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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【参考情報】ジェームズ・モーズリー神父(元聖ペトロ司祭兄弟会司祭):なぜ教皇フランシスコに公に反対するのか?

2022年02月11日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】ジェームズ・モーズリー神父(元聖ペトロ司祭兄弟会司祭):なぜ教皇フランシスコに公に反対するのか?

【編集者注】ジェームズ・モーズリー神父は、元聖ペトロ司祭兄弟会の司祭です。海外での聖伝の動きについての参考情報としてご紹介いたします。

Why withstand Pope Francis publicly?
by Father James Mawdsley

昨年7月、自発教令「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditiones Custodes)付きの書簡で、教皇フランシスコは、聖伝の典礼を根絶する意向を宣言しました。教皇は、ありえないことに、ノブス・オルド【新しいミサ】がローマ典礼の「祈りの法」(Lex Orandi)の唯一の表現を構成すると主張しました。このことについて、公に教皇に反対することが重要です。

その理由の一つは、教皇の霊魂を救うためです。ヘロデ王はキリスト信者ではありませんでしたが、幼子イエズスを死刑にしようとしました。ところが今は、教皇が、キリストを死刑にしようとしています。カヤファはイエズスの処刑を手配したとき、旧約の大司祭でした。今、キリストの代理者は、キリストを記念するものを破壊させようとしています。

枢機卿たちは、公式には教皇の友人です。その内の何人かは、イエズスの教えられた通りに【マテオ18章】静かに教皇に抗議しただろうと私たちは期待します。「その人とだけ相対して、いさめにいくがよい。聞きいれてくれたなら、あなたは兄弟をえたことになる」と。しかし、フランシスコはこの冒涜を捨てないため、主の御言葉の続きはこうです。「ききいれてくれなかったら、一人か二人をつれていき、二人か三人の証人のことばをかりて、すべてのことを片づけよ。その人たちのいうこともきかないなら、教会にいえ」と。

なぜイエズスは、人は公に教会に行かなければならないと言われるのでしょうか。無数のカトリック信者が、この教皇からの殴打によって傷ついています。その殴打によって打ちのめされた司祭や信者がいます。また、位階階級による長きにわたる聖伝への攻撃 --- なぜなら、これはフランシスコに始まったことではないからです --- について、多くのカトリック信者は闇の中に取り残されています。多分、このことから得られる一つの善は、人々が実際に聖伝に目覚めていることでしょう。マテオ18章のこれらの文章の直前に、イエズスは、こう言われました。「私を信じているこれらの小さな者を一人でもつまずかせたら、その人はろばの挽き臼を首にかけて海の深みに沈められる方が良い。この小さな者の一人でさえ、あなどらないように気をつけよ」。一人ではなく、何万人もの人が、のけ者にされているのならば、一体どんな罰が待っているでしょうか。つまずきを起こさないようにとイエズスに警告されました。

公に告発するもう一つの理由は、聖伝に対するこの攻撃について知っている人々、そしてそれを気にかけている人々のためです。自分がおかしいと思わないでください。自分が正気でないとは思わないでください。起こっていることは言い表わせないほど邪悪です。ゆっくり落ち着いて考えてみてください。地上の最高の権威者が、まさに地上で最も偉大な善を攻撃しているのです。しかも、聖伝を守り、維持し、次の世代に伝えることが自らの仕事であるのに。ロシュ大司教がインタビューの中で話したほとんど全ての言葉は、真実でないか、誤解を招くものでした。大司教は、「『トラディティオーニス・クストーデス』に対する否定的な反応は、ほとんどなかった」と言っておられるのです。

しかし、大司教様、恐怖政治の時代が来たとき、何を期待すべきでしょうか。もちろん、人々は【罰せられないように批判せずに】頭を低くします。多くの聖職者は、悪質な報復を恐れて、自分の考えていることを公表しないのです。聖職者は、古い典礼での堅振や洗礼を禁止されることを恐れているのです。私たちは、もう古いミサを捧げることはできない、と言われています。殺戮が始まったのですから。真理は、霊的な健康のために必要です。真理がなければ、私たちは飢えてしまいます。心して知るに足らず。私たちは、司教や枢機卿ら権威にある人々から、誰にも聖伝を攻撃する権利はない、と聞く必要があります。私たちだけでなく、ここで何が起こっているのか知らないカトリック信者もそうです。なぜなら、彼らは気にしておらず、もうミサに来ていないのですから。

とにかく、70年間、彼らは強盗に襲われたかのように盗まれてきました。もしも私たちが教皇は古いミサを攻撃していると単純に考えるのならば、理解できないかもしれません。事実は、教皇が、誰にとっても重要であるはずの天主の啓示を攻撃しているのです。聖伝を拒否することは、キリストを拒否することです。私たちは、聖書を変更することが悪いことだと知っています。聖ヨハネは、この書の言葉を省く者があれば、天主は命の書からその人の報いを取り除かれる【黙示録22章19節】と警告し、聖パウロは、私たち自身であるにせよ天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとは異なる福音を告げる者にはのろいあれ【ガラツィア1章8節】と警告しています。キリストの真理は、聖書と聖伝の両方を通してもたらされます。聖書に手を加えたり、損なったりすることが悪であるように、聖伝を妨害することもまた悪です。受けた典礼様式は断罪されることがありえません。その典礼様式は、これを保護し、守り、捧げ、次の世代に引き継ぐために受けたのです。

預言者イザヤは、私たちにこう語りました。「ああ、私の民よ、おまえを導く者はおまえの道を迷わせる。主は、さばきの場に人を、長老と民のかしらをひかれる。なぜ、私の民をいじめ、貧しい者の顔を打ちたたくのか。主、万軍の天主のみことば」【イザヤ3章12-15節】。

預言者は、ぶどう園を食い荒らし天主の民を踏みつぶしている指導者たちやかしらたちに立ち向かっているのです。預言者の言葉は、今日の位階階級に向けられています。イエズスもまた、次のように明瞭に語っておられます。「のろわれよ、偽善者の律法学士、ファリザイ人よ。あなたたちは人の前に天の国を閉ざし、自分も入らず、入ろうとする人が入るのも許さぬ」【マテオ23章13節】と。

教皇様は、個人的には古いミサが嫌いなのかもしれません。しかしキリスト信者たちはこのミサを愛していることがお分かりでしょう。キリスト信者は、このミサでキリストと出会うのを愛するのです。キリスト信者は何よりも深くミサで祈ります。なぜ教皇様はこれを奪われるのでしょうか。聖パウロは、さまざまな賜物について述べています。自分の下にいる人々に気を配りながら統治する者を意味する慈愛に満ちた統治者のことを。しかし、私たちは、聖伝を守る人々を打ちのめそうとする霊的な父の虐待を目の当たりにしているのです。

公に告発する三つ目の理由、私たちの世代の苦しみよりもさらに重要な理由は、未来のためです。フランシスコに続く別の破壊者を出さないようにするためです。次の教皇はパロリン枢機卿かタグレ枢機卿かもしれませんが、この二人のどちらかで事態は変わってくるのでしょうか? 変わらないでしょう。なぜなら、これは、聖伝に対する攻撃は、フランシスコに始まったことではなく、70年前から続いているからです。そして、この破壊を続ける人々が、バチカン(Curia)の中に、世界中の司教館にたくさんいるからです。もしも聖伝破壊に導く別の適任者を見つけるなら、たとえばスーピッチ枢機卿のような人々ですが、その男は真理を求めません。スーピッチ枢機卿はなんとクリスマスの日に、戦争と虐殺が一年中続くことを望んでいるのです。彼は、クリスマスの日を選んで斧を落としたのです。いったい誰がそんなことをしますか? 病気ではないでしょうか? 

すべてのブログは、この大いなる祝日には自制します。キリストに焦点を当てるか、沈黙を守るのです。でもスーピッチ枢機卿は違います。クリスマスにキリストの平和ではなく虐殺を望むのです。彼はもう一人のヘロデのようなものです。ロッシュ大司教は、世界の司教の大多数は、教皇の言われることを非常に支持していると述べました。世界の大多数の司教の反応からすると、それは信じられないことです。しかし、これはまさにその司教の声なのです。私たちは、真実が何であるかを公に聞く必要があります。そうでなければ、ロシュ大司教のプロパガンダがまかり通ってしまいます。ですから、牧者たちが、司教たちにおいて真理を -- キリストを守り、群れを守り、信者を守り、聖伝を守るために -- 見いだすことができないと思うと、とても憂鬱になるのです。

私たちは、なぜ公に告発するのでしょうか? ルカが書いているように、司祭長、律法学士、長老は、洗者ヨハネについての【ヨハネの権威は天からか人からかという】イエズスの質問に答えるのを恐れていましたが、嘘をつく勇気はありませんでした。彼らはこう言いました。「もし、人からだと言えば、民衆が私たちを石打ちにするだろう。民衆はヨハネが預言者だと信じているから」。民衆は、宗教指導者がこのようなことをする【真理を否定する】のを許しません。私たちもそうすべきではありません。何故なら、そんなことをすればどうなるかを知っていますから。最終的には、民衆は堕落した指導者たちに従うように操られ、キリストの死に至ったのです。キリストは復活されましたが、私たちはもう一度キリストを十字架につけたくはありません。

教会は、本来の教会でなければなりません。教会は聖伝に立ち戻る必要があります。私たちが御身に立ち戻ることができるように、ああ、主よ、御身を立ち戻らせてください。昔のように私たちの日々を新たにしてください。このことから生まれるかもしれない一つの良いことは、地上には、首相も大統領も司教も枢機卿も教皇も、教会をすべて閉鎖したり、聖伝のミサを禁止しようとしたりする権威を持つ者は誰もいないということを私たち全員が学んだことです。

なぜなら、反キリストは、そうしたいと思うでしょう。私たちが非常に愚かなため、さあ、この指導者がそう言ったのだから、私たちはそれをしなければならない、と言うなら一体何が起こるでしょうか。いいえ、私たちは今、この愚かさに対して免疫をつける必要があります。私たちには信仰の源泉である聖書と聖伝があります。教皇の仕事はそれを守ることであり、自分が啓示の源泉となることでもなく、自分が教会の新しい進むべき道を置くことでもありません。教会の進むべき道はイエズス・キリストによって示され、ペトロとパウロ、そして使徒たちがその進むべき道を示して以来、約二千年にわたって維持されてきたのです。今は、誰かが教会の新しい進むべき道を決めようとしている時ではありません。反キリストはその時代にそれを試みるでしょうが、私たちはそれが不可能であることを今、学ぶ必要があり、キリストに忠実でありたいと願う人々は、そうすることができるのです。皆さん全員に天主の祝福がありますように。

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Why withstand Pope Francis publicly?
by Father James Mawdsley

Last July in its letter accompanying Traditiones Custodes Pope Francis declared his intention to eradicate the Traditional liturgy. He impossibly claimed the Novus Ordo constitutes the unique expression of the Lex Orandi of the Roman Rite. It is important to withstand the Pope on this publicly.

One reason is to save his soul. King Herod was not a Christian when he wanted the infant Jesus put to death. And now shall the Pope put Christ to death. Caiaphas was high priest of the old covenant when he arranged for Jesus's execution. Now shall the Vicar of Christ try to have Christ's memorial destroyed.

The cardinals are officially friends of the Pope. We can hope some of them have demonstrated quietly with him as Jesus instructed. And "if he listens to you you will have regained your brother". But as Francis has not backed away from this sacrilege, the passage continues "if he will not listen to you, invite one or two more. And if he will not listen to them tell the Church".

Why does Jesus say one must go public to the Church ? Countless Catholics are wounded by this beating from the Pope, priests and faithful who are devastated by it. And also those many Catholics who have been kept in the dark about the hierarchy's long attack on Tradition because this didn't begin with Francis. Maybe one good, that can come from this, is people as they are in fact waking up to Tradition. Just before those verses from Matthew 18 Jesus said whoever will have led astray one of these little ones who trusts in me it would be better for him to have a great millstone hung around his neck and to be submerged in the depths of the sea. Do not despise even one of these little ones. What is it then not just one but when tens of thousands are being pushed out by the shepherds. Jesus warned against causing scandal.

So another reason to go public is for all those who know about this attack on Tradition and who care about it. Don't think that you are crazy. Don't be gaslighted. What is happening is evil beyond description. Sit back and consider it. The highest power on earth is attacking the greatest good on earth, precisely when it's his job to defend and preserve Tradition and to pass it on to the next generation. Archbishop Roche in his interview, where almost every sentence he spoke was untrue or misleading, says "the negative reaction to Traditionis Custodes has been very little."

Well Archbishop what to expect when a reign of terror is unleashed. Of course people are keeping their heads down. Many clerics do not say openly what they think because they're afraid of vicious reprisals. They're afraid of confirmations being banned or baptisms being banned in the old rightrite. We're told they can no longer celebrate the old Mass as it's happening the carnage has begun. Truth is needed for spiritual health. Without truth we starve. It's not enough to know it in our hearts. We need to hear it said by men in authority from bishops and cardinals that nobody has the right to attack Tradition, but also for those Catholics who don't know what's happening here, because they don't care, because they don't come to Mass anymore.

Anyway, for 70 years they've been robbed. We might not understand if we simply think the Pope is attacking the old Mass. The fact is the Pope is attacking God's revelation that should matter to everybody. To reject Tradition is to reject Christ. We know that it would be evil to change the Scriptures Saint John warns if any man shall take away from the words of the book God shall take away his part out of the book of life and Saint Paul warns against that we are an angel from heaven preach a gospel to you beside that which we have preached to you let him be anathema. The truth of Christ comes through both Scripture and Tradition. and just as it's evil to detour or corrupt the Scriptures so it is to obstruct Tradition. The received rites may not be condemned. They are received in order to be guarded, defended, celebrated and passed on to the next generation all through to the end of time.

The prophet Isaiah spoke to us. "All my people, your leaders mislead you. The Lord enters into judgment with the elders and princes of his people what you mean by crushing my people by grinding the face of the poor, says the lord God of hosts."

The prophet is confronting the leaders and princes who have devoured the vineyard who are crushing God's people. He's speaking to the hierarchy of today. And Jesus as well with such clarity. "Woe to you scribes and pharisees you hypocrites for you close the kingdom of heaven before men for you yourselves do not enter and those who are entering you would not permit to enter."

You may personally hate the old Mass but you can see that Christians love it. They love to encounter Christ there. They pray there more deeply than anywhere. Why would you take this away? Saint Paul says about the various gifts. He who governs in solicitude that means he who rules in carefulness for those under him. And yet we see this abuse of a spiritual father trying to devastate those who hold on to Tradition.


And the third reason for going public more important than for the suffering of our own generation is for the future so that we do not have another destroyer following Francis in recent years it's been suggested however unrealistic it seems now that the next Pope might be Cardinal Parolin or Tagle would things be different under any of them because this didn't begin with Francis it's been going on for 70 years this attack on Tradition. And there are plenty in the Curia, in the chancelleries of the world, who will keep this destruction going. If they find another to lead them there, men like Cardinal Cupich, he wants no truths. On Christmas day he is willing for the war and the slaughter to continue on all the days of the year. He chose Christmas day to drop the axe. Who does that? Is that not sick?

All the blogs restrain themselves on the great feasts. They put the focus wholly on Christ or they go silent. But not Cardinal Cupich who wants no peace of Christ at Christmas but slaughter. He is like another Herod. Archbishop Roche said the vast majority of bishops of the world are very much behind what the Holy Father is saying. That's unbelievable from the reactions of the vast majority of bishops in the world. But this is precisely the bishop's voice. We need to hear in public what the truth is. Otherwise the propaganda from Archbishop Roche will stand. And it's so depressing to think that the shepherds can't find it in them to defend Christ and to defend the flock and defend the faithful and to defend Tradition.

Why do we go public? Luke described how the chief priests and the scribes and the ancients were afraid to answer Jesus' question about Saint John the Baptist but they didn't dare to tell the lie they said if we say of men the whole people will stone us for they are persuaded that John was a prophet. The people then would not tolerate this from their religious leaders. Neither should we because we know where it leads. When eventually they were manipulated into following their corrupt leaders to the death of Christ. Christ rises but we don't want to crucify him again.

The Church must be herself, needs to return to Tradition. Restore to thyself oh Lord that we may be restored. Renew our days as of old. One good thing that might come from all this is that, all of us learn that there is nobody on earth no prime minister no president no bishop no cardinal no Pope no one has the authority to close all the Churches or to try to ban the Traditional Mass because the anti-Christ will want to do that. And what's going to happen if we're so stupid that we say oh well this leader has said it, so we have to do it. No, we need to be immunized now against this folly. We have the sources of our faith, Scripture and Tradition. The Pope's job is to preserve that, not to be a source of revelation himself, not to set a new direction for the Church. The direction for the Church has been given by Jesus Christ and since Peter and Paul and the apostles took it in that direction and so for nearly 2 000 years it's been held. This is no time for anybody to try to set a new direction for the Church. The anti-Christ will try that in his time but we need to learn now that it's impossible so those who wish to be faithful who wish to cleave to Christ may do so. God bless you all.


2月13日(主日)から、大阪での主日のミサは、以前の通りの午前10時30分からになる予定です。

2022年02月11日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
2月13日(主日)から、大阪での主日のミサは、以前の通りの午前10時30分からになる予定です。ご注意ください。
大阪でのミサの予定です。
02月11日(金) 18:00 ミサ聖祭
02月12日(土) 10:30 ミサ聖祭
02月13日(日) 09:45 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭







ヴィガノ大司教:自由を保証できるのは真理、すなわち主イエズス・キリストだけである。「真理は汝らを自由にする」。

2022年02月11日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】ヴィガノ大司教、カナダのトラック運転手を励まし、「地獄の」グレート・リセットを打ち負かすための祈りを呼びかける

Abp. Viganò endorses Canadian truck drivers, calls for prayers to defeat ‘infernal’ Great Reset

「親愛なるカナダのトラック運転手の友人の皆さん、皆さんの抗議は、国民国家の瓦礫の上に新世界秩序を確立することに反対しようとする世界中の合唱団に加わるものです」。

2022年2月7日

(LifeSiteNews) - 親愛なるカナダのトラック運転手の兄弟姉妹の皆さん。

この2年間のサイコ・パンデミックの茶番劇で、グローバリストのエリートが実行した世界規模のクーデターは、一つ一つの国で起こったことを考えることに限定せず、あらゆる場所で起こったことに視点を広げれば、最もはっきりと見えてくるものです。

親愛なるカナダのトラック運転手の友人の皆さん、皆さんの抗議は、世界経済フォーラム(World Economic Forum)と国連が「アジェンダ2030」という名前の下に望むグレート・リセット(Great Reset)を通じて、国民国家の瓦礫の上に新世界秩序(New World Order)を確立することに反対しようとする世界中の合唱団に加わるものです。そして、クラウス・シュワブの「若い指導者のための学校」(School for Young Leaders)、いわゆる「明日のグローバル・リーダー」(Global Leaders for Tomorrow)に多くの政府首脳が参加していることも、私たちは知っています。彼らは、ジャスティン・トルドー、エマニュエル・マクロン、ジャシンタ・アーダーン、ボリス・ジョンソン、それ以前にはアンゲラ・メルケル、ニコラ・サルコジ、トニー・ブレアなどです。

カナダは、オーストラリア、イタリア、オーストリア、フランスと並んで、グローバリストが最も浸透している国の一つであるように思われます。この地獄のプロジェクトで私たちが考慮しなければならないのは、サイコ・パンデミックの茶番劇だけでなく、これらの国々の伝統と、キリスト教のアイデンティティー、実際にはより正確にはカトリックのアイデンティティーに対する攻撃です。

皆さんはこのことを本能的に理解し、自由への憧れを、首都オタワに向かって移動しながら、そのすべての協調的調和をもって示されました。親愛なるトラック運転手の皆さん、皆さんは大きな困難に直面しています。それは、デモを行うために仕事を放棄しているだけでなく、悪天候、寒い中での長い夜、撤収させられる試みに直面しているためです。しかし、このような困難とともに、皆さんと同じように迫り来る脅威を理解し、政権に抗議する皆さんを支援しようとする多くの仲間たちの親密さも体験しています。私もまた、皆さんを支持し、霊的に皆さんの近くにいることを表明するのをお許しください。そして、皆さんのイベントが成功を収め、他の国々にも広がっていくことを祈ります。

この時代、私たちは世界中の暴君の仮面が落ちるのを見ていますし、残念ながら、昨日まで友人だと思っていた人々、家族の中でさえも、多くの順応主義、多くの恐怖心、多くの臆病を目にします。しかし、このような極限状態だからこそ、私たちは、見知らぬ人たちの人道的な行動、共通の戦いの中で私たちを身近に感じている人々の連帯感や兄弟愛を、驚きとともに発見するのです。私たちは、この茫然自失の状態から私たちを揺り起こそうとする多くの寛容や多くの願望を発見するのです。私たちは、権力と金に飢えた無節操な犯罪者たちの陰謀団(cabal)によって押しつけられた私たちの世界の破壊を、もはや受け身で見過ごすわけにはいかないことを発見するのです。

伝統的な世界に対するこの容赦ない攻撃では、皆さんの生き方やアイデンティティーだけでなく、皆さんの財産や活動、仕事にも影響を受けています。これが「グレート・リセット」であり、これが「より良い復興」(Build Back Better)などのスローガンが約束する未来であり、これが何十億もの人々が、すべての動き、すべての取引、すべての購入、すべての官僚的行為、すべての活動においてコントロールされるという未来なのです。霊魂や意志を持たない自動人形のようになるのです。つまり、アイデンティティーを奪われ、ただ生きながらえるためにベーシックインカム(国民支給金)を受けることや、他人が売りに出すとすでに決めたものだけを買うことが許されるだけになり、遺伝子血清によって慢性疾患のある人間に変えられるです。

今日では、もはや受け身で支援することは不可能であることを認識することが、これまで以上に重要です。立場を取り、自由のために戦い、自然な自由の尊重を要求することが必要です。しかしそれ以上に、親愛なるカナダの兄弟の皆さん、このディストピアは、新世界秩序の独裁を確立し、社会から、歴史から、そして民族の伝統から、私たちの主イエズス・キリストの痕跡を完全に消し去るためにあることを理解することが必要です。

カナダの友人の皆さん、自分たちの権利のためにデモをしてください。しかし、その権利が、スーパーマーケットに入る自由や予防接種を受けない自由といった単純な主張だけにとどまらず、自由人としての神聖な権利に対する誇りある勇敢な主張となりますように。しかし、皆さんのデモは真の自由の一つであり、皆さんに自由を保証できるのは真理、すなわち私たちの主イエズス・キリストだけであることを思い起こさせるものでなければなりません。「真理は汝らを自由にする」。

キリストが社会に、心に、家族に君臨するために戻って来られるように祈りましょう。聖なるロザリオという霊的な武器を手に取り、祝されし童貞、聖アンナ、聖ジェルジオ、そして聖なるカナダの殉教者たちに、皆さんの祖国を守ってくださるように祈りましょう。

最後に、私たちの主が私たちに教えてくださった言葉で、皆さんと一緒に祈ることをお願いして、私の訴えを終わりたいと思います。私たちの祈りが天に届くように、また、この広場、この通り、権力者の宮殿に至るまで、力強く響きわたるように、声を出して共に祈りましょう。

天にまします我らの父よ、願わくは御名の尊まれんことを、御国の来らんことを、御旨の天に行わるる如く、地にも行われんことを。我らの日用の糧を今日我らに与え給え。我らが人に赦すごとく、我らの罪を赦し給え。我らを試みに引き給わざれ。我らを悪より救い給え。アーメン。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2022年2月7日

Photo Credit


カトリック聖伝のミサの報告 聖ピオ十世会日本 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2022年02月06日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計104人でした。大阪では23人でした。天主に感謝します!今日は、ミサの後に聖ブラジオのロウソクによる、のどの祝福もありました。

大阪では、2022年2月13日のミサ前から以前のスケジュール(金、土、主日)に戻る予定です。ただし、詳しくは2月10日に発表いたします。

名古屋のミサも、月の最終主日のミサが2月27日から再開される予定です。

【報告】【東京】
Dear Fathers:
Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 104, including children.

09:00 mass
M: 19 (incl. 5 children)
F: 27 (incl. 7 children)
Total: 46 (incl. 12 children)

11:00 mass
M: 17 (incl. 4 children)
F: 17 (incl. 3 children)
Total: 34 (incl. 7 children)

12:30 mass
M: 14 (incl. 1 child)
F: 16 (incl. 1 child)
Total: 30 (incl. 2 children)

Total of 3 masses (excl. 6 people who participated in multiple masses)
M: 47 (incl. 10 children)
F: 57 (incl. 11 children)
Total: 104 (incl. 21 children)


カトリック教会だけが持つ「四つのしるし」|「一(いつ)」とはどういう意味か?異端・棄教・背教とは何か?

2022年02月06日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年2月6日は御公現後第五主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「御公現後第五主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


日本二十六聖人殉教者

2022年02月05日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

2017年2月5日(主日) 日本二十六聖人殉教者のミサ
小野田神父説教

聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2017年2月5日、この巡回教会の守護の聖人である日本26聖殉教者の一級祝日として祝っています。典礼法規によると、教会の守護の聖人は一級で祝わなければならないという事ですので、それに従って今日は守護の聖人のミサをしております。


“Dico autem vobis amicis meis ne terreamini ab his qui vos persequuntur. ”
「私の友であるあなたたちに言う、迫害する者を恐れるな。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は日本26聖人の殉教の日であります。そこでその26聖人の殉教に、一体何で殉教する事になったのか、一体何が起ったのか、

ではその殉教の様子はどうだったのか、その殉教した人々の面子は誰だったのかという事を少し見て、

最後に私たちは、何をどんな事を遷善の決心と取らなければならないのか、この黙想からの実りを、どのような実りを取るべきかを黙想しましょう。この26聖人の御取り次ぎによって私たちも、彼らに倣った生活をする事ができる遷善の決心を取る事に致しましょう。

では第1の点は、一体何が起こったのか、という事です。このバックグランドを話させて下さい。

1534年8月15日の聖母被昇天には、聖イグナチオ・ロヨラとその同志たちは、その中に聖フランシスコ・ザヴェリオもいたのですけれども、パリのモンマルトルの大聖堂で集まって、そして誓願を立てました。これが将来教皇様によって認可されるイエズス会の始まりです。

それからたったの15年の後に、そのイエズス会の最初の創立の同志であった一人である聖フランシスコ・ザヴェリオは、何と日本にやって来ます。同じく8月15日、マリア様が聖フランシスコ・ザヴェリオをここに、日本の地に送って下さったとしか考えられません。

そのやはり8月15日に日本に到着した、という事を聖フランシスコ・ザヴェリオは非常に強く感動して、是非マリア様に、特に被昇天のマリア様に特別の信心を持っていました。そして「ぜひ京都に、被昇天のマリア様の、都にそのマリア様の教会を建てたい。そしてぜひ天皇陛下にも会って、都で布教をしたい。」

天皇陛下の所に京都に行くのですけれども、その時には応仁の乱で、京都は荒れ果てて、天皇陛下もタケノコ暮らしのように、何か持ち物を売っては食べ物を得ていたという程に、非常に権力の力の無い状態でした。聖フランシスコ・ザヴェリオは非常に清貧な姿で行ったのですけれども、「そのような姿では天皇と会う事ができない」と言われて、そして「何とかそれでは、平戸に残してきた贈り物とか全てを取り寄せるから、どうしても会わせてほしい」と言ったのですけれども、それも聞き入れてもらえずに、京の都を去らねばなりませんでした。

もしもその時に聖フランシスコ・ザヴェリオが天皇陛下と会っていたら、日本の歴史は、或いはカトリックの歴史は、全く違ったものとなっていたかもしれません。しかし天主様の御摂理は、違う方にそれをお許しになりました。

その時に将軍は足利義輝で、彼はやはり近江に逃げていましたが、この将軍が京都での宣教布教を許可し、居住も許可をしたので、これが1560年、聖フランシスコ・ザヴェリオが到着してから約10年の後には、公式に将軍によって日本からの宣教の許可が得られて、そしてキリシタンたちはパードレたちはキリストの教えを広めていました。

パードレの事は当て字で、伴侶の「伴」に、「天」に「連」れて行くと書いて、それを当て字をやっていました。そこでパードレの当て字が後に、パードレたちを司祭たちを呼ぶ呼び方として、伴天連(バテレン)という風に呼ばれるようになりました。まさに一緒に天国に連れて行くパードレたちには、素晴らしい当て字でありました。

多くの日本人たちが回心して、その中には大名や有名な武将や、織田信長の直々の親族、或いはこの度列福される高山右近、或いは毛利、或いは黒田、有馬など、有名な大名たちが続々キリシタンになりました。

そして1586年には、大阪にいた秀吉の元に、イエズス会の面々としたパードレたち、或いはキリシタン大名たちの勇士たちが、立派な貴族たちをキリシタンの貴族たちを連れて会見しています。約30名が連なって、秀吉は非常に喜んで、武器も持たずに侍者に持たせたまま、普通大名と話す時には何も話さず、無口で睨みつけているこの秀吉が、パードレたちのすぐ近くに寄って来て、にこにこ笑いながら話して、「この土地をあげよう。ああしよう」などと歓談していたのを見ると、「将来日本には、日本のキリスト教会はこれでバラ色の花のようだ」と一見すると思われるようでした。

しかし多くのキリシタン大名や、仏のお坊さんや、或いは神社の主や、或いは山伏などがキリスト教に続々回心していくのを見て、そしてお寺がそのような人たちが回心するのでそのまま管理されなくなるのを見て、一部の身分の高いお坊さんたちが恐れます。

特に豊臣秀吉は病がちであり、それに「加持祈祷を行なって、魔術をお祈りをしてその病を治す」と言っていた施薬院徳運というお坊さんは、このキリシタンの発展を非常に苦々しく思っていました。

そこで秀吉を説き伏かせて、「キリシタンを迫害するように。キリシタンをパードレたちを国外に追放するように。ただし貿易だけはやって、お金儲けはすれば良い。キリスト教はいらないけれども、お金儲けはしなさい」という禁令を出します。それが、秀吉とパードレたちがキリシタンたちが、キリシタン武士たちが会見したその1年の後でした。

あっという間の突然の変化に人々は、「これからどうなるだろうか」と心配しました。しかし秀吉は、ただお坊さんにそそのかされてこの禁令を出しただけで、それを実践するそれを実行するという訳ではありませんでした。パードレたちが宣教していても別にそのそれはそのままであったし、まぁ自分に加持祈祷をしてくれるお坊さんの気に入るように御触れは出したけれども、別にそれを守りたいという思いはないように思いました。

そうこうするうちに、その禁令の9年後、マニラからメキシコに向けていつもの定期船が、サン・フェリペ号が出る事になりました。そのサン・フェリペ号には莫大な富、生地、絹、或いは生きた猿、或いは香辛料、或いは金銭にしたらとても数え切れないほどの物凄い富が積まれて、そしてメキシコに行く途中でした。ところが残念ながら台風にもまれて、それが土佐の浦戸の港に座礁してしまうのです。

ちょうどその1ヶ月前、この座礁したのは10月19日の事でしたが、その8月30日と9月4日には京都で大きな地震があって、秀吉のお城も壊れていたし、お寺も壊れたり仏像も倒れたりなど被害が多かったのです。キリシタンたちはこの被害者の為に救援に行っていましたけれども、しかし心ない人たちは、特にキリスト教を思わないようなお坊さんたちは、「これはキリシタンのせいで起こった地震だ。だからキリシタンがこの償いに看護して救援するのは当り前だ。俺たちは何もしない、俺たちのせいではない」と言っていました。

四国の浦戸に座礁した、莫大な富を持ったそのサン・フェリペ号を見て、欲にくらんだその四国の城主が秀吉に提案します、「これを没収するがよい。」

その当時の日本の法律によれば、或いはそのような難船の荷を没収するのは全く違法でした。本来なら彼らを助けて、また逃がしてやらなければなりません。しかしこの財宝に目がくらんだ秀吉は、何とかして没収する手段を探しました。そこで思いついたのが、この10年前の、唯一の合法化する「キリシタン禁令」でした。「キリシタン禁令を使って、これを没収しよう。」

そこで京都の奉行の石田三成に言い渡して、「キリシタンたちを全て逮捕しろ。」

石田三成は非常にキリシタンに好意を持っていたので、何とかそれをやめさせようとしたのですけれども、それができなかったので、被害を最小限に留めようとしました、「何とかしてイエズス会の司祭たちはしないように、或いは何とかして、」しかしどうしても、名簿を作って24名が逮捕されました。その禁令を決行させる、絶対に行う、としたのが1596年12月8日の事でした。


第2のポイントは、ではこの逮捕連行から殉教まで、どのような事が起ったのか、です。

大阪で17名、京都ではフランシスコ会の天使の聖母(教会)に居た人たちが7名逮捕されて、全て京都にやられて、合計24名が捕まりました。フランシスコ会の神父様と修道士6名、フランシスコ会の教会によく通っていた信徒が14名、イエズス会の関係の方が3名でした。

当時、その24名の中で一番のリーダー格であった指導者であったのは、ペトロ・バプティスタ神父様でした。フランシスコ会の司祭で、フィリピンと日本の友好関係の為にフィリピンから特使として送られて来た方でした。1593年からずっと日本に来て、そして特に京都で貧しい人の為、病気の人の為、特に癩病の人の為、孤児の為に病院を作ったり、世話をして献身的に働いた、福祉と善の為に働いてきた方でした。一体何の悪事を働いたという事でしょうか。

しかしペトロ・バプティスタ神父様は、イエズス様の為にこうやって罪なく悪人とされて、逮捕されて、これで死を受けるという事を非常に喜び、栄光と考えました。唯一心残りだったのは、京都に残していかなければならない癩病の、病院に居る130人の患者さんたち、また別の病院に居た貧しい50人の病人たち、「一体、彼らの事はどのように面倒見るだろうか。彼らの為にはお米の蓄えがない。どうやって食べていけるだろうか。」それだけが心残りでした。しかし全て天主様の御摂理と御憐れみに委ねて、彼らに祝福を与えて、自分は殉教の道を進む事にしました。

こうして24人は、京都の一条戻橋で翌年1597年1月3日に連行されて、耳を1つ削がれます。ちょうどその時奉行の秘書だったのがキリシタンで、その耳を殉教者の耳を取って、そしてイエズス会の神父様に渡すと、「あぁ、何と美しい殉教の初穂であろうか」と、その彼らの勇敢さを讃えた、と伝えられています。

本来ならば秀吉は、「鼻も削げ、耳も両耳も削げ」と言われたのですけれども、しかし奉行は自分の情状酌量で、耳だけにしたとの事です。

そして辱しめと見せしめの為に、京のあらゆる大通りを馬の荷車に乗せて、そしてうねり歩かせました。京都だけではなく大阪にも行きました、堺にも連れて行きました。そして皆が見せしめで「どうだ!」とされました。その中には、12歳のルドヴィコ、或いは13歳のアントニオ、或いは14歳のトマスなどもいました。

しかし彼らは悲しいような様子を見せる事なく、ウキウキと快活に、微笑みを絶やさずに、その「これから殉教する」という事を待ち臨んでいるかのように思いました。

1月10日にはその見せしめが大阪で終わり、1月10日に大阪を長崎まで出発します。秀吉は「長崎にやって十字架に付けよ」と命令したからです。1ヶ月の徒歩の旅でした。800キロを雪の中、寒い冬、凍えながら、着の身着のまま歩かなければなりませんでした。なぜ歩いたかというと、やはりこれも見せしめの為です。

ところで備前では、護送の役人ではキリシタン武士が、明石掃部というキリシタン武士が護送の長に立っていたので、このキリシタンたち24人を助ける事ができました。

京都に居たオルガンティノ神父様はイエズス会の神父様ですけれども、何とかこの連れて行かされる24人を助けようと、ペトロという信者を送ります。フランシスコ会の神父様も、大工のフランシスコを送ります。そしてこの2人は24人の世話をして、道々800キロを歩くのですけれども、遂には自分たちも一緒に殉教の名誉を受ける事になります。名簿には載っていなかったのですけれども、この2人も付け加えられます。

800キロを1ヶ月間歩き通して、ただ長崎の湾に行く時の間だけ、ほんの少しだけ船に乗らなければなりませんでした。その船に乗って時津の湾に着いた時には、2月5日の事でした。その夜、寒い朝を船の中で凍えながら上陸するのを待たされました。

彼等はただ思っていたのは、「イエズス様の為に命を捧げて、天国に行きたい」という事だけでした。「ではここで。天国で会いましょう」と挨拶し合っていたとの事です。

上陸した後に、西坂の丘まで歩かされました。1ヶ月の間、着の身着のまま歩いていたので、もう足が痛くて歩けなかった年寄りの方もいたのですけれども、しかし西坂の丘に行く時は、今までの苦しみが何もなかったかのようにスタスタと歩いて行った、との事です。

特にルドヴィコは、子供のルドヴィコは「私の十字架はどこ!?」と言って、十字架にかかり、「ジェズス、マリア!」「ジェズス、マリア!」と叫びながら、或いは「パライソ!」「パライソ!」或いは、テ・デウムと感謝の祈りを皆で歌いながら、十字架に付けられました。

そして十字架に付けられた後に、一人一人の26の十字架の1つ1つに、2人の兵士が役人が立って、槍でバッテン状にクロス状に胸を突き刺して、そして殺していったのでした。

外出禁令が出ていたにもかかわらず、4000名がこの殉教を見る為に出て来ました。パードレたちもやって来ました。その日本の最初の信仰の証しを捧げた後に、その勲しは世界中に広まり、1862年6月8日にはピオ9世が、福者ピオ9世がこの26聖人を列聖しています。

どんな面影があったかというと、色んな業種の人、色んな立場の人、子供から老人まで色々ありました。国籍も色々でした。

例えば、いつも説教をして病院で働いていたパウロ鈴木。彼は49歳でした。

或いは、17歳で洗礼を受けて、公教要理をよく学び、カテキスタとして働いていたガブリエル、聖ガブリエル。受洗してたった2年で殉教しています。

少しちょっと前に信者となったばかりの、絹を売っていたヨハネ絹屋。28歳で殉教しています。

或いは、薬屋で賄を立てていて、フランシスコ会の天使の聖母の修道院のすぐ隣で薬屋をやっていたのですけれども、フランシスコ会の神父様の影響を受けて洗礼を受けて、薬を入れながら天国への道も教えていた、というトマス談義。彼はその洗礼を受けるまで非常に短気で怒りっぽくて、いつもカッカしていたのですけれども、洗礼を受けてからは非常に温厚になって、36歳で殉教します。

或いは、やはり医者であった48歳の聖フランシスコ。

或いは、元々武士だったのですけれども病気になって、その病気になった時に神父様から洗礼を受けて、洗礼を受けると病気が治り、それから次にはフランシスコ会の修道院で手伝いをして、料理を特にやっていたヨアキム榊原。40歳で殉教しています。

或いは、14歳の子供トマス小崎。これはお父さんでミゲル小崎のその子供で、一緒に殉教しています。お父さんのお手伝をして大工の手伝いをしていました。フランシスコ会の修道院を造る為に一生懸命働いていて、そして全てイエズス様の奉仕の為に捧げていた子供でした。

中には、幼児洗礼を受けたまま、お母さんと一緒に幼児洗礼を受けたままお母さんが亡くなってしまったので孤児になって、そして寺に預けられて、寺に預けられたままお坊さんになって、20年暮らしたのですけれども、「キリシタンが居る」という事を聞いて、実は自分もキリシタンだったという事を知っていて、それでキリシタンの教えをまた聞いて改宗したボナベントゥラ。

或いは、癩病の人の為に一生懸命働いていたレオ烏丸。この殉教者の中で指導的な、平信徒の中では非常に指導的な立場でした。

本当はフランシスコ会の中で料理をやっていた「マチアス」という男を探していたのですけれども、役人が「マチアスはいるか!?料理人のマチアスはいるか!?」と、誰もいないのです。するとこの26聖人の1人のマチアスは、「私がマチアスだ!料理人のマチアスだ!」「違う。」「しかし、でも私が行く!」「あぁそうか、よし。」と役人に受け入れられた、そして殉教したマチアスもいます。天主様もこの殉教を受け入れました。

スペインから来たフランシスコ・デ・サン・ミゲル。53歳。

スペインから来たフランシスコ・ブランコ。30歳。彼は日本語が非常に上手でした。

ポルトガル人のお父さんを持ってインド人のお母さんを持っていた、インドから来たゴンサロ・ガルシア。16歳の時に日本にやって来て、日本語とポルトガルをペラペラ話していたのです。でも、どもりで聞く人は少し大変だったようです。しかしイエズス様の話しをする時には、或いは宗論をする時には、日本語を非常にはっきり話した、と記録が残っています。

或いは、メキシコの裕福な家で生まれた、フィリッポ・デ・ヘスス。彼はフィリピンでフランシスコ会に入り、それからメキシコのお父さんとお母さんの元に行って、そして司祭に叙階になる予定でした。ところが難船で日本に来て、司祭になる代わりに聖人になりました。

スペイン人のマルチノ・デ・ラ・アセンシオン。30歳で、日本語が非常に上手でした。祈りの人でした。いつも夜、お祈りとお祈りとお祈りと苦行をしていました。スペインの貴族の生まれの人です。

ペトロ・バプティスタ。これもスペインの方で、日比友好特使として日本に来た指導者でした。特に貧しい人や、病気の人に特別の愛情を以て捧げた人でした。48歳。

アントニオ君は13歳ですけれども、中国人のお父さんと日本人のお母さんを持っていました。殉教の時に、お母さんがその十字架、自分の十字架のそばで涙を流して、もう嗚咽で言葉が出なかったのを見たのが唯一心残りだった、といいます。聖アントニオはマニフィカトを歌いながら、マリア様を歌いながら殉教していきました。

12歳のルドヴィコ茨木は明るい子で、1年前に洗礼を受けたばかりでした。十字架に付ける前に「自分の十字架はどこですか!?早く付けられたい!」と言って、朗らかに殉教していきました。

19歳のヨハネ草庵。

或いは、元武士であった54歳のパウロ茨木。子供も、ルドヴィコ茨木と共に殉教しています。

イエズス会の33歳のパウロ三木。安土で造られたセミナリオの第1回生でした。高山右近をよく知っていました。

64歳で最年長のディエゴ喜斎。

或いは、弓を打っていて、心が天主様に向かう弓のようだったミカエル小崎。46歳。このミカエル小崎は、自分の宝を全て天主様に捧げました。子供トマス小崎も捧げました。もうこれ以上捧げるものはありませんでした。

ペトロ助四郎は、オルガンティノ神父様から殉教者を助ける為に送られた30歳の男でした。

伝道師のコスメ竹屋。38歳。

そして9ヶ月前に洗礼を受けたばかりで、大工をやっていた、そしてフランシスコ会の神父様によってこの殉教者を助けるように、24人を助けるように送られた、フランシスコ吉。彼も受洗後9ヶ月にして、殉教の冠を得る事になりました。

そのような色々な人々がいますけれども、私たちは今日どのような決心を取らなければならないでしょうか。

まず私の提案するのは、このような殉教者は実は、殉教を避けようと思えば逃げたり避けたりする事は実はできたのです。しかし進んで、「私こそ殉教者だ、私がマチアスだ、私が行く」と。或いは24人に一緒に行ったが為に、逃げようと思えば逃げられたのにもかかわらず、一緒に殉教する事になった2人などいます。

それに比べて私たちは、この世の辛い事、悲しい事、十字架を、或いは誘惑を、どれほど簡単にギブアップしてしまう事でしょうか。少し電話の「新しい電話を買おうと何とかショップに行くと何時間も待たされて、店員の態度は悪い。不親切だ。説明もない」などと少しの事で怒ったり、或いは「自分がお金がないと言ったら店員の顔が変わった。馬鹿にしているのではないか。何か金持ちにはへらへらするくせに、貧しい人にはこんなに冷たい態度を取るのか」、或いは「電車が遅れた」、或いは「飛行機の連結ができなかった」、或いは「乗り遅れた」、或いは「友達から何か嫌な事を言われた」、或いは「意地悪をされた」、或いは「病気になった」、或いは「テレビをこれを見たい、本当はこれを見ちゃいけないのだけれども」、或いは何か友達から「一緒に悪い事をしよう」、「この今の流行はこうだ」、「今はこれをしなければ遅れちゃうよ」などと言うと、私たちは簡単な事で、「あぁ、」イエズス様の十字架、イエズス様の苦しみ、或いはイエズス様の教えをコロッと忘れてしまって、本来なら担うべき十字架を、本来なら天主様から送られた十字架を、あっというまに捨て去ってしまっているのではないのでしょうか。

私たちの日常の生活は殉教の生活というよりは、「殉教からどうして逃げようか、十字架からどうして逃げようか、何とか面白楽しく過ごす事はないだろうか」と探しているのではないでしょうか。

26聖人は、祈って、祈って、そして「全て天国の為にこの短い命を捧げたい」と思いました。

子供に役人が聞くのです、役人がパウロ三木の友達であった役人は、この幼い子供が十字架に付けられるのを見てあまりにも不憫でならず、「お前、許してあげるからこの口先だけでも、『キリシタンを捨てる』と言えばいいから、そしたら助けてあげる。」するとこの子供は、「この儚い短い命と、永遠の命をどうして換える事ができるでしょうか。嫌です!」と答えたのです。

それに引き換え私たちは、永遠の命との引き換えに大罪を犯してしまったり、この罪を犯してしまったり、イエズス様の教えを否んでしまったり、この恥ずかしがったり、何と卑怯な事をしてきてイエズス様の心を悲しませてきた事でしょうか。

第2のポイントは、殉教者たちはいつも、永遠の命や、パライソや、イエズス様、マリア様の事を考えていました。ですから最後の最後まで「ジェズス、マリア!」「ジェズス、マリア!」とか「パライソ!」「パライソ!」と「天国!」「天国!」と言ってきました。

まさにカトリックの教えというのは、私たちの来世の永遠の命の為にあるものです。そして私たちが永遠の命を受ける為にこそ、この世を清く正しく誠実に生きなければなりません。この世が目的ではなくて、来世が目的であるが為に、手段であるこの世が良くなければなりません。

ところが私たちは、その「永遠の命」という事をコロリと忘れてしまって、この地上の事だけに、この地上の事だけを考えて、その利益だけを求めてきたのではないでしょうか。

愛する兄弟の皆さん、では今日この26聖人の祝日に、私たちも是非その精神を、罪を忌み憎み、そして罪を犯すようであれば、「イエズス様を、罪を犯して悲しませてしまう事であれば、むしろ命を失った方がマシだ!」という決心が立てる事ができますように。殉教者のこの勲しに倣う事ができますように。私たちはそれから遠いものですけれども、26聖人の、また日本の全てのいと尊い殉教者の御勲しとその取り次ぎによって、私たちにその精神が与えられますように。信仰の、堅固な信仰が与えられますように。そしてイエズス様から、「あぁ、友よ」と言われるその日まで、それを守る事ができますように。

“Dico autem vobis amicis meis ne terreamini ab his qui vos persequuntur.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

韓国にある「板橋駅」

2022年02月03日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ

愛する兄弟姉妹の皆様、

韓国にも「板橋駅」があります。
写真は京江線の始発駅の板橋駅です。


下は、同じ場所の板橋駅ですが、新盆唐線の板橋駅です。


台湾にも板橋駅があるそうです。

2022年2月2日は、2月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2022年02月02日 | カトリックとは

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2022年2月2日は、2月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。

初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


【再掲】善き出来事の聖母の言葉(1634年12月8日)

2022年02月02日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

善き出来事の聖母の言葉(1634年12月8日)をご紹介いたします!

「この地上の誰も、霊魂たちの救いがどこから来るのかを知らない。大きな罪人らの回心、大きな苦しみの終わり、大地の肥沃さ、疫病と戦争の終結、また諸国の友好関係がどこから来るのかを知らない。これら全ては、大小様々な修道院から立ち昇る祈りのおかげである。」

No one on the face of the earth is aware whence comes the salvation of souls, the conversion of great sinners, the end of great scourges, the fertility of the land, the end of pestilence and wars, and the harmony between nations. All this is due to the prayers that rise up from monasteries and convents.





--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】