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Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2019年8月11日(主日)大阪の聖母の汚れなき御心聖堂の夕方6時のミサ

2019年08月12日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

8月11日の大阪のミサには29名の兄弟姉妹が与ることができました!天主様に感謝します!

聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!
トマス小野田神父












「罪の精神」「悪魔の精神」によって、人間の「命」のみならず、人間の「本性」「人間自身」が今、尊重されていない。ビルコック神父様霊的講話

2019年08月11日 | お説教・霊的講話
2019年7月15日(月)聖ピオ十世会司祭 ビルコック神父様霊的講話
「私たちが今やろうとする、この「マーチ・フォー・ライフ」というのは、単なる堕胎反対とか、あるいは安楽死反対とかだけではなく、命に逆らう全ての『文化』というものに対する、反対を表明するもの」

同時通訳:小野田圭志神父




親愛なる友人の皆さん、フランスでは数日前に、ある一人の人が亡くなりました。普通、多くの人は亡くなっています、毎日たくさんの方が数秒ごとに亡くなっています。

この数日前に亡くなった人は、とても特別なケースで、ヴァンサン・ランベール(Vincent Lambert)という名前の人です。このヴァンサン・ランベールという方は、数年前に結婚した方ですけれども、車の事故で非常に大きな負傷を負って、そして植物状態になりました。

このヴァンサンさんは10年間、病院で生活をしています。意識はないのですけれども、しかし治療をする必要はありません。何か、ただヴァンサンさんに必要なのは、栄養分を摂って、水を補給されることでした。そうすれば、それで生きていました。

ところで、家族でちょっと意見の相違が生じました。ヴァンサンのご両親は、「そのまま養分を与えて、水を与えて、生かしてあげたい」と考えます、ちょうど赤ちゃんのように。ところがその結婚した奥さんは、「いや、もうこれは十分だ。ご飯もあげないし、水もあげたくない」と言います。

家族のこの言い分が結局、家族内で収まらずに、これが裁判に持ち込まれました。色々な裁判があったのですけれども、ついに最近、裁判官が、「このヴァンサンさんの栄養を与えるのを中止しなさい」という命令を出しました。その為にヴァンサンさんは亡くなりました。

国家がこのヴァンサンさんに、医療行為を禁止したのではなくて(その必要はなかったかので)、「ただ、栄養を与える」のを禁止したからです。

残念な事に、フランスの司教様たちはこの事について声を上げずに、裁判にも国家に対しても、影響を及ぼす事をしませんでした。

ですからこれは殺人のケースでした。確かに生きている人を殺してしまいました。食べ物を与えない事によって。

フランスでは35年前、ヴェイユという名前の大臣が堕胎を導入しました、立法化しました。今ですからこのヴァンサンさんのケースを使って、少しずつ国家は、自分の事を守る事ができない無抵抗の老人や病気の人を殺そうとする事を、殺人を立法化しようと、合法化しようとする動きがあります。

フランスで今このような事がなされていますけれども、既にオランダでは、例えば「薬を投入する事によって、老人や病の人を殺す、殺害する」という事が許されています。

西洋ではもはや今後、罪のない人たちに対する生命の尊敬は、敬意はありません。

例えばフランスでは、あるいはヨーロッパでは、強盗、あるいは強姦犯、あるいは幼児の虐待をする人々、あるいは本当に犯罪者が、確かに裁判所では断罪されますけれども、面白おかしく生きる事ができます、生き延びる事ができます。

しかしその反対に、罪の無い赤ちゃんたちが堕胎によって殺されて、あるいは罪の無い老人、病の人が殺害されています。

人間の「命」のみならず、人間のこの「本性」、「人間自身」が今、軽蔑されています。つまり尊重されていません。この「自然、人間の本性」というものが尊重されていないが為に、新しい法律、新しいものが今導入されつつあって、例えばジェンダーという考えが導入されて、そして本当は婚姻という事はできないのですけれども、「誰とでも、自然と反して、カッコ付きで〈結婚〉できる」という法律が今成立しています。

このような出来事は「全て」なのです。つまりこれはただ単に、「堕胎」とか、あるいは「同性愛の〈結婚〉」とか、あるいは「安楽死」とか、そういう一つ一つのただケースではなくて、これは全てを含む「精神」その「考え方」があります。

これは、「罪の精神」であって、「悪魔の精神」です。

この聖書によれば、アダムとエヴァが最初に罪を犯した、その直後に犯した罪というのは、「殺害」でした。兄弟殺しでした。アベルがカインによって殺されました。

悪魔が人間の世界に導入させようとした「罪」という事と、「人間の命の破壊、殺害」という事は、非常に緊密に結び付いています。

天主の十戒を見ても、それは「命」と非常に密接に関わっています。

まず最初の三つの掟は天主に関するものですが、それは「私たちに命を与えて下さった天主に、礼拝を捧げる」というものです。

第四の掟では、私たちは両親を尊敬しなければなりませんが、なぜかというと、「両親は私たちに、命を与えてくれたから」です。

第五戒には、私たちは「人を殺してはならない」とありますけれども、なぜかというと、「命というのは、私たちに属するものではなくて、天主のみに属するものであるから」です。

そして第六戒、第九戒は、「命の伝達に反する行為」について、私たちに禁止しています。

そして第七戒、十戒は、私たちが良い普通の状況で生活する事を邪魔するような、盗みなどについて禁止しています。

第八戒では、これは非常に固有のものですけれども、私たちの精神的な生命、「知性の命」について、「嘘をついてはいけない」それを守る、「知性的な命を守る為」にあります。

ですから、「命を攻撃する時」というのは、「罪の精神がある」という事です。そしてこれは自由を求める、「自由放埒の精神」であって、そして「個人主義の精神」です。

なぜ女性は、子供がいらない、子供を堕胎しようと思うのでしょうか?
なぜかというと、自由になって、自分の好きな事をしたいと思うからです。

なぜ老人を邪魔者扱いにして、この世から消そうとするのでしょうか?
なぜかというと、それは重荷であって、自由を奪うものであるかのように思われて、そして私たちがこの世を楽しんだりするものの邪魔者だからです。そして私たちが個人で、個人的に、個人主義を、自分の思い通りにする事を妨害するからです。

この「自由の精神」というのは、すなわち、『革命の精神』です。

『革命の精神』というのは何かというと、単的に言うと、『人間が天主となろうとする事』です。
「人間が、人間こそが命の主人となって、そして全自然の主人となろうとする」それが革命の精神です。
これは啓蒙精神であって、そしてもっと遡れば、たとえばデカルトが、「私たちは自然に服従しなければならない」と言ったその精神です。

この人間主義、あるいは人間中心主義というのは、結局は「人間の死」に行き着きます。人間が自由を求めて命に逆らえば逆らうほど、人間は不幸になります。

なぜかというと、「命」というのは、私たちに「喜び」と、そして「幸福」を与えてくれますが、「死」は、私たちに「不幸」を与えるのみだからです。

ですから、「死の文化」という今私たちが住んでいる、生きている現代社会というのは、「組織化された自殺」「人類の自殺の文化」です。

ですから私たちが今やろうとする、この「マーチ・フォー・ライフ」というのは、単なる堕胎反対とか、あるいは安楽死反対というものではなくて、そうではなくて、この「命に逆らう全てのこの『文化』というものに対する、反対を表明するもの」です。

私たちはこのような事、このマーチなどをして戦う事が必要です。なぜかというと、確かにこう「堕胎」とか、あるいはその他の「殺人」、「殺害」はありますけれども、しかしその「全体的な精神」というのを、この目で見る事はできないからです。

このまずマーチに参加するという事は、命の為の行進に参加するという事は、勇気のある事です。なぜかというと、国の定めた法律に反対の声を上げるからです。それと同時にこのマーチは、皆さん自身を守る戦いです。何に対して守るかというと、私たちの「知性」、そして私たちの「意志」を、この「罪の精神」から、「自由放埒を求める精神」から、「革命の精神」から、あるいは「個人主義の精神」から守る戦いです。

聖フィリッポ・ネリは毎朝、こうお祈りしたのです、「主よ、この哀れなフィリッポをお守り下さい。御身の助けがなければ今晩、私はきっとイスラム教徒になっているでしょう。」

そしてですから皆さんも、このマーチに参加しながら、どうぞお祈りなさって下さい、「主よ、主によって、私たちが守られますように。」「アメリカの精神から、あるいは西洋の自由、個人主義第一の精神から守られるように」と、お祈りなさって下さい。

またこのマーチというのは、あるいはプロライフというのは、何か「自然なものを守る」というだけではありません。これは「超自然の行為」であって、そして「信仰宣言」です。

私たちの主はこう言いました、「私は命である。」また最後の福音でミサの時にこう読む所では、毎日司祭はこう言います、「彼は命であった。人間に与えられた命であった」と。

私たちは命を「持って」いますけれども、天主は命を「持って」いません、天主御自身が「命である」からです。「人間の命」というのは、天主によって、その似姿に従って創られた創造されたものであって、全て天主に属しています。「天主のもの」です。

天主は命です。そしてこの命である天主が、人間となりました。天主の命が、人間の命となりました。そして天主の命が人間となって、私たちに、「どれほど、人間の命がこの御自分にとって大切なものであるか」という事を御見せになりました。

主は、私たちの命を贖う為に、救う為に、この地上にやって来られました。主は人間となって、この子供の赤ちゃんの時代から、全ての人生の段階を経て、体験なさいました。

主は、童貞聖マリアの御胎内に御孕りになりました。この「マリア様の御胎内に隠された状態がどれほど大切だったか」という事は、まずマリア様の御胎内におられながら、母の胎内の中にまだ居た、洗者聖ヨハネの罪を赦しました。

また主は、色んな方々の命を救おうとされました、公生活の時に。福音書を見ると、どのページにも、病の人、あるいは癩病の人、あるいはその他患っている人たちが、主の元にやって来て救いを求めると、主は彼らの命を癒します。

更に素晴らしい事は、既に死んでいた方に命をもう一度与える、という事も何回かされました。例えばラザロとか、あるいはナインの息子などです。

こうやって復活させる事によって、「主が、人間の命をどれほど大切にしているか」という事を見せました。

あるいは堕胎、あるいは安楽死によって、人間の命を軽蔑する人々は、私たちの主の、イエズス様のなさった仕事、御事業をも軽蔑します。そして遂にはこのような人々は、私たちの主イエズス・キリスト御自身も軽蔑します。

では、何で主は、「人間の命がそれほど大切だ」という事を思ったのでしょうか?

なぜかというと、「体」を生かしているのは、「霊魂の命」だからです。「霊魂の命」というのは、「霊的な命」です。

そしてこの「霊的な命」というのは、不死で、死ぬ事がありません、消滅する事がありません。肉体は滅ぼす事ができますけれども、しかし霊魂を消す事はできません。

ところで、人間のこの命を、取り外す事なく、霊魂を殺す事ができます。

「霊魂を殺す」とはどういう事でしょうか?

これは、「私たちの霊魂に、天主に対する敵対を置く事」で、つまり「私たちを、罪の状態に置く事」です。私たちが罪の状態にいる、霊魂が罪の状態にいるという事は、この報いとして、「永遠に地獄に行かなければならない」という報いが待っています。

ですから、「死の文化」というのは、「罪の文化」のみならず、「地獄の文化」です。

レオ13世があるビジョンを見て、「悪魔たちが、この地獄から鎖を解き放されて、この地上に罪を広める」というビジョンを見ました。残念な事に不幸な事に、この今現代世界、この地上にいる政府たちは、この悪魔の地獄のこの手の支配の下にいるかのようです。特にヨーロッパでは、フランス革命以後そうです。

1917年、ファチマで7月にマリア様がお現れになって、そして手から光線を放して、この光線は地上を開いて、3人の子供たち、すなわちフランシスコ・ルチア・ジャシンタに地獄の光景を見せました。

子供たちはこの地獄を見ると、霊魂たちが、この雪のようにパラパラパラパラと落ちているその様子を見ました。このビジョンというのは非常に劇的でした。子供たちはこれに恐怖におののいて、恐れるばかりでした。ルチアは言っています、「もしもマリア様が、私を天国に連れて行ってくれると約束しなかったら、恐ろしさのあまり、もうその瞬間死んでいただろう」と。

これは1917年の事です。1917年には、まだ堕胎がありませんでした。安楽死もありませんでした。教会はまだ多くの信徒がいました。そしてカトリック教会はまだ強い影響力を持っていました。しかしそれにも関わらず、そうでした。

もしもマリア様が今日、こんにちこの地上にお現れになったら、何と仰る事でしょうか。もしも今日、マリア様が手を開いて地獄の様子を私たちに見せて下さるとしたら、一体どれほど多くの、より多くの霊魂たちが、バラバラと地獄に落ちているのを見せてくれる事でしょうか。

マリア様は一つの事しかなさらないでしょう。秋田でもなさったように、ただ涙を流すばかりです。ここのドラマは、「霊魂の命の殺害」です。肉体の命の殺害もそうですけれども、霊魂の命を殺す事は、もっと重大な事です。

私たちは今マーチに参加しようとしますけれども、もちろん子供たちが、胎内の子供たちが生きる事を願って、そして老人たちがこのまま生きる事を願って歩きますけれども、しかし、「霊魂が、超自然の命を生きる事を願って」歩きましょう。

今日、こんにちヨーロッパでは、特にフランスやオランダでは、学校では子供たちに罪を教えています。これは堕胎よりも更に悪い罪です。なぜかというと、「子供たちを地獄行きへの道に乗らせるようにする」からです。

堕胎、安楽死、同性愛の〈結婚〉、ジェンダー、あるいは性教育、あるいは罪の教育というのは、「一つ」です、全体です。これは全て、「肉体と霊魂の命を殺害する、殺す、抹殺する」という全てです。

このマーチに、命の為の行進に参加するというのは良い事です。なぜかというと、それによって私たちは命に対して、そして私たちの主が見せた、「人間の命に対する敬意を払う」という事を私たちが見せるからです。

しかしもっと大切なのは、最も大切なのは、行進するという事よりは、「祈る」事です。

二つのやり方で祈る事ができます。「個人的に祈る」という事と「公に祈る」事です。

カトリック信者には、公に祈る義務があります。それは、私たちの信仰を告白する為、また私たちが、命である主イエズス・キリストに属している事を見せる為です。

今日の午後、大切なのは、歩く事ではありません、祈る事だけでもありません、大切なのは、「歩きながら祈る事」です。

またこの同世代の人々に、周りの人々に、「命を守るという事が大切だ」という事を訴えると同時に、それと同時に、祈りながら私たちはもっと高貴な、もっと重要な、より重要な命に属している、「霊魂の命、超自然の命を守っているのだ」という事を見せなければなりません。

「霊魂の命」というのは「天主の命」であって、「イエズス様の命」、「私たちの霊魂における天主の命」であります。

この命、「霊魂の命」というのは、本物の、「本当の光」です。“Vita erat Lux vera.”「命は、真の光であった」と福音に書かれています。

私たちは祈りながら命を守るのみならず、この周りの現代の同世代の人々に対する「光」とならなければなりません。こうする事によって、真に私たちの主の弟子となります。なぜかというと、「命」と「光」をもたらす者になるからです。

またこの命を守る、擁護の為の最高の最善の方法は、祈る事、「ロザリオを祈る事」です。

ファチマでマリア様は子供たちに地獄の様子をお見せになった時に、同時に、地獄に行かないようにする薬も、法もお見せになりました。ではこの薬とは何でしょうか?

それは「ロザリオ」です。「ロザリオを祈りなさい」と仰いました。

このロザリオというのは非常に単純な祈りで、この単純さは、「本当に天主から来た」という事を表しています。天主は本当に単純な方であり、そして天主が人間に与えるものも単純です。単純なので、ロザリオは普遍的なものです。子供でさえも、3歳の子供でさえも両親と一緒にロザリオを唱える事ができる、というのを見るのは、本当に司祭にとっても大きな慰めです。

そして今現代の人々が殺そうとしている、邪魔者扱いしている老人たちでさえも、たとえ目が見えない、あるいは聞く事もできない、何もできないと言っても、ロザリオは唱える事ができます。

「頻繁に、また多くロザリオ唱える事ができる」というのは、「天国の命を約束されている証拠」です。

またお仕事をなさって、この世俗の世界で生きている皆さんにとっても、ロザリオはとても簡単なものであるはずです。この色々な忙しい事がある現代社会ですけれども、3分ちょっと身を引いて、ロザリオを一連唱える事ができます。ですから例えば、今3分、あるいは別の機会に3分、あるいは3分、とすると、1日の終わりには、「あ、あっという間に1環以上唱える事ができた」という事になります。

旧約時代には、癩病を持っていたある将軍が、エリアに治してもらいに行きます。そこでその自分の癩病を治してほしい為に、この預言者がものすごい大奇跡を起こしてくれるのを期待していました。ところでエリアはこの男に、「あぁ、ヨルダン川に行って、7回洗いなさい。」

ところでこの人は非常に怒って、「何だ!もっと大きいすごい奇跡をするのかと思ったら、川に行って洗えとは何だ!」と言うのですけれども、しかし非常に簡単な方法で、この癒しを与えようとされたのです。

天主様はいつも私たちに、簡単な事を、単純な事を要求されます。今日午後、私は皆さんに、「よく、ロザリオをよく唱えるように」と励ましたいと思います。そして今日のみならず、いつも、ロザリオをよく唱えるように致しましょう。

そしてまた、このファチマの聖母と一緒に歩きますので、そのファチマの聖母は、「ロザリオの聖母」とも言う事ができます。ロザリオはフランス語で“Chapelet”と言いますが、これは「王冠」という意味なのです。それでマリア様のバラの王冠を作って下さって、皆さんが今なさった事を、その王冠を私たちは唱えます。

ちょうど私たちが、「肉体の命」と「霊魂の命」を守る為に行くように、今日私たちは「物理的な王冠」と、そして「霊的な王冠」のロザリオで、マリア様を崇敬しましょう。

ありがとうございました。

[Pro Life]

Photo Credit


「革命の精神とは人間が天主となろうとすること。「人間が、人間こそが命の主人となって、そして全自然の主人となろうとすること」人間中心主義は、結局は「人間の死」に行き着く。人間が自由を求めて命に逆らえば逆らうほど、人間は不幸になる。」

聖ピオ十世会日本 聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ)の報告 SSPX Japan Traditional Latin Mass

2019年08月10日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖母の被昇天が近づいていますね。いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

8月2日(初金)には、大阪でミサの後、顕示された御聖体の前で聖時間を過ごしました。
8月3日(初土)には、初土の信心を、顕示された御聖体の前で行いました。
8月4日、東京で御聖体降福式を行い、11月に日本に来られる教皇様のために特に御捧げしました。

8月4日には東京で生まれたばかりのマリーちゃんが洗礼を受けました。
8月5日には岩国で生まれたアラベルちゃんの洗礼式を行いに、岩国に出張しました。

聖ピオ十世会日本の記録によると、2019年には今までに、14名の方々が洗礼を受けました!天主様に感謝!


Photo credit


ご報告を頂きましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミッションありがとうございました。
簡単ですが、ミサの報告をお送り致します。

8月2日(初金) 至聖なるイエズスの聖心のミサには13人、
8月3日(初土) 聖母の汚れなき御心のミサには23人が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

金曜日にはお説教で聖アルフォンソで・リゴリのイエズスの聖心へのノヴェナの一部を黙想しました。
自分がどれほど恩知らずで、冷淡かを改めて黙想すると同時にこんな自分をイ エズス様がどれほど愛して下さっているかをよく黙想出来ました。
神父様の勧めに従って、まず今月、この8月をイエズス様の聖心をお慰めできる月にしたいと思います。

土曜日にはお説教、御聖体降福式と共に、被昇天について黙想しました。
現代、世の中は肉体の欲求を満たす事と肉体のみを大事にする事が善とされて、腐ってしまう肉体よりも究極の目的である永遠がないがしろにされています。
私達は霊肉ともに天へ上がられたマリア様に倣って、マリア様の通られた道を歩けば、世の終わりには肉体と霊魂の結合ののちに復活して永遠の幸せを受けることができる。
これは辛い日々、苦しみの中にいる私達に大きな慰めとなりました。
イエズス様が マリア様を迎えに来られた様子を黙想し、自分の死の時にもイエズス様、マリア様が迎えに来て下さる事を思えば、この世でカルワリオの十字架の元に立ち続ける勇気がでました。

両日とも聖体降福式をして頂き、傷つけられた聖心をお慰めするため、また、11月来日される教皇様がイエズス様の代理者としての事業のため、特にお祈りしました。
また、うだるような暑さは天主様が今私にあたえてくださっている憐みだと思って天国に行くために徳をつむこれらのチャンスを出来るだけ生かすことができるよう、お恵みを願いました。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】
Dear Fr Onoda:

今日(2019年8月4日)の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

男: 30人(内、子供4人)
女: 23人(内、子供3人)
計: 53人(内、子供7人)


【報告】
Ave Maria Immaculata!

聖霊降臨後第八主日のミサと聖体降福式をありがとうございました。
この時期の聖福音では、死の準備をすることが取り上げられるようになるとのこと、今回のごミサでは、管理している会計の帳尻が合わないと説明を要求され不正をしたその管理人が主人によくやった!と誉められる様子が、読み上げられました。

ミサと聖体降福式のなか、天国で天主を礼拝し賛美する喜びが思い浮かばれ、この世でその喜びのいくらかをわずかながら感じさせていただいていることをちょっぴり感じました。天主の憐みを乞いねがいました。

お説教では、死の準備がそのまま天国へ向かう準備へとなるには何を心がければよいのか、教えていただき黙想しました。
聖福音が読まれたときは“不正をしたこと”のほうに気持ちが向きがちだったのですが、お説教により、これは「将来天国へ入れるための備えを賢明にしたことを誉められていること」とわかりました。

神父様のお話は霊的な富のことであったように思います。
人間を中心にする合理的精神から見ようとすることと、天主を中心にしてその憐れみ深い御計らいを眺めることは、全く別なものでしょう。観念にとらわれてしまえば霊的な富への理解が乏しくなり「まず天主の栄光ということが求められる」ことから離れてしまうようになるのだなあと感じました。

神父様のお話から、「賢明に生きる」とは、手にする稼ぎ得た金銭をどのように天主の栄光のために用いるように思慮するか、この世で生きられる時間を天主の栄光のために使えるようにどれほど工夫するか、いただいているなんらかの能力があるとしたら如何に天主の栄光のために使うか、恵みによるせっかくの健康な体をつまらないことにばかり動かすのではなく天主の栄光のために働けたのか、というようなことと受け取りました。そのようにできることは特権をいただくことであり、天主の憐れみをいただくことだと伺ったようにおもいます。

また「霊によって体のおこないを殺すなら、あなたたちは生きる」とは、霊によって肉の負債を殺すこと、天主の子として天主からいただいたものを天主に返すことで、それにより天主の遺産の共同相続人となることができるということというお話も、心に刻みました。

天主の御業がこの地上に行われるために、主がこの貧しい器をほんのわずかでも用いてくださいますように。いつかそっと天の庭に移し替えられる小さな草のようになることを願いながら、毎日を大切に過ごしていきたいと思いました。

そして、誰よりも賢明に生きられたマリア様に倣うことができますようにと思います。
神父様、この暑さの中の移動だけでも大変なことと思います、ミサの後も、産まれたばかりの赤ちゃんの洗礼式へと向かわれるとのこと、翌日も岩国での赤ちゃんの洗礼式に向かわれるとのこと、本当に私たちのためにご奔走してくださいましてありがとうございます。どうぞくれぐれもお身体にお気をつけてくださいますようにと思います。今回も大阪と東京と続けて御ミサを立ててくださいまして、心から感謝申し上げます。聖母の汚れなき御心が小野田神父様をいつもお守りくださいますようにお祈りいたします。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

素晴らしい御ミサと聖体降服式をありがとうございます。
お説教を拝聴して心に留まった幾つかの箇所がありました。
「殉教者たちはゆるく縛られ遠火で焼かれ、いつでも逃げられるようにされていた。それは背教しようと思えばいつでも背教できるように置かれていたということなのです。」という部分もそのうちのひとつです。

日本の殉教者たちがあえてそのような状況で火炙りの刑に処せられていたというのが、現代のカトリック教会の置かれている状況とどのように似ているのか、いま私の置かれている状況とどのように似ているのか、少し考えてみました。
カトリック教会そのものは普遍であり聖なる唯一の救いの場であり、イエズス・キリストの聖なる花嫁であると思います。それは現代のカトリックでも同じだと思います。
けれど現代では、カトリック教会に入りこんでいる何か(サタン)によって、かくも信者に眠らせるよう仕向けられ、信仰から離れさせようと仕向けられ、その策略に責めたてられているのではと思いました。

ミサ聖祭が変えられようとしたということだけでなく、隠されている策略によって人々をしっかりしたカトリック信仰から離れさせよう背教させよう近づかせないように歪曲してしまおうという得体のしれない何か(サタン)の働きがあるように思えてきました。
カトリックの教義を柔らかくする(新しい時代に合せて変える)ことも、“ゆるく縛るようにされていること”を指すのかもしれません。そういう意味でも、私達もゆるく縛られている者なのでしょう。

遠火で焼かれ煙でいぶされているということも、新しいカトリックを認めれば火に焼かれなくて済むぞ!と、脅していることと似ているかもしれません。新しいミサを認めれば、いつでも火炙りから逃れられるぞ!と。跪きを止めて立って手で聖体拝領をするなら、仲間だぞ!と。

奇抜なミサも新しい形のものなら許されるのに、伝統的なミサ聖祭だけは存在を認めようとせず仲間外れにして認めない。少しずつ新しい制度を導入して、最初は試験的な制度だからと言って眼をくらましておきながら、最後には新しい制度に反対する者を断罪する。

そういったことは、伝統的なカトリックのミサ聖祭が行われていたことを忘却の彼方に捨て去りたいがためとする偏狭的な策に思えます。(今も世界各地で聖伝のミサは捧げられ、増えてきてさえいるというのに、いったい何故なんでしょう。)
そのようにして、日本のカトリック信者をまるで遠火で焼いて燻(いぶ)して抹殺しようとしているのかもしれないと思いました。

外から来る迫害か、あるいはこの時代精神全体がカトリック教会全体を揺さぶっているところからくる内側から来ている迫害なのかの違いはあるとしても、今の日本のカトリック教会の危機は日本の聖なる殉教者たちがかつて受けたものと同じ迫害の苦しみのように思えます。
昔の日本の殉教者たちがどれほどしっかりと信仰を守り通そうとしたかを学ぶことは、現代のカトリックの信者も「最後まで最初から伝わるカトリック信仰を捨てない、迫害を受けても曲げないし、たとえ伝統を保とうとするものはもうカトリックではないと脅されてもそれにくみしない」と持ちこたえようと努力することにつながっていくのではと思いました。神父様のお説教からこんなふうに連想いたしました。

社会が革命の精神により変えられ人権を主張することが正しい人間の道だと広められ、教会の中でさえ変えられる必要が叫ばれてから、変わっても大丈夫なことと決して変えてはならないことの区別・識別がサタンの攻撃によってすっかりぶれてしまったのかもしれません。煙で燻しながら知らず知らずのうちにカトリック信仰から信者を離れさせ背かせるようにするというサタンの手段の一つかもと思います。いったい誰が信仰を持ち続けているかさえ、煙の中ではすっかりうやむやになり見えなくなります。共産主義者も、フリーメーソンのものも、精神分析主義者も精神世界愛好者も、ヨガの愛好者も、座禅の修行も、LGBTも、すべて区別なくそのままに受け入れているのを目の当たりにし、混然としてわからない有様です。ゆるゆるに見える寛容さの名目のもと、日本独自の新しいカトリックというスローガンに振り回されるあまり、実はサタンから様々な内部攻撃ともいうべき処刑を受けているさなかかもしれないと思ったら恐ろしくなりました。カトリックがバラエティー化され本質的な部分を失うようになれば、なによりマリア様がどれほどお悲しみになられることでしょう。私自身もこれまでいろいろな影響を受けてきているので、果たして自分は純粋な正統のカトリック信仰を本当に持っているだろうかと謙遜に自分自身を省みようと思います。

聖ピオ十世会は伝統的カトリック信仰を保ち続けることを宣言しています。これほどの攻撃を現在受けている理由も、そこにあるのでは思っております。ラジカルで、現代主義の、享楽的で、革命の精神が蔓延る、人権を天主の権利より擁護する、この時代の中で、カトリックの伝統的な信仰を守ろうとすることはどれほど殉教的なことであるかあらためて気づかされました。使徒継承のままの信仰を宣教してくださる修道会の御ミサに与れる幸せを感謝いたしました。

日本の枢機卿様・司教様たちも、きっと純粋なカトリック信仰が日本に復興することを願っていらっしゃることと思います。
フランシスコ教皇様の来日の予定が発表され、カトリック信仰が世間の注目を浴びることも増えるようになると思います。
教皇聖下のためのロザリオの祈りを続けながら、日本に正統なカトリック信仰のよみがえりが興って、真面目に霊魂の救いを求めようとする多くの日本人が必ずカトリック信仰との出会いを発見することができますように、と願っています。

聖母の汚れなき御心、我らのために祈り給え
秋田の聖母、我らのために祈り給え
日本の尊き殉教者、我らのために祈り給え

私たちは今現在、天主を非常に深く侮辱している世界に生きている。天主様の憐れみを求めて、私たちの声を公にする。

2019年08月10日 | お説教・霊的講話
2019年7月15日(月)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
聖ピオ十世会アジア管区長 サマース神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

親愛なる神父様、そして兄弟の皆さん、ここにいらっしゃる皆さん、今日は東京で素晴らしい日です。ミサのいけにえを捧げるのみならず「天主様の憐れみを求めて、私たちの声を公に為す」という日だからです。

私たちはこう言うかもしれません、「プロ・ライフのマーチで行進で、何故、天主の憐れみが必要なのか?」

しかしこのマーチは、私たちに基本的な真理を教えてくれる、思い出させてくれるものです。つまり「私たちは今現在、天主を非常に深く侮辱している世界に生きている」という事です。

私たちは例えばこういう事を知っています、「堕胎」と言われている殺人が行なわれている事によって、今まで全世界で行なわれた世界の全ての戦争を合わせて亡くなった人々よりも、更に多くの胎児たちが命を落としている、という事を知っています。

人間に対しておそらく最も恐ろしい殺人というのは、これは「堕胎」です。

癌で亡くなった方、あるいは交通事故で亡くなった方、あるいはそれ以外のあらゆる事故、病気等で亡くなった方の数よりも、堕胎で亡くなった赤ちゃんの数は、更に多いものです。

まず私たちはこのミサのいけにえで、私たちの信徒、そして全ての人の罪の償いを御捧げ致しましょう。そしてこの償いを果たした後に、私たちは天主の憐れみを乞い求めましょう。

その後に、天主が私たちに下さるこの命の大切さを祝いましょう。まずこの天主が私たちに与えて下さった霊魂、そして命の喜びを見せる事によって、祝う事によって、他の多くの方々の回心の第一歩となる事でしょう。

この多くの信仰を知らない人たちは、この世で非常に短い、そして辛い生活を送っていますが、私たちが、このカトリックの家族が、大きな家族が、この世の辛い事や悲しみにも関わらず、いつも命の喜びを持っている事を見て、大きな慰めと、そして回心への一歩となる事でしょう。

カトリックの信徒は私たちは、天主が私たちの日々の生活に為しているその行為を、この真理を知っています。

その真理というのは、「まず犠牲、あるいは苦しみ、そして自分の利益を放棄する、自分勝手を放棄する、自分の都合を放棄するという事によって、この世界に命をたくさんもたらす」という事です。

それに対して異教徒たちは、「苦しみとか、都合の悪い事や、あるいは悲しみという事は、この世において最もあってはならない事だ」と考えています。

ところがカトリックは、私たちの主の良い模範に従って、苦しみを受け入れ、死を受け入れて、それを抱きしめ、そしてそれによって、命と喜びを生み出しています。

私たちはこう祈りましょう。数年後、今日は「海の日」ではなく、将来数年後には、「海の星のマリア様の日」となる事を祈りましょう。

私たちはですから、たくさんのロザリオの祈りを唱えて、そしてマリア様に私たちの霊魂を奉献して、そしてこの全ての私たちの祈りや奉献が、マリア様によってイエズス様に届けられるように、お祈り致しましょう。

聖母の汚れなき御心よ、我らの為に祈り給え。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


「もしもあなたたちの正義が、ファリサイ人たちのそれに勝らないならば、天の国には入れない。」私たちの主が要求する正義とは一体何なのか?

2019年08月09日 | お説教・霊的講話
2019年7月14日(主日)聖霊降臨後第5主日のミサ(荘厳ミサ)
聖ピオ十世会司祭 ビルコック神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

親愛なる兄弟の皆さん、まず私は小野田神父に、今日このミサを捧げる名誉を下さった事を感謝したいと思っています。そして私はこのミサを、皆さんの意向の為に、そして「日本におけるキリスト教世界の確立」という意向の為に御捧げしたいと思っています。

特に皆さん、「忠実」を守って下さい。信仰を忠実に守って下さい。私たちの主イエズス・キリストに対する忠誠を守って下さい。そして今日福音が私たちに教えようとしている、この教えを忠実に守って下さい。

まず今日福音では、私たちの主は使徒たちにこう言うのです、「もしもあなたたちの正義が、ファリサイ人たちのそれに勝らないならば、天の国には入れない。」

一体これは何の事を意味しているのでしょうか?一体「正義」というのは、義というのは何なのでしょうか?

「正義」というのは、隣人に対する関係を調整する徳であって、まず隣人に、そして天主様に対する関係をも調整します。「私たちの行動、行為が、隣人に対してどうあるべきか、あるいは天主に対してどうあるべきか」という事を私たちに教えます。

ですからこれは、私たちの社会生活の関係を作る為に、また天主との関係を成り立たせる為に必要な徳です。

では、その「正義」というのは、外的な行為において私たちと隣人との、あるいは天主との関係を調節するものですけれども、この事は天主の十戒に全て含まれています。

例えば、「汝、殺すなかれ」というのはなぜかというと、隣人の生命というのは私に属していないので、私たちはそれを尊重する義務があります。

「汝、盗むなかれ。」隣人の所有物は私に属していないので、それを尊重する義務があります。

「汝、父と母を敬うべし。」これも私たちは、両親から全て良いものを受けたので、その両親に対して感謝と尊敬を表す義務を持っています。

「汝、唯一の天主のみを礼拝すべし。」これも私たちは、真の救い主、真の創造主、天主から全てを受けたので、その天主に祈りと礼拝と感謝、そして服従と従順を払わなければなりません。

ところで、この天主の十戒に属するものは、ファリザイ人たちも全てやっていました。彼らは盗みもせずに、殺人もせずに、天主に対する祈りも礼拝もしていました。

では一体何でイエズス様が、「彼らの義に正義に勝らないならば、あなたは…」などと言ったのでしょうか?

なぜかというと、イエズス様は私たちに「新しい掟」を与えようとしているからです。

では新しい掟、私たちの主が私たちに要求するものとは、正義という事は一体何なのでしょうか?

例えばそれをイエズス様は、一つの例を挙げて今日仰います、説明します、「汝、殺すなかれ。」ファリザイ人たちはそれは守っていました。しかしそれは外的なものにしか過ぎませんでした。でも、私たちの主の教える掟の「正義」というのは、内的なものであって、つまり「殺すなかれ」というのは、「隣人に対して怒るな。」「怒るな。」「私たちの正義というのは、内的なものであって、霊魂に関するものである」と教えています。

新しい掟というのは、「愛の掟」であって、愛、つまり、「天主をまず愛する」という掟です。「天主を愛し、そして隣人を天主に於いて愛する」あるいは「隣人に於ける天主を愛する」という掟です。もしも私たちが天国に行く事ができるとしたら、この愛の掟を守らなければなりません。

私たちの主は、この内的な徳がどれほど大切かという事を説明して、内的な正義の徳がどれほど大切か説明して、こう言います、「ファリザイ人たちは、白塗りの墓だ。なぜかというと、外見は綺麗で真っ白だけれども、中は腐っている、腐敗している。」「私たちの正義は外側ではなく、内側から始まらなければならない」と。

私たちの主の仰る「愛徳」というのは非常に深いものであって、これは霊魂の深くに根付くものです。ですから福音の終わりの方では、この私たちの主は、「怒るな。怒ってはいけない、悪い事を言ってはいけない」と言うのみならず、更にもっと深くを教えています。それは何かというと、例え私が怒っていなくても、隣人が怒っているのならば、私たちが、彼らがその隣人がその怒りから抜ける事ができるように、行って、「何かする事があるか」と、何か私たちの方でそれを探しに行かなければならない、とさえも仰っています。

愛する兄弟の皆さん、どうぞこの福音のこの教える愛徳に生きるようになさって下さい。これを実践するようになさって下さい。実は私は皆さんと一緒にいて、皆さんの愛徳に非常に感動しました。

まず、皆さんの司祭に対するその尊敬とその愛徳、イエズス様を私たち司祭職の内に見る愛徳、そして皆さんの間の間の愛徳と助け合いの心。どうぞこの愛徳の精神を保ち、それを生きるように、続けるようになさって下さい。聖ヨハネも言っています、「愛の内に留まれ」と。

皆さん、もしもその愛徳を保つならば、どうぞそれを輝かせるようになさって下さい。日本の回心の為には、皆さんのこの愛徳の飛躍が、その輝きが必要です。私は、聖母マリア様が皆さんのこの中に愛徳をますます増やして下さるように、お祈り致します。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


飛行機からの富士山

2019年08月09日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今週は、赤ちゃんの洗礼式に岩国まで行って来ました。その時見えた富士山の写真をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田神父


帰りの富士山


岩国の眺め 岩国城から


錦帯橋





行きに見た富士山






大修院長聖ヨハネ・グアルベルトのミサ: 私たちが相手を赦せば赦すほど愛徳に生きる事ができる : ビルコック神父様御説教

2019年08月08日 | お説教・霊的講話
2019年7月12日(金)大修院長聖ヨハネ・グアルベルトのミサ
聖ピオ十世会司祭 ビルコック神父様御説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


親愛なる兄弟の皆さん、今日は私たちは聖ヨハネ・グアルベルトの祝日を祝っています。この聖人は、10世紀から11世紀の間に生きた方です。

聖ヨハネ・グアルベルトは、この出来事で非常に知られています。

ある日、家族の一員が暗殺されたのです。そして聖ヨハネはこの事を非常に心に深く傷付けられて、そしてこの事を、この犯人に対してとても怒りと憤りを覚えていました。

ところである聖金曜日に、フィレンツェを旅している時に、この家族を殺した暗殺者に出会ったのです。ヨハネ・グアルベルトはお供の者たちと一緒に武器も持っていました。しかし暗殺者はたった一人で武器もありません。復讐の絶好の機会だと、剣を抜いて躍りかかりっます。

その道はとても狭くて、右にも逃げる事ができずに、左にも行く事ができず、後ろにも逃げる事ができませんでした。犯人は聖金曜日である事に気が付き、十字架に架かった者のようにサッと両手を広げ、跪いて、頭を差し出して「私たちの為に本日数々の苦しみを受け、十字架の上に生命を捨て給うた主イエズスの聖名によってお願い致します。どうぞ命ばかりはお助け下さい」と言う事でした。

ヨハネ・グアルベルトは非常にこの行為に胸を打たれて、乗っていた馬から降りて、この暗殺者を復讐して殺す代わりに、彼を抱き締めて赦したのです。

そしてこの時に聖ヨハネは、私たちが毎日唱えているこの祈りを唱えたのです、「我らが人に赦す如く、我らの罪を赦し給え。」

これこそが私たちのカトリックの態度であって、愛徳の態度です。私たちがもしも相手を赦せば赦すほど、愛徳に生きる事ができます。「相手を赦す」という事は、非常にキリスト教的な徳です。これは聖ステファノがやった事であり、私たちの主イエズス・キリストも十字架の上で模範を見せた事です、「聖父よ、彼らを赦し給え。彼らはその為すところを知らざるが故なり」と。

そしてこの「人を赦す、敵を赦す」という事は、非常に使徒職的な、使徒的な行為です。なぜかというと私たちの主も、「聖父よ、赦し給え」と私たちを赦す事によって、私たちを回心させました。また聖ステファノも、自分を殺すその相手たちを、敵を赦す事によって、聖パウロの回心も引き起こしました。

特に私たちは、マリア様にお祈りしましょう。特に秋田のマリア様に、この同じ態度を私たちが持つ事ができますように、お祈りしましょう。

秋田のマリア様は、私たちの罪を赦す為に涙を流されました。そしてそれと同時に手を開いて、私たちが回心するように招いておられるからです。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


御聖体こそが、私たちの霊的生活の中心であり、私たちの霊的な糧である : ガブリエル・ビルコック神父様御説教

2019年08月08日 | お説教・霊的講話
2019年7月11日(木)教皇殉教者聖ピオ一世のミサ 
聖ピオ十世会司祭  ガブリエル・ビルコック神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

親愛なる信徒の皆さん、今日、私が皆さんの為にミサをする事ができるというのは大きな喜びです。そして私は皆さんの、司祭職に対する信心とその奉仕の心に、また御聖体に対する信心とその奉仕の熱情に、本当に感動して感嘆しています。

この御聖体に対する大きな信心を是非、皆さんにしっかりするようにと、そのまま続けるようにと励ましたいと思っています。なぜかというと、この御聖体こそが、私たちの霊的生活の中心であり、私たちの霊的な糧であるからです。

御聖体はまず、私たちを色々な面で養ってくれますが、まず「信仰」を養って下さいます。

なぜかというと、御聖体の秘跡において、私たちの主イエズス・キリストの全ての玄義が含まれているからです。

まず私たちは御聖体を信じる事によって、イエズス様の「御託身の玄義」を信じます。なぜかというと、イエズス様の本当の人間の御体である、という事を信じているからです。御体・御血、そして御霊魂を御持ちの御聖体です。そして同時に御神性も、天主であるイエズス様も信じます。

御聖体は、「贖いの玄義」も私たちに深く信じるようにさせます。なぜかというと、御聖体というのは、私たちの主の御受難と御死去の実りであるからです。もしも御聖体が私たちの前に現存するとしたら、それはイエズス様の御受難を再現してのみ、初めてこれが実現するからです。

第2に、御聖体は、私たちに徳の、「望徳」の聖徳を高めて養って下さいます。
なぜかというと、御聖体というのは、私たちの永遠の命への約束であるからです。これは聖トマス・アクィナスも、そして私たちの主イエズス・キリスト御自身も仰っている事です、「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、彼の中に永遠の命がある」と。そしてその時に、命を持つ「だろう」とは仰らずに、命が「ある」と仰ったからです。

第3に、御聖体が私たちに、「愛徳」を養って下さいます。
なぜかというと、御聖体というのは、愛の秘蹟であるからです。なぜかというと、イエズス様は御聖体において、御自身を全く最も寛大なやり方で、私たちに御与え下さるからです。イエズス様は私たちの為に御亡くなりになる事によって、御自分を与え尽くしたからです。これこそ愛の証拠です。

ですから私は皆さんに、御聖体に対する大きな信心をぜひ続けてほしいと願うばかりです。なぜかというと、この御聖体の信心というのは、それのみならず、究極的に「使徒的」であるからです。

使徒的であるという事はどういう事かというと、使徒たちのように、御聖体は霊魂を引き寄せるからです。私たちが御聖体に対する信心を行う為に、ミサをする為に、イエズス様の約束を実現する事になります、「私が高く上げられた時に、全てを私の元に引き寄せよう」とイエズス様は仰いました。イエズス様は御聖体の信心をすればするほど、多くの霊魂たちをイエズス様の方に引き寄せて下さいます。

そして早かれ遅かれ、この多くの霊魂たちは御聖体にやって来る、そしてこの事がこのチャペルに、この聖堂において実現する事を私は祈っています。

特にマリア様にお祈り致します。マリア様が皆さんのこの共同体を祝福して、そして増加させて、そして成長させて下さいますように、お祈り致します。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2019年7月10日(水)聖なる七兄弟殉教者及び、童貞殉教者聖ルフィナと聖セコンダのミサ 

2019年08月08日 | お説教・霊的講話
2019年7月10日(水)聖なる七兄弟殉教者及び、童貞殉教者聖ルフィナと聖セコンダのミサ 
聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教

親愛なる神父様、そして愛する兄弟の皆さん、聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は七人の兄弟の殉教者のミサを一緒に黙想致しましょう。

この殉教者では、婦人の、聖なる婦人のミサの書簡が読まれています。そして福音も少し殉教者とは違ったような読み上げがされています。

なぜかというと、この七人の殉教者は兄弟で、聖フェリチタスというローマのお母さんの子供たちが殉教したその記念日なのです。162年、ローマ皇帝マルコ・アウレリアノ皇帝の下で迫害を受けて殉教しました。ローマでは非常に古代から、この殉教者たちを祝ってきました。

ですから子供たちの殉教の為に、そのような子供たちを育て上げたお母さんの事が、既にミサで祝われているかのようです。


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「女性の美しさというのは全く虚しい。天主を愛する、天主を畏れる女性こそ、賞賛されるべきだ。子供たちや家族を、天主を畏れて教育して養なってきたその女性こそが素晴らしい」と、むしろお母さんを謳っています。

七人の子供たちは、長男ヤヌアリオは、鉛を付けられた鞭で打たれ、次男のフェリックスと三男のフィリップスは棒で打たれ、四男のシルヴァヌスは高いところから落とされ、そして最後の子供たちアレクサンデル、ヴィタル、マルチアリスらは、首を切られて殉教していきました。4ヶ月後、彼らの母も殉教します。


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また二人の姉妹であるルフィナとセクンダはローマの童貞女でした。両親によって許嫁をされた男性がいました。アルメンタリウスとヴェニルスでした。しかし彼女たちは天主に捧げられた童貞であることを望み、婚姻を拒否しました。そのために彼女たちは捕らえられます。長官のユニウスは、色々な約束や処罰で彼女たちの決心を揺るがせようとしますが、無駄でした。まずルフィナが鞭打たれます。

その妹のセコンダは、裁判官に「お姉さんはその殉教の栄光を受けたのに、私には下さらないのですか?」と言います。

「私たちは同じくキリストの神性を告白してるのだから、私たちを同時にむち打つように命じなさい。同じ殉教を望みます。」
こうして二人とも殉教していきました。


ですから典礼ではこう言います、「天に在す私の聖父の御旨を果たす者こそが、私の兄弟であり、姉妹であり、母である。」

この殉教者たちは、天主の御旨を果たして、イエズス様の信仰を証して、天国に行き、イエズス様の兄妹、姉妹、母ともなりました。

マリア様に、私たちもそのような殉教の心を下さいますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2019年8月7日(初水)「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想しましょう。

2019年08月07日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!


愛する兄弟姉妹の皆様、


2019年8月7日(初水)「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想しましょう。



聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。


御身のこの苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔さ良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。





2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。


御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。





3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。


御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。





4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。


御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。





5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。


この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。





6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。


御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。





7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。


御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。





交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。




革命とは何なのか?革命とは、憎しみ、そこにおいて人間が同時に王と神ではない秩序に対する憎しみ、天主の権利を無視する人権宣言、天主の上ではなく人間の上に成り立つ社会の土台、天主の玉座についた人間である。

2019年08月01日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2019年7月13日から14日の二日にわたって開催された国際シンポジウム「1789-2019、230周年を機に、フランス革命を見直そう」で、開会言葉をさせていただきました。愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)




尊敬すべき神父様がた、お集まりの皆様、
おはようございます。

本日は、フランス革命に関する特別に造詣の深い講師の方々に来ていただき、私どものもとにお話しくださる機会を得たことは大変な名誉であります。

私たちが今生きている現代世界において、天主が確立した自然の秩序を破壊しようとする試みがますます多くなっているのを目の当たりにしております。すなわち家族や婚姻とったものが、天主の掟を考慮することなく、崩壊しつつあります。さらに客観的で生物学的な秩序から切り離されたジェンダー論に世論はますます流されているように思われます。

これらの動きにおいて、私たちは1789年の革命の論理的帰結を見ています。何故なら、革命の本質とは、政治のシステムや、君主制や、貴族制度に関するものではないからです。

ジャン・ジョセフ・ゴーム師 (1802 – 1879) は、1856年に『革命その起源およびヨーロッパにおける悪の伝播に関する、ルネッサンスから現代までの歴史的探求』という書を出版し、フランス革命が何であるかを次のように説明しています。

「もしも革命の仮面を取り剥がして、革命に「おまえは誰だ?」と尋ねるなら、革命はこう言うでしょう。
『私は、人々がそうであると信じているものではない。多くの人が私のことを話しているが、私のことを知る者はほとんどいない。私は、カルボナリ(秘密結社)主義でもなければ、暴動でもない。君主制から共和制への変更でもなければ、ある王朝から別の王朝への置き換えでも、公共秩序の一時的混乱でもない。ジャコバン派の叫び声でもなければ、山岳派の怒りでもなく、バリケードでの戦いでもなければ、略奪でもなく、放火でもなく、農地改革法でもなく、ギロチンでもなく、水責めの拷問でもない。私は、マラMaratでもなく、ロビスピエールRobespierreでも、バブーフBabeufでも、マツッーニMazziniでも、コシュートKossuthでもない。これらは、私の子供らであり、私ではない。これらは私の作品であり、私ではない。これらの人とこれらのことは、一時的な出来事であるが、私は永続する状態である。』

『私は憎しみである。人間が確立しなかった全ての秩序、そこにおいて人間が同時に王と神ではない秩序に対する憎しみである。
私は、天主の権利を考慮しない人権宣言である。
私は、天主の御旨の代わりに、人間の意志の上に立つ宗教的かつ社会的状態の基礎である。
私は、その王座から引きずり下ろされた天主であり、その代わりに天主の玉座についた人間である。これが私が革命、すなわち転覆と呼ばれる理由だ』と。」

同じ時期に、ロシアではネチャーエフが1869年に所謂「革命家のカテキズム」を書きました。その中で彼は革命とは何かを次の言葉で描写しています。

「われわれの組織は人民革命を、西欧流の古典的な型に規定された運動、つまり、つねに財産とか、いわゆる文明とか道徳とかいう社会秩序の伝統の前で立ち止まり、現在までいたるところで、いわゆる革命国家をつくりだそうとしながらも、一つの政治形態を打倒し他のそれにおきかえることにとどまってきた運動であるとは考えない。人民を救いうる唯一の革命は、あらゆる国家組織を根こそぎにし、...すべての国家的伝統、制度および諸階級をなくすような革命である。.... われわれの仕事は、すべてをまきこみ、いたるところで容赦なくおこなわれるべきおそろしい破壊なのである。... この世界を一つの、無敵の、一切を破壊してしまうような勢力に統合すること。これが、われの組織、陰謀、任務のすべてなのである。」

革命とは、いにしえの蛇が太祖アダムとエワにした誘惑の繰り返しです。「おまえたちは、神々のようになるだろう」と。

革命とは、天主が確立した現実と真の秩序に対する「すべてをまきこみ、いたるところで、容赦なくおこなわれるべき、おそろしい破壊」です。

革命とは、私たちの真の創造主に反対する戦い、つまり、人間となった天主イエズス・キリストとその聖なる宗教、人類のための真の救いの秩序に対する戦争です。
革命とは、天主の代わりに、人間が神となり、人間の主張する主権において、人間の世界を創造する試みです。

革命とは、従って、堕落した天使の「私は天主に仕えない」という雄叫びのこだまです。
現代世界にある悪の本当の原因を知るために、私たちは今こそ革命をもう一度見直す時に来ています。

私たちの特別講師の方々が、革命とは一体何なのかをはっきりと理解することが出来るように私たちにうまく説明してくださることを、私たちはここであらかじめ感謝いたします。ご来席の皆様におかれては、この国際シンポジウムを心ゆくまでお楽しみ頂くようにお祈り申し上げます。

ご静聴ありがとうございます。


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* * * * *


Ave Maria!

Reverend Fathers, Ladies, and Gentlemen,

We have the great honor to have among us these most distinguished guest speakers, specialists on the French Revolution. In the world in which we live, we see a tremendous increase in the attempt to destroy the natural order established by God, such as families and marriage, without any consideration given to God's law. We have the impression of more public opinion on the theory of gender, separated from the biological order.

We see in these movements, the logical consequences of the Revolution of 1789 because the Revolution is not about the political system, not about being against monarchy, not about being against the nobility.

Mgr Jean-Joseph Gaume (1802 – 1879) published his book "Révolution, historical researches on the origin and the propagation of the evil in Europe, from Renaissance until our time” in 1856, explaining what the French Revolution is:

"If, snatching away the mask of the Revolution, you asked her, "Who are you?", she would say to you: "I am not what they believe I am. Many speak of me, and very few know me. I am not Carbonarism conspiring in secret, nor riots roaring in the streets, nor the change from the monarchy to a republic, nor the substitution of one royal dynasty for another, nor a temporary disturbance in public order. I am not the howls of the Jacobins nor the furies of the Mountain, nor the fighting on the barricades, nor the pillaging, nor the arson, nor the agrarian law, nor the guillotine, nor the drownings. I am not Marat, nor Robespierre, nor Babeuf, nor Mazzini, nor Kossuth. These men are my sons - they are not me. These things are my works - they are not me. These men and these things are transitory things, and I am a permanent condition.

"I am the hatred of every religious and social order which Man has not established and in which he is not king and God together; I am the proclamation of the rights of man against the rights of God; I am the philosophy of rebellion, the politics of rebellion, the religion of rebellion; I am armed nihilism; I am the founding of the religious and social state on the will of Man in place of the will of God! In a word, I am anarchy, for I am God dethroned and Man put in his place. This is why I am called Revolution: it means reversal, because I put on high that which should be low according to the eternal laws, and I put low what should be on high."

Around the same time, Sergey Nechayev wrote his so-called "The Revolutionary Catechism", in 1869. In it, he describes what Revolution is with these words:

"By a revolution, the Society does not mean an orderly revolt according to the classic western model – a revolt which always stops short of attacking the rights of property and the traditional social systems of so-called civilization and morality. Until now, such a revolution has always limited itself to the overthrow of one political form in order to replace it by another, thereby attempting to bring about a so-called revolutionary state. The only form of revolution beneficial to the people is one which destroys the entire State to the roots and exterminated all the state traditions, institutions, and classes (...) Our task is terrible, total, universal, and merciless destruction. (...) To weld the people into one single unconquerable and all-destructive force – this is our aim, our conspiracy, and our task."

The Revolution is the continuation of the serpent's insinuation to our first parents: "You shall be like gods." The Revolution is about the "terrible, total, universal, and merciless destruction" of God's established reality and true order. Revolution is about war against our true Creator, God who became man, Jesus Christ, His Holy Religion, and the true salvific order for mankind. Instead, man wants to be god and to create his world in his pretended sovereignty.

The Revolution is an echo of the fallen angel: Non serviam. I shall not serve God.

It is high time for us to revisit the Revolution in view of knowing the real cause of the present evil in the world. We want here to thank, in anticipation and in advance, our special guest speakers for their kind efforts to help us see clearly what the Revolution is. We wish all of you here present to enjoy this International Symposium.

Thank you very much.

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Ave Maria!

Révérends Pères, Mesdames et Messieurs,

Nous avons le grand honneur d'avoir avec nous des conférenciers parmi les plus distingués, spécialistes de la Révolution française. Dans le monde où nous vivons, nous assistons à un immense progrès des attaques opérées pour détruire l’ordre naturel établi par Dieu, tels que la famille et le mariage, dans le mépris absolu de la loi de Dieu. Nous ne pouvons que tristement constater une plus opinion publique empoisonnée chaque jour plus par la théorie du gendre, totalement déconnectée de l'ordre biologique.

Nous voyons dans ces mouvements les conséquences logiques de la révolution de 1789, car celle-ci ne concerne pas simplement un système politique, ni le renversement de la monarchie, ni l’abolition de la noblesse.

Mgr Jean-Joseph Gaume (1802 - 1879), dans son livre "Révolution, recherches historiques sur l'origine et la propagation du mal en Europe, de la Renaissance à nos jours" 1856, l’explication suivante sur ce qu'est la Révolution française:

« Si, arrachant son masque, vous lui demandez (à la Révolution) : qui es-tu ? elle vous dira : « Je ne suis pas ce que l'on croit. Beaucoup parlent de moi et bien peu me connaissent. Je ne suis ni le carbonarisme... ni l'émeute... ni le changement de la monarchie en république, ni la substitution d'une dynastie à une autre, ni le trouble momentané de l'ordre public. Je ne suis ni les hurlements des Jacobins, ni les fureurs de la Montagne, ni le combat des barricades, ni le pillage, ni l'incendie, ni la loi agraire, ni la guillotine, ni les noyades. Je ne suis ni Marat, ni Robespierre, ni Babeuf, ni Mazzini, ni Kossuth. Ces hommes sont mes fils, ils ne sont pas moi. Ces choses sont mes œuvres, elles ne sont pas moi. Ces hommes et ces choses sont des faits passagers et moi je suis un état permanent. Je suis la haine de tout ordre que l'homme n'a pas établi et dans lequel il n 'est pas roi et Dieu tout ensemble. Je suis la proclamation des droits de l'homme sans souci des droits de Dieu. Je suis la fondation de l'état religieux et social sur la volonté de l'homme au lieu de la volonté de Dieu. Je suis Dieu détrôné et l'homme à sa place. Voilà pourquoi je m'appelle Révolution, c'est-à-dire renversement... »

À peu près à la même époque, Sergey Nechayev écrivit en 1869 "Le catéchisme du révolutionnaire -- Règles dont doit s'inspirer le révolutionnaire". Il y décrit ce qu'est la révolution :

"La Confrérie n'entend pas sous "révolution populaire" un mouvement réglé selon les idées de l'Occident, et qui s'arrêterait respectueusement devant la propriété et les traditions de l'ordre social, et devant ce qu'on appelle la civilisation et la moralité. Ce genre de mouvement s'est borné jusqu'ici à renverser une forme politique, afin de la remplacer par une autre et de créer l'État dit révolutionnaire. Seule peut être salutaire au peuple une révolution qui détruira jusqu'aux racines de l'État, et supprimera toutes les traditions, les classes et l'ordre même existant (...) Notre oeuvre à nous est une destruction terrible, entière, générale et implacable. (...) Fondre ces bandes en une force invincible qui détruira tout sur son passage - telle sera l'oeuvre de notre organisation, de notre conspiration, tel sera notre but."

La Révolution est la suite de l'insinuation du serpent à nos premiers parents : "Tu seras comme des dieux." La Révolution concerne "la destruction terrible, totale, universelle et sans merci" de la réalité établie et du véritable ordre de Dieu. La révolution concerne la guerre contre notre vrai Créateur, Dieu qui est devenu homme, Jésus-Christ, sa sainte religion et le véritable ordre salvifique de l’humanité. Au lieu de cela, l'homme veut être dieu et créer son monde dans sa prétendue souveraineté.

La Révolution est un écho de l'ange déchu : Non serviam. Je ne servirai pas Dieu.

Il est grand temps que nous revenions sur la Révolution afin de connaître la véritable cause de ce mal qui continue de faire souffrir notre monde. Nous tenons à remercier, par avance, nos conférenciers pour leur aimable participation à cette entreprise de clarification sur la révolution. Nous vous souhaitons à tous ici présents de bien profiter de ce symposium international qui, nous l’espérons, sera fructueux.

Merci beaucoup.

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