Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

愛の愛に歌おう Cantemos al amor de los amores

2020年02月06日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

Cantemos al amor de los amores

Cantemos al Amor de los Amores
cantemos al Señor,
Dios está aquí, ¡venid adoradores,
adoremos, a Cristo Redentor!

¡Gloria a Cristo Jesús,
cielos y tierra, bendecid al señor
honor y gloria a Ti, rey de la gloria
amor por siempre a Ti
Dios del Amor!

愛の愛に歌おう

愛の愛に歌おう
主に歌おう
天主はここ(御聖体)にまします
礼拝者達よ、来たれ!
贖い主なるキリストを礼拝しよう!

イエズス・キリストへ栄光あれ、
天と地よ、主を祝福せよ!
御身に栄誉と栄光あれ、栄光の王よ
御身に永遠の愛を!
愛の天主よ!







来なさい、みんなで競って花を持って行こう Venid y vamos todos con flores a porfía

2020年02月06日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

マリア様への聖歌です。

Venid y vamos todos con flores a porfía
con flores a María, que Madre nuestra es
con flores a María, que Madre nuestra es

De nuevo aquí nos tienes, purísima doncella
más que la luna, bella, postrados a tus pies
来なさい、みんなで競って花を持って行こう、
花を持ってマリア様に、私たちの母であるあなたマリア様に、
花を持ってマリア様に、私たちの母であるあなたマリア様に、

また、ここに御身は私たちとともに、いとも純粋な童貞女よ、
月よりも美しい方よ、私たちは御身の足元にひれ伏す。







Soberana del cielo Señora 天国の元后、聖母よ

2020年02月06日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

キトの巡礼中にいろいろな聖母への聖歌を歌いました。そのうちの一つが、これです。

Soberana del cielo Señora
Virgen bella, cual mistica flor,
hoy tus hijos elevan Señora
tierna voz a ti Madre de amor

天国の元后、聖母、
美しき童貞女、何という神秘の花、
今日、御身の子らは御身に声を上げる
優しき聖母よ、愛の母よ



雄々しくも いさぎよき
強者(つわもの)は 主のため
その生命(いのち) 捧げたる
いさおしぞ とうとき
(おりかえし)
天地(あめつち)果つるも
そのみ名 とこしなえに
尽きせず 語りつがん





エクアドルのキトにあるイエズス会の教会(la Campania)

2020年02月05日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

キトで一番美しいとされているのが、イエズス会の教会(通常、la Campañia)と呼ばれている教会です。

写真でご紹介いたします。








ラス・ラハスの聖母の御影(ごえい)は金太郎飴のよう

2020年02月05日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

ラス・ラハスの聖母子の御影は、絵の具で描かれたものではありません。岩の色自体がそうなっているのです。均等に色付いた岩が数メートルにわたって金太郎飴のようになっています。
ジャンルの険しい渓谷の岩に!










「司祭が聖性を求めないことは許されない」:ピーター・フォルティン神父様 2020年の童貞聖マリアの御潔めの祝日の説教

2020年02月04日 | お説教・霊的講話
2020年2月2日 童貞聖マリアの御潔めの祝日の説教
聖ピオ十世会司祭 ピーター・フォルティン神父


愛する信者の皆さん、
私たちの聖なる創立者、マルセル・ルフェーブル大司教によって1988年の本日と同じ2月2日に行われた説教を、短い形でお話ししたいと思います。司祭職と聖性の精神に焦点を当てた非常に美しく感動的な説教です。聖性は、とりわけ特に司祭にとって大切なことですが、聖なる洗礼の恩寵のゆえに、すべてのカトリック信者にとっても大切なことです。この説教がなされたのは、今日のような聖母の御潔めの祝日でした。その日も、今日と同じように、聖ピオ十世会の神学生たちは剃髪を受け、そのあと「カソックまたはスータン」として知られている聖職者としての服を受けるのです。剃髪式は、将来司祭となることになる男性を聖職者にするカトリック教会の公的行事です。大司教の美しい考えをお話しすることによって、私たちがさらに熱心に司祭の召命を望むことができますように、またカソックを身に着け剃髪を受ける人々の堅忍のために祈ることができますように。

御潔め自体、本当に感動的な祝日です。私たちは、童貞マリアが幼子イエズス、聖ヨゼフとともに神殿に行って、非常に貧しかったために鳩の捧げ物を持って行かれるところを想像することができます。老人のシメオンが、幼子イエズスを天主であると認め、そして天主を讃美し、生涯にわたって願っていた自分の贖い主を見る、という自らの唯一の祈りが実現したことに感謝を捧げるところを想像することができます。王の中の王である私たちの主は、聖母に抱かれて天主の神殿、ご自分の神殿に入られますが、それは神殿とその中にいるものすべての人を所有なさるためです。


大司教は次のように美しく述べます。教会には二つの家族があり、それは平信徒の家族と聖職者の家族です。聖職者は、司祭となるために天主への奉仕に全生涯を奉献する人々です。完全な清貧、貞潔、従順を誓う男性たちです。決定的な段階である副助祭に達するには、準備や勉強、霊的教育にいくつかの段階と年数を必要とします。いったん副助祭になると、もう後戻りはできません。それは、誓いの交換がなされるともう後戻りできない結婚の瞬間によく似ていますが、それよりさらに重大なことです。剃髪を受けることは、祭壇に上る約束、つまり司祭になるという約束なのです。

大司教は、剃髪を受ける人々の感情を、次のごく簡単な言葉で表現します。「・・・皆さんは教会に対して責任をもち、教会の聖職者に属するのです」。この説教で、大司教はさらに、この若い男性たちに、「私は信者の中に残って家族をつくるつもりはない。全生涯を通じて自分を天主にお捧げしたい。天主にお仕えしたい、そしていつか司祭になりたいと望む」という思いを持つべきであると話しました。

聖性を追求することは、例外なく誰にとっても義務です。平信徒もそうですが、特に司祭はそうです。修道会に入会していない普通のカトリック信者には、洗礼のゆえに、堅振のゆえに、聖性を追求する義務があります。カトリック信者は、次の洗礼の約束を守らなければなりません。私は常にイエズス・キリストに属します。私はサタンとそのつまずき、その罪を捨て、常にイエズス・キリストに属します。これは軽々しい約束ではなく、重要なことです。この点では、誰もが、カトリック信者が全生涯を通じて守るべき義務を負っているのです。

イエズス・キリストの司祭職にあずかり、主と信者の間の仲介者となり、他の人々の聖性のための道具となるべく、司祭たちが存在することを、天主はお望みになりました。司祭にとって、聖性を業とすることはもはや一つの約束であるばかりか、司祭は私たちの主イエズス・キリストの司祭職にあずかっているがゆえに、司祭という役割そのものが聖性の一つなのです。司祭であるにもかかわらず聖性を求めないのは、その定義に矛盾していることになります。司祭は、その役割のゆえに、受ける叙階のゆえに、本質的に聖でなければなりません。

司祭が聖性を求めず、それゆえに、私たちの主イエズス・キリストがなさったようにこの世から離れることを求めず、この世の物事から離れることを求めず、清貧、貞潔、従順を求めないことは、許されないことです。司祭は、私たちの主イエズス・キリストがここ地上でなさった最も重要な行い、すなわち、主のいけにえを行うために、私たちの主イエズス・キリストに倣うことを約束するのです。

聖トマス・アクィナスはこう言います。いけにえは天主だけにお捧げすることができる。なぜなら、われわれが自分自身を、われわれ自体をすべてお捧げし、われわれ自身をいけにえとしてお捧げすることができるのは、これらのものをお与えくださった天主のみに対してであって、被造物に対してではないからである。したがって、いけにえは天主だけにお捧げすることができるのである。

このゆえにこそ、私たちの主イエズス・キリストのいけにえは、主の全生涯の中で最高の行い、中心となる行いなのです。主の全生涯は主の十字架に向けられており、そして、全ての善が永遠に至るまで人類の上に流れ出てくるのは、主の十字架からなのです。そして、これこそが司祭の行うこと、すなわち私たちの主イエズス・キリストの行いなのです。司祭が行うのはなんらこれ以外の行いではなく、なんらこれ以外のいけにえではありません。司祭はalter Christus、すなわちもう一人のキリストなのです。司祭がミサのいけにえを捧げるとき、司祭はもはや自分ではありません。司祭はキリストに成り代わって行うのであり、司祭はいわば天を開き、まことに信じられない賜物を出現させるのです。それは、天の賜物が地上に降りてきて信者に与えられるようにするための、司祭の手にある、いとも聖なる三位一体である天主ご自身なのです。

司祭だけがこれを行うことができます。信者のだれかが聖変化の言葉を発してみても、祭壇の上では何も特別なことは起こらず、祭壇の上にはパンとぶどう酒以外のものは何も生じません。人が司祭になって、司祭として聖変化の言葉を発すれば、天主が降りて来られ、聖なる天主が来られて、パンとぶどう酒の本質に取って代わられます。ですから、司祭だけが信者に天主を与えることができるのです。これが、司祭とは何かということです。この最も近しく私たちの主イエズス・キリストに属しているということがすべての聖性の源です。それゆえ、キリストと同じ聖徳、すなわち完全な清貧、貞潔、従順を実践することによって、私たちの主のように聖であることが義務の一つなのです。

聖性を通じて、司祭と信者は一つの軍団でなければなりません。この軍団は私たちの主イエズス・キリストをお喜ばせし、私たちの主イエズス・キリストに従い、私たちの主がこんにち行おうと望んでおられるこの十字軍を戦い、それによって私たちはこの世を回心させなければなりません。私たちは、世の光とならねばなりません。

大司教は、教会の歴史を通じて起こったすべての災難は、一般的に言って聖性を捨て去った聖職者たちから来たことを強調しています。「善き主は、司祭たちに聖性の道を取り戻させるために、修道会の創立者たち、修道団体の創立者たちを立ち上がらせられました。私たちは、この世に司祭の聖性を残すために、天主が特に聖ピオ十世会の存在をお望みになられたと信じています。聖ピオ十世会が世の光となるよう希望しましょう」。聖性が、司祭の存在理由です。

「最後に、童貞聖マリアに願いましょう。大司祭の御母であったお方、私たちの主を神殿に連れて来られたお方が、私たちのもとに留まってくださいますように・・・」。童貞マリアは本日カソックを身に着け剃髪を受ける人々のそばにいてくださいます。聖母が天主なる御子のためになさったことを、「もう一人のキリスト」たちである司祭たちのためになされるのです。



【英語原文】
Sermon for the Purification of the Blessed Virgin Mary, February 2, 2020
Fr Peter Fortin, FSSPX


My dear faithful,
I will relate in a short manner a sermon that was given by the Holy founder of our Society, Archbishop Marcel Lefebvre, on this day, February 2, back in 1988. A very beautiful and touching sermon that focused on the priesthood and the spirit of holiness. Holiness is most especially for the priests but it goes for all Catholics because of the grace of our Holy Baptism. The occasion for the sermon was for the Feast of the Purification of Our Lady on this date, back then as today, seminarians of our society are tonsured and received and will receive the clerical habit known as the “cassock or soutane.” The Order of Tonsure is the official public act of the Catholic Church making a man a cleric, one who will become a priest. By relating the beautiful thoughts of the Archbishop, we may have a more earnest desire for priestly vocations and to pray for the perseverance of those who will take the cassock and receive the tonsure.

The Purification itself is a very moving Feast. We can imagine the Virgin Mary coming to the temple with the Child Jesus and St. Joseph, bringing the offering of doves because of their extreme poverty. We can imagine the old man Simeon who recognizes God in the Christ Child and then praises God and gives thanks for his one prayer throughout his life to be realized; to behold his Redeemer. Our Lord, the King of Kings enters into the temple of God, His temple, carried by Our Lady in order to take possession of it and all who are inside.

The Archbishop describes in beautiful manner that there are two families in the Church; the family of the laity and that of the clergy. The clergy are those who will consecrate their entire life to the service of God to become priests. Men who make vows of perfect poverty, chastity and obedience. There will be several steps and years of preparation, studies and spiritual formation before the decisive step of the Sub-diaconate after which there is no turning back much like at the moment of marriage when vows are exchanged except more serious. The reception of the tonsure is a promise to ascend the altar, that they will become priests.

The Archbishop expresses the sentiments of those receiving the tonsure with these few simple words “…you are accountable to the Church, you belong to the clergy of the Church.” In his sermon, he further addressed the young men that their thoughts should be “I do not have the intention to remain among the faithful to found a family. I want to give myself to God for my whole life; I want to serve Him and I hope, one day, to become a priest.”

The obligation for holiness is absolutely for everyone. Laity but especially for priests. The normal Catholic who does not enter into a religious society has an obligation to pursue holiness because of his Baptism, because of his Confirmation; he must fulfil the promises of his Baptism: I attach myself to Jesus Christ for always, I renounce Satan, his scandals, his sins, and I attach myself to Jesus Christ for always. This is not a promise in vain. It is important. Here everyone has the obligation that the Catholic makes for his whole life.

God has willed that there be priests who participate in the Priesthood of Jesus Christ and who be intermediaries between Him and the faithful people, to be an instrument for the holiness of others. For the priest it is not just a promise anymore to profess holiness, but his very function is one of holiness because the priest participates in the Priesthood of Our Lord Jesus Christ. To be a priest and not to search for holiness is a contradiction in terms. The priest must essentially be holy because of his function, because of the Order that he receives.

It is inadmissible that a priest does not search for holiness, and thus does not seek to be separated from the world, as Our Lord Jesus Christ, does not seek to be detached from the goods of this world, does not seek poverty, chastity and obedience. The priest engages himself to follow Our Lord Jesus Christ to perform the most important act which Our Lord Jesus Christ performed here below: his Sacrifice.

St. Thomas says, the Sacrifice can be offered only to God, because we can make a total gift of ourselves, of what we are, make the sacrifice of what we are only to the One who has given us these things and not to a creature. The Sacrifice is reserved to God.

This is the reason why the Sacrifice of Our Lord Jesus Christ is the supreme act, the central act, of all His life. All His life was directed towards His Cross, and then, it is from His Cross, that all goods flow upon mankind unto eternity. And this is what priests perform, the act of Our Lord Jesus Christ. It is not another act, another sacrifice, the priest is an alter Christus another Christ. Offering the Sacrifice of the Mass the priest is no longer himself; the priest acts in the Person of Christ, he opens heaven in a certain way and makes the most incredible gift happen: God Himself, the Most Holy Trinity in the hands of the priest so that the gifts of heaven come down and can be given to the faithful.

The priest alone can do this. Even if one of the faithful tries to pronounce the words of consecration, nothing particular would happen on the altar, there would be nothing on the altar more than bread and wine. When a man becomes priests and you pronounce the words of consecration, God comes down, the Holy God comes and takes the place of the substance of bread and wine, and thus the priest alone can give God to the faithful. This is what a priest is. This most close attachment to our Lord Jesus Christ is the source of all holiness, and so it is an obligation to be Holy as Our Lord with the practice of the same virtues of Christ - perfect poverty, chastity and obedience.

Through holiness the priests and faithful must be an army which pleases Our Lord Jesus Christ, which follows Our Lord Jesus Christ, which fights this crusade that Our Lord wishes to wage today, and through which we must convert the world. We must be a light in the world.

The Archbishop marks that all the catastrophes throughout the history of the Church came in general from the clergy, abandoning holiness. “The Good Lord raised founders of orders and founders of religious congregations to give back to the priests the way of holiness. We hope that our Society is precisely willed by God so that priestly holiness remains in the world. Let us hope that the Society shall be a light in the world.” . Holiness is the reason for the existence of the priest.

“Lastly, let us ask the Blessed Virgin Mary, she who was the Mother of the High Priest, who brought Our Lord to the temple, that she remain with us…” The Virgin Mary accompanies those who will this day take their cassocks and be tonsured. What Our Lady did with her Divine Son she performs for priests “other Christs.”


ラス・ラハス(Las Lajas)の聖母

2020年02月04日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

1754年のこと、南米大陸のヌエバ・グラナダの深い渓谷のジャンルであったラス・ラハスで起こった出来事です。
ラス・ラハスは、今では、コロンビアにあり、エクアドルのキトから車で六時間ほど行ったところにあります。

マリア・ムエセス・デ・キノネスという女性が自分の家があるポトシの村から10キロメートルほど離れたイピアレスという村に旅をしていました。
マリアにはローザという名前の小さな娘がいました。生まれつき聴く事も話す事も出来ない障害をもった子供でした。

マリアは突然の嵐に巻き込まれ、険しい渓谷の道はグアタイラ川の水で溢れかえりました。
先住民はラス・ラハス(岩の層)の洞窟には悪魔が住んでいると信じていました。
彼女もこの暗い木が生い茂った場所が好きではありませんでした。しかし、マリアは恐れていましたが、激しい嵐の為に、とにかくそこに避難しました。
マリアは、ローザを背負いながら村に向かう途中で、それ以上進むことができず、恐ろしい洞窟で休みました。

「ママ!あのメスティーサ(インディオとスペイン人の混血の女性)を見て!
腕に小さな男の子を抱いて岩から出てきたよ!横に小さな二人のメスティソもいるよ!」

びっくりしてマリアはローザのところに走りました。この子が話をした!?

子供は洞窟の入り口に向かって転落した石を喜んでい始めました。 マリアは娘の手をつかんで持ち上げて後、振り向かずに逃げました。

マリアの友人や村の住民は、ローザが生まれてから話ができないことを知っていましたが、今では同じ年齢の他の子供のように楽しく笑っているのを見て、マリアに、一体この子に何が起こったのか、と質問攻めにしました。

しかしマリアは一体ローザに何が起こったのか理解していなかったため、多くの質問に答えることはできませんでした。

マリアはまだ洞窟を疑っていましたが、ローザが癒やされた感謝の気持ちで花やろうそくを残すために、娘のローザを時々連れて行きました。

その後、何日かがたち日常生活が正常に戻ったように思われた時、ローザが姿を消しました。
マリアはどこを探しても小さなローザを見つけることができませんでした。そこで、洞窟を訪れたときローザがどれほど嬉しがったかを思い出し、洞窟まで行ってみました。

マリアは間違っていませんでした。
彼女が到着するや、そこの光景を見てひざまづいて倒れました。

自分の娘ローザが、同年の非常にハンサムな男の子と遊んでいて、この二人の子供達を見守っていたのが威厳ある元后であったことを、マリアは洞窟で見たのです。

マリアは、それが御子キリストであり、キリストの最も貞潔な聖母マリアであることがすぐに分かりました。マリアはこのことを誰にも言わず、黙っていました。

小さなローザはそれからしばらくすると、病気になり、すぐに突然の病気で死にました。

悲しみに圧倒されたマリアは、小さなローザの死体を腕に抱えて洞窟に戻りました。 彼女の子供がかつて彼女の声と聴力を受け取っていたのはそこだったからです。 おそらく別の奇跡があり、彼女は命を取り戻すだろうとマリアは信じていました。

マリアは娘の為に信頼して祈りました。ローザが聖母にどれほど献身的であったか、ローザは癒されて以来、聖母の名誉の為に花とろうそくを洞窟に運んでいたのです。

ローザが息を吹き返し、目を開けて母親を見上げると、マリアはそれを懇願したその奇跡を受け取りました。 それはまるでローザが眠っていたようなものでした。

この奇跡のニュースはすぐに広がりました。村人たちが、この洞窟にやってくると、何と、以前には無かった聖母子の御影(ごえい)が岩にあったのです。












































聖伝のミサの報告 Traditional Latin Mass in Japan SSPX

2020年02月03日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

2月2日には、東京と大阪でラテン語による聖伝のミサが行われました。

来週末にも予定通りミサがありますが、東京では場所が変更になりました!お間違えのないようにお願いいたします。

2月9日の東京の特別会場
住所: 東京都台東区入谷1-27-4 プラーズ入谷3階 『入谷ホール3F』
南北に走る昭和通り(国道4号)の東側にある、「加瀬の貸し会議室」という黄色い
看板のついた11階建のビルの3階です。
アクセス: (1) 東京メトロ日比谷線「入谷」駅3番出口より徒歩3分
(2) JR山手線・京浜東北線「鴬谷」駅より 徒歩11分
(3) JR常磐線・山手線・京浜東北線「上野」駅より徒歩15分
【報告】
Dear Fr Onoda:

今日はフィリピンからピーター・フォルティン神父が来て、聖母のお潔めの祝日の典礼を行って下さいました。

まずあらかじめ用意されていたろうそくと、信者の方々が持って来られたろうそくが典礼に従って司祭によって祝別され、信者一人一人に手渡されました。
続いて司祭と侍者のろうそく行列があり、その後すぐにお潔めの祝日のミサが捧げられました。

御説教では、1988年の同じ2月2日の聖母のお潔めの祝日にマルセル・ルフェーブル大司教が、その日に剃髪を受け、スータンを受ける神学生たちに向けてなさった御説教の内容を紹介してくださいました。

剃髪を受ける人たちは、今から教会に対して責任を持ち、教会の聖職者となるのであって、そのため「私は全生涯を通じて自分を天主にお捧げし、いつか司祭になりたい」という思いをもつべきであること。すべてのカトリック信者が
聖性を追求する義務を負っているが、司祭はとりわけそうであること、そして司祭にとって聖性とは約束のみならず、司祭という役割そのものが聖性の一部であること。司祭はalter Christus(もう一人のキリスト)であって、司祭だけが聖変化を行い、天主ご自身という賜物を信者にあたえることができること。言い換えれば、聖性が司祭の存在理由そのものであること。等々。

最後に私たちもこのような数多くの司祭が生まれるよう、神学生たちの召命や堅忍のために祈ることが重要であることを教えて頂きました。

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

男: 26人(内、子供4人)
女: 25人(内、子供4人)
計: 51人(内、子供8人)

【報告】
2月2日聖母マリアの御浄めの祝日のミサには26人が、
2月3日聖ブラジオのミサには14人が与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

御浄めのミサの前にはロウソウの祝別と、ロウソウ行列がありました。マリア様の御手を通して光であるイエズス様を頂き、胸に抱きながら行列しました。
イエズス様が神殿に入られたのは、そこに属するすべてを所有する為だという言葉が心に残りました。イエズス様は、シメオンに抱かれていたけれどもシメオンを立たせていたのはイエズス様であるというミサの固有文をこの日の晩に黙想しました。
翌日ミサの前に聖ブラジオの喉の祝別をして頂き、この喉が、今年1年、天主様を賛美し、善をするためだけに使われますようにと祈りました。





善き出来事の聖母マリア(Nuestra Señora del Buen Suceso)の祝日の聖母行列

2020年02月02日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

2月2日は、聖母の御浄めの祝日、善き出来事の聖母マリア(Nuestra Señora del Buen Suceso)の祝日です。ノベナの時間である早朝5時から聖母行列がありました。ご紹介いたします。









花びらの雨が聖母に降りそそぐ






ロザリオを唱えながら聖母行列をしました。あまりにも多くの人で、写真は撮り切れませんでした。













フランシスコ会修道院の食堂にある聖画

2020年02月02日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

キトのフランシスコ会修道院の食堂のフレスコ画をご紹介いたします。


食べ物がキト独特









聖ピオ十世会 2020年1月26日主日 聖伝のミサの報告 Traditional Latin Mass SSPX Japan

2020年02月02日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

遅れてしましたが、聖ピオ十世会 2020年1月26日主日の聖伝のミサの報告をご紹介いたします。

【報告】【東京】

Dear Fr Onoda:

今日はフィリピンからブノワ・ワイエ神父が来て御公現後第三主日のミサを捧げて下さいました。

御説教では今日の福音と書簡に出てくる地獄について、まずそれが天主を失うことであり、また聖母マリアや聖人達を含む天主の友をも失うことであり、さらには感覚への恐ろしい痛みを与える物であることを、聖アントニオ・マリア
・クラレトの引用などを通して詳しく説明して頂きました。

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

男: 19人(内、子供4人)
女: 23人(内、子供3人)
計: 42人(内、子供7人)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

今日の御ミサで感じましたことを送らせていただきます。
今日は ワリエ神父様が地獄のことについてお説教をしてくださいました。

友人は「今日のお説教はとても怖いと思った」と話していました。
私は このひどい人間の私のために長いこと祈ってくださった恩人の言葉を思い出していました。御存命なら九十歳を超えていらっしゃるに違いない年齢と思うその方がおっしゃるには、以前はカトリック教会では地獄がどれほど恐ろしい所かということを地獄の絵図を示されて、しっかりと教え込まれていたということです。それが解っているのでカトリック信仰を捨てるとか背くなどということは とても考えられないことだったようです。

それで自分だけでなく、周りの人も、地獄に行かないようにと愛徳の心からとても一生懸命にお祈りしてくださっていたのだと思いました。

ワリエ神父様は 地獄とは永遠に天主を失うことであると教えてくださいました。
天主とともに居ることを 私はどれほどいつも真剣に望み どれほどいつも天主を心に追い求めているでしょうか。天主とともに歩むことこそ カトリック信者の求める理想の生き方だと私はある日気づかされました。そのことをちゃんと実行することはなかなかできないです。いつも この世のことに心を引かれたまま熱中してしまい、天主のもとにまた戻ることを忘れてしまいます。

この世に住むということは この天主とともに歩むこと。天主の御顔を仰ぎ見ること、天主を見奉る喜びというものと違うものだと思います。それは 地獄ではないけれど、そのままだと地獄に直行することになるのだと 今日のお説教を聞いて思いました。この世に住みながらも、絶えず心の中では天主をお愛し申し上げることが出来ますようにと思います。ちゃんとした内的生活をすることが出来ますようにと思います。
カトリックの教えでは、今日ワリエ神父様が話してくださいましたが、私たちは天主のために創られたのだということです。このことは本当に神秘であると思います。

私は、葡萄畑のブドウがすっぱいので、葡萄畑の持ち主が怒ったという話を思いだします。あるいは、怒った葡萄畑の持ち主は よいブドウの実だけをより分けて、すっぱいブドウの実をつける樹は集めて燃やしてしまうことにしたという話を読んだ覚えがあります。それがきっと地獄のことなのかなと思いだしました。

天主を愛し申し上げるということは 私というブドウの実が甘く熟するようになるということだと ある日聖書のどこかを読んでいて 感じたことがあります。

このブドウが イエズス様という葡萄の樹に接ぎ木されてつながっていれば、イエズス様からの樹液が流れてきて すっぱいブドウしか生らせない葡萄の樹だったものも甘いブドウの実を生らせることができるようになれるということもどこかで読んだように思います。

この世の価値判断は天主の国のそれとは逆になっているので、そのままだと地獄の状態につながり天主を失うことである「天主を軽んじる」状態で生きることになるのでしょう。カトリック教会しか 人間がなぜ何のために創られたかを教えてくれるものはないと思います。本当のカトリック教会では 今日のお説教のお話のように ちゃんと教えてくださるのだと思いました。ワリエ神父様 ありがとうございました。

誰も死がいつやってくるかわからないのに、「天主を軽んじる」ままに生活していたら、幕が下りた時にどれほど苦しまなければならないかを今日教えていただくことが出来ました。火に焼かれるような苦しみのことを具体的にお話しいただいたので、思い出してしっかりと考えてみようと思います。
そして、いつも天主を軽んじるほうが多い自分の生活をもっとまじめに反省して 天主に心を向けなおすことを絶えず努力したいと思います。
いろいろなことで大変な時勢の今です、マニラから日本に来てくださり、御ミサを捧げてくださいまして本当にありがとうございます。

【報告】【大阪】
1月26日御公現後第三主日のミサには21人、
1月26日聖クリゾストモのミサには10人が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

主日のミサでは地獄について黙想しました。天主様から永遠に離れて永遠の苦しみと永遠の悲しみを受ける霊魂。永遠という言葉の恐ろしさをお説教を聞きながら感じました。ファチマの子供達が地獄のビジョンを見た後、罪人の改心の為に自分達の出来る犠牲を精一杯捧げた事を思いだして、自分ももっと何かしないといけないと思いました。







サン・ディエゴ(聖ヤコボ)修道院教会

2020年02月02日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

聖ヤコボ修道院教会(サン・ディエゴ修道院)を訪問しました。











































この教会には、奇跡の十字架像があります。









善き出来事の聖母のノベナ第九日目 

2020年02月02日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

善き出来事の聖母へのノベナの第九日目には、まず、ドミニコ会女子修道院の聖カタリナ教会に参りました。









その次には、カルメル会女子修道院に参りました。(キトには、何とカルメル会修道院が二つあり(!)前回行ったのは低地カルメル会Calmen Bajo、今回は高地カルメル会 Carmen Altoです。)














その次には、フランシスコ会男子修道院の教会である聖フランシスコ教会に参りました。



















フランシスコ会修道院の院長(ガーディアン)が聖母を迎え入れました。













最後に元の教会に戻りました。




善き出来事の聖母のある無原罪の御宿りの修道院

2020年02月01日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

善き出来事の聖母の祝日はますます近づいてきました。祭壇もますますきれいに飾られてきました。













マリア像の後ろに行く事を特別に許していただきました。
愛する兄弟姉妹の意向の為に、日本の為に、お祈りいたしました。皆様の意向を紙に書き起こし、マリア様の足元に、マントの下に、置いて参りました。


脇祭壇の善き出来事の聖母


御輿の善き出来事の聖母。これはアーカイブによるとマドレ・マリアナ・デ・へスース(御遺体は腐敗せずそのまま残っている)の所有の像です。約400年前のもの。




--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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