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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

一体なぜ聖ヨゼフがこれほど偉大な栄光を受けているのか?聖ヨゼフの作った最高作品、人生の傑作とは?

2022年05月13日 | お説教・霊的講話

2022年5月1日(主日)勤労者聖ヨゼフの祝日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(東京)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

レネー神父様、親愛なる兄弟姉妹の皆様、

今日は勤労者聖ヨゼフの祝日を祝っています。

レネー神父様が、私たちの為にミサを捧げるために、しばらく日本に滞在することができるようになりました。天主様に、マリア様に、聖ヨゼフに、この御恵みを感謝致します。これから主日は、日本に三人の司祭がいる時には、司祭がここ東京に二名いる予定になっています。ですからミサの途中で告解の時間が足りないという方も、ぜひ神父様に告解をお願いして下さい。ミサの途中でも神父様は告解を聞いて下さいます。

今日はアジア管区の全てのチャペルで、新アジア管区の神学生の為の特別献金があります。教会の入り口にありますので、もしもできる方はご協力を感謝致します。日本の国籍の神学生が、アメリカに今一人、勉強しています。アジア管区には、またフィリピン人の神学生、あるいは中国人の神学生、韓国人の神学生もいます。

今日は、勤労者聖ヨゼフの祝日です。カトリック教会の教えによれば、聖ヨゼフというのは、イエズス様とマリア様のその次に続く、偉大な立派な大聖人です。今日、特に聖ヨゼフの特別な祝日、勤労者聖ヨゼフにおいて、一体なぜ聖ヨゼフがこれほど偉大な栄光を受けていて、一体どこが聖ヨゼフの選ばれたところなのかを一緒に黙想致しましょう。

聖ヨゼフがなした業績というのは一体何なのでしょうか?一体そのその勤労者として作ったどの作品がこれほど偉大であって、今天国でイエズス様やそのマリア様のその直後に置かれるほどの偉大な最高の大聖人となることができたのでしょうか?それとも偉大さとは、その生まれの良さだったのでしょうか?あるいはその集めた富だったのでしょうか?あるいはその政治的な力だったのでしょうか?
今日はこれらを少し考察することに致しましょう。

聖ヨゼフの職業は大工でした。しかし聖ヨゼフが作った作品というのは残っていません。

聖ヨゼフは実は王家の王室の生まれでした。本当ならば王様の椅子に座るべき方でした。しかし当時はとても貧しくて、王としてのあるべき椅子はありませんでした。別のユダヤ人ではないイトゥレア人のヘロデという残酷な人がユダヤを支配していました。しかもこれはローマ帝国によって王に据えられた人で、難しい単語で言えば「傀儡政権」、言ってみれば「操り人形」でした。ユダヤの人々は半分政治的な自由も失っていました。ローマの属国になっていました。

聖ヨゼフはしかも、そのヘロデの後継者アルケラオが来た時には、身の危険を感じてナザレトという全く名前の知らないような寒村に避難しました。「一体ナザレトからどのような良いものがで出るだろうか」とその当時ユダヤの人さえも言ったような寒村に行きました。そして何も知られずに貧しい生活をし、労働をして日々の糧を得て生活をしていました。

聖ヨゼフがなさった作品、あるいは私たちが聖ヨゼフについて知っていることをいくら見ても、なぜ聖ヨゼフが天でこれほど偉大で、イエズス様マリア様のすぐ次に続く最も偉大な方であるか、ということを理解できることは、この一つしかありません。それは「聖ヨゼフの信仰と希望と愛」です。

聖ヨゼフが偉大なのは、聖ヨゼフの信仰と希望と愛が、あまりにも純粋であって、完全だったからです。私たちの模範であったからです。この信仰と希望と愛の生活こそが、聖ヨゼフの作った最高作品、人生の傑作だったのです。そして私たちにもそれを作るようにと、その為に労働するようにと招いています。

では、聖ヨゼフの信仰というのはどういうものだったのでしょうか?
聖ヨゼフは、「イエズス・キリストが真の天主であって、人間となった天主であった、約束された真のこの世の救い主である」ということを全て固く信じていました。そして「マリア様が天主の御母である」ということを信じていました。そしてその信仰に全てを従属させていました。

日本の人は、よく、信仰について誤解しているようです。というのは「あぁ、信仰すると何か良いことがある、ご利益がある」だから信仰すると思っておられる方々が多いように見受けられるからです。たとえば「この信仰を持っていると、遂には商売も繁盛するし、交通安全だし、試験は合格するし」というように思っているかもしれません。ともすると私たちもそのように思ってしまいがちです。つまり「信仰というのは何かの道具、何かの手段であって、その目的は自分の利益だ」と錯覚する危険があります。

しかし、もしも信仰がそのようになってしまうと、私たちの考えや、あるいはこの世俗の考えが信仰を変え、自分の思う通りに信仰を作り変える、という近代主義の異端に陥る危険があります。本当の信仰ではなくなってしまう危険があります。

ところが、聖ヨゼフはそうではありませんでした。信仰というのは、最高の価値であって、真理であって、全てがそれに従属するものであって、その反対するものでありません。聖ヨゼフはそのことをよく分かっていました。

純粋な信仰、つまり「イエズス・キリストが天主であって、この方こそが絶対であって、私たちはそれに従わなければならない。だから全てをこの方の為に捧げる」という信仰でした。

ですから、たとえヘロデがイエズスの命を狙っている、天使が「さぁヨゼフ、起きて、エジプトに行きなさい」と言った時も、一つも疑うことなく、「はい」と従いました。夜中に黙って起きて、子供と母マリア様を連れて、エジプトに行きました。

何故かというと、全ては天主によって、全能の聖父によって統治されていて、全てはその支配の下にある、ということを知っていたからです。いくらたとえ何か私に辛いことがあっても、それはすべて三位一体の支配の統治の下にあるので、安心していたのです。その誰も主の支配を抜け出すことができない、ということを固く信じていたからです。それが本当のことだからです

聖ヨゼフはこの信仰の為に生きて生活していました。たとえ貧しい生活だったとしても、たとえこの境遇が難しかったとしても「全ては天主の御旨である」と深い信仰で、それに従順に従ったのでした。この信仰に人生を全て従わせたのでした。イエズス・キリストの為に、マリア様の為に、どのような苦しみがあっても、どのような困難があっても、全てを捧げていました。

また聖ヨゼフには本当の希望がありました。この本当の希望というのは、何かこの世で「ある日、王様になるじゃないか」とか「ある日お金持ちになるんじゃないか」とか、この世で何か良いことが起こるだろう、ということを甘く幻想するのではありませんでした。

そうではなくて、本当の希望というのは、「私たちは遂に、永遠の変わることのない命を、最高の幸せを勝ち得ることができる。地獄の火を避けることができる。本当の喜びに入ることができる。天主の命を受けることができる」ということこそが本当の希望です。「イエズス・キリストと共にあるならば、そしてイエズス・キリストとともにあるという条件でのみ、永遠の命が与えられる」という希望でした。聖ヨゼフはそのことをよく分かっていました。

その為にこそ、聖ヨゼフの愛の対象は、イエズス様とマリア様でした。イエズス様とマリア様だけを愛していました。自分よりもイエズス・キリストを、そしてイエズス・キリストの為にマリア様を愛していました。聖ヨゼフは全く何も福音書で仰った言葉を記録されていない、「沈黙の聖人」と言われています。しかし聖ヨゼフの全生涯が、イエズスへの愛を声高く叫んでいます、聖母への愛と信頼を雄弁に物語っています。

聖ヨゼフのなした人生こそが、最大の傑作であって、この聖ヨゼフの労働の実りでした。その人生そのものが作品となっています。

愛する兄弟姉妹の皆様、そして小さなお友達、聖ヨゼフという方がとても偉大な方だ、ということを知って下さい、聖ヨゼフの偉大なその徳に学ぶことができるように、どうぞお祈りして下さい。

この聖ヨゼフの御取次ぎによって、私たちも聖ヨゼフに倣って、この私たちの人生を、良い作品として、イエズス様とマリア様の為に御捧げ致しましょう。聖ヨゼフのようにイエズス様を愛し、そしてマリア様を愛することができるように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


復活祭は旧約の「過越の祭り」の完成:復活の神秘を掘り下げて、聖母が新しい契約の櫃であることを黙想する

2022年05月11日 | お説教・霊的講話

2022年4月30日(土)童貞女シエナの聖カタリナのミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(修道院)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日はシエナの聖カタリナの祝日です。本来ならばこの聖女についてとても興味深い黙想をするべきです。ドミニコ会の第三会、そしてフランスのアヴィニョンにいた教皇様に非常に強い口調で「腐っている枢機卿たちは破門してしまいなさい。教皇様はローマに来なければなりません」と諭して、そしてこの聖女のおかげで、教皇様がローマに戻ることができるようになった方です。

しかし今日は、復活祭を祝ったばかりのことですし、マリア様の土曜日でもあるので、マリア様の神秘についてぜひ黙想を続けることを提案します。

マリア様が第二のエワということは、知っている人は知っています。ところで、カトリックがマリア様の神秘を語ると、よくプロテスタント人からこのように言われます。「マリア様についてはほとんど聖書に書かれていないではないか。聖母の被昇天とか、新約聖書のどこにあるのか。」すると私たちはそのような人たちに「マリア様のことは聖書に全て書かれている」と、「新約聖書だけではなくて、旧約聖書も見なければならない」と言わなければなりません。

何故かというと、初代のカトリック信者は旧約聖書をよく知っていて、その理解の上で全てを理解していたからです。もちろん、イエズス様が第二のアダムであるということはよく知っていました。聖パウロがこれを教えています。第二のアダムがあるのならば第二のエワはどうでょうか?初代のキリスト者たちは第二のエワについても理解していたはずです。

イエズス様が救い主が、私たちを救いの約束の地に、約束の天の国に、私たちを罪の状態から解放させて下さる、ということを知っていました。旧約の預言が全てこの方において成就されるということを知っていました。たとえば復活祭は、旧約の「過越の祭り」の完成です。

今日は特に、復活の神秘を深く掘り下げて「マリア様が新しい契約の櫃である」ということを少し黙想しましょう。

さて、過越の祭りというのは、ヤーウェからモーゼに命令が下り、そして「エジプトの奴隷状態からお前たちを解放するから、だから一歳の子羊を屠って、その血を家の門に塗って、そしてそれを食べて、その後でエジプトを脱出せよ。もしもその血が塗られている所では、破壊の天使はそのまま通り過ぎるけれども、もしも塗られていないならば、すべての長男を殺す。」そのようになりました。

そしてその過越を食べた後に、彼らはエジプトを全て脱出します。脱出のその時には海がありました。紅い海、紅海というその海を直前に見ると、エジプトの最高の軍隊が馬車とを持って武器を持って、イスラエルの人たちに迫ってきました。するとモーゼはアーロンの杖を持って、海を真っ二つに分けて、その中を、壁のようになった海の中を歩いて行きます。

そしてイスラエルの人たちが全て渡り終わった時に、「さぁ、終わった」と杖を引くと、その後を追っていたエジプトの大軍は海の中に沈没して、溺れてしまって全滅します。

その後でモーゼは、シナイの山で天主の十戒の二つの石の板を受けます。

またヤーウェから啓示を受けて、モーゼは契約の櫃を作ります。この契約の櫃の中に、契約の櫃はアカシアの木で作られて、黄金で覆われていて、純金は神性(天主の本性)を象徴していました。ケルビムが天主を礼拝していて、「ここにこそ天主が、ここにまします」ということの現存のしるしでした。そして天主様のヤーウェの栄光が、御稜威が、雲のように輝き、そして昼は雲のように、夜は火となって民を照らして、その御稜威(みいつ)の神々しさが、その契約の櫃を覆っていました。聖書には「主の栄光の雲が契約の櫃を全て覆い、主の御稜威が輝きモーゼは契約の櫃に近づくことができなかった」とあります。その契約の櫃の中には天主の十戒の二つの石板、そして天から降ってイスラエルの民を養ったマンナのパン、それからアーロンの杖、これが三つが保管されていました。

ところで、この契約の櫃はいつもイスラエルの人にとって最も大切なものであって、もしもペリシテ人か何かと戦う時には、その契約の櫃を先頭に戦いました。この契約の櫃があれば敵は全滅しました。これがないと負けてしまいます。

ある時、この契約の櫃が牛に当たって、そしてその契約の櫃が倒れそうになった時があります。その時にウザという人が、それが倒れないように手で触れて、それを止めるのですけれども、「手に触れてはならない契約の櫃を触れたので、その場で彼は亡くなってしまいます。死亡してしまいます。それを見たダビド王は、本当は自分の家に来てもらおうと思ったのですけれども、「主の契約の櫃が私の家に来るとは何ということだろうか。とてもできない」として、別の人に、オベド・エドムという人の家に三ヶ月留まるようにしました。

すると、この彼が大きな祝福を受けて、ヤーウェから大きな祝福を受けるので、それを見て「あぁ、じゃあ私も」と言ってダビド王は、その契約の櫃を自分の街にエルサレムに受ける時があります。するとその契約の櫃を受けてダビドは非常に喜んで、喜び踊りました、契約の櫃の前で。そして喜びの叫びを上げた、と聖書に書かれています。

時代がさらに下って、バビロニアがイスラエルを攻撃して、そしてバビロン捕囚といわれている占領される時が来る時に、預言者エレミヤはその直前にヤーウェから啓示を受けて、この契約の櫃が冒瀆を受けないように、モーゼが約束の地を見た山、すなわちネボ山に、その山の洞窟に隠すことにしました(後マカベ2:4-10)。

ところがそしてお供に来た者が、それを後で見つけようと思って隠した所に印をしたのですが、ところが印を後で見ようとすると、エレミヤが叱って、いや、将来、主の憐れみの時が来る。憐みを受けるまで契約の櫃の隠された場所は知られずにとどまるだろう、しかしその憐れみの時が来ると、主の御稜威はあらわれて雲が現れるだろう。この契約の櫃に主の栄光の影が覆い、いと高き者の力(ちから)のかげが覆って、そしてまたこれが、契約の櫃が現れるだろう。だからその憐れみの時を待たなければならない、と説明します。そしてどこにあるか分からなくなりました。

なぜこのようなことを話したかというと、初代の信者はこれらのことをよく知っていたのです。旧約の過ぎ越しや契約の櫃について良く知っていました。あわれみの時の到来を待望していました。

イエズス・キリストの当時、エルサレムの神殿の至聖所に大司祭が入っても、中は空っぽだったのです。契約の櫃がまた現れるのを待っていたのです。

ところでイエズス様の過越、復活の最後の晩餐、そして御復活のことを見ると、「これこそ新しい過越であって、新しい脱出、奴隷状態からの解放である」ということを彼らはよく理解できました。

洗礼の水を通って、イエズス様の御血によって赤く染められた、その御血の功徳による洗礼の水を通って、私たちは悪魔の奴隷状態から解放された。そして洗礼の水によって罪と悪魔は全て滅ぼされてしまった。そしてその洗礼を受けた後には、私たちは石ではなくて聖霊によって私たちの心には天主の愛の掟が刻み込まれている。そして毎日、イエズス・キリストの御体である御聖体によって養われて、約束された天まで私たちは巡礼をしている。

では一体、その憐れみの時が来たのだろうか?では一体、その私たちを約束の地まで導く契約の櫃は一体現れたのかどうか?

現れた。何故かというと、マリア様が大天使聖ガブリエルの御告げを受けた時に「私は男を知らないのですが、どうしてそんなことになるのですか?」とたずねると「聖霊があなたにくだり、いと高きものの力のかげがあなたをおおうのです。」という答えがあったからです。

このマリア様が御告げを受けたその時に、大天使から、「エリザベトも子供を、石女と言われたにもかかわらず、もう今身ごもって六ヶ月経っている」ということを聞いて、その直後に、「仰せの如く私になりますように」と言います。その瞬間、イエズス様は天主の御言葉は、マリア様の御胎内に宿り、マリア様は新しい契約の櫃となったのではないのでしょうか。

マリア様の中には、将来私たちの御聖体となるべき、新しいマンナとなるべきイエズス・キリストが宿されましたし、マリア様は聖霊と一致した浄配でありますし、そして大司祭アーロンに変わる永遠の大司祭イエズス・キリストが御胎内に宿られたからです。

その証拠に、マリア様が聖エリザベトの所に行くと、エリザベトは「主のおん母が私を訪問してくださったのですか!これほどのことが、どうして私にめぐまれたのでしょう!」と言って、それをマリア様の訪問を受けた洗者聖ヨハネは胎内で喜び踊ったとあり、また聖エリザベトも大きな声で喜びの叫びを出した、といいます。聖母はそこに三か月とどまります。これは、旧約のダビドの前兆の実現ではないでしょうか。

聖ヨハネは、モーゼによって私たちは律法を与えられたけれども、私たちはイエズス・キリストによって恵みに次ぐ恵みを受けた、と福音に書いています。教父たちは聖ヨハネの福音を読んだ時にこう言いました。イエズス・キリストこそ来たるべき第二のモーゼであって、私たちを解放するべき方だった、と。

また聖ヨハネは黙示録に「天では天主の神殿がひらけ、その中に契約の櫃が見え、いなずま、声、かみなり、地震がおこり、大きな雹が降った。それから、壮大なしるしが天にあらわれた。太陽に包まれた婦人があり、その足の下に月があり、その頭に十二の星の冠をいただいていた。」(黙示録11:19&12:1)と天にある契約の櫃について書いています。

初代のキリスト教信者たちは、マリア様こそ来たるべき契約の櫃であったこと、その内にイエズス・キリストがいつも託されて留まり、そして私たちの先頭に立って戦って下さって、天国まで復活まで私たちを導く、新しい契約の櫃、天にある天主の神殿の中の新約の契約の櫃であることを理解していました。

では5月、聖母の聖なる月を迎える前に、マリア様への信心をますます燃え立てることに致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


5月8日は1429年5月8日に起こった聖ジャンヌ・ダルクによるオルレアンの大勝利の記念日です。聖ジャンヌ・ダルク、われらのために祈り給え。

2022年05月10日 | お説教・霊的講話

2022年5月8日 大阪での説教 聖ジャンヌ・ダルクについて

レネー神父様

親愛なる兄弟の皆さん、

今日は、1429年5月8日に起こった、聖ジャンヌ・ダルクによるオルレアンの大勝利の記念日です。そこで、この偉大で特別な聖女についてもっと知っていただくことが、皆さんの霊的な利益になると私は考えました。

彼女の生涯は実に例外的な出来事で彩られているため、彼女を模範にして、女性が軍の将軍になるべきだとか、男性の服を着るべきだとか、天からの声を受けることを期待するべきだなどと結論付けてはなりません。彼女の聖性は、このような特別な事情にあるのではなく、むしろ非常に深くて重要な聖徳にあるのです。

彼女の生涯については、非常に信頼できる偏りのない資料、つまり彼女の仇敵によって行われた裁判の資料そのものがたくさんあります。そのため逆に、この資料は、彼女に有利な偏りをもっていると非難されることはあり得ません。しかし、その資料は、彼女の聖性についての最も驚くべき証言を私たちに提供しています。

(1)ルーアンから彼女の生まれた村ドンレミに一人の調査員が派遣され、彼女の若いころのことについて尋ねました。調査員は戻ってくると、自分自身の娘にもジャンヌと同じように純潔、信心、聖徳、善良という評判があればよかったのに、と言いました。

(2)彼女が王太子(=前の王の息子、王位継承者で、戴冠前)に会うためにシノンに到着したとき、教会の神学者たちによってテストされ、彼女がカテキズムを非常によく知っていて、信心を実践していることが分かりました。彼女は、間違えやすい質問をされましたが、非常にうまく答えました。有名な答えにこういうものがあります。「天主がフランスを救いたいのなら、兵士は必要ない!」。彼女はこう答えました。

「兵士は戦い、天主は勝利を与え給う」

さて、これはほとんど教育を受けていない人間にとって、神学的に驚くほど健全なものです。二次的な原因(である兵士)は、その義務を果たさなければならず、至高にして第一の原因である天主が、最後の勝利をお与えになるのです。

このことは、オルレアンの特別な勝利にも、私たちの日々の聖化にも、悪魔との戦いや誘惑との戦いにも当てはまります。「兵士は戦い、天主は勝利を与え給う」。私たちは戦い、最後の勝利のために天主の御助けに頼らなければなりません。天主の御助けは、私たちが全力で戦うことをやめさせるのではなく、まさに戦って勝つ力を私たちに与えるのです。

プロテスタントはこのことを理解していません。彼らは、人間の功徳の価値を否定しています。彼らは、私たちの救いは天主の御業であり、私たちが行うことは重要ではないという点を主張します。それは間違いです。「兵士は戦い、天主は勝利を与え給う」。私たちは、肉、この世、悪魔と戦う必要があり、天主は忠実に戦った者に勝利を与えてくださるのです。

(3)彼女の旗には、王として座しておられるイエズスと、「イエズス・マリア」という言葉がありました。これは私たちの信仰の中心、私たちの生活の中心であり、私たちは、王たるキリストの御旗に従わなければなりません。フランス王は、聖ジャンヌによって、「キリストの副官」と呼ばれました。これは、フランス(そして全世界)の真の王のことです。

(4)戦いの前に、彼女はイングランド軍の将軍に、オルレアンの包囲を離れてイングランドに戻るよう命令する2通の手紙を口述し、彼らがそうすれば危害を加えないと約束します(これは正義による義務でした!)。彼らは彼女を笑い、あざけり、皆さんが想像できるように非常に悪しき名前で彼女を呼びさえします。これら手紙の中で、彼女は敵に危害を加えることを望まず、(正義を尊重しつつ)和平を申し出ていることが分かります。彼らがそれを拒否したときだけ、彼女は攻撃するのです。

(5)5月8日の土曜日にオルレアンで勝利した後、彼女はフランス軍が9日の主日に攻撃することを禁じ、もしイングランド軍が攻撃してきてもフランス軍が勝利することを約束します。彼女は、城壁の下に野外用の祭壇を建てさせ、兵士たちのためにミサを行わせ、全員が主日を聖とするようにしました。このように、彼女は主日の義務を尊重したのです。

(6)イングランド軍がオルレアンの包囲から撤退すると、その後、彼女は小さな勝利を重ねながら彼らを追いかけ、ロワール川沿いのいくつかの都市を解放し、6月18日のパテイでの最後の大きな戦いに至りますが、これは――天主の御摂理の助けにより――まさにイングランドの将軍たちを捕虜にし、彼女にとって大きな勝利となるのです。

(7)その後、彼女は王太子をランスというところに導き、そこで王太子は戴冠します。ランスの司教座は、496年のクリスマスにクローヴィスに洗礼を授けた聖レミの司教座でした。このクローヴィスの洗礼は「フランスの洗礼」と呼ばれています。フランスは最初のカトリック国家となりました(それ以前にも、洗礼を受けた部族の長たちのような小さな「王たち」はいましが、クローヴィスとは異なり、彼らの王国は長くは続きませんでした)。聖レミ自身が使ったと言われている油をもってランスで洗礼を受けなければ、正統なフランス王にはなれないのです。ですから、イングランドの候補者は正統なフランス王ではなかったのです。このことは、「天主から出ない権力(=権威)はない」(ローマ13章1節)ことを示しています。

どの王でも、王自身がこのことを認めれば、専制君主になることを防ぐことができるでしょう。王は、より高い権威、すなわち天主ご自身に、管理人の責任について説明しなければならないのです。王自身は天主に対して義務を負っているのです。「それゆえ、チェザルのものはチェザルに、天主のものは天主に返せ」(マルコ12章17節)。しかし、王自身は天主に誉れと栄光を捧げ、天主の法に奉仕し、従わなければなりません。もし王の法が天主の法に合わないなら、「私たちは人間よりも天主に従わねばなりません」(使徒行録5章29節)。ですから、「ペトロとヨハネは、(最高法院に)『天主をおいてあなたたちに従うことが天主の御前に正しいかどうかは,あなたたちが判断しなさい。私たちとしては、見たこと聞いたことを黙っているわけにはいきません』と答えた」(使徒行録4章19-20節)。ですから、世俗の法は天主の法に反するなら拘束力を失います。つまり、世俗の法は、良心を拘束できないのです。これは、妊娠中絶や安楽死を支持する法律など、多くの現代の法律にも当てはまります。

(8)王の戴冠を得た後、彼女はフランスに対する使命を達成しました。フランスをイングランド王の支配から解放するために彼女が始めた推進力は、彼女の死後数年のうちに彼らを完全に追放することにつながったのです。しかし、彼女は今、自分の人生の証しによって、死ぬまで忍耐することによって、その使命を封印しなければならなかったのです。

彼女はコンピエーニュで逮捕されました。イングランド軍に捕まりやすいように彼女一人を残して扉を閉めてしまった、その街の有力な市民の裏切りの後のことです。その後、彼女はルーアンの牢屋に入れられましたが、そこはイングランド人の手になる世俗の牢屋である一方で、彼女はルーアンの司教によって裁かれました。なぜなら、イングランド人が、彼女を魔女として死刑にすることを望んだからです。

(9)彼女は男性の服を着ていたことで告発されました。彼女はこう答えました。「私の事案は、教会の事案ですから、教会の牢屋に入れてください」。教会には男女別の牢屋があり、女性用の牢屋は女性によって管理されていたため、囚人にとってはずっと安全だったのです。しかし、イングランド人は拒否しました。ですから、彼女が何よりも望んでいたのは、貞潔を守ることであり、そのことが、彼女の例外的な事情を考慮して、彼女が男性の服を着ていた理由であることは明らかでした。

(10)彼女のとても有名な答えの一つに、こんなものがあります。彼女はこう聞かれました。「あなたは成聖の恩寵の状態にありますか」。さて、これは非常に難しい質問です。なぜなら、聖トマス・アクィナスは、成聖の恩寵は超自然的な現実であり、天主の特別な啓示がない限り(聖パウロやファチマの子どもたちなど)、誰も肯定的な答えの確証を持つことができない、と述べているからです。さて、彼女はこう答えています。

もし私がそうでないなら、天主が私をそうしてくださいますように。
もし私がそうなら、天主が私をそのまま保ってくださいますように。
もし私が、自分がそう(成聖の恩寵の状態)でないと知ったら、私は世界で最も悲しい人間になってしまうでしょう。
もし私がそうでなかったら、私は声を持てないだろうと思います。

最初の2行(もし私がそうでないなら、天主が私をそうしてくださいますように。もし私がそうなら、天主が私をそのまま保ってくださいますように。)は、彼女が成聖の恩寵の状態にあると望んでいることを表しています。この2行は質問の罠を避けています。

しかし、次に3行目(もし私が、自分がそう(成聖の恩寵の状態)でないと知ったら、私は世界で最も悲しい人間になってしまうでしょう)は、天主との友情(成聖の恩寵の状態)が彼女の最大の望みであり、何としてもそれを失いたくないということを示しています。

そして最後の1行は、彼女が自分の成聖の恩寵の状態を確信することができるようにするために、天主が彼女にお与えになったしるしを示しています(もし私がそうでなかったら、私は声を持てないだろうと思います)。(彼女が聞いている)その声で示されている聖人たちとの友情は、天主との友情のしるしなのです。

彼女の答えは、黙想の良い題材になるかもしれません。

もし私がそうでないなら、天主が私をそうしてくださいますように。
もし私がそうなら、天主が私をそのまま保ってくださいますように。
もし私が、自分がそう(成聖の恩寵の状態)でないことを知ったら、私は世界で最も悲しい人間になってしまうでしょう。

もう一つの有名な答えはこうです。彼女は教会に不従順だとして非難されました(彼女の裁きを監督した邪悪な司教コーションに抵抗したためです)。彼女は、声の導きに従って私たちの主イエズス・キリストに従順であることが、裁判官を満足させるはずだと主張しました。彼らは、これ以上何を求めることができたのでしょうか? そして彼女はこう言いました。

「私にとって教会とキリストは一つです」

裁判官たちの中には、このような答えや似たような答えを聞いたとき、私たちの主イエズス・キリストの次の言葉が耳に残っていた者もいました。「人々があなたたちを会堂や上司や権威者の前に引いて行くとき、あなたたちはどういうふうに弁明しようか、何を言おうかと心配することはない。そのときに言うべきことを教えてくださるのは聖霊である」(ルカ12章11-12節)。ですから、この裁判官たちは、聖人の死刑宣告に巻き込まれないように、夜までに町を出て行ったのです。

そして、1431年5月30日、彼女は火あぶりの刑に処されました。この最も残忍で不当な処刑の後、処刑に立ち会ったイングランド人の中にも、こう言った者たちがいました。「われわれはこの戦争に負けた。聖人を火あぶりにしたのだから」と。彼女は1456年に名誉を回復し、最終的に1920年に教皇ベネディクト十五世によって列聖されました。

聖ジャンヌ・ダルクに祈りましょう。私たちが、その信心、その勇気、その忍耐、その知恵に倣うことができますように。聖ジャンヌ・ダルク、われらのために祈り給え。童貞と殉教者の元后である聖母、われらのために祈り給え。

アーメン。

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「ロレトの連祷」と呼ばれている童貞聖マリアの連祷の連祷の起源について、「崇むべき器」という称号について

2022年05月10日 | お説教・霊的講話

童貞聖マリアの連祷についての説教

ドモルネ神父様 2022年5月8日

はじめに 

5月は、童貞聖マリアに捧げられる月です。それはなぜでしょうか? 5月は、他のどの月よりも、聖母の祝日が多いからです。5月には、「ロレトの連祷」と呼ばれている童貞聖マリアの連祷を毎日祈ることが、聖ピオ十世会の習慣です。

この連祷の起源についてお話ししようと思います。そして、「崇(あが)むべき器」という称号についても、お話しします。

1.ロレトの連祷の起源

連祷とは、私たちの主イエズス、童貞聖マリア、聖ヨゼフ、あるいは諸聖人に対する、一連の祈願です。これらの祈願は、彼らの栄光と力を宣言する称号の列挙からなっています。これらの称号は、聖書、神学、典礼、そして人々の信心からとられたものです。ですから、これらの称号の意味を黙想することは、自分自身を霊的に養う良い方法なのです。

私たちは、童貞聖マリアの連祷を、「ロレトの連祷」と呼んでいます。この連祷を誰が作ったのかは、分かりません。しかし、イタリアのロレトという場所で、人々がこの連祷を祈り始め、そこから世界中に広まっていったということは、歴史から分かっています。

ロレトは、童貞聖マリアの家が現在ある場所として有名です。この家は、以前はナザレトにあって、受胎告知と天主の御子のご托身が起こったところです。この家が、なぜ今イタリアにあるのでしょうか? 聖霊降臨の後、ナザレトにあったこの家は、カトリックの聖地となりました。(皇帝コンスタンティヌスの)皇太后聖ヘレナがその上に教会を建て、そこは何世紀にもわたって巡礼の目的地となりました。しかし、イスラム教徒がパレスチナを占領し、キリスト教徒を迫害しました。キリスト教徒の保護のために十字軍が組織されましたが、時とともに、最後にはイスラムのトルコ軍が優勢になります。十字軍が、アッコにあった聖ヨハネ騎士団の最後の砦を追われる数日前の1291年5月9日から10日の間の夜、天使たちが、童貞聖マリアの家を、パレスチナからダルマチアと呼ばれる地方に運びました。その家は3年半の間、そこに留まりました。そして1294年12月10日、天使たちはこの家を再びイタリアのアンコーナ地方の、ラウレタという名前の敬虔な婦人の所有する土地に移しました。その後、人々はこの家を、「ラウレタの家」と呼ぶようになりました。さらに10カ月後、この家は天使たちによって、再び現在の場所に移されました。教会が建てられ、その周りに「ロレト」という名前の新しい町が生まれました。

この3回の移送の話は、非現実的でおとぎ話のように聞こえるかもしれません。しかし、当時のローマ教皇クレメンス七世は、これについて綿密な調査を行いました。もちろん、カトリック信者の間で偽りの話が広まることを、教皇は避けたかったのです。すべては真実でした。そして聖母さえ、ロレトで数多くの奇跡を起こすことによって、その真実性を裏付けられたのです。

私たちの霊的な糧として、ここで、この連祷の中の一つの祈願について、考えてみましょう。私たちは聖母を「崇むべき器」と呼びますが、その理由を見てみましょう。

2.崇むべき器

崇めるとは、誰かが優れていることを公に認めることです。器とは、私たちが満たし、それから注ぎ出す容器のことです。器の価値は、その中身の価値に由来します。崇むべき器とは、貴重なものを入れるために作られた器を意味します。崇むべからざる器とは、汚れたものを入れるために作られた器を意味します。

聖母を「崇むべき器」と呼ぶのは、聖母がこの世で最も崇められるべき存在、すなわち、人となられた天主である、私たちの主イエズスを受胎し、その胎内に宿されたからです。御子の尊厳が、聖母自身の偉大さの土台です。天主の御母としてふさわしいお方となるために、聖母はすべての聖人や天使をしのぐほどのあらゆる超自然的な賜物で飾られたのです。教会は「集会書」にある次の言葉を、マリアに関するのものとしています。「私には、道と真理と知識と聖なる希望のすべての恩寵がある」(集会書24章18節)。ですから、「崇むべき器」という称号を通して、私たちは、天主の御母としての聖母の素晴らしさを宣言しているのです。聖母は、キリストの神性で満たされた「器」なのです。

しかしまた、この「崇むべき器」という称号によって、私たちは、すべての恩寵の仲介者としてのマリアの尊厳をも、宣言しているのです。実際、イエズスが聖母マリアを通して地上に来られたように、イエズスはマリアを通して、ご自分を霊魂たちにお与えになります。聖母は、私たちの主イエズスがその恩寵で満たし、そこから霊魂にその恩寵を注ぎ込まれる器のようなものです。この現実は、聖母の聖エリサベトへの訪問に示されているのが分かります。私たちの主イエズスを宿されたマリアは、聖エリザベトを訪ね、その家族に恩寵をもたらされました。聖エリザベトは聖霊に満たされ、ご托身の神秘の特別な啓示を受け、洗者ヨハネはその母の胎内で原罪から清められ、聖ザカリアは預言の賜物を与えられました。聖母は、キリストとその恩寵を、すべての人に与え続けておられます。だからこそ、教会は、「集会書」の次の言葉を、聖母のものとするのです。「私を慕う者はみな、私のもとに来て、私の実を食べよ」(集会書24章19節)。

聖母は、天主の御母であり、恩寵に満ち、またあらゆる恩寵の仲介者ですから、もっとも高く崇められるにふさわしいお方です。聖母を辱めようとする者たちに災いあれ。天主はそのような人たちを、最も厳しく罰せられるでしょう。

フランス革命時の1793年のある日、カトリックの宗教に対する憎悪に満ちた一団が、ある教会に入り、悪魔的な熱意をもって、教会内の像やその他神聖なものを、すべて破壊しようとしました。祭壇の上には、被昇天の聖母の美しい像があり、その足元では、天使がラッパを吹いていました。この犯罪者たちは、梯子を持ってきて、そのうちの一人が斧を持って梯子に登り、この像を壊して引きずり下ろそうとしました。梯子の一番上で、男は片手で天使のラッパを支えとして持ち、もう片方の手で斧を振り回しました。すると突然、天使のラッパが壊れ、男はバランスを崩し、下の祭壇の上に落ち、背骨を折りました。この男は、3日後、恐ろしい苦しみと絶望のうちに、死にました。その像は、今もその教会のその場所にあります。天主の御母を辱めようとする者は、皆同じです。彼らは聖母の偉大さを何一つ奪うことなく、自分自身こそが砕かれるのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、私たちは、毎日の真摯で愛に満ちた信心によって、崇むべき器である聖母をいつも崇敬しましょう。特にこの5月の間、ロレトの連祷を祈ることによって。

Photo Credit

 

The Illustrated Litany of Loreto

The following article is taken from the University of Dayton

The Marian Room

 

 


【親が育てられない子どもを匿名でも預かる慈恵病院(熊本市西区)の「こうのとりのゆりかご(赤ちゃんポスト)」】告白~僕は「ゆりかご」に預けられた【テレメンタリー2022】

2022年05月10日 | プロライフ

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

親が育てられない子どもを匿名でも預かる慈恵病院(熊本市西区)の「こうのとりのゆりかご(赤ちゃんポスト)」が5月10日、開設から15年を迎えたそうです。赤ちゃんの命を守る〝最後のとりで〟として、2020年度までに159人の子どもが預けられました。預けられた155人のうち、身元が判明しているのは124人(80%)だそうです。

告白~僕は「ゆりかご」に預けられた【テレメンタリー2022】【KAB 熊本朝日放送】

赤ちゃんポストに座っていた男の子、18歳になり「宮津航一として、その後を伝えたい」…2007年5月[あれから]<22>

 赤ちゃんポストに入っていた瞬間のことは、よく覚えていない。ただ、「扉のようなもの」の映像が、ぼんやりと頭に残っているだけだ。2007年5月、熊本市の慈恵病院に「こうのとりのゆりかご」と呼ばれる赤ちゃんポストが開設された。〈ぼく〉はそこに預けられた。「ゆりかごがあって、自分は救われた。当事者だからこそ、『ゆりかごから先の人生も大事だよ』と伝えたい」

【参考文献】

こうのとりのゆりかご - 熊本市 | 産婦人科 無痛分娩 小児科 慈恵病院

【よく分かる】こうのとりのゆりかご 開設15年の歩み|熊本日日新聞社

 


カトリック聖伝のミサの報告 聖ピオ十世会日本 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2022年05月09日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2022年5月8日に、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計119人でした。大阪では29人でした。東京ではフランスで初誓願をたてたばかりのシスターが二週間の休暇で日本に帰国してミサに与りました。次の休暇がいただけるのは6年後だそうです。東京では公教要理の子供たちが、シスターと一緒にカトリックの教えを学んでいました。とくに女の子たちはシスターが大好きになったようです。

大阪では5年ぶりにレネー神父様がミサを捧げてくださいました。天主に感謝申し上げます!

【報告】
Dear Fathers:
Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 119, including children.

09:00 mass
M: 22 (incl. 3 children)
F: 28 (incl. 2 children)
Total: 50 (incl. 5 children)

11:00 mass
M: 21 (incl. 5 children)
F: 27 (incl. 7 children)
Total: 48 (incl. 12 children)

12:30 mass
M: 12 (incl. 0 child)
F: 16 (incl. 3 children)
Total: 28 (incl. 3 children)

Total of 3 masses (excl. 7 people who participated in multiple masses)
M: 52 (incl. 8 children)
F: 67 (incl. 11 children)
Total: 119 (incl. 19 children)







復活したイエズス勝利、十字架の勝利、これこそ私たちの信仰の勝利。旧約はイエズス・キリストの復活によって成就した。

2022年05月09日 | お説教・霊的講話

2022年4月24日(主日)白衣の主日のミサ

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(名古屋)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、聖伝のミサにようこそ。今日は2022年4月24日、白衣の主日のミサを行なっております。

今日フランスで、聖ピオ十世会のシスター会の修練院で、日本で初めての聖ピオ十世会のシスター会の修練女が初誓願を立てます。「清貧」「貞潔」「従順」の初誓願を立てる予定です。今その式の最中かもしれません。どうぞこの方の為にお祈り下さい。シスター・マリ・エスペランスです。

そして多くの聖なる召し出しが与えられて、多くの方が修道者となることができますようにお祈り下さい。

一週間遅れましたけれども、私たちの主イエズス・キリストの御復活の御慶びを申し上げます。
私たちの主は本当によみがえりました。真に肉体を以ってよみがえりました。

復活のその日に、ユダヤ人たちを恐れて部屋にドアをして、鍵をかけてこそこそと隠れて、姿を隠していた弟子たちに、イエズス様は壁をつき通して、復活した体を以って現れて、弟子たちに言いました。
最初に言った言葉は、「お前たちに平和あれ!」でした。

この弟子たちはイエズス様を、あるいは「知らない」と三度裏切った者、あるいはイエズス様を見捨てて逃げてしまった者、あるいは中には、服を取られたのに、その服をさえ脱ぎ捨てて裸で逃げた者さえも、イエズス様があれほどの善をしたにも関わらず、あれほどまで三年間親密に生活したにも関わらず、逃亡してしまいました。裏切ってしまいました。誰も助けようとしませんでした。見放したままでした。十字架の下にさえも来ませんでした。たった来たのはヨハネだけでした。他の女性たちは婦人たちは居たにも関わらず、弟子たちは逃げてしまいました。

その彼らに、何の一言も叱責や恨み言も言うことなく、仰った言葉は、「お前たちに平和あれ。」

そしてその次に、本当に復活したということを見せる為に、御自分の手足、脇腹を見せて、本当に私だよ、ということを優しく示しました。そして見せた後にもまた「お前たちに平和あれ。」その言葉だけでした。

それのみならず、このそこにいた弟子たちに息を吹きかけて、罪を赦す力を与えました。イエズス様は裏切った弟子たちを赦したのみならず、彼らに赦す力さえも与えたのです。

赦しと、憐れみと、そして愛と、親切、慰めに満ちた光景です。本当にこれは天主のみがすることができる、愛の御出現でした。

その時に一緒にいなかった使徒聖トマは、「俺、信じない」と言います。
他の婦人たち、他の聖ペトロが、「イエズス様を見た。」「会った。」「触った。」
「あぁ、信じない。」「あぁ、信じない。」
皆が、「じゃあどうしたら良いのか?」
「あぁ、それはね、俺の指をその釘の穴に入れて、手を脇腹に入れたら、まぁ信じようか。」

使徒トマはあくまでも信じませんでした。「他の人が一体何を言っているか知ってるか?皆が何と言っているか知ってるか?もうごめんだ。」トマは、使徒たちの言葉よりも、他の人が何と言っているか、世間がどうだ、ということだけを信じていたかのようです。

すると八日目、つまり復活の後の八日目、つまり今日、イエズス様は夕方、18時頃かもしれません、ドアを閉め切っている弟子たちの中にもう一度現れて仰います。「お前たちに平和あれ!」

そしてトマスには、何の叱責の言葉も言わずに、「さぁ、お前の指をここの中に入れてごらん。お前の手をここに入れてごらん。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

何と優しい、何と憐れみに満ちた親切なイエズス様でしょうか。ただ、ただひたすらに、弱い私たち使徒たちに、イエズス様が本当に真に復活したということをただ見せたい、ということだけを思っていました。誰の責任だ!誰が十字架に付けた!誰が…ということは一切ありませんでした。

イエズス様が求めたのは、「ただその後には、十字架の後には栄光が待っている。その栄光をお前たちにあげたい。永遠の命を伝えたい。永遠の喜びを受けてもらいたい。その為にこれを信じろ」と、「さぁ、復活があるよ。本当に復活があるんだ。」それだけでした。そしてその為に、触らせたり、魚を食べたりして何を食べたりして、御自分の本当の復活を見せました。

今日、私たちにも同じことを仰っています。「お前たちに平和あれ。何も心配するな。十字架があるだろう。全ては難しい事だらけかもしれない。でも、私と一緒に十字架を担いで捧げるならば、必ずその十字架は喜びと栄光に変わる。全ては、私たちの目から全ての苦しみや悲しみは取り去られる、死は無くなる。喜びと、平和と、命だけしかなくなる。だから、イエズス・キリストの十字架の跡を慕って、復活まで付いてきなさい。」

イエズス様は私たちに仰っています。このイエズス様の十字架の勝利、これこそ私たちの信仰の勝利です。

旧約時代、エジプトで奴隷状態になっていたイスラエルの民、ファラオの下で強制労働がありました。その時にヤーウェ天主は、指導者としてモーゼを送りました。モーゼの指導の下に、イスラエルの民はエジプトの奴隷状態から脱出します。その奴隷のくびきを捨て去って、そしてその大群がモーゼの指導の下に、紅海と言われている海の中を通って、壁のようになった海の底を通って、全く濡れずに、エジプトから出て行きました。

それを見て怒ったファラオとそのエジプトの大群は、当時最高の技術と最高の軍事力を持っていたエジプト、財産のあったエジプトは、全ての軍力を戦車を使って追いかけます。イスラエルの人たちが紅海を渡ったその瞬間、それを渡り終わった途端、モーゼがアーロンの杖を取り払うと、海は元の通りに戻って、エジプトの大群は皆海の中に水没してしまって、全敗します、完敗します。

その直後に、モーゼは天主の十戒をシナイ山で受け、そして啓示によって特別の指導によって、ヤーウェの指導によって、天主の指導によって、契約の櫃を作ります。その契約の櫃の中には、「マンナ」と「十戒の石板」と「アーロンの杖」を入れるように、と。そしていつもその契約の櫃を先頭に旅立っていました。

紅海を渡って、そしてマンナに、天から降るパンに養われて、そして約束の地まで、契約の櫃が先頭を立って動いていました。もしも敵が攻撃したら、契約の櫃が先頭に立って敵と戦います。もしも契約の櫃がないと、イスラエルは負けてしまいました。契約の櫃があるならば、いつも勝っていました。

ある時、この契約の櫃を先頭についに約束の地に入り、そしてソロモンが神殿を建てるのですが、その神殿の中の至聖所と言われる最も聖なる所に、この契約の櫃が置かれました。毎年一年に一度、大司祭はこの契約の櫃のところに最高の生贄を捧げて、生贄の血を降り注いで、そして罪の償いの為に儀式を捧げました。

これは単なる影に過ぎませんでした、前兆に過ぎませんでした。旧約はイエズス・キリストの復活によって成就しました。私たちこそが本物のイスラエルであって、私たちは今、本当の新しいエジプト脱出、出エジプトを行なっています。悪魔の支配から逃れて、洗礼の水を通って、御聖体に養われて、そして契約の櫃を先頭に、私たちは天国へと移動しています。旧約で起こったその影が、この現実に今、この地上で、この2022年、今、このここで行われています。その先頭に立つ勝利者はイエズス・キリスト、モーゼであります。イエズス・キリスト、第二のモーゼイエズス・キリスト。そして私たちに先立って、復活の命に満ちて、私たちに「お前たちもこうなる」と御見せになりました。

愛する兄弟姉妹の皆様、ですからイエズス・キリストの復活を深く確信なさって下さい。そしてイエズス様の跡に従うことに致しましょう。苦しいこと、あるいは十字架がありますが、イエズス様と共にこれを御捧げ致しましょう。

マリア様に最後にお祈り致しましょう。マリア様こそ実は御聖体を、イエズス・キリストを宿された本当の新約の契約の櫃であります。聖母の連祷にもある通り。マリア様を先頭に私たちも、イエズス様を胎内に入れたマリア様を先頭に私たちも、天国まで行かなければなりません。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


【参考情報】日本の子どもの人口1465万人、41年連続減少:イーロン・マスク「世界には人が足りない。少子化が文明の滅亡を招く」

2022年05月09日 | プロライフ

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

総務省によると、子どもの人口は1465万人で、41年連続で減少しているとのことです。
日本の出生届に、すでに日本の消滅が予告されているのでしょうか?

今年も東京では7月18日(うみの日)にマーチフォーライフを行う予定です。愛する兄弟姉妹の皆様の参加をお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【参考情報】子どもの人口1465万人、41年連続減…22年ぶり全都道府県で減少【読売新聞社】

 総務省は、5日の「こどもの日」に合わせ、15歳未満の子供の推計人口(4月1日現在)を発表した。前年より25万人少ない1465万人で、41年連続の減少となった。…

 子供の総人口(1億2519万人)に占める割合は、前年比0・1ポイント減の11・7%で48年連続で低下した。

 子供の人口の内訳は、男子が751万人、女子が715万人だった。3歳ごとの年齢区分別でみると、年齢が低いほど人数が少なくなっている。

 0〜2歳が251万人で最も少なく、最多の12〜14歳の323万人と72万人の差があった。

【参考情報】イーロン・マスク氏が警鐘「日本はいずれ消滅するだろう」加速する日本の人口減をあやぶむ

米SNS大手ツイッターの買収で合意した電気自動車大手テスラの最高経営責任者(CEO)のイーロン・マスク氏(50)が、日本の出生率の低下に「いずれ日本は消滅するだろう」とツイートし、加速する日本の人口減に警告を鳴らした。

総務省が先日発表した2021年の人口推移で人口の減少幅が過去最高となり、死者数が出生数を上回ったことを伝える英語の記事について7日、「当たり前のことを言うようだが、出世率が死亡率を超える変化がない限り、日本はいずれ消滅するだろう。それは世界にとって大きな損失となる」とコメントしたもので、このツイートは米金融系ニュースサイトでも「マスク氏が日本に警鐘を鳴らす」と取り上げられている。

マスク氏はこれまでも、「問題は2050年までに世界人口は高齢化と減少することであり、人口過多ではない」と語り、国連の予想は的外れだと非難するなど、人口減少に警鐘を鳴らしてきたことで知られる。…

【参考情報】イーロン・マスク氏には8人の子供がいるとのことです。

彼は少子化に危機感を抱いている。昨年12月のイベントでも、温暖化への懸念から、人口が減った方がいいとする考えを否定し、「世界には人が足りない。少子化が文明の滅亡を招く」と熱弁を振るった。

Photo Credit: 

 


全ての聖寵の仲介者である聖母|無原罪の聖母の騎士の運動はこの真理に基づいている。もしも聖母がそうでなかったとしたら、私たちの事業も私たちの努力も無駄なことだったであろう。聖コルベ

2022年05月08日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年5月8日は御復活後第三主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「御復活後第三主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


【参考情報】デモス覚書:枢機卿会のフランシスコ疲れ(モンシニョール・ニコラ・ブックス)この覚書が次期教皇の選択に影響を与える可能性は?次のコンクラーベで優先事項とすべきことは?

2022年05月06日 | カトリック・ニュースなど

デモス覚書:枢機卿会のフランシスコ疲れ(モンシニョール・ニコラ・ブックスとのインタビュー)

THE DEMOS MEMO: Francis Fatigue in the College of Cardinals (An Interview with Msgr. Nicola Bux)

2022年4月13日 ダイアン・モンターニャ

レムナント編集長のまえがき

聖職者による大規模な性的虐待スキャンダルや典礼の混乱の広がりなど、カトリック教会の危機は何年も前から深刻化していますが、影響力を持つ少なからぬ枢機卿たちが、ついに傷口から出血を止めるための措置を講じたように思われます。

ジョージ・ペル枢機卿、レイモンド・バーク枢機卿らによる何回かの介入に加え、CNA(カトリック・ニュース・エージェンシー)は、2022年4月12日、世界中の70人以上の司教が、ドイツの司教たちに対して、そして間接的には世界の全司教に対して、「シノドスの道」は「離教につながる」危険があると警告する「兄弟としての公開書簡」を発表したと報じています

 聖霊と福音に耳を傾けようとしない「シノドスの道」の行動は、教皇フランシスコの信頼性を含む教会当局の信頼性や、キリスト教人間学と性道徳、そして聖書の信憑性を損ねている。

このことは、ここ数週間、枢機卿会の中で回覧されている謎の覚書をきっかけに始まり、バチカン内部でフランシスコに対する不満が広がっていることを示唆しています。覚書の作者は、教皇フランシスコの教皇職は「多くの点、あるいはほとんどの点で災難、大災害」であると主張しています。

この覚書を書いた責任者は誰なのでしょうか? 著名なバチカン・ジャーナリストであるサンドロ・マジステルは、こう説明しています。

 「四旬節の初めから、将来の教皇を選出する枢機卿たちがこの覚書を回し読みしていた。ギリシャ語で「民」を意味するデモスという名を持つこの覚書の作者は不明だが、このテーマに精通していることが分かる。作者自身が枢機卿である可能性も否定できない。」

また、ドイツの司教団を指し示しながら、教皇フランシスコの下での教会の全体的な問題点の(A)として提示しつつ、「デモス」は、人間の性の問題に関して教会が不可逆的に定義した教えを十分に損なう可能性がある「シノドスの異端」の到来を警告しています。

 「もしこのような異端をローマが正さなければ、教会は、正教会のモデルではなく、おそらく英国国教会やプロテスタントのモデルに近い、さまざまな見解を持つ地方教会の緩やかな連合体にまで貶められるであろう」。

「デモス」は、重大な懸念事項のリストから教皇フランシスコを除外していないため、多くの人が今、次の疑問を抱いています。デモスとは何者か、彼の覚書は枢機卿会の内部でどれほど真剣に受け止められているのか、そしてこのことは次のコンクラーベのいかなる前兆なのか?

このように話が急速に進展しているため、私たちは、謎の「デモス覚書」の問題について、モンシニョール・ニコラ・ブックス(Nicola Bux: 1947年生まれ、イタリア人司祭)に相談しました。「レムナント」の読者なら、モンシニョール・ブックスの仕事をよくご存じでしょう。彼は、教皇ベネディクト十六世の下での教理省をはじめ、長年にわたって聖座のいくつかの部署の顧問を務めてきた高名な神学者です。マイケル・J・マット

モンシニョール・ニコラ・ブックスとのインタビュー

【問い(ダイアン・モンターニャ)】「デモス」の意見は、バチカンの人々の意見をどのように代表しているのでしょうか?

【モンシニョール・ブックス】案内係から役人、当局者に至るまで、さまざまなレベルで調査してみないと分からないでしょう。この覚書は後者(当局)のレベルから来たものかもしれません。不満は広がっていますが、表面に出ずに現教皇職の終わりをただひたすらに待っている地下があることは明らかです。

教皇は、正教会の総主教キリールに、私たちは政治の言葉ではなく、イエズスの言葉を話さなければならない、と言われました。その通りです! しかし、この言葉も政治的な言い方のように思えます。なぜなら教皇は、別の場で、罪のない人々がなぜ苦しむのか分からないと言われたのですから。このことが意味するのは、キリストがなぜ十字架上で亡くなられたのか分からないということです。

バチカンのほとんどの専門家にとって、フランシスコの教皇職の貸借対照表(バランスシート)は、信仰の教理から道徳まで、先任者たちと比べても赤字であることを示しています。財政面については言うまでもありません。この教皇職は、西洋の世俗化を悪化させることに貢献しました。なぜなら、この教皇が社会的、政治的に介入し、アイデンティティーのない霊性を支持したからです。そこで、ペトロの聖務とは何か、という疑問が生じます。

私たちは、ピオ九世の時代から起こってきているように、そして今メディアで起こっているように、神学的に教皇を大きく見せる"感情的な教皇崇拝"を目撃しているのです。中世の人々は、教会と教会人を区別するように、教皇の役割とそれを体現する人間を区別し、人間的かつ地上のものと神聖なものとを区別しました。だからこそ、ダンテは教皇を地獄に落とすこともできたのです。ですから、当初はベルゴリオ派であった多くの人々が、現在の教皇職から距離を置き、この教皇職を混沌とした専制的なものとみなしています。

穏健派は落ち着きがありません。解決策を考え、シノドスの教会を提唱する者がいれば、移行期の教皇を提唱する者もいます。一方、ある時はマルクスが、またある時はミュラー、オロリッシュ、そして幸いなことにペルが介入してきます。枢機卿だけでやめておきましょう。しかし、ラダリアもフランシスコも誰が正しいとは言っていません。次に司教、司祭、信者、そして信者でない神学者に話を移すなら、スコティッシュ・シャワー(非常に温かい水と非常に冷たい水を素早く切り替えるという意味のフランス語起源の表現)のようなものです。バチカンでは、ラテンアメリカのカトリック信者の背教を十分に認識しています。信者が52%まで低下して、セクトが25%に増えているのです。

1月13日のウォール・ストリート・ジャーナルは、(教会がラテンアメリカを失っているため)「カトリック教会は貧しい人々を選び、貧しい人々はペンテコステ派を選んだ(The Catholic Church has opted for the poor and the poor have opted for the Pentecostals)」という見出しを掲げました。これはパウロ六世が語った自己解体過程への多大なる貢献です。教会は、社会的、経済的、心理的、さらには環境的な問題を解決するための機関へと変貌し、霊魂を救うという使命を放棄してしまったのです。アマゾン・シノドスでは、この地域の再福音化ではなく環境について、主との個人的な出会いを育むことではなく政治や社会問題について語られました。要するに、信者がもっと宗教的なものを求めている一方で、司教たちは社会主義を提供しているのです。

【問い】この覚書が、次期教皇の選択に影響を与える可能性はどの程度あるでしょうか?

【モンシニョール・ブックス】この覚書は冒頭で、ペトロの聖務の顕著な特徴を指摘しているように私には思えます。このペトロの聖務の特徴は、どのコンクラーベでも【次期教皇】選択の基準となるべきものです。そこでは、教皇は、イデオロギー信奉者や政治家としてではなく、司牧者、教師として見られています。このように、教皇が持っている教会との関係は、絶対君主として教会と関係するではなく、教会の一員でありかつしもべという関係なのです。

近代主義者や進歩主義者が反ローマの態度をとって、ベネディクト十六世までは「教皇崇拝」(papolatry)--- マルティニ【枢機卿】の表現 --- だと批判していたにもかかわらず、同じ彼らが「教皇崇拝」を前にして沈黙しているのは驚くべきことです。すべてのキリスト信者がそうであるように、教皇は、啓示された天主の法に従い、しかもその前に、自然法に従い、次に教会法に従うべきものです。教会法は、教会の本質的な教理および憲章に関して教皇を拘束しています。教会は、司教会議制ではなく位階階級制です。この覚書はこのことを思い出させているように思えます。

このような制約の中で、ペトロの聖務は、破壊するのではなく、立てるために役立てられなければなりません(コリント後書13章10節参照)。これは、法を作り、正義を執行するために重要なことです。必死になって自発教令で、カテキズムの条項を修正し、教会高等裁判所への上訴を無にすることは、誰にもできません。第三者によって獲得された権利があり、教皇はこれを侵害することができません。教皇は法の最高守護者ですから、濫用を許すことも、濫用を犯すことさえもできません。パウロから見たペトロのように、教皇は自分が兄弟として正されることを許さなければなりません。そうでなければ、誰も教皇に従うことはできません。なぜなら、良心が第一に来るからです。つまり、カテキズムに引用されている聖ジョン・ヘンリー・ニューマンの言葉によれば、良心が第一の「キリストの代理者」であるからです。

また、この覚書は、エキュメニカルな意味で影響力を持っていると考えることもできると私は思います。私の意見によれば、これまで特に東方で反ローマ感情を助長してきた教皇の権威濫用を糾弾している限りにおいて、そうでしょう。この教皇職のもとで、あたかも教皇がイスラムの法学者であるかのように司教の解任が増加しているのは、職権の濫用ですし、病的な兆候があります。フランシスコは「彼らは私が死ぬのを望んだ」とまで言っていますが、おそらく、自分の選出に影響を与えるために行われたことが、自分に対抗してまた同じことが繰り返されることを恐れているのでしょう。しかし、教皇の権限の限界は、同じくこれも天主が打ち立てた聖務である司教らの権威によっても支配されています。このことを心に留めておいて、次のコンクラーベの総会で議論すべきことです。

【問い】次のコンクラーベで優先事項とすべきことは何だと思われますか?

【モンシニョール・ブックス】権威ある平信徒と教会関係者の意見では、次のコンクラーベでは、教皇の使徒的使命、義務、そして「一般的な教会のよき状態」(status generalis ecclesiae)を維持する義務を自覚している教皇を選出すべきです。カトリックの信仰を推進し、教会に浸透した世俗化によって引き起こされた西洋における司祭と信者の減少に歯止めをかける教皇を選出すること――シャルル・ペギーは、この脱キリスト教化の責任は聖職者にあるとしております。脱キリスト教化の考えによると、社会が成立する主な価値は宗教的な価値観ではとされ、もし宗教的な価値観であるならば、「世俗的な」あるいは合理的な方法で、その価値観が正当化されなければならない、とされます。

その結果生じたのが、宗教的な意味合いを排除した「政治的に正しい」(politically correct)言葉づかいであり、限界[分際]の感覚の喪失(たとえば妊娠中絶、いわゆる同性"婚"、ジェンダー、安楽死、などの場合が典型的です)、聖なるものの喪失、宗教的信仰が「人道的」宗教に変えられること、福音が道徳の教えに成り下がり、説教が政治集会に変えられてしまうことです。したがって、コンクラーベの優先事項は、カトリックの教皇を選出することです。そうでなければ、信仰の喪失は、キリスト教が世俗化する結果をもたらすだけでなく、その原因ともなり、結局はキリスト教が無意味なものと化してしまうでしょう。

次のコンクラーベでは、「司牧的」とはどういう意味なのかを明確にしなければなりません。今のところ誰もそれを知りませんし、教会ですべてを正当化するためのマスターキー(passe-par-tout)として使われています。今や、価値の下げられた使命を教会の中心に戻し、エキュメニズムや宗教間対話の限界を明確にしなければならない時が来ました。近代主義者や進歩主義者でさえ、このことに気づいています。

世俗化に対しては、福音化をもって戦わなければなりません。聖職者主義との戦いとは、聖職者のアイデンティティーを転覆させることであってはなりません。聖職者とは、信者や修道者とは区別される「秩序」なのですから。次期教皇は、キリスト信者の家庭と司祭・修道者の召命が花開くように、信仰を養い育てることを、自らの最優先の課題としなければなりません。家庭道徳の問題について不可謬的に決定する教導権に戻ることが必要です。この立ち戻りは、使徒継承の聖伝を受け入れる司教を任命することで為されるべきです。そうするならば、世俗主義的なメディアによる「迫害」が強まるとしても、現在は潜在化している離教の危機はおそらく弱まるでしょう。

私たちは、カトリックの教え(カトリシズム)に注意を払う教皇職によって、教会の生ける力を解放する必要があります。カトリックの教え(カトリシズム)は、教会を敬虔な信者で満たし、公共の場を信仰と生き方の証人で満たし、改宗者を生み出して「効果がある」ことを証明するでしょう。

カトリック教会は、道徳的、教理的、典礼的に、カトリックの教えを言い・実行する教皇を持たなければなりません。「教皇はカトリックなのか?」というタイム誌の表紙を思い出してください。カトリック教会に、カトリックの教皇を迎える権利があるのは不思議でしょうか? 正教会もそのような教皇を望んでいます。そうでなければ、正教会の中にある遠心力の傾向が支配的になってしまうのです。カトリックの教皇は、粉々になったプロテスタントの世界を一致に戻し、探し求めている多くの平信徒を信仰に戻すために必要であるだけでなく、ユダヤ教徒、イスラム教徒、他の宗教の信者に、それを確信させるためにも必要なのです。何故なら、彼らは、善と悪の境界がなくなってはいないことを指摘する道徳的権威者として教皇を見ているからです。

新しい教皇は、旧世界秩序の死から出現しつつある、新世界秩序に立ち向かうことができなければなりません。しかも、その役割は、西洋と西洋資本主義システムにとってはさらに小さな役割となるでしょう。

新しい教皇は、フランシスコとは違っていなければなりません。フランシスコはイデオロギーとユートピアとの間で、それとの混乱し矛盾した関係を持っていました。教会内の混乱に終止符を打つために、次のコンクラーベは、以下のような候補者を探さなければなりません。つまり、使徒的勧告「アモーリス・レティチア」(Amoris laetitia)関する「ドゥビア(疑問提起)」(Dubia)に応える候補者、使徒的勧告「エヴァンジェリイ・ガウディウム」(Evangelii gaudium)では、最悪の社会悪は不平等すなわち富の悪しき分配だとし、最大の悪とは罪であるとは言わないので、これを正す候補者。過去50年間のすべての問題の起源である新マルサス環境主義を称揚している回勅「ラウダート・シ」(Laudato si)を正す候補者。資本主義は終わったと宣言し、次に生き残る方法を提案し、魔法の言葉「包括性」(inclusion)と「持続可能性」(sustainability)で自分をカモフラージュしている回勅「フラテッリ・トゥッティ」(Fratelli tutti)を正す候補者です。とりわけ、この回勅「フラテッリ・トゥッティ」(すべての兄弟)は、次のことを言いそびれています。天にましますわれらの父を認めなければ、われらは自分自身を兄弟と見なすことはできない、と。イエズスはそのことを言われました。

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第16回聖ピオ十世会秋田巡礼は恵みのうちに行われました

2022年05月05日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2022年5月1日から5月5日までの第16回聖ピオ十世会秋田巡礼は、良い天気に恵まれ、大きな喜びのうちに終了いたしました。マリア様に感謝いたします。













天主への奉仕のために完全な貞潔を守るカトリック司祭独身の法は、カトリック司祭職に霊的な尊厳と豊穣を与える。これを理解するために聖ヨゼフの奉献された貞潔について考える。

2022年05月04日 | お説教・霊的講話

聖ヨゼフと奉献された貞潔についての説教

ドモルネ神父様(2022年5月1日)

はじめに

今日は聖ヨゼフの祝日です。また今日は、「良き牧者」の主日でもあります。福音の中で、イエズスは、ご自分を良き牧者に例えておられます。主は、良き牧者が羊を見守るように、霊魂たちを見守られます。これは、良き司祭がすべきことでもあります。このため、聖ピオ十世会では、通常この主日を、司祭職と司祭の召命というテーマに奉献するのです。そこで、今日は、聖ヨゼフと司祭の召命についてお話しします。もっと正確に言えば、司祭の奉献された貞潔についてお話しします。

1.貞潔の概念

まず、貞潔とは何かを思い出しましょう。

原罪以来、私たちは、情欲、すなわち、感覚的な快楽に対する無秩序な欲望に苦しんでいます。貞潔とは、自分の中の肉欲の無秩序な衝動を抑え、天主の法に従って、それを制御するという、霊魂の良い特質のことです。アリストテレスは、肉欲は気まぐれな子どものようなもので、私たちはそれに屈してはならず、むしろそれを抑えて正さなければならない、と言っています。これこそ、貞潔が行うことです。

貞潔の実践は、人が人生において置かれた状態によって変わります。完全な貞潔と、婚姻の貞潔があります。未婚者であれば、貞潔の実践は完全でなければなりません。すなわち、肉欲を完全に抑えなければなりません。未婚者は、肉の快楽を完全に断たなければなりません。なぜなら、この快楽は、天主の定められた秩序によれば、婚姻の目的を成就するための手段に過ぎないからです。婚姻の権利を行使する既婚者であれば、貞潔の実践は、「婚姻の貞潔」でなければなりません。これは、肉欲を満たすことは、婚姻の法および正しい理性の範囲内にとどめなければならないという意味です。

最後に、「奉献された貞潔」と呼ばれるものがあります。これは、天主への奉仕に完全に身を捧げるために、完全な貞潔を守ることを意味します。カトリック教会は、このような奉献された貞潔を、法によって、カトリック司祭職と結び付けています。カトリック司祭になる男性は、結婚する権利も、子どもを持つ権利も同時に放棄します。キリストの敵は、この法について、しばしばカトリック教会と争ってきましたし、現在でも、近代主義者が同じように争っています。それはなぜでしょうか? なぜなら、この法は、カトリック司祭職に大いなる霊的な尊厳と豊穣を与えるからです。この現実を理解するために、ここで、聖ヨゼフの奉献された貞潔について考えてみましょう。

2.聖ヨゼフと奉献された貞潔

天主の御子イエズス・キリストは、マリアの子となって、この地上に来ることを選ばれました。マリアは、その存在の最初の瞬間から、まったく天主のみのものなのです。主は、マリアを原罪から守られ、聖寵充ち満てる方とされました。マリアの側では、童貞の誓願によって、自らを完全に天主に捧げられました。そして天主は、マリアに対して、童貞性を失うことなくイエズスを受胎して生むという特権をお与えになることによって、この奉献を承認されたのです。

天主は、マリアを、一人の男性の愛と保護に委ねることを決められました。しかし、天主がマリアを委ねることがおできになるのは、マリアに対する天主の支配権を、完全に尊重する男性だけでした。つまり、完全な貞潔を守ることに進んで同意する男性です。聖ヨゼフが、その男性でした。ですから、童貞聖マリアと婚姻のきずなで結ばれるために、聖ヨゼフは、完全な貞潔の誓いによって、自らを天主に奉献しなければなりませんでした。これが、必要条件だったのです。

同じ条件が、司祭にも当てはまります。実際、司祭は、布教と役務を通して、イエズス・キリストを霊魂たちに与える使命を担っています。しかし、イエズスがマリアを通して地上に来られたように、イエズスは、マリアを通してご自分の恩寵を霊魂たちに与えられるのです。ですから、司祭はその役務のゆえに、童貞聖マリアと密接に結ばれている必要があるのです。奉献された貞潔は、この目的のための強力な助けとなります。聖ヨゼフが、マリアと結ばれるために貞潔の誓いを立てなければならなかったように、カトリック司祭もそうするのです。

3.聖ヨゼフと霊的な豊穣

聖ヨゼフの奉献された貞潔に関する、もう一つの点について考えてみましょう。聖ヨゼフは、童貞聖マリアの浄配となることを受け入れることによって、肉体的な豊穣、つまり子どもを持つことと父性とを、進んで放棄しました。この犠牲は、大いなる霊的な豊穣と父性のための必要条件だったのです。実際、聖ヨゼフは、マリアの夫となることによって、マリアの子、すなわちイエズス・キリストに対する父としての権威を授けられたのです。この父としての権威は、イエズスご自身にとどまらず、イエズスの神秘体、すなわち教会にも及びます。聖ヨゼフは、普遍教会の守護聖人となり、そのため、教会のすべての構成員の霊的な父となりました。聖ヨゼフは、教会の全構成員の必要とするあらゆるものを見守り、彼らを保護し、彼らを導き、彼らを聖性へと至らせるように教えるのです。聖ヨゼフは、父親が自分の子どものことを心配するのと同じように、彼らのことを気遣うのです。そして、すべての良きカトリック信者は、子どもが父親に頼るのと同じ信頼をもって、聖ヨゼフに頼ることを学ぶのです。聖ヨゼフは、天主への愛のゆえに、自ら進んで肉体的な子孫を持つことを放棄することによって、莫大な数の人々の霊的な父となったのです。

これは司祭にとっても同じです。天主は、司祭に対して、霊魂たちの霊的な父となるための必要条件として、自分の子どもを持ちたいという自然で正当な望みを、進んで犠牲にするように求められるのです。アブラハムの物語に、この現実のかたどりがあります。天主は、アブラハムに、独り子のイサクを犠牲にするよう求められました。アブラハムは、それを進んでしようとしたため、天主は、アブラハムを、選ばれた民の父とされました。次のイエズスの言葉は、他の誰よりも、司祭に当てはまります。「私の名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、妻、子、土地を捨てる者は、その百倍のものを受け、永遠の命を受け継ぐであろう」(マテオ19章29節)。

結論

親愛なる信者の皆さん、司祭の役務が実りを得るかどうかは、完全な貞潔の誓いに自らが忠実であるかどうかにかかっているということを、すべての司祭に理解させてくださるよう、今日、聖ヨゼフに祈りましょう。

また、司祭の完全な貞潔の法の廃止を積極的に求めている、教会内のすべての近代主義者を、強く抑えてくださるよう、聖ヨゼフに祈りましょう。彼らは、カトリック司祭職の偉大さと、霊的な豊穣性を脅かしているのです。

最後に、天主が司祭職に招いておられる青年たちが、奉献された貞潔によって自らを寛大に犠牲とするのを助けてくださるよう、聖ヨゼフに祈りましょう。聖ヨゼフの取り次ぎによって、彼らがこの世の偽りの宣伝を拒否し、また、司祭の品位を落とす、肉欲の罪という苦い幻想に誘惑されませんように。


世の終わりに、すべての死者が復活した後、私たちの肉体がどうなるか

2022年05月03日 | お説教・霊的講話

栄光を受けた肉体の性質についての説教

ドモルネ神父様(2022年4月24日)

はじめに

今日の福音では、死者の中からよみがえられたイエズスが、使徒たちと聖トマにご出現になった話を読みます。今日は、世の終わりに、すべての死者が復活した後、私たちの肉体がどうなるかについて、お話ししようと思います。

1.復活した人間の肉体の状態

すべての人は、死ななければなりません。このことは、私たちの周りで起こることを見れば、明らかです。また、聖パウロもこう言っています。「一人の人によって罪が世に入り、また罪によって死が世に入って、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に及んだ」(ローマ5章12節)。しかし、天主は、世の終わりに、すべての人を、死者の中からよみがえらせることを啓示されました。天主は、特に、義人ヨブ(ヨブ記19章26節)、預言者ダニエル(ダニエル12章2節)やエゼキエル(エゼキエル37章1-6節)を通して、それを告げられました。私たちの主イエズスご自身も、この復活が現実に起こることを断言されました(マテオ22章31節)。

天主は、私たちの天国での幸せ、または地獄での罰を完全なものにするために、私たちの肉体を復活させられます。実際、私たちは人間であり、肉体と霊魂が自然に結合して造られています。人間の本性にしたがって、私たちの霊魂は、肉体を通じて行動し、自らを表現します。霊魂は、肉体から独立して存在することができますが、それは、霊魂にとっては、異常で不完全な状況です。したがって、天国での幸せ、または、地獄での罰が完全なものになるために、世の終わりには、私たちの肉体は、再び、私たちの霊魂と結合しなければならないのです。

私たちが、今持っているのと同じ肉体で、死者の中からよみがえることは、明らかです。もし、違う体でよみがえるなら、私たちは、もはや自分自身ではなく、別の人になってしまうからです。義人ヨブは、聖霊の霊感を受けて、こう言いました。「皮膚がこのようにきれぎれになってのち、私はこの肉で、天主をながめるだろう。この私自身が、ながめるだろう。他人ではない、私自身の目で見るだろう」(ヨブ19章26-27節)。このように、男は男として、女は女として、よみがえるのです。

天国での幸せ、または、地獄での罰を完全なものにするために、天主は、私たちの肉体を、完全な状態でよみがえらせられます。このことが意味するのは、私たちの肉体が、完全に発達して、本来の能力を最大限に発揮する、33歳ごろのようになる、ということです。私たちの肉体は、年をとってももう衰えることはなく、もう死ぬこともなく、奇形や障害のない状態になります。私たちの肉体は完全な状態になるため、私たちの霊魂と完全に結合し、したがって、私たちの霊魂の幸せな状態、または、不幸な状態を、完全に共にするのです。

2.栄光を受けた肉体の性質

では、天国の聖人たちの復活した肉体の持つ、特別な性質を見てみましょう。それは四つあります。

第一に、天国では、私たちの霊魂は、私たちの肉体を、完全に制御します。この世で生きている間、私たちの肉体には、霊魂に制御されない部分があります。実際、私たちは、時には情欲を制御することが難しく、物忘れをし、想像に惑わされ、色欲に悩まされ、自分の弱さに落胆します。天国では、もうそのようなことはありません。私たちの肉体は、霊化されます。つまり、間違いなく、私たちの霊魂の完全な支配下に置かれるのです。このため、聖パウロは、コリント人にこう言ったのです。「動物的な体としてまかれ、霊の体によみがえる」(コリント前書15章44節)。聖人たちの復活した肉体の持つこのような性質は、「精敏」と呼ばれます。

第二に、天国では、私たちの肉体は完全に霊魂に従いますから、霊魂が望むように、ある場所から別の場所に瞬時に移動します。この世で生きている間、私たちの肉体の重さと弱さによって、私たちの移動は制限されています。この点についても、イエズスはこう言われました。「心は熱しても肉体は弱いものだ」(マテオ26章41節)。天国では、このような重さや弱さは、もう存在しません。このため、聖パウロは、コリント人にこう言ったのです。「体は弱いものとしてまかれ、強いものによみがえる」(コリント前書15章43節)。聖人たちの復活した肉体の持つこのような性質は、「敏捷性」と呼ばれます。

第三に、天国では、私たちの霊魂は、天主を顔と顔を合わせて見るのであり、いかなる苦しみもない、絶対的な幸せに満たされます。聖ヨハネは、これについて、黙示録の中でこう書いています。「天主は人の目の涙をすべてぬぐわれ、死はもうなく、悲しみも、叫びも、苦労もなくなる」(黙示録21章4節)。私たちの霊魂のこの絶対的な幸せは、私たちの肉体を、あらゆる苦しみや不快感から守り、それどころか、楽しいことや甘美なことをすべて感じさせるというかたちで、わたしたちの肉体に返ってくるのです。このため、聖パウロは、コリント人にこう言ったのです。「体は朽ちるものとしてまかれ、朽ちぬものによみがえる」(コリント前書15章42節)。聖パウロが言っているのは、こういう意味です。「この世で作られた肉体は、苦しみと死の支配下にあるが、復活した肉体は、もはや、どちらの支配下にもない」。聖人たちの復活した肉体の持つこのような性質は、「受苦不能性」と呼ばれます。

第四に、天国では、私たちの霊魂は、その功徳に比例した栄光を受けるのです。私たちの霊魂の栄光は、私たちの肉体に返ってきて、私たちの肉体に、たいへん特別な美しさと輝きを与えます。聖パウロは、コリント人にこう言いました。「体は卑しいものとしてまかれ、栄光あるものによみがえる」(コリント前書15章43節)。これは、私たちの肉体は、罪という卑しさのうちに受胎されたが、聖性の栄光のうちによみがえる、という意味です。聖人たちの復活した肉体の持つこのような性質は、「輝き」と呼ばれます。それぞれの聖人の輝きの度合いは、その聖人の霊魂の栄光に比例します。このことを私たちに理解させるために、聖パウロは、次のような比喩を用いています。「太陽の輝き、月の輝き、星の輝きは違い、この星とあの星の輝きも違う」(コリント前書15章41節)。

3.地獄に落ちた者の肉体の性質

もし、私たちが不幸にして地獄に落ちれば、私たちの肉体は、私たちの霊魂の罰を共に受け、私たちの霊魂の苦しみの源となります。私たちの肉体は、受苦不能性を持つ代わりに、地獄のあらゆる苦痛に対して、非常に敏感になります。輝きを持つ代わりに、私たちの肉体は醜くなり、この世での私たちの生活の悪徳と罪のしるしが残ります。精敏と敏捷性を持つ代わりに、私たちの肉体は、私たちの霊魂のいかなる活動をも妨げる、牢獄のようになります。

結論

親愛なる信者の皆さん、真にキリスト的な生活を送るためには、私たちは、償いをし、小斎と大斎を通して肉体の苦行を行い、働いて努力をし、乱れた快楽から離れ、人生の苦しみを耐え忍び、最後には死ななければなりません。この復活節の間、私たちの肉体と霊魂に、私たちの想像を超える報いが与えられるのですから、こういったすべての努力をすることには価値があることを、忘れないようにしましょう。


カトリック聖伝のミサの報告 聖ピオ十世会日本 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2022年05月02日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2022年5月1日勤労者聖ヨゼフの祝日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計91人でした。ゴールデンウイークで、秋田巡礼に向かわれた方々、帰省された方々などが多くおられたようです。大阪では30人がミサに与りました。秋田での夕方のミサには43人が参加されました。

アジア管区の神学生のための特別献金は、東京からは38,400円が集まりました。大阪からは26,100円が集まりました。合計で64,500円でした。愛する兄弟姉妹の皆様の寛大な御寄附に感謝申し上げます。ありがとうございます!

5月2日、秋田巡礼では、午前11時から助祭と副助祭をともなった荘厳ミサが捧げられました。午後2時からは皆でロザリオを唱えながら聖歌を歌いながら、聖母行列を行いました!
午前中には、レネ神父様が旧約の義人ヨブの苦しみの「何故」について解説しながら、聖母の苦しみについての黙想まで導かれました。小野田神父は、今日は秋田の聖母の歴史について俯瞰しました。ドモルネ神父様は、イル・ブシャール(Ile-Bouchard)における聖母の御出現についての歴史についてお話をくださいました。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today and the amounts of donations received and payments made. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 91, including children. Special collection for Asian seminarians: JPY38,400 from Tokyo.

09:00 mass
M: 14 (incl. 1 child)
F: 26 (incl. 2 children)
Total: 40 (incl. 3 children)

11:00 mass
M: 18 (incl. 5 children)
F: 15 (incl. 4 children)
Total: 33 (incl. 9 children)

12:30 mass
M: 13 (incl. 2 children)
F: 10 (incl. 0 child)
Total: 23 (incl. 2 children)

Total of 3 masses (excl. 5 people who participated in multiple masses)
M: 43 (incl. 8 children)
F: 48 (incl. 6 children)
Total: 91 (incl. 14 children)


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】