はとても上手くいき、管区長様の前で粗相する事もなく、無事にミサを終えることが出来ました。ありがとうございましたm(__)m

10日月曜日には、7時の朝ミサのあと、10時半から前日の聖霊降臨の大祝日に息を引き取られたクララさんのために葬儀ミサがありました。クララさんの永遠の安息を祈りました。

神父様が、「マリア様は過保護なくらい私達を憐れんで、愛してくださる」と仰った言葉をしみじみ感じた2日でした。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え


至聖なるイエズスの聖心こそ、私たちに対する無限のこれ以上ないほどの寛大な贈り物。イエズスは、これ以上与える事ができないほど与え尽くされた。

2019年06月08日 | お説教・霊的講話
2019年5月3日(初金)秋田巡礼 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ

サマース神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

親愛なる信徒の皆さん、この最初の初金曜日は、イエズス様の聖心の随意ミサを捧げています。

私たちは、イエズス様がこれほど、初金を私たちに与えて下さるほど寛大であり続ける、という事に喜ばなければなりません。

イエズス様は私たちの為に人となって、そして苦しまれて、私たちの罪の為に御死去されました。十字架の上でイエズス様は、私たちの為に聖心を開いて、そしてもうこれ以上与える事ができないほど、全てのものを与え尽くされました。そこで、この聖心こそ、私たちに対する無限の、そしてこれ以上ないほどの寛大な贈り物でした。

しかしそこで留まる事はなく、善さ、善性、良い方そのものであったイエズス様は、更にそれを続けようと思われました。イエズス様はそこで年々、そして何世紀にも渡って、御自分の聖心をまた開いて、霊魂たちに自分の御恵みをたくさん与えようと、注ぎ込んでおられます。

それを見ると、私たちは本当に恥ずかしくなる、恥じ入るばかりです。

なぜかというと、私たちは却っていつも、自分の寛大さをいつもどれほど制限しようか、とばかり考えているからです。

イエズス様の聖心の約束を読めば読むほど、どれほど寛大であるかが分かります。もしも私たちがイエズス様の聖心を崇敬すればするほど、私たちはもうこれ以上どれほどの御恵みを受ける事ができるか、というほどの御恵みを約束して下さっています。

例えばイエズス様は、「最も頑ななコチコチの石のような罪人の心であっても、回心の恵みを与える」と約束されています。

この日本の国にとってとても大切な、必要な御恵みではないでしょうか。99%以上のこの国民の方が、聖寵の命を必要とされています。

イエズス様はこの聖心を崇敬する霊魂たちに、そして自分でそれを、自由意志でそれを求める霊魂たちにも、この御恵みを約束されています。

天主イエズス様にとって、国民全体を回心させる事は、私たちが息をするほど簡単な事です。もしも私たちがそれを求めて、それをお願いすれば、イエズス様は与えて下さいます。

イエズス様の聖心に、そしてマリア様の御心に、まず私たちの霊魂、そして多くの霊魂たちの心を柔らかくして下さるようにお願い致しましょう。

イエズス様は約束されました。ですからイエズス様は、自分の約束を違えたり、あるいは間違ったり、あるいはそれを実行しなかったりする事はあり得ません。

イエズスの至聖なる聖心よ、我らを、そして我らの祖国を憐れみ給え。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2019年5月2日 秋田巡礼 サマース神父様霊的講話【4】「霊的生活の内的手段、祈り」

2019年06月08日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

2019年5月2日 秋田巡礼 サマース神父様霊的講話【4】
「霊的生活の内的手段、祈り」

同時通訳:小野田圭志神父


霊的生活の内的手段の内の最後のものは、最初の3つをまとめてそれをさせるもの、それは「祈り」です。

この「祈り」の中には、天主様との一致を求めるという大きな望み、あるいは天主と自分に関する知識を深める事、天主の現存に身を置く事、あるいは天主の御旨に自分を全く委ねきってしまう、これが全てが含まれます。

今までの3つのものが、この例えば骨であり、あるいは肉であり、あるいはその体の要素だとすると、祈りは、その全ての中に流れる血液です。

ダマスケネスの聖ヨハネによると、祈りの定義は、「祈りとは、霊魂を天主へと上げる事である」と言います。あるいはある聖人は、「祈りというのは、天主、創造主との親しい会話である」と言います、「語らいである」と言います。

しかし、「霊魂あるいは精神を、天主へと引き上げる」というこの祈りの定義は、多くの場合全く適合します。

なぜ「上げる」と言うかというと、この地上のものから私たちの心をですね、離す、天主の方に向ける努力が必要であるからです。

この心の上げ方も色んなやり方があります。よくこの4つの、心の上げ方は4つの目的によって区別されます。

1つは「礼拝」。あるいは「罪の償い」。あるいは「感謝」。あるいは「祈願、懇願」。


「礼拝」という事は、祈りの中で最も最高の形態です、形です。礼拝という事で私たちは、「天主様が私たち全てを支配している」という事を認めて、「そして私たちは天主に依存している」という事を表明します。

人類の創造の最初の瞬間から、被造物であるが故に、創造主に対する生贄が捧げられました、礼拝が捧げられました。私たちはまず人類の最初から、「天主に依存している」という事を示す礼拝がありました。私たちの生き方を見て、私たちの命を以て、全て天主に依存している、天主の被造物である、という事を見せて礼拝しました。

そこでもちろん天主様は私たちに、私たちが礼拝を捧げるという時に、私たちの命を捧げるという事は望みません。しかし私たちの命を支える食べ物、例えば穀物とかを天主に捧げる、という事を要求しました。

そして非常に初期の最初から、天主から与えられた例えば動物や、私たちの食べ物とするような動物や、穀物、あるいは魚とか、木の実などの一番良いものを創造主に捧げて、その捧げたしるしとして、これを全部焼き尽くして、あるいはこれを破壊して屠って、これを象徴的に天主にへと御捧げしました。

もちろんアブラハムやイサアクに要求したように、人間の命を要求するという権利は持っていましたが、しかしその権利は実行しませんでした。例えばアブラハムに要求したように、「もしもお前が私を最高の創造主として礼拝するならば、子供を生贄として捧げよ」と言う事も、天主の全能の支配の力によって、要求する事もできました。

天主は全く最上の最高の存在であるので、私たちは全て天主によって依存して、天主から受けたものであるので、天主に全てを返す、これが礼拝です。

例えば御聖体の現存の前では、私たちは片膝をついて、自分の低さを、私たちが依存している天主から全てを受けている、という事を示します。これも礼拝の一つです。


その次に、礼拝の第2の次には、これに礼拝に非常によく結び付いているものとして、「感謝」があります。

なぜかというと、天主は私たちの最高の恩人であって、私たちの持っている全ての自然と超自然の善は、全て、例外なく、天主から由来するからです。

天主の御恵みを乾かして、ストップさせてしまう原因の一つは、最大のものは、忘恩です、感謝をしない事です。感謝というのは、礼拝の次に重要なものです。


第3の霊魂の天主への上げ方は、「罪の償い」であり、「悔悛」の、「罪を痛悔」する事です。

私たちが罪を償う、あるいは悔悛する、罪を忌み憎む、など色々な言い方がありますが、その要素の本質的な核の部分は、罪を何とかして、それを罪滅ぼしをする、罪の為にそれを補う、罪を贖う、罪を払い戻す、という事です。

マリア様の多くの御出現地で、「誰かが、罪の償いを彼らに代わってしなければならない」とマリア様は要求しています。

ところでカトリック教会は、観想修道会、例えば外に出ずに、使徒職をせずに、修道院の中に閉じ込もって、お祈りと犠牲と労働だけに専念しているような修道会を、非常に大切に思っています。修道院の壁の中にずっと留まったまま、祈りと犠牲と罪の償いの生活をしている霊魂たちです。人類の罪の償いの為に、彼らが祈りと償いとの為に犠牲となっています。


そして第4番目は、よく非常に頻繁に起こるやり方ですけれども、私たちは「天主に御恵みを懇願」します、お願いします。

イエズス様も直接言いました、「祈れ、求めよ、さらば与えられん。叩け、さらば開かれん。」天主様は私たちに多くのものを与えようと提示しているのですけれども、祈らなければそれは与えられません。

不思議のメダイでこんな話があります。
聖カタリナ・ラブレは、マリア様の手から光線が出ているのを見るのですけれども、一つの手から光線が出ていないのを見て、「何でですか?」
「それは、この光線は、私が霊魂たちに与える御恵みの光線です。しかし光線が出ていないのは、本当は光線が出る事ができるにもかかわらず、祈り求められなかったので、与える事ができなかったものです。」

私たちが教会に足を運んだり、そしてマリア様にお祈りする時に、私たちは何かを求めてお祈りしますけれども、それはとても良いやり方で、教会でもミサの時に、懇願の為に、色々なものを懇願する為に、特別の随意祈祷文、集祷文があります。例えば為政者の為に、あるいは家族の為、あるいは平和の為に。司祭が随意集祷文を付ける事ができる35の特別の期間を教会は準備しています。例えば雨が降る祈願、祈りとか、困難や艱難の為の祈りとか、あるいは誘惑を受けた時の祈りとか、あるいはいかなるものであれ、その信徒の必要とするものの為に、御恵みの為に。

教会の知っている通り、これらの祈りや懇願は私たちにとってとても重要であって、天主も私たちがそれを求める事を望んでいます。


もちろん、このような目的に合わせた祈りの区別もありますけれども、その他にも分類として、「口祷、声に出す祈り」と、あるいは「黙祷、あるいは念祷、声に出さない祈り」、あるいは「私的な祈り」、あるいは「公的な祈り」の区別などもあります。

例えば念祷は、私たちは声には出さずに、心の中で天主に心を上げて親しく会話する事です。

二人以上が一緒にお祈りすると、公的な祈りにもなります。もしも例えば、子供たちが集まってお父さんに、「お父さん、これを下さい」と子供たちがお願いしたら、どうして優しい父親が子供たちの要求を退ける事ができるでしょうか。一人で子供がやって来てお願いするよりも、子供たちが全部集ってやって来る方が更に力があります。

私たちの主も、「2人か3人が、私の名によって集まるならば、私はそこにいるだろう」と約束しました。

そしてこのような公的な祈りの最も最高の形は、キリストの花嫁である教会が公式に行なう祈りです。一般の個人は、祈りの生活の為に多忙であったり、あるべきやり方で祈りをする事ができません。そこで教会はある特別の人を指定して、「教会の名前によって、公式の祈りを捧げるように」と要求します。そしてあるいは修道士、あるいは修道女、あるいは司祭、司教など、教会が任命した特別の人々は、「聖務日課」と呼ばれる教会の公式の祈りを、教会の名前によって捧げます。

聖務日課には、教会の花嫁の祈りとして特別の価値が、特別の力が、天主の御前にあります。レランスの聖ヴィンセンシオ(Saint Vincent of Lérins)によれば、「聖務日課のたった一部であったとしても、それは個人的な一年の多くの祈りよりも価値がある」と言います。例えば皆さんが司祭と一緒に聖務日課を、終課を唱えますが、それは皆さんが唱えた1年の価値よりも更に価値があります。これを聞くのはショッキングな話ですけれども、しかしこれが事実です。

もちろん個人的な祈りは価値があって、必要なもので、大切なものですけれども、聖務日課は更に力があります。

また更に、「ミサ聖祭」、教会の聖なる典礼、これは更に力があります、価値があります。

その教会の祈りの重要さ、その力強さ、それについて詳しく話せばもちろん一週間ぐらい話がありますが、今回はそれをする事ができません。

また個人的なものだとしても、『主の祈り』、私たちの主が教えてくださった祈りは特別なものです、価値があります。弟子たちが、「主よ、どうやってお祈りしたら良いですか?」と聞いた時に、直々に教えて下さった祈りで、ありとあらゆる私たちが求めるべき最高のものが順序よく含まれています。この『天にまします』の祈りは、本当に単純ではありますけれども、しかし非常に深い、一生をかけてその祈りの意味を黙想して、味わう事ができるものです。


では、祈りはどうして完徳に至る為にそれほど重要なものなのでしょうか?

聖人たちはこう言います、「よく祈る人は、よく生きる人である。」まず、私たちがこの世のものから、愛着から離脱する事を祈りは助けてくれます。もしも天主との一致に妨げとなるようなものがあるとしたら、それらの愛着から離脱させてくれます。被造物から心が離れれば離れるほど、天主に近付けば近付くほど、その被造物がどの所にいなければならないかを理解する事ができます。私たちの心が天主に近付けば近付くほど、私たちを罪へと誘うようなものを憎む事ができます。天主へと近付けば近付くほど、この地上の良いものは、天主へと行く手段にしか過ぎない、という事が分かります。

祈る人は、この世の価値について、正しい、あるべき判断を下す事ができます。

「成聖の定義」というのは、「天主との一致」ですけれども、祈れば祈るほど、この天主との一致へと導かれます。まず祈る事によって、知性が天主の事をよく理解して、そして意志は天主の御旨に従おうと動きます。祈れば祈るほど、私たちの心は天主を愛して、そして虚しいものを、そして天主に逆らうようなものを憎む事ができます。

まとめて言いますと、祈る霊魂は、この世のものをあるべき所に見出して、あるべき地位の所に置いて、そして私たちの霊魂を天主へとますます近付かせる事ができるという事です。祈る事によって、天主の生活に、命に、ますます近寄る事になります。

主は言いました、「絶えず祈れ」と。

では一体、絶え間なく、「絶えず祈れ」という事はどうしたら祈る事ができるでしょうか?修道生活をしている人でもいつも祈りをしているわけではなく、肉体労働をしている時もあります。

これは聖人たちの聖徳の秘訣というか、秘密で、どのような生活でも、どんな活動でも、祈りの形にできる、するやり方があります。

まず朝起きたらすぐに、心を天主に上げて、祈って、そして一日を全てをまず捧げます。

そして第2に、最初の瞬間から黙想によって、天主の現存に身を置きます。天主と共に生活を始めます。

そして言葉を以って、「私は1日の全ての行ないと、思いと、言葉、全て、そして休息も、食事も、全て天主への礼拝として捧げます」と。

そして私たちの身分上の御恵みの義務に従って、仕事も、食事も、休息も、あるいは遊びも、全て、天主の御栄えの為に、礼拝の為に捧げると、奉献すると、私たちの生活は祈りになります。

聖パウロも同じ事を言います、「このお前たちが何をするにも、食べるにつけ、飲むにつけ、あるいは何をするにつけ、天主の栄光の為に行なえ。」

そうする事によって、主が言ったように「絶えず祈れ」という命令を成就する事ができます、従う事ができます。


では今日はここまでにして、明日、外的な手段として、霊的指導、あるいは生活のルール・生活表・時間割、第3に霊的読書、第4に隣人との交流や付き合いについて、全て霊的生活の手段として考察してみましょう。

ではレジナ・チェリを歌います。

聖霊来たり給え!聖ピオ十世会日本 聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ)の報告 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

2019年06月08日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!聖霊来たり給え!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 大阪では明日、聖霊降臨の主日(6月9日)に午後6時からミサがあります。アジア管区長のサマース神父様が来日されます。

 東京での次のミサは、6月23日(主日)です。その時には二人の赤ちゃんたちが洗礼を受ける予定です。

 東京では、7月7日(主日)にも、別の二人の子供たちが幼児洗礼を受ける予定です。

 7月は、私たちの愛する姉妹の一人のお母さんの出産予定日もあります。多くのお祈りをお願い申し上げる次第です。子供たちが多くなり、ますますカトリック教会らしくなり幸福です。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】【東京】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

御昇天後の主日のミサとご聖体降福式をありがとうございました。

御昇天されたイエズス様のこと、来たるべき聖霊降臨の大祝日への準備の祈りの大切さ、そしてマリア様にどれほど聖霊をいただくためのその秘訣を学ばなければならないか教えていただきました。

天に挙げられたマリア様のように、いつも心の中にある三位一体の住まう天の国にいつも心を挙げていることができるようになりたいと思いました。

ミサの中で歌われる聖歌ですが、複数の旋律の調べが調和して響きとても綺麗でした。

グレゴリオ聖歌をカトリック教会の中で歌うことを禁止されてしまって途方に暮れてしまいましたと話される方に、時折出会います。長き世紀に渡って世界中で同じ曲同じ歌詞で歌われているということは、とても素晴らしいことだと思います。単に音楽的趣味とか芸術の一分野として日本に紹介されるのではなくて、カトリック信仰が表現されている祈りの聖歌としてもっと多くの方が歌えるようになることは、とても大切なことだと感じました。

聖ピオ十世会の聖伝のミサの中では、グレゴリオ聖歌が歌われています。伝統的なミサが捧げ続けられるためにどうしても必要なグレゴリオ聖歌が、子供たちの世代にも信仰と一緒に受け継がれて行きますよう、カトリック教会では守られなければと思いました。

それから、今回は特にマーチフォーライフのスペイン語の動画を作成しました。
スペイン語圏の信者さんは、来日している外国人の方々も昨年たくさんマーチフォーライフに参加してくださいましたが、今年も友達と一緒にマーチフォーライフを歩きますといってくださいました。

おもえば昨年の六月には、小野田神父様の銀祝いのためにたくさんの方々と聖伝のミサにあずかることができました。

一年後の今年東京では、フランスやアジア管区の本部から神父様たちが来日してくださって、荘厳ミサが予定されているとのこと、とても楽しみに思います。今回は侍者の集いで神父様が、荘厳ミサにおける侍者の仕え方なども含めて熱心にいろいろな説明をしてくださっていたご様子でした。またたくさんの方々とその荘厳ミサに与れますようにとお祈りいたします。

三位一体は私たちのもとに住まいを築いてくださるので、祈りと愛によってその準備ができるようにと励ましてくださいました。聖霊に一度も「ノー」と言ったことがないマリア様に倣うことがその秘訣と教えていただきました。聖霊降臨の大祝日を大切にして少しでもふさわしくむかえるために、マリア様に取次ぎを願い、祈りによって霊的な準備をしたいと思います。神父様いつもありがとうございます。

聖マリアの汚れなき御心のうちに

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

このところ、フランス革命のことを扱う動画や発表を学ぶ機会がありました。

日本では、フランス革命というとベルサイユのばらという漫画で一躍有名になったマリーアントワネット王妃がまず思い浮かばれます。彼女も、彼女の夫のルイ16世も妹君も一緒に断頭台の露と消されたことを思います。

日本での一般的イメージは「フランス革命によって民衆に自由がもたらされた」というものですが、それは現実とは異なるものであるとわかりました。

カトリック教会が第二バチカン公会議によってこれまでのその教会のあり方を変更しなければならないと思ったほどの変革が現代の社会のなかに起こったのだとしたら、その源はフランス革命から始まって世界中に飛び火してしまった「革命」にあるのだと気づかされるようになりました。

世界における現代の社会には、フランス革命を端とする「革命」による変革の結果があちらこちらであらわれているのだと感じるようになりました。そして、カトリック教会でも、急激に変貌した世俗社会に合せるようにカトリック教会のあり方の変更しようとした流れがあるように思います。そういったことを思えば、「フランス革命とはいったい何だったか」を学ぶことには意味があるのだと、感じられるようになりました。

今の信仰という概念は、現実社会のなかでの動きだけにしか注目されていなくて、洗礼によっていただいたはずの超自然の命の芽生えが育つ成聖の聖寵があたえられないまま、現実の社会と妥協してしまった精神によって押し潰されて、しまうかのように思えてなりませんでした。聖伝のミサの中でこそ与えられるその成聖の聖寵が、無視されてしまっていることに気づいた時、恐ろしさを感じてしまいました。信仰生活の危機がそこにあるということに気づかされたからです。

創造主が造られたこの世界は、もともと創造主に栄光が帰されるような社会となるように望まれて造られたものに違いありません。そこに反撃と反抗を起したので、創造主(その代理者)による統治が認められない社会へと作り替えようとする動きがずっと続いているのでしょう。でも、カトリック信仰をいただいた信者は、創造主に栄光を帰するような生活(社会)をこの地上にいる時から望む者となります。

社会の変化に合せてその要理を変えていく信仰は、もう普遍(カトリック)ではなく、天主への反抗(プロテスタント)になってしまうのではないでしょうか。

現代社会の根底に潜んでいる「革命」という思考を導いてしまった思想についても詳しく学ぶ機会がありますことを感謝いたします。最初は信仰生活と関係があるかもわからなくておりましたが、どうしてカトリック教会がこのようになっているのかを理解するための大切な土台の一つであると感じはじめています。それというのも、これまでとは違う視点で社会の動きをとらえ直そうとしている思想がフランスから日本に紹介されようとしていることに気づいたからかもしれません。

毎週の動画の公教要理講座の他に哲学講座などもご紹介いただいているビルコック神父様も、7月に来日されるとのこと、とても楽しみに思います。

貴重な機会をいただいていますことを、感謝申し上げます。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐れみ給え
聖マリアの汚れなき御心我らのために祈り給え
ファチマの聖母我らのために祈り給え

Mensaje para la “Marcha por la Vida 2019” que se realizará en Tokio

2019年06月05日 | プロライフ
Ave Maria Immaculata!

Estimados hermanos,

Quisiéramos invitarles a todos ustedes para que participen en la “Marcha por la vida 2019”, que se llevará a cabo el día 15 de julio. Este día es también feriado en Japón por celebrarse el “Día del Mar”, por lo que oramos, para que haya una masiva participación.



La marcha comenzará en la Iglesia Católica Tsukiji a las 4 de la tarde y terminará en el Parque Hibiya en Tokio.

Les estamos invitando a ustedes porque muchos de nosotros en Japón no somos conscientes del hecho de que un feto en el vientre de su madre es un ser humano. Esta ignorancia da origen a que muchos bebés inocentes sean asesinados todos los días en Japón.

Así mismo, últimamente en Japón, hemos sido sorprendidos por varias noticias tristes, que nos informan sobre el maltrato e incluso la muerte de niños pequeños a manos de sus padres.

Por otro lado, hace apenas algunas semanas, el día del Domingo de Pascua en Sri Lanka, muchas personas, incluso una japonesa, murieron en ataques terroristas. Nunca permitimos que el terrorismo destruya vidas inocentes.

Ahora mismo en Japón, en el lugar que debería ser el más seguro para un bebé, el vientre de su madre, allí son asesinados y muchas personas no se dan cuenta de este terrible hecho.

Es un hecho en Japón, que miles de bebés son maltratados y asesinados, por sus padres, aunque los medios de comunicación no reporten estas atrocidades.

“La Marcha por la Vida” es la expresión del pedido de ayuda (SOS) de estos niños inocentes, en forma de oración.

Nosotros, en nombre de estas víctimas, de estos niños, oramos, ya que ellos no pueden hacer oír sus propias voces.

Les invitamos a unirse a nosotros en esta “Marcha por la Vida” porque queremos llevar un mensaje de esperanza a las madres embarazadas y a las parejas que tienen niños. Hay muchas personas que han practicado el aborto por ignorancia, pero más tarde se dieron cuenta de la verdad y ahora participan uniéndose en las “Marchas por la Vida” en las diferentes ciudades de todo el mundo, entre ellas tenemos madres, padres, enfermeras y médicos.

Por ejemplo, el doctor Bernard Nathanson, fue un médico que promovió el aborto, pero que, tan pronto como se dio cuenta de que un feto es un ser humano vivo, se convirtió en un activista pro-vida, anti-aborto.

Otro ejemplo reciente, Abby Johnson, quien era empleada de Planned Parenthood y una abierta defensora del aborto, sucedió que un día, tomo conciencia de lo malvado que es el aborto y se convirtió en una activista pro-vida en el 2009. La película "Unplanned (No Planeado)" estrenada a comienzos del 2019, se basa en la real historia de su conversión.

Al participar en la “Marcha por la Vida”, nosotros mostraremos nuestro apoyo a nuestros hermanos y hermanas, afirmamos la verdad de que todos somos débiles y pecadores, y que Dios es misericordioso.

Queremos testificar también sobre la verdad de que no podemos tomar vidas inocentes ya que solo Dios, el Creador, es el Dueño de la Vida. Los bebés no se pueden defender ni resistir ningún ataque que se haga contra ellos, lo que hace que sea muy importante que de les de la debida protección.

Les invitamos a marchar además, porque es un es un hecho médico y científico de que un ser humano comienza a existir en el momento de su concepción, como también la Iglesia Católica lo enseña. Por lo tanto pedimos el respeto de la vida desde el momento mismo de la concepción.

Cuanto más sepamos sobre la existencia del Dios misericordioso y amoroso, que nos da la vida, más estamos obligados a respetar este regalo, que es la vida.

La crianza de los hijos, más aun si son numerosos, demanda mucho sacrificio de parte de los padres, sin embargo nuestra fe católica nos enseña que no debemos limitar ni rechazar, por ninguna razón económica, una vida dada por Dios. Ya que Nuestro Señor nos enseñó que Dios alimenta incluso a las aves del cielo, aquí, Él nos está diciendo que ciertamente cuidará de nosotros si confiamos en Su misericordia. Además, el tener muchos hijos nos dará una felicidad y una alegría que el dinero no podría comprar.

Les invitamos a la “Marcha por la Vida” debido a las palabras de Nuestro Señor Jesucristo Quien nos dijo que en el último Juicio se nos dirá:

"Vengan, benditos de mi Padre, posean el reino preparado para ustedes desde la fundación del mundo. (...) Amen, Yo les digo, lo que hicieron a uno de estos mis hermanos más pequeños, lo hicieron a Mí."

Por estas palabras, sabemos que si defendemos la vida de los bebitos, se nos promete la recompensa eterna del Cielo.

Por el contrario, si no lo hacemos, escucharemos las siguientes palabras de la boca del Juez Supremo:

"Aléjate de mí, maldito, al fuego eterno, que fue preparado para el diablo y sus ángeles. Porque tuve hambre y no me diste de comer; tuve sed y no me diste de beber, era un forastero, y no me recibiste, estuve desnudo, y no me cubriste; estuve enfermo y en la cárcel y no me visitaste. (...) Amen, Yo les digo, lo que no hiciste a uno de estos, tampoco a Mi me lo hiciste”.

Les invitamos a ustedes también por amor a nuestro país ya que el aborto y la anticoncepción son el suicidio de una nación y la vergüenza de un país civilizado. Los niños son el futuro brillante del Japón. Queremos darles a nuestros futuros hijos, nietos y bisnietos como herencia esta hermosa tierra tan bendecida por la naturaleza, un país pacífico y seguro, una la sociedad cortés y ordenada, es decir, nuestra civilización y nuestra riqueza. Porque, no hay futuro sin hijos.

Sin embargo, las estadísticas recientes nos muestran una cruda realidad ya que según ellas el año pasado una población equivalente a una gran ciudad desaparecieron del Japón, lo que indica el estado crítico de su inminente caída. Japón está a punto de desaparecer de la superficie de la tierra, su población está disminuyendo de manera acelerada.

Les invitamos a que la Marcha por la Vida, ya que una sociedad que defiende la vida de los niños también defiende la vida de los ancianos, tal sociedad está construida sobre la cultura de la vida. Una sociedad que desprecia la vida de los más pequeños tomándolos como una carga, tampoco dejara con vida a las personas viejas, discapacitadas o enfermas. Esto es precisamente lo que sucedió bajo el régimen Nazi. Es la cultura de la muerte. Pero nosotros queremos construir la Cultura de la Vida, nuestra sociedad japonesa.

Por lo tanto, ¡únete a nosotros en la “Marcha por la Vida”! Saldremos de la Iglesia Católica Tsukiji a las 4 de la tarde del lunes 15 de julio de 2019, el Día del Mar, y finalizaremos nuestra Marcha en el Parque Hibiya, cruzando la ciudad.

Para nuestros bebitos,

Por las madres y las parejas que tengan sus niños,

Por la posición de la Iglesia Católica respecto a la vida,

Por el día de nuestro juicio,

Por la prosperidad de nuestro país,

Por la construcción de una cultura de vida,

Les invitamos a la Marcha por la Vida.




内的生活の為の第2の手段「天主に関する知識」と「自分自身に関する知識」、第3の手段「天主の御旨に自分の意思を適合させる」について

2019年06月05日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

2019年5月2日 秋田巡礼 サマース神父様霊的講話【3】

内的生活の為の第2の手段「天主に関する知識」と「自分自身に関する知識」、第3の手段「天主の御旨に自分の意思を適合させる」について

同時通訳:小野田圭志神父

講話の前に、1つだけお知らせがあります。

今日私は、総長様と電話でお話をしなければなりません。今、秋田の巡礼に来ているという事をご存知だったので、総長様から皆さんに「ぜひ秋田のマリア様に、召命の為に、修道召命の為にマリア様にお祈りをして下さい。それから聖ピオ十世会の為にお祈りをお願いします」と依頼されました。

マリア様の元で、召命の為にたくさん、それから日本に修道院が創立される為にもたくさんお祈りをお願いします。

昨日から、私たちは「霊的生活の大切さ、その必要性、重要さ」について黙想して、そして「それに到達する為の手段がある」と「手段には4つの内的な手段と、4つの外的手段がある」という事を見ました。

内的な手段というにはまず第1に、「霊的生活を望む」という大きな聖なる望みが必要だ、という事を見ました。

【内的生活の為の第2の手段】
次に今日は、内的生活の為の第2の手段、あるいは道具として、「天主に関する知識」と「自分自身に関する知識」についてお話し致します。

昨日は、「私たちがもしも何かを愛する為に、望む為には、それについてよく知らなければならない。それを知れば知るほど、良さを知れば知るほど、ますますそれを望むようになる」という事を見ました。ですから私たちは、天主様との一致の為に、愛する為に、ますます天主の事をよく知らなければなりません。

【天主に関する知識】
では、天主様についてどうやったら知る事ができるでしょうか?顕微鏡で見て分析する事もできませんし。

私たちは理性を使って、被造物を見る事によって、それを創った創造主、原因にまで到達する事ができます。

そういうそれは、自然的な天主に関する知識で、それも良いものです。天主の単純性、あるいは天主が不変である事、変わらない事など、私たちはそれの自然の知識を以て知る事ができます。

しかし最も確かな天主に関する知識は、「啓示」によって私たちに与えられます。

例えば、「天主は、この全地を創造された」事、また「人間を聖なる者として創られた」事として啓示されました。

また、「私たちの主の御託身を通して、人間を回復させた、人間の目的を回復させた」という事も啓示によって知らされました。

「御自分の創られた教会と、その秘蹟を通して、私たちに聖寵を与える」という事も啓示によって知らされます。

また、私たちの究極の目的と永遠の幸せについても知らされました。これは、私たちは「聖書と聖伝」を通して、人類に与えられた知識として知る事ができます。

聖伝と聖書は、天主に関する最も重要な知識の伝宣です。天主の創造という事について、私たちは例えばですね、非常に多くの事を知る事ができます、聖書によって知る事ができます。

この全宇宙を在らしめて創造した最高の存在、一体何の為に創造されたのか?全く完成されていて、永遠に幸せの至福の天主が、一体なぜこの被造物を創造する必要があったのか?その目的は一体何だったのか?

その答えは、「善は、自分の善を周囲に分かち合う、という原理から来る」と答えています。天主の完全性と良さ、善性によって、私たちに御自分の幸せを分かち合いたい、と思われました。

そして天主に仕える者は、被造物であっても、最高の名誉が与えられます。天主の善、良さを知れば知るほど、私たちはますます、「天主の事を知りたい、愛したい」と思うようになります。

例えば、「何千何億という多くの霊魂の中から、私は選ばれて、この恵みを与えられ、信仰と洗礼まで導かれた。」例えば。どれほど感謝しなければならないのか。「そして多くの人々の間から私は天主の子供となる事を、そして限りのない善を私は受ける事ができるようになった。」

では、天主様の「本性」とか、その「特性」などは、どうやって知る事ができるでしょうか?

これは「神学」で勉強する事ができます。天主に関する学問を通して知る事ができます。この2019年に生きている私たちは、歴史上これほど恵まれた時はないほど、神学の知識を得る事ができます。というのは、ほとんど世界中にどこにいても、ほぼ無料で色んな素晴らしい神学上の本とか、あるいは御説教とか、御話というものを読み、聞いたりする事ができるようになっているからです。例えば1000年前、一体どれほどの人たちが聖書を、自分の自由時間に、読みたい時に読む事ができたでしょうか。

もちろん、読んだり勉強したりする事だけが天主様に関する知識を得る唯一の手段ではありません。なぜかというと、勉強と霊的読書と共に、「祈り」も、あるいは「黙想」も必要だからです。私たちのこの知識として得たものを、天主への愛として内部化させる、内的な自分なものとする為には、祈りと黙想が必要です。

例えば聖トマス・アクィナスは、「自分の今まで読んだ何百冊の本よりも、十字架の前で黙想する方が、より多くの事を学んだ」と言います。読んだり、そして祈ったりする事は、両方とも必要です。

その中でも聖人たちの言うには、「天主様から直接聞くのが一番の手段である」と言います。これはどういう事かというと、「天主様の現存に身を置く」という事です。天主様は遍在、この世の中のどこにでも在し給うので、御自分のこの創造の御業に、そしてこの創造の御業によるのみならず、霊的に私たちの父として在し給うのです。この天主の現存に身を置いて、その天主の現存の内に生きるという事は、天主の知識を深める最も確実な方法です。

被造物を見るだけでも、私たちは天主の現存に身を置く事ができます。この美しい被造物を見る事によって、天主御自身の完全さ、あるいは天主御自身の良さが理解できます。また霊魂のない動かないもののみならず、天主の似姿である人間、霊魂と肉体を持った人間を見ても、天主の現存に身を置く、天主の事を知る事ができます。

また、天主様の教えによりますが、「私に呼び求める者に、私はそこに居る。」そして天主の現存を知る事ができます。

祈りのみならず、私たちが「成聖の恩寵」にいる事によって、天主が私たちの霊魂に在す事も知っています。その天主の現存を、霊魂の現存を知れば知るほど、これは霊的な親密な関係を、そして多くの利益を得る事ができます。

まず、罪と誘惑に対して打ち勝つ、その戦いにおいて利益を得ます。もしも私たちが、最も高貴な天主の現存を霊魂に持っているという事を知れば、誘惑に対してどれほど大きな力となるでしょうか。

天主の現存を私たちが知れば知るほど、ますます完徳への望みに駆られます。もしも目上の方が、上司が自分の目の前にいるならば、一生懸命仕事をして、「よくやっている」という事で上司を喜ばせようとします。天主様の現存されているのが理解できれば、ますます一生懸命になります。

天主の現存に身を置く事によって、私たちはますます信頼して、主に依頼する事ができます。もしも私たちの不安や、危機や、あるいは危険などに身を置かれる時があっても、天主が私の傍に、そこにいらっしゃるという事を知れば、全くそのような不安など、危険など、何でもなくなります。「私を強める方と共にいる」という聖パウロの言葉によれば、もしも天主がおられるなら、私たちは何を恐れる必要があるでしょうか。

自然の知識、あるいは啓示された知識、あるいは祈り、あるいは天主の現存に身を置く事によって、私たちはますます天主を深く知る事になり、私たちの愛はますます大きくなり、感謝の念に駆られます。

【自分自身を知る】
次に、今度はちょっと辛い部分ですけれども、天主の事のみならず、私たち自身の事を知らなければなりません。天主の事を知れば知るほど、私たちの愛は掻き立てられますけれども、しかしもしも私たち自身の事を知らなければ、自分がどこを直さなければならないのか、あるいは自分のどこが足りないのかを知る事ができません。

もちろん私たちは極端を避けなければなりません。天主を知るという事だけで自分の事を知らないと、自分はこれほど大切なもので、偉いものだ、とういう事で思い上がってしまいます。そしてもう一つの反対の極端は、自分の事だけを知って天主の事を知らないという事は、自分はどれほど汚くて、欠点だらけで、もうどうしようもなくて、絶望と不安で、もう自分をどうする事もできなくなってしまいます。2つを知らなければなりません。

もしも私たち自身の事を知らないと、私たちは本当に楽観的になってしまって、「私には全然問題がない。私は全て完璧で、もしかしたらほんのちょっとまずいところがあるかもしれないけれども、他は大丈夫だ」と思い上がってしまいます。

私たちは、自分の持っている「善」と、「欠点」と、2つをよく知る事にしましょう。そしてそうする事によって、天主に近付く事ができます。

もしも私たちに良い点があるという事を認める事ができれば、それは天主様からの御恵みとして感謝しなければなりません。そしてそれを天主の為によく使おうと努力しなければなりません。

もしも私たちに欠点があるならば、天主様の助けが必要であって、御恵みが必要であって、そして私たちはそれを直す為に努力しなければならない、という事を知る事ができます。この欠点に向き合って、そしてそれによって、「私は天主の助けが必要だ。しかし天主の助けを以て、私はこれを全力を以て直そう」とする事ができます。

聖アウグスチヌスも回心の前に、「自分の力だけではどうしても罪の生活から抜け出す事ができないけれども、聖書を読む事を以て、天主の全能の助けを以てであれば、全てができる」と知る事ができました。

では、どうしたら私たち自身の事を知る事ができるでしょうか?

これは、自分の事を知る事は容易ではありません。原罪を持っている私たちは、ほぼ全て、自分が一体どのような者であるかという事をよく調べる事をしたくありません。ですから私たちは、大体こう気晴らしや、喧騒や、あるいは他の人の欠点を見る事はしますけれども、それは自分の欠点を、自分自身を内省する事を避ける為です。ですからこの世は沈黙を嫌って、騒音雑音を好みます。なぜかというと沈黙は、自分自身へと目を注ぐように私たちを導くからです。

【自分自身を知るため:毎日の良心の究明】

確かに大変ですけれども、まずこの第1の段階としては、毎日の「罪の、良心の究明」です。

良心の究明によってまず最初に、今まで、この日まで与えられた全ての御恵みを感謝する事から始まります。

次に、私の目のうろこを取り外して、そして私たちが一体どのような者であるのか、という事を知る特別の御恵みを乞い願います。

そして朝起きた時から今に至るまで、毎時毎時、一体私の行動がどうであったか、天主の御前でどうであったか、という事を反省します、究明します。

そして第4に、もしも至らないところがあれば、天主に御赦しを乞い願います。

今度が最後ですけれども第5番目に、遷善の決心を立てましょう。「今まで私はこの過失があったけれども、これを私は直す。これを今後犯さないようにする。その為に私の取るべき具体的な手段はこうである。私はこうする事によって、今後、今まで犯した罪を犯さないように努める」という決心を立てます。

ちょうどイエズス様がその例えでお話になったように、「会計を出せ、と言う」と言ったように、1日の会計をイエズス様の前に提出する事です。


天主への知識が深まれば深まるほど、そして自分に関する本当の知識が深まれば深まるほど、私たちの天主との一致が深まります。天主がどれほど素晴らしい方で、良い方で、私がどれほど足らないか、という事を知れば、その天主に対する感謝に満たされます。


【内的生活の為の第3の手段】
第3の内的な手段は、「天主の御旨に自分の意思を適合させる、合わせる」という事です。

第2番目の手段には、「知識」について、「知性」の能力について語りましたけれども、今からは「意志」の能力について語ります。

ここでは、「天主の御旨」という非常に神秘的なものを取り扱います。

時々人々は、「これは天主の御旨だ」と言いますけれども、一体どういう事なのでしょうか?よく人々は誤解をしてしまう危険があります。

天主様は仰いました、「もしも私を愛するなら、私の掟を守りなさい。」
天主様の「積極的な、肯定的な御旨」というものがあります。天主の御旨は私たちに、明確に、「掟」という形で表れます。

「天主の御旨」という言葉の第2の意味は、「天主はそれが起こってしまう事を許される」という意味で使われます。例えば、津波で多くの街が水没してしまって、多くの人々の命が人命が失われてしまった、天主がそういう事を許されてしまった、これも天主様の御旨だった、と言う事ができます。例えば、あるいは個人的に誰かとても親しい人が裏切ってしまった、あるいはとても親しい愛する人が亡くなってしまった、という事を天主を許された、これも天主の御旨だ、と言う事ができます。

だからと言って、天主様がそれをですね、積極的に肯定的にそれが起こるようになる事を、何か悪が生じる事を、私たちに害が起こる事を望んだ、という意味ではありません。しかし、私たちが「天主の御旨だ」と言う時に、「ある出来事が、別の事の為に生じてしまう事を許された」という事です。

この世の全ての事は、天主の御旨によって行われますが、その意味には違いがあります。あるものについては、積極的に肯定的に、それが起こる事を「望まれて」起こりますけれども、あるものは、それが起こる事が「許されて」起こります。そしてもしも天主が何かの事が起こる事を許されたとしたら、それはそれの為にこの悪の為ではなくて、「それをはるかに勝る善」があるので、それが故にその事を許されたのです。そのはるかに勝る善というのは、私たちの霊魂、あるいは私たちに関わる多くの霊魂の善の為です。

そのような時に私たちは、「天主の御摂理」と言います。そのような時に私たちは、私たちを聖化する為に、天主の御摂理を愛を込めて受け入れる事が必要です。

聖パウロは、「天主を愛する者にとっては、全ては善の為に働く」と言います。しかし私たちの挑戦というか難しいところは、「天主が一体なぜ、一体何の為にこの悪が起こる事を許されたのか」という、その来たるべき偉大なる善の事を知らないから、それがまだ理解できないので、それを受け入れるのが難しい時があります。

例えば、マリア様が私たちに秋田で、あるいはその他の所で、私たちの母なる教会における大きな危機、司教様や、司祭や、教皇様における危機などを話されました。もちろん私たちは、「あぁ、天主様の御摂理だからOKだ」と「大丈夫だ」と言う事もできるかもしれません。でも私たちはこの事も考えます、「では一体、その天主がもしもそれを許されるなら、一体その何の善の為に、その事が許されたのか?」

もちろん私たちは、例えばこの危機からどのような善が起こるか、という事を推測する事もできたり、こう考えたりする事もできますけれども、でも全体的な全体像、全部のこの天主様の御計画、御摂理というのは、私たちにとって神秘的です、知り尽くす事ができません。

例えば、多くの国で多くの霊魂たちが、信仰から離れています、離教しています。「一体これからどんな善が起こるのだろうか?」と私たちは自問する事ができます。私たちは例えばこんな推測をする事ができるかもしれません、例えば「ますます多くの霊魂が背教しているけれども、それはまだ背教せずに残った選ばれた霊魂たちが、ますます天主にその御恵みを感謝して、その信仰を大切にして、そしてそれを利用して多くの救霊の為にますます熱心に働くようになる。その為だ」と。あるいはもしかしたら、全て教会が上手くいった時には無かったような、偉大な聖人たちが多く生まれる為だったのかもしれません。

しかし私たちは、天主の御摂理の奥深い理由を知り尽くす事ができないので、そして天主は全知全能であって、私は最も愚かな者であるので、私たちが言う事は「天主の御摂理は全く正しく、それは讃美されよかし!」です。

最も愚かな考えはこれです、「私の方が、天主の御摂理よりももっと素晴らしい。私のやり方をするべきであった。天主のやり方は間違っている」という考えです。

本当の霊魂の平安を得る為には、私たちは天主の御摂理を、謙遜に愛を込めて受け入れる事です。もしも私たちに辛い事、困難な事、悪が起こった場合には、今日の悪は今日で足りる、という事で今日その事を、そのような辛い事を悪を謙遜に耐え忍んで、そして今日それを耐え忍ぶ御恵みを求める事です。同じ、私たちにそのような事が起こる事を許したその同じ天主は、その助けを求める人には、その助けを与えるからです。

またそのようなものを積極的に天主の御手から受け入れる霊魂には、多くの功徳があります。例えば私たちのこの霊魂の悲しみから、多くの事を私たちに教える事ができます。例えば悲しみが起こった時には、「あぁ、この世は涙の谷であって、一時的なものにすぎないのだ」という事を思い出させて、「天国こそに行かなければならない」と思わせます。あるいは、この悲しみを受けた時には、この私の悲しみを、イエズス様の悲しみと合わせて、そして功徳を積んで、天国に宝を積む事ができます。

こうする事が、「天主の御旨と私たちの意思を一致させる」事であって、それが必要であって、そしてそうする事だけが合理的な、理に適う生き方です。なぜかというと、天主は私たちを越えてはるかに賢い方であって、賢明な方であって、全ての事をお見通しであって、全ての善の為に取り計らって下さる方であるからです。

こうやって私たちの意思を天主の御旨に従わせる事こそ、最も安全な、そして唯一の聖化の道です。もちろん私たちは完徳の道を歩みたいと思っていますけれども、でも自分だけで自分の思う道を行くと、それは多くの場合、完成には行きません。なぜかというと、私たちは非常にしばしば間違いを犯し、そしてあまりよくものを知らないからです。天主こそが私たちの霊魂を一番よく知っている方であるので、天主こそが私たちの聖化を望み、それの最高の最善のプランを計画を持っています。

ですからその天主のプランに従わせる事こそ、最善の道なのです。良い事が起こっても、悪い事が起こっても、幸運も不運も全て、天主の御旨の積極的な意思か、あるいはそれを許されたのか、全て天主の御旨として私たちが受け入れる事です。

では次の講話に移る前に、5分間休憩を入れます。

「秋田の出来事は、御聖体から始まって御聖体で終わっている」2019年5月1日(初水)秋田巡礼 御聖体降福式にての黙想

2019年06月05日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

「秋田の出来事は、御聖体から始まって御聖体で終わっている」

2019年5月1日(初水)秋田巡礼 御聖体降福式にての黙想 小野田神父

秋田の出来事の準備の始めに、シスター笹川は、御聖櫃から神々しい、燦然と輝く光が出ている、というのを何日も続けて見ました。

同時に、無数の天使たちが、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と、御聖体に在すイエズス様を讃美していました。

そして天使たちは、「御聖体の内に『真に』在し給うイエズスの聖心を讃美する」と、「真に」という言葉を付けるようにしました。そしてシスターの耳が治った時も、「これは、御聖体の内に真に在す御方が、憐れみによって為した事だ」と言いました。

秋田の出来事は、御聖体から始まって御聖体で終わっています。私たちも御聖体の、パンの形の外見の内に在し給う真の天主、イエズス・キリスト様を、イエズス様の聖心を礼拝致しましょう。

安田神父様がマリア庭園を造ろうという計画をした時に、財政的な困難の為に、「ヨゼフ様にお願いしよう」と御説教をしました。すると、その日に守護の天使がシスター笹川に、「非常に良い考えである」と、「ヨゼフ様は天主は非常に喜んでいる。その為に是非、目に見える信心のしるしとして、聖ヨゼフの像を作るように」という事を暗示しました。「目に見える信心のしるしを。」

私たちも、東京に修道院が造られる為に、是非ヨゼフ様の特別の御取次ぎを乞い願いましょう。

苦しみの玄義黙想(2019年5月1日 秋田巡礼にて 小野田神父)

2019年06月05日 | お説教・霊的講話


苦しみの玄義黙想(2019年5月1日 秋田巡礼にて 小野田神父)

『苦しみの玄義 第1玄義:この一連を捧げて、主がゲッセマニの園にて死するばかり憂い給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、罪を痛悔する恵みを乞い願わん。』

「マリア様は、多くの人が、一人でも多くの人が、マリア様を通してイエズス様と聖父に捧げられるという事を望んでおられる」という事を天使が言いました。
「マリア様は、私たちに回心の恵みを与えようとこの秋田の地を選んだけれども、特に聖母の汚れなき御心に捧げられた日本をとても愛しているけれども、でもこの信心がなされていないのをとても悲しんでおられる」とも天使は言いました。
私たちもこのマリア様の涙に合わせて、罪を痛悔する恵みを乞い求めましょう。


『苦しみの玄義 第2玄義:この一連を捧げて、主が鞭打たれ給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、罪を償う恵みを乞い願わん。』

マリア様は、おそらくイエズス様が鞭打たれたのをご覧になり、その肉体は鞭打たれなくても、その御心には、剣でグサリと刺された痛みを感じたに違いありません。マリア様をお慰め致しましょう。


『苦しみの玄義 第3玄義:この一連を捧げて、主が茨の冠を被せられ給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、侮辱を恐れざる恵みを乞い願わん。』

マリア様は、イエズス様がポンシオ・ピラトと共に、茨の冠を被せられて御姿を変えられて現れた時に、どれほど悲しみを持たれた事でしょうか。“Ecce homo!”とピラトは言いました。
現代でも教会は、イエズス様の花嫁である教会は、茨の冠を押し付けられて、そして姿を変えられているかのようです。
私たちもそのマリア様と心合わせて、マリア様の御悲しみをお慰め致しましょう。


『苦しみの玄義 第4玄義:この一連を捧げて、主が十字架を担い給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、苦難を甘んじ受くる恵みを乞い願わん。』

マリア様は、イエズス様の十字架の御跡を一歩一歩、跡を歩かれました。抗議する事もなく、黙って、イエズス様の跡を忍ばれました。しかしキレネのシモン、あるいはベロニカがイエズス様を慰めた時には、どれほどマリア様はお喜びだった事でしょうか。私たちもマリア様をお喜ばせする事ができますように、イエズス様をお慰めする事によってお喜ばせする事ができますように。


『苦しみの玄義 第5玄義:この一連を捧げて、主が十字架に釘付けにせられて死し給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、救霊の恵みを乞い願わん。』

マリア様は、十字架の足下で、御子イエズス様によって、私たちを子供として受けました。マリア様は私たちの本当の母と、霊的母となりました。そしてマリア様は、御子イエズス様をお愛しになった愛と同じ愛で、私たちをお愛しになります。
「あぁ御母マリア様、いつも私がマリア様の良き子供となる事ができますように、そして御子イエズス様に良く倣う事ができますように、助けて下さい。」

2019年6月5日(初水)「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想しましょう。

2019年06月05日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2019年6月5日(初水)「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想しましょう。

聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。

御身のこの苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔さ良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。

御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。

御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。

御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。

この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。

御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。

御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

 


来たる2019年7月15日月曜日、うみの日、午後4時から、築地カトリック教会から日比谷公園までマーチフォーライフがあります

2019年06月03日 | カトリック・ニュースなど
Ave Maria Immaculata!

愛する兄弟姉妹の皆様、

来たる2019年7月15日月曜日、うみの日、午後4時から、築地カトリック教会から日比谷公園までマーチフォーライフがあります。

これに愛する兄弟姉妹の皆様をお誘いいたします。



マーチにお誘いする理由は六つあります。

第一の理由は、胎児が立派な人間であると言うことを、日本の多くの方々が意識されていないからです。そのために、毎日、多くの罪のない赤ちゃんたちの命が絶たれているからです。


秋田巡礼-霊的講話【2】-2019年5月1日サマーズ神父様「霊的生活を成長させる為の「手段」の1「天主との一致を求める」という熱烈な望みについて」

2019年06月03日 | お説教・霊的講話
2019年5月1日 秋田巡礼 サマーズ神父様霊的講話【2】
同時通訳:小野田圭志神父

先ほど私たちは、霊的生活の重要さ、そしてそれの必要性、そしてそれの義務について黙想しましたが、今からはそれに、霊的生活を成長させる為の「手段」について見てみます。



ではまず霊的な、この霊魂について、霊魂において内的な、「内的な手段」、「外的な手段」、2つを見てみます。

まず「内的な手段」です。

まず、健全な「完徳を求める」という望みです、願いです。もしも「良いものを求めたい、求める」という心がなければ、決してこれを得る事はできません。

第2の手段は道具は、「天主について知る事」、そして「自分自身を知る事」です。霊的生活というのは、天主と霊魂の一致ですから、「天主が何か」、「霊魂が何か」、この2つを知らなければなりません。
聖アウグスティヌスは、「私があなたを知り、自分自身を知る事ができますように」と祈っていました。

内的な手段というのは、まず「大きな強い意志、望み」と、「天主と自分に対する知識」です。

第3に内的な手段として、「私たちの意志を、天主の御旨に一致させる為に放棄する、自分の意志を捨てる」という事です。
「御旨のままに、御言葉の通り我になれかし。」マリア様のそのお言葉です。

第4に、「祈り」です。公的な祈り、あるいは私的な祈り、あるいはその他色々な口祷、念祷などです。

この内的な4つの手段の他に、「外的な手段」もあります。

まず外的な手段として、「霊的指導者に霊的な指導を受ける」という事です。
普通によくある事は、「告解を受ける」あるいは告解の外でも、「霊的に質問をして、こう指導を受ける」という事があります。なぜかというと、なぜこの指導が必要かというと、私たちはよく自分自身について間違いを犯すからです。

第2の手段は、「霊的な生活の計画表、時間割」です。一日の使い方あるいは、一週間の使い方、あるいは一ヶ月の使い方は、何が一番重要なのか、一体どんなものを優先的にするのか、という事で秩序立てて、時間割があって計画されていなければなりません。
ですから修道院でも、あるいは神学校でも、そのような時間割というのでしょうか、そういう規律があります。

第3には、「霊的読書、あるいは霊的講話、あるいは御説教などを読む」事です。

そして第4に、これは一番難しい事かもしれませんが、「隣人に対しての私たちの関係」です。私たちは社会的な動物、存在ですから、私たちの友人、あるいは家族、あるいは同僚、あるいは隣組などの人々との生活を、どのように聖化しているかにかかっています。
これは、私が先ほど「難しい」と言ったのはなぜかといういうと、一人でこのお祈りするのはとてもお祈りができて、とても長い時間お祈りする事ができるかもしれませんけれども、隣人と接するとすぐ怒りっぽくなったり、忍耐を欠いたり、あるいは悪口を言ったり、汚い言葉を言って罵ったりするかもしれないからです。ですから隣人に対してどのような態度で接するかというのも、私たちの霊的な生活を高める手段となります。

今日、今回の黙想会・巡礼で、どのようなこの霊的生活を高める手段があるかという事を、「4つの内的な手段」、「4つの外的な手段」をこれから見ていきましょう。

はい、霊的な生活をするのはとても必要で、この地上でする唯一その価値のある大事業です。その大事な事に到達する為に、どんな段階が、どんな手段があるのか、という事を今から見ていきます。


では早速、「天主との一致を求める」という熱烈な望みについて、話を進めていきます。

これは、私たちが「選択」する事です。自由に選んで、「私たちの持っていない善を持とう」と、「得たい」と思う事です。

何かの物が欲しい、あれが欲しいという、「物を欲しい」という感傷的な感情的な望みと、「私たちが天主との一致を求める望み」とは、同じではありません。

感覚的な、私たちが五感で得る事ができるものを望む事は、これはずっと続くものでもなく、一時的なものにすぎません。例えばちょっと歩いていると、良い匂いがしてきて、「あぁ、お好み焼きが、たこ焼きがある。あぁ食べたいなぁ」と思う、その「食べたいなぁ」という思いは、一時的なものに過ぎません。あるいは女性が百貨店に入って、スーパーマーケットに行って、「あぁ、これが欲しいわ」という事は、一時的なものです。

今、私たちの言っているのは、自由意志を以って、理性的に、「私が持っていないこれは、私は求める価値がある。これを求めなければならない。そうする事が良いのだ」という事を知って、私たちの意志を動かして、それを選択する事です。

またこれは、「天主様の御恵み」によって、「助力の聖寵」によって、この助けられて、そしてこれを求める事ができる望みです。

ですから、「自由意志」と、「天主様の御恵み」によって助力の聖寵の助けによって、この二つが重なって初めて成立するものです。

永遠の昔から、まだ私たちが存在していなかった昔から、天主は私たちを御愛しになって、そして、私たちの心にその望みを与えてくれます。

聖アウグスティヌスはその『告白』という本の中で、こう書いています、「天主様、あなたは私無しに私を創造されました。そして私の霊魂は、あなたを見つけてあなたの中に憩うまで、安息を知りません」と。

しかし、この「天主を求める」という熱烈な望みも、原罪の傷によって弱くなったり、あるいは揺れ動いたり簡単にしてしまいます。肉の欲、目の欲、あるいは生活の奢りなど、私たちの持っている情欲によって、天主との一致が妨げられたり、あるいは弱められたりしてしまいます。あるいは私たちの恐れ、あるいは不安などによって、「天主との一致」という事に努力をする事から身を引いてしまったりもします。

私たちが常にこの望みを保ち、それを大きくする為に、養っていかなければなりません。常に養わなければなりません。

私はまずここに最初に第1にこれを言ったのは、この「望み」がなければ、結局受ける事がないからです、得る事がないからです。

皆さんもよくご存知のように、「欲しい、これをやりたい」と思わなければ、何もする事を起こしません、行動を起こしません。皆さんがここにいらっしゃるのも、魔法で来たのではなくて、「来たい」と思って、来たいと思ったのでチケットも買ったり、ここまで来る為に努力されました。

「霊的な天主との一致」という所に、巡礼地に到達する為にも、私たちは大きな望みを持たなければなりません。まず霊的生活の旅路の最初に、「私は何を欲しいのか、何を望んでいるのか」という事を知る、という事にあります。

洗礼を受けた全ての霊魂たちは、天主との一致を望む気持ちを持ち続けなければなりません。そしてこれを養っていかなければ、これは死んで枯れてしまいます。そして私たちの生活には色々な望み、「これをやりたい」「あれをやりたい」という事がありますけれども、この「天主との一致」という望みは、最高の望みであって、これをトップに、最高レベルに置かなければなりません。

じゃあ、この望みを一番の最上位に持って行って養う為には、どうしたら良いでしょうか?

第1に、「黙想と祈り」によって、この力を得ます。
霊的生活の利点、あるいはその価値、その偉大さ、という事を黙想しなければなりません。天主が私たちと共に分かち合っているこの霊的な命の偉大さを考察すべきです。この霊魂の天主と分かち合うその命の美しさ、その富、それの偉大さをよく知るべきです。それを考えれば考えるほど、そしてそれを得るように祈れば祈るほど、私たちはそれが強められます。

この世の生活を離れて、望みから離れて、毎年一回、あるいは2年に一度、数日間、黙想会あるいはその沈黙の内に、祈りの時間を持つ事が大切です。数日、3日とかあるいは5日とかこの間、この天主との一致の望みをもう一度高める時を作って、私たちはそれを保ちます。この秋田の巡礼も、これの為のとても良い機会です。

もちろんその他の手段もあります。それは摂理的な選択、摂理的に私たちに与えられた試練なのです。突然の事故、あるいは病気、あるいは愛する隣人の死亡・死別などは、私たちにそのような特別の祈りの機会を与えます。聖イグナチオは兵士であった時に足を怪我をしました。そしてその為にベッドで寝たきりになって、それのおかげで回心しました。

あるいは私たちがある人から裏切られた、あるいは害を受けた、あるいはこの私たちは打ちのめされてしまった、等という事も、私たちの霊魂が天主へと向けられる為の機会となります。あるいは誰かから裏切られた、あるいは愛する人が亡くなった、という事も、私たちが天主へと心を上げる機会となり得ます。


まとめて申し上げますと、この天主への望み、「天主へと一致したい」という望みがまず、天主へとの一致に至る為の第1のステップで、これがなければ、土台になければなりません。

第2に、私たちはその手段として、「天主への知識と自分自身についての知識」を見ましょう。もしも私たちがそれは何か知らなければ、それを愛する事ができません、望む事ができません。

皆さん、クロケットは好きですか?

「好きでも嫌いでも分かりません。なぜかというと、クロケットとは何か分からないからです。」

クロケットがどれほど健康に良いか、どれほど美味しいか、どこで作っているのか、という事を知れば、「あぁ、好きか、好きでないか」となりますから、まず知らなければなりません。

大阪の人に聞けばあれですけれども、フランス人に「たこ焼き好きですか?」と言っても、「え?たこ焼き?何か聞いた事もなければ、よく分からない。好きとも嫌いとも言う事ができない」と答える事でしょう。

よくある事ですけれども、金祝の結婚式に行くと、よくその夫婦が、「50年前よりも、今の方がより深く愛し合っている。なぜかというと、50年前はよくそのお互いの良いところやその徳について知らなかったけれども、今より良く知ったので、より良くその善、どのような人か分かるようになったので、より深く愛している。最高に愛している」と。

天主についてよく知れば知るほど、深く知れば知るほど、私たちもより多く天主を愛する事ができるようになり、またより深く一致する事ができるようになります。

その反対に、「自分自身についての知識」があります。

もしも私たちに良い所があれば、全て天主から頂いたものです。ですからますます、このようなものを頂いて感謝と、その天主に対する恩義の念が起こります。

もしも私たちに欠点や、落ち度や、弱さなど小ささを見出すならば、もっと私たちは天主に依存して、天主に委ねて、天主に依存するようになります。そして謙遜になります。もしも私たちの小ささ、惨めさ、あるいは弱さ、この欠点などを知れば知るほど、私たちは自分自身の愛、自己愛というものが無くなってしまって、その上に天主への愛を建てる事ができます。

霊的生活の失敗の一つは、原因の一つは、私たち自身がどれほどのものを天主から受けたのかを理解できず、あるいはどれほどの小さい惨めなものかを理解できないところがあります。
「まず、」イエズス様も、「自分自身の目の梁を取ってから、隣人の目の中にある小さな埃を取れ」と。私たちの主はよく知っていました、私たちは自分自身の欠点や悪を認めるのが非常に嫌で、しかし隣人の欠点や悪を認めるのは非常に簡単で好きだ、という事です。

この次の機会に、天主への知識と、自分自身の知識をもっと深める事に致しましょう。

では、今から10分休憩を入れます。お祈りをして、休憩に入って下さい。

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【まとめ】

内的な手段:

【第1】健全な「完徳を求める」という望み、願い。「良いものを求めたい、求める」という心。「天主との一致を求める」という熱烈な望み

【第2】「天主について知る」そして「自分自身を知る事」。

【第3】「私たちの意志を、天主の御旨に一致させる為に放棄する、自分の意志を捨てる」。「御旨のままに、御言葉の通り我になれかし。」

【第4】「祈り」。

外的な手段:

【第1】霊的指導者に霊的な指導を受ける

【第2】霊的な生活の計画表、時間割

【第3】霊的読書、霊的講話、御説教

【第4】隣人、友人、家族、同僚、隣組などの人々との生活を聖化する

Mensagem para a Marcha pela Vida em Tóquio 2019

2019年06月03日 | カトリック・ニュースなど

Mensagem para a Marcha pela Vida em Tóquio 2019

Meus queridos irmãos e irmãs!

Convidamos todos vocês para participarem da Marcha pela Vida de 2019 que terá início às 16 horas da segunda-feira, dia 15 de julho, na  Igreja Católica de Tsukiji, e que será concluída no  Parque Hibiya em Tóquio. 

15 de julho é também o Dia do Mar (Umi no Hi), um feriado nacional no Japão, na qual rezaremos para que muitas pessoas possam se juntar a nós.

Nós os convidamos porque muitos de nós no Japão não estamos cientes do fato de que um feto no útero de sua mãe é um ser humano.  Muitos bebês inocentes são assassinados todos os dias devido a essa ignorância.

Recentemente, ficamos chocados ao saber de várias notícias muito tristes sobre os maus-tratos e até a morte de crianças pequenas nas mãos de seus pais aqui no Japão.

E algumas semanas atrás, no domingo de Páscoa, muitos morreram em um ataque terrorista no Sri Lanka.  Até uma japonêsa foi morta.  Nós nunca poderemos permitir que o terrorismo destrua vidas inocentes.

No entanto, mesmo agora, o que deveria ser o lugar mais seguro para um bebê - o útero de uma mãe - está sendo atacado e bebês sendo assassinados no Japão. Muitos não percebem esse fato chocante.

Milhares de bebês japoneses são maltratados e mortos, na verdade, por seus pais, embora os meios de comunicação de  massa não relatem essas atrocidades.

A Marcha pela Vida é uma manifestação de S.O.S. em favor destes bebês inocentes, através de orações. 

Oramos em nome desses bebês vítimas que não podem se defender e nem fazer suas próprias vozes ouvidas.

Convidamos todos vocês a juntarem-se a nós na Marcha pela Vida, porque queremos levar uma mensagem de esperança às mães grávidas e aos casais que têm bebês. 

Existem inúmeras pessoas que cometeram aborto por ignorância, mas que mais tarde aprenderam a verdade.  Essas mães, pais, enfermeiros e médicos estão agora se juntando à Marcha pela Vida nas cidades do mundo todo.

Por exemplo, Bernard Nathanson era um médico que promoveu o aborto.  No entanto, assim que percebeu que um feto é um ser humano vivo, ele se tornou um pró-aborto contra o aborto.

Ou, em outro exemplo recente, Abby Johnson costumava ser um funcionário da Planned Parenthood e um defensor declarado do aborto.  Um dia, no entanto, ela se conscientizou do mal do aborto e, em 2009, tornou-se pró-vida.  O filme "Unplanned (Não planejado)" foi feito e lançado em 2019  com base na história real de sua conversão.

Ao participar da Marcha pela Vida, mostramos nosso apoio a nossos irmãos e irmãs e dizemos a verdade que somos todos fracos pecadores e que Deus é misericordioso.

Também queremos ser uma testemunha da verdade de que não podemos tirar vidas inocentes.  Somente Deus, o Criador, é o Mestre e Senhor da Vida.  Os bebês não podem resistir a ataques contra eles, o que torna ainda mais importante que eles sejam protegidos.

Nós os convidamos a marchar conosco porque é um fato médico e científico que um ser humano começa a existir no momento da sua concepção.  Este é também o ensinamento da Igreja Católica.  Portanto, devemos respeitar a vida desde o momento da sua concepção.

Quanto mais sabemos sobre a existência do Deus misericordioso e amoroso que nos dá a vida, mais nos sentiremos obrigados a respeitar este dom da vida.

Criar filhos, muitos filhos, exige muito sacrifício dos pais.  No entanto, nossa fé católica nos diz que não devemos restringir nem recusar, por razões financeiras, uma vida dada por Deus. 

Como Nosso Senhor nos ensinou que Deus alimenta até mesmo os pássaros dos céus, Ele certamente cuidará de nós que confiamos em Sua misericórdia.  Ter muitos bebês nos dará felicidade e alegria que o dinheiro não pode comprar.

 

Nós os convidamos para a Marcha pela Vida por causa das palavras de Nosso Senhor Jesus Cristo.  Ele nos ensinou que no último julgamento nos será dito:

Vinde, benditos de meu Pai, possuí por herança o reino que vos está preparado desde a fundação do mundo; (...) Em verdade vos digo que quando o fizestes a um destes meus pequeninos irmãos, a mim o fizestes.

Por essas palavras, sabemos que, se protegermos a vida dos pequenos bebês, nos é prometida a recompensa eterna do céu.

Pelo contrário, se não o fizermos, ouviremos as seguintes palavras da boca do Juiz Supremo:

"Apartai-vos de mim, malditos, para o fogo eterno, preparado para o diabo e seus anjos;Porque tive fome, e não me destes de comer; tive sede, e não me destes de beber;Sendo estrangeiro, não me recolhestes; estando nu, não me vestistes; e enfermo, e na prisão, não me visitastes. Em verdade vos digo que, quando a um destes pequeninos o não fizestes, não o fizestes a mim."

Nós convidamos vocês também por amor ao nosso próprio país.  Aborto e contracepção são o suicídio de uma nação.  Eles são a vergonha de um país civilizado.  Mas as crianças são o futuro brilhante do Japão.  Queremos dar aos nossos futuros filhos, netos e bisnetos como herança, nossa linda terra tão abençoada pela natureza, esse país pacífico e seguro, uma sociedade cortês e ordeira, nossa civilização e riqueza.  Não há futuro sem filhos.

No entanto, a realidade é que, de acordo com estatísticas recentes, o equivalente a uma grande cidade desapareceu da população do Japão no ano passado.  A crise da queda do Japão é iminente.  O Japão está prestes a desaparecer da superfície da terra.  O povo do Japão está diminuindo em número.

Nós convidamos vocês juntarem-se a nós para a Marcha em apoio à vida.  Uma sociedade que respeita a vida das criancinhas também respeita a vida dos idosos. Tal sociedade é construída sobre uma cultura da vida.  Uma sociedade que despreza a menor vida como um fardo, da mesma forma, não permitiria que pessoas idosas, deficientes ou enfermas vivessem.  Isto é precisamente o que aconteceu sob o nazismo.  É uma cultura da morte.  Queremos construir uma Cultura da Vida em nossa sociedade japonesa.

 

Portanto, por favor, juntem-se a nós na Marcha pela Vida! A marcha iniciará na Igreja Católica de Tsukiji às 4 da tarde no Dia do Mar (Umi no Hi) segunda-feira, 15   de julho de 2019  e será concluída  no Parque Hibiya, atravessando a cidade.

Pelos nossos bebezinhos,

Pelas mães e casais com bebês,

Pela posição da Igreja Católica sobre a vida,

Pelo dia do nosso último julgamento,

Pela prosperidade do nosso país,

Pela construção de uma cultura da vida,

Nós convidamos todos vocês para a Marcha pela Vida.

 


Message for March for Life in Tokyo 2019 : 16:00, Monday July 15th, from Tsukiji Catholic Church

2019年06月03日 | カトリック・ニュースなど
Ave Maria Immaculata!

We invite all of you to the 2019 March for Life, which will begin at the Tsukiji Catholic Church at 4 PM on Monday, July 15th, and end at Hibiya Park in Tokyo. We pray that many people can join us!

For our little babies,
For the mothers and couples having babies,
For the Catholic Church’s position on life,
For the day of our last Judgment,
For the prosperity of our country,
For building a culture of life,

Please join us at the March for Life!



My Dearest Brethren,

We invite all of you to the 2019 March for Life, which will begin at the Tsukiji Catholic Church at 4 PM on Monday, July 15th, and end at Hibiya Park in Tokyo. July 15th is also Marine Day, a public holiday in Japan, so we pray that many people can join us.

We invite you because many of us in Japan are not aware of the fact that a fetus in his or her mother's womb is a human being. Many innocent babies are murdered every day due to this ignorance.

Recently, we were shocked to learn of several sad news stories of the maltreatment and even death of small children at the hands of their parents here in Japan.

And a few weeks ago, on Easter Sunday, many died in a terrorist attack in Sri Lanka. Even a Japanese was killed. We never allow terrorism to destroy innocent lives.

However, even right now, what should be the safest place for a baby—the womb—is being attacked and babies are being murdered in Japan. Many do not realize this shocking fact.

Thousands of Japanese babies are maltreated and killed, in fact, by their parents, although the mass media does not report these atrocities.

The March for Life is a manifestation of these innocent babies' S.O.S. in the form of prayers. We pray on behalf of these victim babies who cannot make their own voices heard.

We invite you to join us at the March for Life because we want to bring a message of hope to pregnant mothers and couples having babies. There are innumerable persons who have committed abortion out of ignorance but who later learned the truth. These mothers, parents, nurses, and doctors are now joining Marches for Life in cities throughout the world.

For instance, Bernard Nathanson was a medical doctor who promoted abortion. Nonetheless, as soon as he realized that a fetus is a living human being, he became an anti-abortion pro-lifer.

Or, in another recent example, Abby Johnson used to be a Planned Parenthood employee and an outspoken defender of abortion. One day, however, she became aware of evil of abortion and in 2009 became pro-life. The movie "Unplanned" was made and released in 2019 based on the real story of her conversion.

By taking part in the March for Life, we show our support for our brothers and sisters and tell the truth that we are all weak sinners and that God is merciful.

We want to encourage and comfort mothers and see their and their babies’ beautiful smiles!

We also want to be a witness to the truth that we cannot take innocent life. Only God the Creator is the Master of Life. Babies cannot resist assaults against them, which makes it all the more important that they be protected.

We invite you to march with us because it is a medical and scientific fact that a human being starts to exist at the moment of conception. This is also the teaching of the Catholic Church. Therefore, we must respect life from the very moment of conception.

The more we know about the existence of the merciful and loving God Who gives us life, the more we are bound to respect this gift of life.

Bringing up children, many children, demands lots of sacrifice from parents. However, our Catholic Faith tells us that we should neither restrict nor refuse, for financial reasons, a life given by God. As Our Lord taught us that God feeds even the birds of the skies, He will certainly take care of us who trust in His mercy. Having many babies will give us a happiness and joy which money cannot buy.

We invite you to March for Life because of the words of Our Lord Jesus Christ. He taught us that at the last Judgment we will be told:

"Come, ye blessed of my Father, possess you the kingdom prepared for you from the foundation of the world. (...) Amen I say to you, as long as you did it to one of these my least brethren, you did it to me."

By these words, we know that if we protect the life of the smallest babies, we are promised the eternal reward of Heaven.

On the contrary, if we do not do so, we will hear the following words from the mouth of the Supreme Judge:

"Depart from me, you cursed, into everlasting fire which was prepared for the devil and his angels. For I was hungry, and you gave me not to eat: I was thirsty, and you gave me not to drink. I was a stranger, and you took me not in: naked, and you covered me not: sick and in prison, and you did not visit me. (...) Amen I say to you, as long as you did it not to one of these least, neither did you do it to me."

We invite you also because of love of our own country. Abortion and contraception are the suicide of a nation. They are the shame of a civilized country. But children are the bright future of Japan. We want to give to our future children, grandchildren, and great grandchildren as their inheritance our beautiful land so blessed by nature, this peaceful and safe country, courteous and orderly society, our civilization and wealth. There is no future without children.

However, the reality is that, according to recent statistics, the equivalent of an entire major city disappeared from Japan’s population last year. The crisis of the downfall of Japan is imminent. Japan is about to disappear from the surface of the earth. The people of Japan are dwindling precipitously in number.

We invite you to March because of Life. A society that respects the life of little children also respects the life of the aged. Such a society is built on a culture of life. A society that despises the smallest life as a burden, likewise, would not allow old or handicapped or sick people to live. This is precisely what happened under Nazism. It is a culture of death. We want to build a Culture of Life in our Japanese society.

Therefore, please join us at the March for Life! We will depart from Tsukiji Catholic Church at 4 PM on Marine day, Monday July 15th, 2019, and end our March in Hibiya Park across town.

For our little babies,

For the mothers and couples having babies,

For the Catholic Church’s position on life,

For the day of our last Judgment,

For the prosperity of our country,

For building a culture of life,

We invite you to March for Life.

聖ピオ十世会日本 聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ)の報告 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

2019年06月03日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 6月、イエズスの至聖なる聖心の聖月です。大阪と東京で聖伝のミサを捧げることができ、幸福です。

 先月は毎週主日に連続で聖伝のミサが捧げられていたからでしょう、愛する兄弟姉妹の皆様の顔が喜びに輝いて見えました。

 大阪では聖霊降臨の主日(6月9日)に午後6時からミサがあります。アジア管区長のサマース神父様が来日されます。

 東京では次のミサは、6月23日(主日)です。その時には二人の赤ちゃんたちが洗礼を受ける予定です。東京では、7月7日(主日)にも、別の二人の子供たちが幼児洗礼を受ける予定です。7月は、私たちの愛する姉妹の一人のお母さんの出産予定日もあります。多くのお祈りをお願い申し上げる次第です。子供たちが多くなり、ますますカトリック教会らしくなり幸福です。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】【大阪】

アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミッションありがとうございました。
ミサの報告をさせて頂きます。

5月31日(金)  元后童貞聖マリアの祝日のミサには14名、
6月1日(初土)  聖母の汚れなき御心のミサには22名の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

金曜、土曜とマリア様が天と地の元后であられることをお説教で黙想しました。

無原罪でお生まれになって生涯の全ての瞬間天主様をお喜ばせする特別の魂であられたために、そして救い主イエズス様と共に、贖罪の玄義を全うされた為に、マリア様の上には天主様のみが在す最高の地位に上げられました。ご自分を天主の卑しめと、低くなさったが故に全天使と全聖人の上に上げられたマリア様を黙想しながら、心がマリア様への尊敬と愛でいっぱいになりました。

また、それと同時にマリア様が「憐みの元后」であられることに言葉にできないほどの感謝が こみあげました。

もしマリア様が憐み深くましまさなかったら、もしイエズス様がマリア様を私達の母としてお与え下さらなかったら、罪に汚れた私は到底マリア様へ近づけなかっただろうからです。日本の全ての人々、世界中の人々がマリア様から憐れみを受けられるように、私達は隣人のためにもっと真剣にならなければいけないと思いました。

初土曜日の御聖体降福式でイエズス様の御昇天を黙想して初土曜日の信心のお勤めをしました。

今回特別にグレゴリオ聖歌の練習を指導して頂いけたので次のミサはこの調子でいけばバッチリです。

アレルヤを歌うときの表情が暗いとご指摘頂いたので、神父様がアレルヤを歌われている姿を思い出しせばうまく いくかなと思います(;´∀`)
ありがとうございました。

PS:マリア様への愛と信心のこもった素晴らしいお説教を、またアップして頂いて皆さんにも読んで頂きたいです。
書き起こしして下さっている愛する姉妹にも感謝します!

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

こんばんは!

5月31日は元后なる童貞聖マリア様の祝日の御ミサ、6月1日の初土には聖母の汚れなき御心の随意ミサ、御聖体降福式と初土の15分の黙想、終課、ファチマの聖母グレゴリオ聖歌の会の御指導を本当にありがとうございました!!本当に元后憐れみ深き御母マリア様からの御恵みに溢れた2日間でした!デオ・グラチアス!!

この5月は、日本がマリア様の汚れなき御心に捧げられた1日に、ヨゼフ様の祝日の御ミサが捧げられ、日本の新しい令和の時代が始まり、平均すると1日1回以上の御ミサ、多くの御聖体降福式、そして多くの聖母行列が捧げられ、そして5月の最終日の元后なる童貞聖マリア様の祝日の御ミサも日本で捧げられ、本当にマリア様とヨゼフ様は、この聖母聖月に日本を多くの御恵みで満たして下さいました。

今までこの聖母聖月の最初と最後に御ミサに与ることがなかったのであまり実感していませんでしたが、この5月は必ずヨゼフ様の祝日から始まり、元后なるマリア様の祝日で終わるので、このカトリックの典礼の美しさを今年は身に染みて感じる事ができました。

小野田神父様が5月31日の御ミサの御説教で仰った、マリア様が天地の元后である事は、もちろんマリア様が天主の御母であるからであり、そしてマリア様が共贖者として私たちを贖って下さったからであり、それが故にマリア様は永遠に天の玉座のイエズス様の横に在し、そしてマリア様だけに任せられている「憐れみと御恵み」をその玉座から私たちに自由に分配することができる特権をお持ちであり、特にアレルヤ誦にその事が美しく歌われる、という所が印象に残っています。

そして今年はちょうどその次の日の1日が初土に当たり、小野田神父様が御ミサの御説教で仰った、入祭誦で、「私は、憐れみを受けるために、信頼を以て聖寵の玉座に近づこう」と聖歌隊は歌います、というその繋がりに、天地の女王であり、全ての御恵みの分配者である私たちの御母マリア様の汚れなき御心の神秘をより一層深く感じることができたように思います。そしてその日はイエズス様の聖心の月の最初の日でもありましたので、御ミサの間に、本当に弱い私ですが、イエズス様の聖心の中に捧げられるに相応しい者となることができますように、マリア様の汚れなき御心に御取次ぎをお願い致しました。

初土の御聖体降福式でも15分の黙想と、悲しみに満ちたマリア様の汚れなき御心への奉献をして下さり本当にありがとうございます。小野田神父様のおかげでいつも最高の形で初土の信心をすることができるので本当に御恵みです。

そして昨日はファチグレで小野田神父様ご指導の下、大阪の聖母の汚れなき御心聖堂で最初に捧げられた御ミサである聖霊降臨の主日の聖歌の練習ができて、本当に幸せでした。これからも小野田神父様がファチグレをご指導して下さる機会が増えると嬉しいなぁと思いました♪

これら全ての本当に溢れるばかりの多くの御恵みをイエズス様の聖心とマリア様の汚れなき御心に感謝致します。

思うがままにつらつらと書いてしまいました。

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 28人(内、子供6人)
女: 29人(内、子供6人)
計: 57人(内、子供12人)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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