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【参考情報】70人を超える司教たちは、ドイツの司教たちに「シノドスの道」は離教につながると警告:七つの重要な問題点:キリストではなくこの世への服従

2022年06月14日 | カトリック・ニュースなど

≪彼らは「私がいないとあなたたちには何一つできぬ」(ヨハネ15章5節)というイエズスの言葉に耳を傾けなかったため、実を結ばず、教会の一致と福音的活力の両方を損った。ドイツの「シノドスの道」には、まさにそのような行き止まりに至る危険がある。≫

70人を超える司教たちは、ドイツの司教たちに「シノドスの道」は離教につながると警告

「シノドスの道」は行き止まりの道

Over 70 bishops warn German bishops that ‘Synodal Path’ will lead to ‘schism’

「破壊的な模範」は結局、「この世を回心させ、聖化する」という教会の使命の妨げになりかねない

マイケル・ヘインズ

2022年4月12日(火曜日) 米国東部夏時間午前10時52分

(LifeSiteNews)70人以上の枢機卿、大司教、司教がドイツのカトリック位階階級に公開書簡を書き、ドイツの「シノドスの道」が「離教」につながるのは「避けられない」と警告しています。

カトリック・ニュース・エージェンシー(CNA)で4月12日に発表された「兄弟としての公開書簡」は、「私たちの兄弟であるドイツの司教たち」に宛てられたもので、ドイツの「シノドスの道」が一国だけにとどまらず、「世界中の教会に影響を与える」ことになると警告しています。

この教会の本質そのものに基づき、署名者たちは、「ドイツでの出来事により、ドイツの『シノドスの道』の過程全体の性質とそのさまざまな文書の内容について、私たちの高まる懸念を表明せざるを得ません」と指摘しています。

「シノドスの道」は「行き止まり」に至る危険がある

ドイツの「シノドスの道」は、2019年に司教たちが発足させたドイツのカトリック教会内部の運動で、大きな議論を呼んでいるものです。同性愛やLGBTの問題に関する明確で変更不可能な教会の教えは、運動の参加者やドイツの司教協議会から一貫して無視されてきており、最近では2月上旬に参加者の圧倒的多数が、同性カップルの「祝福」と女性の叙階を求めるシノドス文書草案を承認することに賛成投票しました。

高い地位にある多くの高位聖職者が「シノドスの道」に反対を表明していますが、無駄のように見えます。今、兄弟としての書簡の74人の署名者は、「『シノドスの道』がすでに引き起こし、今も引き起こし続けている混乱と、必然的に生じるであろう教会生活における離教の可能性」に警告を発しています。

レイモンド・バーク枢機卿、フランシス・アリンゼ枢機卿、ジョージ・ペル枢機卿(全リストは以下にあります)を含む著名な枢機卿たちは、「改革と刷新」が古くから必要であると指摘しました。しかし、彼らは、「キリスト教の歴史は、天主のみ言葉に、イエズス・キリストとの忠実な出会いに、聖霊への真の傾聴に、そして御父のみ旨への私たちの意志の服従に、基盤を置くことをなくした善意の努力で散らされています」と警告しました。

このような失敗は、「福音と教会についての一致や経験、蓄積された知恵を無視したものです」と署名者たちは書いています。

キリストの言葉を拒否することで、これらの努力は、「実を結ばず、教会の一致と福音的活力の両方を損ないました」「ドイツの『シノドスの道』は、まさにそのような行き止まりに至る危険があります」と、74人の高位聖職者は書いています。

七つの重要な問題点―キリストではなく「この世」への「服従」

この書簡は、多くの問題を簡単に要約したものに過ぎないことを指摘しながら、署名者たちは、「シノドスの道」の七つの重要な問題点を強調しました。第一に、彼らは、「シノドスの道」の行動が、「教会の権威の信頼性を損なうものであり、それに含まれるのは」カトリックの「性道徳」の信頼性、さらには「聖書の信頼性」もあると指摘しました。

第二に、高位聖職者たちは、「シノドスの道」の文書に、「古めかしい宗教的な考えや語彙」があったとしても、「大部分が聖書や聖伝によるものではない霊感を受けた」ものだと非難しました。その代わりに、この文書は、「社会学的分析やジェンダーを含む現代の政治的イデオロギーによって導かれた」と、高位聖職者たちは述べています。「彼らは、教会とその使命を、聖書と教会の権威ある聖伝で啓示された真理のレンズを通してというよりも、この世のレンズを通して見ているのです」。

また、74人の署名者にとって問題なのは、「シノドスの道」が、「キリスト教の自由の意味を再解釈し、その結果、その自由を減少させているように見える」という点です。「正しいことをするための妨げられない能力」としての自由という「キリスト教的」理解はなくなり、「自律」という基本概念に取って代わられました。

「シノドスの道」は、「主であり救い主であるイエズス・キリストよりも、この世やイデオロギーへの服従と従順を見せています」と、署名者たちは書いています。それは、「官僚主義的で、執拗に批判的で、内向き」になるという特徴があり、「反福音的な基調になる」のです。

「シノドスの道」の「精神」は「キリスト教的生活」と「根本的に対立」している

その率直な基調を続けて、署名者たちは、「『シノドスの道』が教会における『権力』に焦点を当てていることは、キリスト教生活の本当の本質とは根本的に対立する精神を示唆しています」と指摘しました。

「シノドスの道」のメンバーは、「心の回心」よりもむしろ、体制構造の変化を要求しているように見えます、と書簡は付け加えています。

「シノドスの道」の「破壊的な例」は、司教たちを、そして間違いなく「他の忠実な多くの信徒たちを、『シノドス性』(synodality)【会議を中心に置く一種の民主主義】という考えそのものに不信感を抱く」ように導くことになると、署名者たちは警告しています。彼らは、そのような出来事が、「この世を回心させ、聖化する」という教会の使命をどれほど妨げることになるでしょうか、と付け加えました。「混乱の時代に、私たちの信仰共同体が最後に必要とするものは、同じことを繰り返すことではありません」。

署名者は倍増し、さらに多くの司教の参加を呼びかける

書簡に署名した高位聖職者の大多数は米国の人々で、その中には、バーク枢機卿、デンバーのサミュエル・アクィラ大司教、サンフランシスコのサルバトーレ・コルディローネ大司教、米国司教協議会プロライフ活動委員会の前委員長ジョゼフ・ナウマン大司教、同協議会教理委員会の前委員長ケビン・ローズ司教、テキサス州タイラーのジョゼフ・ストリックランド司教といった人々がいます。

署名者にはアフリカ、特にタンザニアの司教たちも名を連ね、前典礼秘跡省長官のナイジェリアのフランシス・アリンゼ枢機卿、ダーバン名誉大司教のウィルフレッド・ネイピア枢機卿もいます。

自身が署名者であるパプロキ司教はCNAに、「ドイツの『シノドスの道』は、本物のシノドス性(synodality)の道から遠く離れてしまい、何世紀にもわたって聖書と聖伝から教えられてきた私たちのカトリック信仰の真理と対立する立場に自らを置いています。兄弟としての是正において、また世界中の司教たちと一致して、私はドイツの司教団に、イエズス・キリストによって私たちに伝えられた真の信仰の遺産に立ち返るよう勧めます」と語っています。

「使徒の後継者として、私たちは、真理を証しする義務のようなものを負っています」と、ペル枢機卿はナショナル・カトリック・レジスター(National Catholic Register)に語りました。ペル枢機卿は以前、「シノドスの道」を「断絶であり、聖書と教導権による古代の教えとは相容れず、いかなる正当な教理上の発展とも相容れません」と述べていました。

署名者たちは、仲間の司教たちが公開書簡に自分の名前を加えることについて、書き込むための電子メールアドレス、episcopimundi2022@gmail.comを提供しています。

一方、LifeSiteNewsで良く知られているストリックランド司教は、これから参加したいと思う司教にこう呼びかけています。「ドイツの兄弟たちがイエズス・キリストの真理に立ち返るよう求めます。この聖週間に信仰の刷新がなされるよう祈りましょう」。

この書簡に署名してくださった司教の皆さま全員に感謝します。さらに多くの方が、ドイツの兄弟たちにイエズス・キリストの真理に立ち返るよう求める私たちの声に加わってくださることを願っています。この聖週間に信仰の刷新がなされるよう祈りましょう。https://t.co/FIdjgI4PNF

―J・ストリックランド司教(@Bishopoftyler) 2022年4月12日

公開書簡の全文と署名者のリストは以下の通り。

A FRATERNAL OPEN LETTER TO OUR BROTHER BISHOPS IN GERMANY
ドイツの兄弟である司教たちへの兄弟としての公開書簡

2022年4月11日

情報が世界規模で迅速に伝わる時代において、一国の出来事が他の国の教会生活に影響を及ぼすのは避けられません。したがって、ドイツのカトリック信者が現在追求している「シノドスの道」の過程は、世界中の教会に影響を及ぼしています。これには、私たちが司牧する地域教会と、私たちが責任を負う多くの忠実なカトリック信者が含まれます。

このような観点から、ドイツでの出来事は、ドイツの「シノドスの道」の過程全体とそのさまざまな文書の内容の性質について、私たちの高まる懸念を表明せざるを得ません。私たちのコメントは意図的に簡潔にしています。それらは、個々の司教がさらに詳しく説明すること(例えば、サミュエル・アクィラ大司教の「世界のカトリック司教への公開書簡」のように)を保証し、また強く奨励するものです。とは言うものの、私たちの共同声明の持つ緊急性は、ローマ人への書簡12章、特にパウロの警告「この世に倣うな」に根差しています。そして、その深刻さは、シノドスの道がすでに引き起こし、今も引き起こしている混乱と、必然的に生じるであろう教会生活における離教の可能性から生じるのです。

改革と刷新の必要性は、教会自身と同じくらい古いものです。根底において、この衝動は賞賛に値するものであり、決して恐れるべきものではありません。「シノドスの道」の過程に関わる人々の多くは、間違いなく傑出した人格を持った人々です。しかし、キリスト教の歴史を見ると、善意の努力だったとはいえ、その努力は、天主のみ言葉に基盤を置かなかったり、イエズス・キリストとの忠実な出会いに基づかなかったり、聖霊の息吹を真に傾聴しようとしなかったり、御父のみ旨に私たちの意志を服従させようともしなかったりで、散らかったゴミのようなものも多々あります。

これらの失敗した努力は、福音と教会の一致、経験、蓄積された知恵を無視したものでした。彼らは「私がいないとあなたたちには何一つできぬ」(ヨハネ15章5節)というイエズスの言葉に耳を傾けなかったため、実を結ばず、教会の一致と福音的活力の両方を損ないました。ドイツの「シノドスの道」には、まさにそのような行き止まりに至る危険があります。

皆さんの兄弟である司教として、私たちの懸念は以下の通りですが、これらに限定されるものではありません。

1.聖霊と福音とを聞こうとしないので、「シノドスの道」の行動は、教皇フランシスコを含む教会の権威の信頼性、キリスト教人間学と性道徳の信頼性、そして聖書の信頼性を損ねている。

2.ドイツの「シノドスの道」の文書には、古めかしい宗教的な考えや語彙があるものの、聖書と聖伝――聖伝は、第二バチカン公会議によるなら「天主の御言葉の唯一の聖なる遺産」――ではなく、社会学的分析やジェンダーを含む現代の政治思想に大きく影響を受けているように思われる。彼らは、教会とその使命を、聖書と教会の権威ある聖伝で啓示された真理のレンズを通してではなく、この世のレンズを通して見ている。

3.「シノドスの道」の内容はまた、キリスト教的な自由の意味を再解釈し、その結果、これの意味を弱めているように思われる。キリスト信者にとっての自由とは、正しいことを行うための知識、意志、そしてそれを妨げられない能力である。自由は「自律」ではない。教会が教えているように、真正の自由は真理に結びつけられ、善に、そして究極的には至福に秩序づけられている。良心が真理を作り上げるのではなく、また良心とは個人の好みや自己主張のことでもない。正しく形成されたキリスト信者の良心は、人間の本性に関する真理と、天主によって啓示され、キリストの教会によって教えられた正しい生き方の規範に従うものであり続ける。イエズスは真理であり、私たちを自由にされる(ヨハネ8章)方である。

4.教皇フランシスコがしばしば強調するように、キリスト教生活の本質である福音の喜びは、「シノドスの道」の議論やテキストにはまったくないように思われる。これは、個人と教会の刷新を求める努力にとっては、分かりやすい欠点である。

5.「シノドスの道」の過程は、ほぼすべての段階において、専門家と委員会の仕事である。つまり、官僚主義的で、強迫観念のように批判的で、内向きだ。したがって、それ自体が広く見られる形の教会の硬化症を反映しており、皮肉にも、反福音的な基調になる。その結果、「シノドスの道」は、主であり救い主であるイエズス・キリストよりも、この世とイデオロギーへの服従と従順を見せている。

6.「シノドスの道」が教会における「権力」に焦点を当てていることは、キリスト教生活の本当の本質とは根本的に相反する精神を示唆している。究極的には、教会は単なる「制度」ではなく、有機的な共同体である。教会は、平等主義ではなく、家族的で、補完的で、位階的な、イエズス・キリストの愛と、彼の御名における互いへの愛とによって結びつけられた人々のことだ。体制構造の改革は、心の回心と同じものではまったくない。福音や歴史上の聖人の生活の中に見られるようなイエズスとの出会いは、心を変化させ、癒やしをもたらし、罪と不幸の人生から人を遠ざけ、福音の力を証明している。

7.ドイツの「シノドスの道」についての、最後にして最も苦痛を覚えるほど差し迫った問題は、ひどく皮肉なものだ。何故なら、その破壊的な模範によって、一部の司教たちを、また他の多くの忠実な信者を、「シノドス性」(synodality)という考えそのものに不信感を抱くように導き、その結果、この世を回心させ、聖化するという使命を果たすことについて教会が必要とする対話をさらに妨げることになりかねないからだ。

混乱の時代にあって、私たちの信仰共同体に最も必要なのは、これ以上同じことを繰り返すことではありません。皆さんがドイツの教会に対する主のみ旨を識別なさるとき、私たちの祈りが皆さんのためあることを確信してください。

【署名】
フランシス・アリンゼ枢機卿(ナイジェリア、オニチャ教区)
レイモンド・バーク枢機卿(米国、ミズーリ州、セントルイス教区名誉大司教)
ウィルフレッド・ネイピア枢機卿(南アフリカ共和国、ダーバン教区名誉大司教)
ジョージ・ペル枢機卿(オーストラリア、シドニー教区名誉大司教)
サミュエル・アクィラ大司教(米国、コロラド州、デンバー教区)
チャールズ・チャプト名誉大司教(米国、ペンシルバニア州、フィラデルフィア教区)
ポール・コークリー大司教(米国、オクラホマ州、オクラホマシティ教区)
サルバトーレ・コルディレオーネ大司教(米国、カリフォルニア州、サンフランシスコ教区)
ダミアン・ダルー大司教(タンザニア、ソンゲア教区)
ジョセフ・カーツ名誉大司教(米国、ケンタッキー州、ルイビル教区)
J・マイケル・ミラー大司教(カナダ、ブリティッシュコロンビア州、バンクーバー教区)
ジョセフ・ナウマン大司教(米国、カンザス州、カンザスシティ教区)
アンドリュー・ンクア大司教(カメルーン、バメンダ教区)
レナトゥス・ヌクワンデ大司教(タンザニア、ムワンザ教区)
ジェルバス・ニャイソンガ大司教(タンザニア、ムベヤ教区)
ガブリエル・パーマー・バックル大司教(ガーナ、ケープ・コースト教区)
テレンス・プレンダーガスト名誉大司教(カナダ、オンタリオ州、オタワ・コーンウォール教区)
ジュード・タダエウス・ルワチ大司教(タンザニア、ダルエスサラーム教区)
アレクサンダー・サンプル大司教(米国、オレゴン州、ポートランド教区)
ジョゼフ・アフリファ・アゲクム司教(ガーナ、コフォリドゥア教区)
マイケル・バーバー司教(米国、カリフォルニア州、オークランド教区)
ハーバート・ベバード名誉司教(米国領ヴァージン諸島、セント・トーマス教区)
アール・ボイヤ司教(米国、ミシガン州、ランシング教区)
ニール・バコン司教(米国、従軍教区、補佐司教)
ウィリアム・キャラハン司教(米国、ウィスコンシン州、ラクロス教区)
マッシモ・カミサスカ名誉司教(イタリア、レッジョ・エミリア・グアスタラ教区)
リアム・カリー司教(米国、オレゴン州、ベーカー教区)
ピーター・クリステンセン司教(米国、アイダホ州、ボイシ教区)
ジョゼフ・コフィー司教(米国、従軍教区、補佐司教)
ジェームズ・コンリー司教(米国、ネブラスカ州、リンカーン教区)
トーマス・デイリー司教(米国、ワシントン州、スポケーン教区)
ジョン・ドゥアフラー司教(米国、ミシガン州、マーケット教区)
ティモシー・フライヤー司教(米国、カリフォルニア州、オレンジ、補佐司教)
ドナルド・ヒング司教(米国、ウィスコンシン州、マディソン教区)
ダニエル・ジェンキー名誉司教(米国、イリノイ州、ピオリア教区)
スティーブン・ジェンセン司教(カナダ、ブリティッシュコロンビア州、プリンスジョージ教区)
ウィリアム・ヨーエンセン司教(米国、アイオワ州、デモイン教区)
ジェームズ・ジョンストン司教(米国、ミズーリ州、カンザスシティ・セントジョセフ教区)
デイビッド・カガン司教(米国、ノースダコタ州、ビスマーク教区)
フラビアン・カサラ司教(タンザニア、ゲイタ教区)
カール・ケンメ司教(米国、カンザス州、ウィチタ教区)
ロガトゥス・キマリョ司教(タンザニア、サーメ教区)
アンソニー・ラグウェン司教(タンザニア、ムブルー教区)
デイビッド・マロイ司教(米国、イリノイ州、ロックフォード教区)
グレゴリー・マンスール司教(米国、ニューヨーク、ブルックリンの聖マロン教会教区)
サイモン・マソンドール司教(タンザニア、ブンダ教区)
ロバート・マクマナス司教(米国、マサチューセッツ州、ウースター教区)
ベルナディン・ムフンブサ司教(タンザニア、コンドア教区)
フィルバート・ムハシ司教(タンザニア、トゥンドゥル・マサシ教区)
ラザロ・シンベ司教(タンザニア、モロゴロ教区)
ダニエル・ミュッゲンボルグ司教(米国、ネバダ州、リノ教区)
ウィリアム・ムーム司教(米国、従軍教区、補佐司教)
タン・タイ・グエン司教(米国、カリフォルニア州、オレンジ教区、補佐司教)
ウォーカー・ニックレス司教(米国、アイオワ州、スーシティ教区)
エウセビオス・ムジギルワ司教(タンザニア、ムパンダ教区)
トーマス・オルムステッド司教(米国、アリゾナ州、フェニックス教区)
トーマス・パプロキ司教(米国、イリノイ州、スプリングフィールド教区)
ケビン・ローズ司教(米国、インディアナ州、フォートウェイン・サウスベンド教区)
デイヴィッド・リッケン司教(米国、ウィスコンシン州、グリーンベイ教区)
アルマキウス・ルウェヨンゲザ司教(タンザニア、カヤンガ教区)
ジェームズ・シュアマン司教(米国、ウィスコンシン州、ミルウォーキー教区、補佐司教)
オーガスティン・シャオ司教(タンザニア、ザンジバル教区)
ジョセフ・シーゲル司教(米国、インディアナ州、エバンスビル教区)
フランク・スペンサー司教(米国、従軍教区)
ジョゼフ・ストリックランド司教(米国、テキサス州、タイラー教区)
ポール・テリオ司教(カナダ、アルバータ州、セント・ポール教区)
トーマス・トビン司教(米国、ロードアイランド州、プロビデンス教区)
ケビン・バン司教(米国、カリフォルニア州、オレンジ教区)
ロバート・バサ司教(米国、カリフォルニア州、サンタローザ教区)
デイヴィッド・ウォコウィアック司教(米国、ミシガン州、グランドラピッズ教区)
ジェームズ・ウォール司教(米国、ニューメキシコ州、ギャラップ教区)
ウィリアム・ウォルターシャイド司教(米国、ペンシルバニア州、ピッツバーグ教区、補佐司教)
マイケル・ワーフェル司教(米国、モンタナ州、グレートフォールズ・ビリングス教区)
チャド・ジエリンスキー司教(米国、アラスカ州、フェアバンクス教区)

Photo Credit

 

UPDATE: Prelates From South America and Asia Sign Letter of Fraternal Correction to German Bishops

Six continents are now represented, an important step for an effort that seeks to build international consensus.

NCR

 

 


誰かが彼らに教えますよ、ウォールバーグさん(ジェイソン・モーガン准教授の記事)

2022年06月13日 | カトリック・ニュースなど

Someone Will Teach Them, Mr. Wahlberg

ジェイソン・モーガン(レムナント東京特派員)

誰かが彼らに教えますよ、ウォールバーグさん

ハリウッドのベテラン俳優で、実践的なカトリック信者であるマーク・ウォールバーグの新作映画「ステュー神父」(Father Stu)が、大きな話題を集めている。この映画は、酒に溺れて苦しい生活を送っている男が、心を入れ替えて、天主との関係を正しいものにし、地域社会で、またそれ以外の場所でも良い仕事をするようになるというものだ。

さて、信仰心に満ちたカトリック神父を題材にした映画を作ることは、理屈の上では、行うべき素晴らしいことである。映画としての出来不出来はともかく、主演のマーク・ウォールバーグ自身が資金を出したという事実は、ウォールバーグがカトリックのメッセージをできるだけ多くの観客に伝えたかったということを表している。大作映画は、全世界で数億人、数十億人の観客に見られる可能性がある。ウォールバーグは、カトリックの神父を肯定的に描くこと(少なくとも、ウォールバーグが考えていたはずのこと)で、少なくとも、映画を作ろうとすることと同じくらい、改宗を勧めようとしていたに違いない。したがって、「ステュー神父」は、イエズスとその教会に対してしばしば敵対しているこの世に福音を広めるための方法、一つの積極的な働き掛け(outreach)行為と読み取ることができる。

そのため、ウォールバーグが米NBCテレビの「トゥデイ」(Today)ショーで、カトリックをテーマにした新作映画のプロモーションのためのインタビューを受けた際、自分の子どもたちについて聞かれ、次のように答えているのが奇異な印象を受けた。

「私の信仰でさえ、子どもたちに強制はしていません。しかし、子どもたちは、父親がお祈りをしないでは一日を始められないと知っていますし、聖書を読まないなら、またミサに行かないなら、一日を始められないことを知っています」とウォールバーグは言った。

「信仰を子どもたちに押し付けるのではなく、彼らが『信仰でお父さんがうまくいくなら、私たちも信仰をもつとうまくいくかもしれない』と思って、言ってみれば自然に信仰に引き寄せられることを期待しているんです」。

世俗的な環境に生きている信者であっても、しばしば出くわす決まった言い回しがある。「宗教は個人の選択であり、親であっても自分の信条を子どもに教えることは許されない」というものだ。幼いうちから特定の宗教を教えるのは間違っている、という考え方である。誰もが「多様な宗教体験」に触れ、そのうえで自分の形而上学をどう構築するのが一番いいのか、自分で決められるようにすべきだ、というものだ。

しかし、それとは逆に、数百万ドルもの私財を投じて映画を製作し、おそらくは世界中の観客に向けてカトリックの信仰を肯定的に描いた人物が、自分の子どもたちに自分の宗教的感性を押し付けたくないと主張するのは、非論理的である。

カトリック教会がイエズス・キリストによって人類の救いのために創立された手段であると心から信じている人物が、自分自身のためには教会の賜物と恩寵を求めるくせに、自分の子どもたちにはそれらを与えないというのは道徳的に間違っている。

さらに言えば、親が自分の子どもたちに宗教を教えなければ、他の誰もが宗教を教えることはないと考えるのは、あまりにも世間知らず(ナイーヴ)である。

実際には、子どもたちが何らかの宗教的指導を受けずに済むことはあり得ない。この世俗的な言い回しは、不注意な希望的観測である。もしマーク・ウォールバーグが家族にカトリックの信仰を教えないなら、誰かが自分の信条を教え込むだろう。そして、その場合、子どもの善を求めるような信条体系ではない可能性が非常に高い。代わりに、カトリックの信仰を教えられないままの子どもたちは、多くの捕食者たちの餌食となる。この捕食者たちの多くは現在、公立学校とともに、公立学校の中で、公立学校によって、他人の子どもたちに自分の信条を押し付けようとしているところなのである。

ここ数年、特にここ数カ月、米国の親たちは、公立学校が幼稚園から高校まで子どもたちに押し付けている堕落や嘘について学んできた。 (大学ではもっともっとひどくなる。この事実は、少し前にほとんどの賢明な人々にどうにか伝わったが、親たちは子どもを大学に行かせ続けている。これも不可解な不合理(non sequitur)である)。批判的人種理論 Critical Race Theory (基本的にマルクス主義革命と"分割払い"の[少しずつ構築していく]人種戦争)からトランスジェンダー主義やその他のLGBTQの籠(かご)にある腐った果実まで、子どもたちは間違いなく「宗教体験の多様性」を教えられている。皆さんの子どもが公立学校の教室に足を踏み入れるたびに、国家予算による反人間的な進歩主義の伝道者の魔の手が伸びているのだ。

例えば、「Mx.ビーマン」を見てみよう。Mx.ビーマンはかつて平凡な女性Ms.ビーマンだった。でも今では、彼女は(ここに新しい代名詞を挿入)だ。そしてMx.ビーマンは、彼女(???)の歪んだイデオロギーを小さな子どもたちに押し付けているところだ。公立学校には、たくさんの「Mx.ビーマン」がいる。その一人一人が、そして教員組合(イスラム過激派テロリスト集団のハマスのようなものだが、その英語能力はハマスよりも劣る)という組織全体が、皆さんの子どもたちを狙っているのである。

最近、「グルーミング」(Grooming)が辞書に載った。主に、ディズニーの幹部やスタッフがいかに子どもたちを性の対象としたか、またディズニーが米国や世界に売り込んでいる堕落した文化に搾取されるよう仕向けたかを説明するためである。しかし、企業がカミングアウトし、自分たちが子どもをセックスフレンドになるよう洗脳していることを本質的に認める以前は、皆さんの地元の公立学校はトランスジェンダー主義、人種暴力、文化的マルクス主義、性転換手術、ゲイプライド、反キリスト教的ヘイト、そして全面的な「大混乱」(pandemoniumミルトンの「失楽園」の地獄の首都、万魔殿)を、何も知らない生徒たちに押し付けていたのである。

今年の母の日の時点で、複数のありふれた民主党員でさえ、カトリック信者に対する憎悪犯罪を呼びかけている――ミサの中でだ。教会の破壊行為やテロ攻撃はますます増えている。このテロを煽っている人々は、皆さんの子どもが公立学校で何を「学習する」かを支配しているのと同じ、民主党・メディア・「教育」複合体の一員なのである。

(公平を期すため、最高裁判事ブレット・カバノーが妻子と住んでいる自宅前の抗議を先導している異常者は、公立学校の教師ではない。それよりももっとひどいのだ。彼女は、エピスコパル校のティーチングアシスタントである)。

そして、米国の公立学校には生まれながらの偏見があることを、どうか忘れないでほしい。反カトリック主義は、米国の公立学校のDNAなのである。

「ステュー神父」は、豊富な人生経験を積んだ男、世の中がどのように動いているのかを理解しているように見える世慣れた元ボクサーの話だ。それにもかかわらず、ハリウッドでキャリアを積んでいて、そのため堕落した人間が何をしでかすか知っているはずのこの映画製作者は、子どもの育成に関しては世間知らずのよう(ナイーヴ)だ。大衆(masses)のための映画を作るが、小さな子どもたちのためのミサ(Mass)はない。それは単に間違っているだけではない。悲劇的なまでに間違った方向に導かれている。

マーク・ウォールバーグは、自分の子どもたちにカトリックの信仰を教えるつもりはないと言っている。しかし、その空白のところに、誰かが何かを教え込むだろう。そしてそれは、カトリック教会のカテキズムではなく、堕落と罪のカテキズムから来るものであることは、ほぼ確実だと保証できる。

【ジェイソン・モーガンは、日本の柏市にある麗澤大学の准教授】

Photo Credit


カトリック聖伝のミサの報告 聖ピオ十世会日本 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2022年06月12日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計102人でした。大阪では29人でした。

東京ではミサのオフェルトリウムの時にパレストリナのGloria Patri et Filioがポリフォニーで歌われました。願わくは父と子と聖霊とに栄えあらんことを!
御聖体拝領の時には、ヴィクトリアの Duo seraphim が素晴らしく歌われました!

大阪でも、同じくオフェルトリウムの時にヴィクトリアの Jesu dulcis memoria がポリフォニーが歌われました。大阪ではミサのあとで主日の終課【聖務日課】を捧げました。最後にサルベ・レジナを歌いました。O clemens, o pia, o dulcis, Virgo Maria!

マッテオ・インゼオさんによると、イタリアの人はかわいいものや美しいものを見ると Che dolce ! と言うので、日本語の「癒される~!」をイタリア語に訳すなら、 Che dolce ! となるかもしれないとのことです。するとラテン語で o dulcis ! というのは、現代日本の流行りの言葉で「あぁ、癒される~!」となるのかな?

マリア様に美しいグレゴリオ聖歌を歌った後は、いつもぐっすり眠ることができますね。皆様も、お休み前にグレゴリオ聖歌をマリア様に優しく歌ってみられてはいかがでしょうか?

ところで眠れない時に、羊が一匹、羊が二匹、と羊を数えるのは効果がないそうです、少なくとも日本語では。どうせなら英語で数える方が良いとのことです。One sheep, two sheep, と数えているうちに、sheep が sleep になってしまうから、とのことです。

ですから中国人は羊ではなく、水餃子を数えるそうです。おなかが減ってきて眠れなくなる?いえ、中国語で水餃子のことを水饺 shuǐjiǎo、眠るを睡觉 shuìjiào というからだそうです。

それなら日本語ではチャンネルの数をかぞえるといいかもしれませんね?一チャンネル、兄チャンネル、…父ちゃん寝る、爺っちゃん寝る? うーん!? やっぱり私はグレゴリオ聖歌を勧めます。(^^)>

来週の主日は、東京ではミサが二回です。午前9時と、午前11時30分です。最初のミサの直後に御聖体降福式が行われる予定です。ミサの時間にご注意願います。

【報告】
Dear Fathers:
Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 102, including children.

09:00 mass
M: 23 (incl. 5 children)
F: 30 (incl. 6 children)
Total: 53 (incl. 11 children)

11:00 mass
M: 14 (incl. 3 children)
F: 15 (incl. 3 children)
Total: 29 (incl. 6 children)

12:30 mass
M: 10 (incl. 0 child)
F: 15 (incl. 0 child)
Total: 25 (incl. 0 child)

Total of 3 masses (excl. 5 people who participated in multiple masses)
M: 44 (incl. 8 children)
F: 58 (incl. 9 children)
Total: 102 (incl. 17 children)

Photo Credit


三位一体こそが真の天主、創造主。主への敬畏は上智の始まり。上智とは何か?主への敬畏とはどういう畏れか?

2022年06月11日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年6月12日は三位一体の主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「三位一体の主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


【参考情報】ヴィガノ大司教「ディープ・ステートとディープ・チャーチ、バイデンとベルゴリオ:一つの破壊的なドームの表看板」

2022年06月11日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】ヴィガノ大司教「ディープ・ステートとディープ・チャーチ、バイデンとベルゴリオ:一つの破壊的なドームの表看板」

Viganò. Deep State and Deep Church, Biden and Bergoglio: Frontmen of a Subversive Dome.

2022年6月4日

マルコ・トサッティ
親愛なる「Stilum Curiae」の友人と敵の皆さん、私たちは、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教がフュルミッヒ弁護士と行ったインタビューの第1部と第2部を受け取りましたので、喜んで公開します。お楽しみください。

§§§

「コロナ調査委員会」
ライナー・フュルミッヒ弁護士とのインタビュー

第一部 2022年5月27日

【問1】大司教様、大司教様は、バチカンで奉仕なさっていたときにも、しばしば不誠実な環境におられながらも誠実な方だったことを、多くの人々が知っていて高く評価しています。大司教様はトップ外交官として、特に駐米バチカン大使として、米国の現地の教会に対して教皇の代表を務めておられました。

今日、大司教様とお話しできることは私たちにとって大変光栄なことであり、喜びでもあります。本題に入って、世界の政治状況、特にいわゆるコロナ危機についての評価をお聞きする前に、まだ大司教様のことを知らない視聴者の皆さんに大司教様がどのような方なのかを理解していただくために、個人的な経歴を少しお聞かせください。

【ヴィガノ大司教】最初にまず、あなたに、ライナー・フュルミッヒ弁護士に、そしてあなたの協力者、同僚の皆さんに、心からのご挨拶と、「コロナ委員会」という考えを着想なさったことへの感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。新型コロナウイルス感染症の緊急事態と大量実験の取り扱いに関する真実を求める皆さんの探索は、責任ある者たちを裁き、処罰するための証拠集めに大いに貢献するものです。このことは、「反グローバリズム同盟」(こちらを参照)の創設という観点から重要な貢献となります。なぜなら、このパンデミックの茶番劇の作者は、今日、世界を全面戦争と恒久的なエネルギー危機へと向かわせようとするのと同じ人々だからです。

私の「経歴」については、特に語るべきものはないでしょう。私はカトリックの大司教であり、バチカンでさまざまな責任ある役割を担ってきました。聖座の国務省やバチカン市国行政庁での役割、また、教皇大使としてナイジェリアに、そして最後は、ベネディクト十六世のご意向により米国に行きました。私の悪評は、全く欲しくはないものですが、米国人の元枢機卿セオドア・マカリックの性的スキャンダルや、それに劣らず深刻な位階階級の高位メンバーが関与する事件に関する私の姿勢の結果です。ベルゴリオの支援と保護を享受しているいわゆる「ラベンダー・マフィア」が、これらの恥ずべき事実を隠蔽しようとするのを前にして、使徒の後継者として、私は黙っていることができなかったのです。

【問2】しかし、古い(主流)メディアで大司教様のお名前を検索すると、特にクレムリンのプロパガンダを広め、混乱した発言をしていると非難する中傷的な記事を見つけることができます。よく調べてみると、決してそのようなことはなく、まったく反対であり、むしろ、不誠実な環境の中でも、たとえ個人的な不利益を被ることがあっても、大司教様は誠実な方であるという評判の通りであると私たちには思われます。この美徳が古いメディアによって欠点として再解釈された、大司教様の履歴書の「区切り」(caesura)または「変わり目」(break)はどこにあると思われますか? どういった一線を越えてしまわれたのでしょうか、大司教様の率直さが公的な物語(ナラティブ)にとって危険となったのは、どのような問題だったのでしょうか?

【ヴィガノ大司教】言い掛かりをつけることは、自分たちが恐れ、正々堂々と戦えない敵を排除しようとする人々が使う手段の一つです。この場合には、私は、ディープ・チャーチの支持者たちからも、マカリック事件の時以来、私がスキャンダルや隠蔽を非難してきたベルゴリオの陰謀団からも、不都合な存在とみなされているのです。そして、ここ数年の出来事で、聖座に加えて世界の司教たちのほぼ全員が共謀していることを頼りにしてきたディープ・ステートにとっても、私は同様に不都合な存在なのです。一人の司教による不協和の声は、特に反論の余地のない事実に基づいて筋の通った苦情を述べるとき、この「教皇職」の下での教会の刷新とされるものと、パンデミックの茶番および集団「ワクチン接種」の両方について、公式の物語(ナラティブ)に疑問を呈する危険があるのです。最近のロシア・ウクライナ危機でさえ、グローバリストのエリート、NATO、米国のディープ・ステート、欧州連合、世界経済フォーラム、全メディア・マシン、そしてバチカンがみな、同じ側に足並みをそろえていることがはっきりと分かります。プーチンのウクライナへの介入は、新世界秩序に対する脅威とみなされていますから、世界規模の紛争という犠牲を払ってでも無力化されなければならないのです。

とは言うものの、もし私が教会の方面で「転換点・決裂点」を特定しなければならないとすれば、それは、ベルゴリオが意図的かつ頑なに隠蔽しようとした共謀のネットワークと、腐敗した聖職者や高位聖職者のスキャンダルを私が非難したそのときと一致するのは、間違いありません。世俗的な面では、2年前の2020年5月に発表した「教会と世界のためのアピール」(こちらを参照)で、健康の緊急事態を利用して行われた静かなクーデターで代表される脅威を非難したことで、一線を越えたように思います。エネルギーと食糧の緊急事態は、戦争の緊急事態に加えて、世界経済フォーラムと国連がかなり前から詳細に記述している憂慮すべき「シナリオ」の一部として常にあります。そう遠くない将来のある日、ほとんどすべての西側諸国の機関において、これらの犯罪者とその共犯者を裁く法廷が開かれるとき、これらの文書は史上最大のクーデターが事前に計画されていたことの証明となるでしょう。そして、同じことが教会の問題に関しても起こり、第二バチカン公会議を起源とする教理的・道徳的な流れが、聖職者の教理的・道徳的腐敗および同時発生した司牧者たちの権威の否定に必要な前提を作り出したことを証明することになるでしょう。革命の過程は、国家を破壊するためにも、教会を弱体化させるためにも、常にその代表者たちの悪徳や弱さに依存してきたことを忘れてはなりません。

【問3】大司教様、コロナと対策の危機は3年目に入りました。その間、東方での戦争が、特に大規模な政治およびメディアの戦争挑発が加わりました。この展開をどう評価されますか?

【ヴィガノ大司教】基本的な点を明確にしましょう。つまり、ウクライナ危機とは、意図的に挑発されて起きたものです。特に、いわゆる「技術移行」や「グリーンシフト」といった「グレート・リセット」改革を実行するよう世界に強制するために、ディープ・ステートによって、意図的に挑発されたのです。パンデミックの茶番劇に続く、グローバリストの技術官僚(technocrat)によるクーデターの第二段階です。

サイコ・パンデミックは、政府の支配権を掌握するために始められた真の本格的な攻撃の第一段階でした。実際には、今日、彼らは、政治権力を通さずにそれを迂回しようとしているに過ぎません。政治権力は、これまで、彼らの命令を単に実行する者としてしか機能していなかったのです。パンデミックの口実のもとに、彼らは、詳細な人口管理システムを押し付けたのです。それには実験的な遺伝子血清を接種された個々の市民を追跡するシステムなどが含まれています。

(2018年に)ダボス会議でファイザーのCEOアルバート・ブーラはこう言いました。「錠剤に含まれる生体チップを想像してみてください、飲み込むと胃の中に入り、信号を発します。(中略)その応用を想像してみてください、人々を従順に従わせる可能性のことを。(中略)この分野で起こっていることは、とても魅力的なことです」(こちら)。アルバート・ブーラが「起こっていること」と言ったのは、想像上のプロジェクトではなく、既存のテクノロジーについて彼が話しているからです。グラフェンや自己組織化ナノ回路の存在は、1年前に警鐘を鳴らしていた人々を「陰謀論者」と呼んでいた人々でも、今では認めているのです。「アジェンダ2030」に賛同する国々の国民は、今やほとんどが「ワクチン接種済」であるか、あるいはむしろ、その人々は遺伝子組み換えが行われ、その免疫システムは元に戻らないほど損なわれています。

そしておそらく、現在一部の弁護士が非難しているように、遺伝子血清とともに、人々の反応さえもコントロールできるチップを注入し、人々の行動に干渉し、暴動が起きればおとなしくさせたり、軍事介入の口実を得る必要があれば暴力的にしたりすることが可能であることが発覚するでしょう。私たちは世界的なクーデターをはるかに超えたところにいるのです。つまりこれは、人間の人格に対する、つまり人間の自由と良心と意志に対する、最大にして最もセンセーショナルな前代未聞の攻撃なのです。

ワクチンキャンペーンや治療法、封じ込め対策や都市封鎖について決定しなければならない人々が、大手製薬会社や、永遠のパンデミックと永遠のブースター・ワクチンについて理論立てているビル&メリンダ・ゲイツ財団から資金提供を受けているのです。そのことを考えると、緊急パンデミックの場合に各国の保健システムに対する主権をWHOに与えることによって生じるリスクがどれほど大きいかが十分に想像できるでしょう。

WHOで投票される予定だった決議案でさえ――少なくとも今のところ回避されています(こちらを参照)が――、グローバリストの共同統治(synarchy)による完全支配の方向に向かっています。したがって、実験的遺伝子血清の副作用を隠そうとする軽蔑すべき試みで、WHOが今、サル痘とされるもので警鐘を鳴らしているとしても、驚くべきことではありません。その症状は、mRNA「ワクチン」(こちら)の副作用と不思議なほどよく似ています。WHOと欧州医薬品庁(その75%は大手製薬会社から資金提供を受けています)は共に、明らかな利益相反状態にあり、製薬業界に完全に依存していることが明らかになっています。

ロシア・ウクライナ危機については、ネオナチ過激派によるウクライナのロシア語を話す少数派への民族迫害を終わらせるための平和活動であるべきだったものが、意図的かつ過失的に戦争に変質してしまいました。プーチン大統領はミンスク議定書を尊重するよう国際社会に何度も訴えましたが、誰も耳を貸しませんでした。

なぜでしょうか? これが絶好の機会であったという単純な理由のためです。

第一に、代替エネルギー源への移行と、この移行が象徴するすべてのビジネスを強制するために、世界的なエネルギー危機を即興的に作り出す好機だったのです。有名な「エコロジーへの移行」は、誰も賛成投票しませんでしたし、これはエリートに隷属する官僚が押し付けてきたことにすぎません。しかし、危機がなければ、企業や個人がこの「エコロジーへの移行」を行うように強制する道具として、ガスやガソリンの値上げを押し付けることが、いかにしてできるのでしょうか?

第二に、多国籍企業による世界経済にとって無用または有害とみなされる企業を、統制のとれた冷酷な方法ですべて破壊するためです。何百万もの職人的企業、欧州の国々--特にイタリア--をユニークにしている中小企業は、閉鎖を余儀なくされました。なぜなら、都市封鎖およびサイコ・パンデミックのルールによって引き起こされた災難の後、ガスと石油の価格上昇が引き起こされたからです。しかもこの価格上昇は、「市場」による犯罪的投機によるもので、さらにロシア連邦には一銭も余分に利益を得ることないようになされました。

このすべては、NATOの命令を受けて制裁を課すという手段で -- それを課した者に跳ね返ってくる制裁によって -- 欧州連合が望んだことです。伝統的な経済の崩壊は、予期せぬ紛争による不幸な結果ではなく、むしろグローバルマフィアの計画的な犯罪行為による結果であり、それに比べれば、伝統的なマフィアの存在が有益な協力関係のようにさえ見えます。この破壊的な作戦の恩恵は、倒産価格で企業や不動産を入手できる多国籍企業や、何百万人もの新しい貧しい人々への融資で利益を得る金融会社にあります。ここでも、エリートのイデオロギー的な――そして地獄のような――目的は、単に利益を上げることだけを目的とする経済的支配者の共犯を利用するものです。戦争によって、軍事産業と、それに劣らず繁栄している情報技術産業と傭兵業は、有利な取引を結ぶ好機を得ました。この取引によって、彼らは、ウクライナに武器と支援を送ることに票を投じた政治家に惜しみなく報酬を与えているのです。

第三に、ウクライナ戦争の目的の一つは、細菌による大量破壊兵器が製造される生物学研究所(バイオラボ)に資金を提供するメタビオタ(Metabiota)協会に関与していたハンター・バイデンのスキャンダルを隠蔽できるようにすることでした。アゾフスタル製鉄所を包囲した動機は、アゾフや「右派セクター」(Pravij Sektor)のネオナチとともにいる外国のNATO軍のメンバーを隠すこと、地元住民に対する実験を実行するのに使われることを意図した -- 国際条約で禁止されている --- バイオラボを隠すことが必要だったからです。

第四に、サイコ・パンデミックの物語(ナラティブ)は、主流メディアの共犯にもかかわらず、世論のますます広い範囲にまで真実が伝わって徐々に広がっていくことを妨げなかったからです。ウクライナ危機は、うまく運営された大衆の注意をそらす作戦だった意図がありました。それは、実験血清の致死的効果や緊急パンデミック時に各国がとった対策の悲惨な結果に関して、ますます制御不能になるニュースが目につくのを避けるためでした。データの改ざんは今やあからさまであり、第一段階の実験結果の意図的な隠蔽は、製薬会社自身が認めています。マスクや都市封鎖が役に立たないという認識は、複数の研究によって証明されています。通信教育の結果、生徒が受けたダメージが計り知れないのと同様に、国民の心身のバランス、特に子どもや高齢者が受けたダメージは計り知れないものがあります。人々が、自分たちに対してなされたことを理解し始めるのを防ぐために、反ロシアのプロパガンダで彼らをテレビやソーシャルメディアにくぎ付けにすることは、この狂った犯罪者たち、ロシア・ウクライナ危機と同様にパンデミックに責任のある犯罪者たちが簡単にできる最低限のことなのです。

私たちが、グローバリストのエリートが計画したこの脚本を手に入れるとすれば、パンデミックのシナリオ以外にも、昨年からすでにメディアによって予想されていた、それに劣らず気がかりなシーンが予定されていることが分かります。エネルギー危機は、予期できなかったウクライナ危機による不幸な結果ではなく、一方では存在しない気候の緊急事態を動機とする「グリーン経済」を押し付け、他方では国民経済を破壊する手段であって、多国籍企業の利益のために多数の企業を破綻させ、失業を招き、その結果、低賃金労働者を生み出し、国家が財政主権を奪われたことにより、国家に借金を強制するか、あるいはどのようになっても、通貨発行益(seigniorage:通貨発行によって被り得る利益)のために、恒久的な借金を強制するのです。

食料の緊急事態は、クラウス・シュワブの脚本にもあります。米国や欧州では一部の製品で食料の緊急事態が、アフリカやアジアの多くの国では穀物や穀物製品で、より一般的な食料の緊急事態が始まっています。その後、穀物や農産物が不足しているときに、ビル・ゲイツが米国最大の土地所有者であること、米国で赤ちゃん用の粉ミルクが不足しているときに、ビル・ゲイツが「人工ミルク」を製造する新興企業のトップであることが判明しているのです。また忘れてはならないのは、多国籍農業企業が、自社の実のならない種子(毎年買い直さなければなりません)の使用を強制し、さらに貧しい国々がその種子に依存しなくても済むような伝統的な種子の使用を禁止することに成功していることです。

現在の一連の危機の根本は、1990年代初頭に国有企業の民営化にありますが、この現在の危機を設計した誰かは、この目的のために「世界経済フォーラム」が養成した人々を、政府、公的機関、国際機関、中央銀行や大規模な戦略的資産運用会社のトップ、メディア、世界の主要宗教に配置することも忘れませんでした。欧州の主要国や、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの首相を見てください。彼らは皆、「明日のための若きグローバルリーダー」(Young Global Leaders for Tomorrow)グループから採用され、これらの国々、国連、世界銀行の最高レベルの指導者になったという事実は、彼らを転覆行為と反逆罪で裁判にかけるのに十分すぎるはずです。自国民の利益のために法律を適用すると誓った者たちが、自らの行動に対して、自国民ではなく、誰も選挙で選んでいない顔の見えない技術官僚に答えなければならないそのとき、偽証罪を犯しているのです。

このすべては「陰謀論」だと非難するのは簡単ですが、そのような却下は、もはや通用しません。それは、「協調主義」という非難が、ロシア・ウクライナ危機とその国際レベルでの対応について困惑を表明する人に対して、もはや通用しないのと同じです。

真理を発見するかもしれないことへの恐れから、計略を理解したがらない人々は、脚本があって監督がいること、俳優やエキストラがいて、セットや衣装があることを否定し続けます。しかし、世界で最も裕福で権力のある人々が、自分たちの妄想的なグローバリズムの夢を実現するために、膨大なエネルギーと資源を投入して人類を攻撃することに同意していながら、最初からすべてを詳細に計画せず、すべてをただ偶然に任せていただけだと本当に信じられるでしょうか? 家を買おうと思っている人やビジネスを始めようとする人が、慎重にすべてを計画するのが普通ならば、何故、"エリートが打ち明けられない犯罪的な結果を得るために嘘や欺瞞に頼るにちがいない"と認識することが、「陰謀論」でなければならないのでしょうか?

例えを使わせていただけるなら、この今の事実に対する私たちの態度は、何千ものピースでできたパズルをつくり上げなければならないにもかかわらず、最終的な完成図が自分の前にない人に似ていると言えるでしょう。グローバリズムの「パズル」を構築した人々は、自分たちが手に入れたいと望んだものの最終的な図を分からないようにする意図をもって、そうしているのです。しかし、全体図を見た人、あるいは重要な一部分だけでも見た人なら、そのピースがどのように組み合わされているかを認識し始めます。

そして、最終的な図を見た人は誰であっても、政府高官――また野党でさえも――の沈黙や共謀をどのように解釈するかを知っていますし、病院で行われた科学的エビデンス[証拠]のすべてに反する犯罪における医師や救急隊員の共謀をどのように説明するかも分かっており、ワクチンを接種していない人々に秘跡を授けるのを拒否するまでになった司教や司祭の共謀をどのように説明するかも知っているのです。パズルの大きな領域が見えるようになれば――今まさにそれが起こっているのですが――、残りのピースを配置するのはずっと容易になります。そしてその時点までに、クラウス・シュワブ、ジョージ・ソロス、ビル・ゲイツ、その他の共謀者、そして隠れたままこの犯罪的な世界的陰謀を指揮している人々は、リンチされないように逃げ回ることになるでしょう。

第2部―2022年6月3日

【問4】大司教様は、当時のドナルド・トランプ米大統領に送られた手紙の中で、広く使われている言葉である「ディープ・ステート」だけでなく、「ディープ・チャーチ」についても言及されています。これはどういう意味でしょうか、また、両者はどのように関係しているのでしょうか?

【ヴィガノ大司教】ディープ・ステートが国家に対するものであるように、ディープ・チャーチはカトリック教会に対するものです。どちらも、自分たちが人質に取り、自分たちが潜入している組織が腐敗して変質したものなのです。

ディープ・チャーチのメンバーは知られていなければ知られていないほど、その権力は大きいのです。一番表に出ている人物は、ほとんどの場合、糸を引く者に従う操り人形です。バイデンとベルゴリオは、彼らを結びつけているイデオロギーの表看板の人物です。そのイデオロギーとは、毛沢東の集産主義、メーソンのリベラル主義、第二バチカン公会議のエキュメニズムを混ぜ合わせて、ジェンダーやLGBTQアジェンダといった「政治的に正しい」(politically correct)問題を受け入れたものです。

しかし、ディープ・ステートとディープ・チャーチは、権威を転覆させ、その目的を変質させることによって権力を盗み取った、同じ転覆的なドームの二つの堕落版に過ぎないことを繰り返し述べておかなければなりません。自然の秩序では、国家は、良き統治と市民の共通善をその目的としています。ディープ・ステートの反逆者たちは、それを誠実な者の敵かつ犯罪者の共犯者にしています。超自然の秩序では、教会は、信者の統治と霊魂の聖化をその目的としています。ディープ・チャーチの反逆者たちは、信仰と道徳を守る人々を非難し、代わりに異端者、同性愛者、中絶支持者、強奪者、暗殺者、犯罪者を公に賞賛しています。しかし、はっきりさせておきましょう。これらの反逆者たちの妄想的な計画が、権威を持つ人々の絶滅や腐敗によって国家や教会を破壊することを含んでいるならば、国家、文化、言語、文明は消滅することさえありますが、聖なる教会の場合、私たちの主の約束が永遠に有効であることを、私たちはよく知っています。「portæ inferi non prævalebunt adversus eam,」(地獄の門もこれ(教会)に勝てぬ)【マテオ16章18節】。私たちは、教会のこの世での運命が、人間という変数だけによって判断されるべきだと考えてはならず、むしろ、主が教会を「ut pupillam oculi」(目の瞳のように)【詩篇16篇8節】守ってくださるという確信を持つべきです。

【問5】そのようなものの考え方を陰謀論として否定する人たちからの反論は、こうでしょう。世界のほとんどすべての国で、ほとんどすべての政治家がこの茶番のゲームに参加しているなど、どうしてあり得るでしょうか? 世界の半分を隔離所に送り込むほどの権力と影響力を、誰が持っているというのでしょうか?

【ヴィガノ大司教】世界規模の陰謀という理論を支持する人々に対する反論は正当であり、理解できます。なぜなら、私たち一人一人が、価値観や原理の共有システムに対して正しい教育を受けてきており、今でもそれを当然のこととしているからです。息子は父親を信頼すべきであり、生徒は教師を信頼し、患者は医師を信頼して治療を受けることができ、権利が侵害された者は公平な法廷から正義を得ることができ、貧しい者は他人の同情と愛徳に期待し、市民にはその保護者となる統治者がいます。信者は教会の司牧者の声を、あたかもキリストご自身の声であるかのように信頼して聞くことができ、読者は情報の門番に欺かれることなく、客は店主にだまされることを恐れず、レストランで食事をする人はオーナーに毒殺されることを恐れることはないのです。このシステムでは、父、教師、医者、裁判官、統治者の権威は、父、主人、裁判官、王である天主の権威に関係しているのです。キリスト教社会――今はキリスト教の痕跡をわずかに残しているにせよ、その根底には依然としてキリスト教があります――を解体する働きが、キリストに対するサタンの抑えがたい憎悪によって動機づけられていることは明白です。

しかし、敵が、200年以上にわたって続く絶え間ない努力によって、学校、裁判所、公的組織、神学校、会社、労働組合に潜入し、徐々に最高レベルの指導層を征服して、脅迫か報酬のどちらかによって皆に指令を出す同じ権力集団から命令を受けたら、何が起こるでしょうか? このような転覆の証拠を前にして、私たちは、これまでそれに気づかなかったことがあまりにも信じがたいからといって、目をつぶっていてはなりません。そうではなく、私たちの多くの、あまりにも多くの沈黙が、腐敗した市議会議員、堕落した教区司祭、不正直な兵士、無知な助手、不誠実な医者、怠惰な従業員を、国会議員、司教、将軍、教授、政府高官に昇進させるのを許し、それによって自分自身を脅迫されやすくしてしまったことを認める勇気を持たなければなりません。結局のところ、責任ある者たちはごく少数であり、彼らに従う多くの人々は、そのほとんどが大勢順応主義から、あるいは小さな取るに足らないことを隠すためにそうしているのです。しかし、この少数の人々は――私たちは彼らが自ら広めているデータから知っていますが――本当に途方もない権力を持っており、彼らが各公的機関の最高指導者に新しい熟練者を任命するたびに、その権力は増大していくのです。これは決して信じられないような状況ではありません。その逆です。つまり、メディアを所有するのは誰か、政党に資金を提供するのは誰か、国際機関のスポンサーは誰か、国家の収支報告書を作成するのは誰かを考えれば、極めて簡単に理解することができます。彼らは常に、ごく少数の投資ファンドの代表者であり、また、さらに少数の貪欲な巨大金融の代表者なのです。その名前はいつも同じで、私たちは彼らが誰であるかを知っています。

【問6】大司教様が、元ワシントン大司教セオドア・マカリックに対する処罰を解除した教皇フランシスコを強く批判なさってから数年がたちます。マカリックは、米国のカトリック教会の虐待スキャンダルで告発された中心人物の一人です。これは本当にひどい行為でした。繰り返されるように見えるこの児童虐待問題への融和的なアプローチを激しく批判する方として、カトリック教会と欧米の政治におけるこの残酷な現象の広がりと重要性について、何か語ることがおできになりますか?

【ヴィガノ大司教】マカリック事件を糾弾した後、私は、道徳的な腐敗と教理的な腐敗の間に関連があることを証明しようと試み、第二バチカン公会議以後の信仰と典礼の危機は、信徒および聖職者の道徳の変質を必然的に伴っていたと強調しました。なぜなら、逸脱した信仰は逸脱した道徳へとつながるからです。異端者は決して正直で貞潔で誠実な人間にはなりません。

異端者が天主の真理――すなわち天主ご自身についての真理――に直接関わる問題で、嘘や誤謬を受け入れるとするならば、異端者が自分の道徳を作り出すことがことはもっと簡単にできるでしょう。これは、近代主義者が「状況による道徳」と呼ぶもので、道徳自体を状況に適応させるのです。

第二バチカン公会議の誤謬とは、当初、その破壊的な性質を隠すために偽装されていましたが、まさに、私たちが――たとえ信仰を時代遅れだとか、その信仰を全て信徒に受け入れるように求めるには難しすぎると考えていたとしても――天上界のかなた(hyperuranium)でその信仰をそのまま無傷で保存できると考えた誤謬でした。また、道徳の領域では、道徳を抽象的モデルとしてそのまま保存する、と同時に、カトリック信者が自分の都合に合わせて、どの原理に従いどの原理を無視するかを選択するがままにさせることができる、という誤謬でした。

「公会議後の教会」にとって、私たちの主の神性という教理は、理論的には有効なままですが、その教理を信じない人々がいても、或る道のりを仮定すれば、信じなくても容認され得るとされます。何を仮定するかというと――このような仮定は、通常決して行われませんが――それは、カトリックの教え全体を受け入れることにつながるだろうとされる、ゆっくりとした回心がおこるかもしれないという過程です。

同様に、妊娠中絶や同性愛は天主の御前で復讐を叫ぶ罪ですが、抽象的な概念にとどまり、司牧者は改宗の第一歩として信者に従うよう求めることはありません。ですから、盗人は、将来回心するのだからと盗みを続け、自分が殺したり姦淫したりはしないという事実に安心します。姦淫を行う者は、自分の子どもを殴ったり雇人を搾取したりはしないという事実に安心するのです。しかし、これは私たちの主がお求めになったものではありません。主は、「どれに従うかを選べば、あなたたちは私の友人である」と言われたのではなく、「私の命じることを守れば、あなたたちは私の友人である」(ヨハネ15章14節)と言われました。カトリック信者であるということは、英雄的な選択をすることであり、それによって、私たちは慈善団体に依りすがるのではなく、洗礼によってキリストの神秘体に一体化され、恩寵によってキリスト・イエズスにおいて父なる天主の子とされるのです。カトリック信者にとって、凡庸というのはあり得ませんし、ましてや司祭や司教にとってはなおさらです。

この放棄する態度は、教会に対するあまりに人間的な見方を明らかにしており、彼らによれば、教会は「司牧的配慮で」この世のメンタリティーに自分を適応させるべきで、ただし、キリストの教えは、「教導権」においてのみ、ユートピア的で非現実的とみなされるため誰も参照しない一種のアーカイブとして保持すべきものだとします。理論的には「depositum fidei」(信仰の遺産)を保存することによって良心を沈黙させ、しかし同時に、教理的・道徳的な逸脱を合法化することで、情欲と罪におぼれるがままにさせる方法です。

"カトリックの教導権の完全性"を放棄するよう司教たちに説得するためには、彼らの霊魂が堕落していなければならなかったことは明らかです。なぜなら、不道徳な生活を送り、そのためしばしば脅迫されやすい高位聖職者は、自分自身が破った掟を尊重するようあえて他人に求めることはないからです。だからこそ、ディープ・チャーチの潜入者たちは、数十年の間に、聖職者と司教の健全な部分を排除したり主要ポストから追いやったりして、不道徳で性的欲望にまみれ、腐敗した異端的な者たちに置き換えてきたのです。位階階級の最高レベルに彼らが存在するだけで、教会を内部から破壊する最も効果的な道具となります。それはちょうど、ディープ・ステートが世俗の領域で行ったようなものです。腐敗した、あるいは脅迫されやすい政治家は、腐敗と悪徳を合法化する法律に賛成投票し、もしその政治家に道徳的な良心の呵責があるためそうしたくないとしても、そうしなければその政治家個人のスキャンダルが明るみに出るからそうするのです。

この地獄の迷宮から抜け出す唯一の方法は、宗教に関してであれ世俗に関してであれ、権威によってなされる道徳的な行動です。命令する者が知っておかなければならないのは、その権力が天主に属すること、また、その権力を行使する際には、良い統治に必要なすべての徳を実践し、権威が存在する目的を達成しなければならない、ということです。

フランス革命までは、「[天主の]代理としての権威」の概念は非常に明確でした。なぜなら、それは信仰と密接に関連していたからです。社会から天主が抹消されることで、事実上(ipso facto)、統治者は暴君となる可能性があります。なぜなら、唯一の主にして王である天主の御前での「道徳的」責任を放棄し、権力とは多数派を満足させることであると限定するからです。同じことが教会でも起こりました。この世と折り合いをつけ、この世の冒涜的なメンタリティーを受容することを好んだ教会は、――教会は超自然の目的を持つ天主が作った組織であるにもかかわらず――人道的な目的を持つ人間が作った組織として自らを世に提示することによって、生き残れると確信したのです。

司教たちが、そして教皇が、天主がご自身を私たちに啓示なさった方法や、私たちにお教えになったことを信じるように立ち戻るとき、また、彼らが天主を愛するように立ち戻るとき、さらには、彼らが、自分の犯したあらゆる失敗、素朴な人々に教えたあらゆる誤謬、許容されたあらゆる逸脱が、キリストの顔を目も当てられぬものにし、鞭打ちでキリストの肉を引き裂き、十字架においてキリストの手と足を貫いたこと、また、そのせいで主が私たちを贖うために死なれたことを理解するとき、彼らは、自分を権威の座に就けたお方への忠誠の証人として死ぬことを厭わなくなるでしょう。

彼らが人間の論理で進んでいこうとする限り、彼らの教会、神学校、修道院が空虚であるのと同様に、彼らの聖務は空虚なものとなるでしょう。彼らは絶滅によって消えていく一方で、良き司祭たちは、天主の栄光と信徒の聖化のためにこれまで常に行われてきたことを行い続けることでしょう。

【問7】もちろん、大司教様は医学の専門家ではいらっしゃいませんから、この点に関する評価を下すことはおできになりません。しかし、大司教様は現在の危機を医学的、政治的危機として解釈なさっているだけでなく、終末論的な関連性を認識しておられますから、私たちは、全体の編成の中で重要な役割を果たしているmRNA注射を、大司教様の神学的観点からどのように分類なさるのか、知りたいと思っております。

【ヴィガノ大司教】新しいmRNA技術を用いた実験用血清による個人のDNAの改変は、この歴史的な戦いにおいて最も警鐘を鳴らすべき点でしょう。調合薬あるいは医療サービスを売らんがために、世界の人々を標的にして、彼らの免疫力を低下させ、突然死を引き起こし、慢性的な病気にさせることに何のとがめも感じない経済的権力があるとすれば、他方では、NWOの共同統治(synarchy)を通じた反キリストの出現のために、地獄の計画に奉仕して働くことをよく承知している悪に徹した人々がいます。

人間を遺伝子的に改変しようとする試みにおいて、私たちが目にしているのは、被造物に対するサタンの嫌悪が極端な結果となっていること、特に救いの経綸において至聖三位一体の神殿として選ばれた人間自身に対する嫌悪があることです。

【問8】当時のドナルド・トランプ大統領への手紙の中で、大司教様は光の勢力と闇の勢力との対決について述べられました。私たちは今、この対決のどのあたりにいるのでしょうか? この戦いの結果として考えられるのは、どのようなものでしょうか? 光の勢力を強めたいと思っている私たちにできることは何でしょうか?

【ヴィガノ大司教】霊的な出来事はこの世の出来事と交差し、歴史は天主の永遠と交差し、人間の出来事は闇の子らが光の子らに戦いを挑む戦場です。人類にとって、サタンに欺かれ、自分が天主のようになれると思い込まされたアダムの堕落から始まった戦いです。敵【悪魔】が、何が善で何が悪かを自らが決めることができると人間を言いくるめて、被造物に対する主の主権を人間が自らのものとしようとするときにはいつでも、この誘惑は、何世紀にもわたってすべての人間に対して繰り返されています。何世紀にもわたって天主の法に反抗し、イエズス・キリストの主権を拒否した後の今日でさえも、続いている戦いです。最終的には、すべては「私と共にいない人は、私の敵である」(ルカ11章23節)という主のみ言葉に、この区別に、そして創造主にして贖い主である天主の愛に対する私たちの自由な応答に帰結するのです。

これらの歴史的な出来事を、"権力奪取を目的とした単なる人間の陰謀"にすぎないと判断するのは控えめな表現であり、グレート・リセットの推進者がみな確信的なサタン崇拝者だと考えるのもまた大げさな表現でしょう。しかし、善を行うだけでなく悪を行うという、まさに人間らしい弱さがあるからこそ、私たちは、主の御あわれみを動かして、悪人の企みを混乱させ、彼らが自分たちの目的を達成するのを許さないようにすることができるのです。善人は組織されておらず、分裂し、喧嘩をしがちです。一方、悪人は組織化され、団結し、「adversus Dominum, et adversus Christum eius」(主と、その油を注がれた者に逆らって)【詩篇2篇2節】常に団結しています。しかし、善人が、この歴史的な衝突の霊的次元を理解して、王たるキリストの御旗の側につくことを決意するならば、善人たちはキリストとともに勝利を収め、共通の敵が打ち負かされるのを見ることができるのです。

このインタビューの最後に、これらの重要な問題について私の考えを述べる機会を与えてくださったあなたに、フュルミッヒ弁護士に感謝させてください。コロナ委員会の皆さん全員、またグローバリストのリヴァイアサンと戦うすべての国の人々全員が、望ましい結果を得られるように願っています。そして、皆さんに天主の祝福がありますように。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

Entretien de Mgr Viganò avec l’Avocat Reiner Füllmich du « COMITÉ D’ENQUÊTE CORONA ». Première partie – 27 mai 2022

Entretien de Mgr Viganò avec l’Avocat Reiner Füllmich du « COMITÉ D’ENQUÊTE CORONA ». Seconde partie

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教皇ピオ十二世「教会を自然の秩序全体から超越せしめているものは、贖い主の霊であり世の終わりまで教会の内部に行き渡り活動している」

2022年06月06日 | お説教・霊的講話

教会と聖霊についての説教

ドモルネ神父様 2022年6月5日

はじめに

今日、私たちは聖霊降臨の祝日をお祝いしています。この日、聖霊が火の舌の形で使徒たちの上に降り、イエズス・キリストによって創立された教会が、すべての人に明らかにされました。今日は、教会と、教会における聖霊の働きについてお話しします。

1.教会という概念

語源によると、「教会」という言葉は、同じ信仰を持つ人々である「信者の集まり」を意味します。もっと正確に言えば、「教会」という言葉は、「イエズス・キリストの指導のもとに一つになった、すべてのイエズス・キリストの信者の集まり」を意味します。この信者は、天国、煉獄、地上という、三つの異なる場所にいます。

聖パウロは、イエズス・キリストの信者がどのように集められ、一つになっているかを私たちが理解するのを助けるために、教会を、人間の体に例えています。

彼は、コロサイ人にこう言っています。「イエズス・キリストは、体のかしら、つまり教会のかしらである」(コロサイ1章18節)。またローマ人にはこう言っています。「私たちは数多いが、キリストにおける一つの体で(ある)」(ローマ12章5節)。頭が体のすべての肢体と一つになって、それらに指示を与えるように、イエズス・キリストは、教会の肢体であるすべてのメンバーを、ご自分と一つにして、指示を与えておられるのです。体の手足が秩序をもってつながっているように、イエズス・キリストは教会のメンバーの中に、位階を設けられました。体が目に見えるものであるように、イエズス・キリストはご自分の教会を、すべての人が見ることのできるように、目に見える形で創立されたのです。

2.教会の創立

教皇レオ十三世の言葉によれば、教会の創立には、受胎、誕生、顕現の3段階があります。

福音に書かれているように、イエズス・キリストは、地上での生活の間に、教会を受胎されました。主は、教会のメンバーとなるための手段として、洗礼を制定されました。主は、12人の使徒と72人の弟子を選び、自らの贖いのわざにおいて、彼らを共に働かさせられました。主は彼らに、徹底した教えを与えられました。「あなたたちには、天主の国の奥義を知る恵みが与えられた」(ルカ8章10節)。主は彼らを、宣教に送られました。「イエズスは、これから行くはずの町や所に、まず二人ずつ送られ(た)」(ルカ10章1節)。主は彼らに、権威を与えられました。「あなたたちの言うことを聞く人は、私の言うことを聞く人であり、あなたたちを拒む人は、私を拒む人である」(ルカ10章16節)。主は彼らの間に、位階を設けられました。「あなたはペトロである。私はこの岩の上に私の教会を立てよう…。私はあなたに天の国の鍵を与えよう」(マテオ16章18-19節)。主は彼らに、霊的な力をお与えになりました。「あなたが地上でつなぐものはみな、天でもつながれ、あなたが地上で解くものはみな、天でも解かれる」(マテオ18章18節)。

イエズス・キリストは、聖金曜日に、十字架の上で、教会をお生みになりました。教父たちは、イエズスの聖心が刺し貫かれ、血と水が出てきたときに(ヨハネ19章34節)、教会が誕生したと言っています。この血の混じった水は、キリストのご受難のゆえに、霊魂を清める力を持つこととなる、洗礼の水を表します。罪の赦しと超自然の命が私たちに与えられ得るようになったのは、そしてまた、洗礼が私たちをキリストの教会のメンバーとする力を持つようになったのは、十字架の犠牲が成し遂げられたときでした。ですから、子どもが母親の胎内から生まれ出るように、私たちは、教会が、キリストの聖心から生まれ出た、と言うのです。

聖霊降臨の日に、イエズス・キリストは、教会の超自然の命と使命を、目に見える形で明らかにされました。父なる天主が、聖霊を鳩の形で送ることによって、イエズスの公生活の初めに、イエズスの神性とご使命を明らかにされたように、イエズスは、聖霊を火の舌の形で送ることによって、教会のこの世での活動の初めに、教会の天主からの起源と、教会の超自然の使命を、明らかにされたのです。

3.教会における聖霊の働き

では、教会における聖霊の働きとは何かについて、見てみましょう。聖アウグスティヌスは、こう言っています。「聖霊と、キリストの神秘体である教会との関係は、霊魂と肉体との関係と同じである」。そこで、教会における聖霊の働きを理解するために、肉体に対する霊魂の働きについて、考えてみましょう。

第一に、霊魂は、肉体に命を与えます。同じように、聖霊は、洗礼と悔悛の秘跡を通して、教会のメンバーに超自然の命を与えます。洗礼について、イエズスはニコデモにこう言われました。「まことにまことに、私はいう。水と聖霊によって再び生まれぬ者は、天主の国に入れぬ」(ヨハネ3章5節)。悔悛の秘跡について、イエズスは使徒たちにこう言われました。「聖霊を受けよ。あなたたちが罪を赦す人にはその罪が赦され、あなたたちが罪を赦さぬ人は赦されない」(ヨハネ20章23節)。

第二に、霊魂は肉体を一つにしています。実際、私たちの霊魂が体から離れると、体は崩壊してしまいます。同じように、聖霊は、教会の各メンバーにおいて活動しており、教会を一つにしています。「天主の霊は、全く唯一の同じ聖霊が全教会を満たし、一つにしている」。(ピオ十二世「ミステチ・コルポリス」(Mystici Corporis)62番)

第三に、霊魂は肉体を統治します。ですから、聖霊は、教会のメンバーを監督する司教たちを置くことによって、教会を統治するのです。聖パウロはエフェゾの司教たちにこう言いました。「あなたたちは、自分と群れ全体に気をつけなさい。聖霊は、天主が御血をもって贖われた教会を牧するために、あなたたちを司教と定められたのです」(使徒行録20章28節)。

第四に、霊魂は知識の能力を持ち、肉体を、霊魂の知識にあずからせます。ですから、聖霊は真理の霊であり、教会のメンバーに、天主、イエズス・キリスト、そして私たちの創造と贖いのわざ全体についての真理の知識を与えてくださいます。イエズスは、使徒たちにこう言われました。「その方、つまり真理の霊が来るとき、霊はあなたたちをあらゆる真理に導くであろう」(ヨハネ16章13節)。

第五に、霊魂は愛する能力を持ち、肉体を自らの愛にあずからせます。ですから、聖霊は、御父と御子の位格化された愛であり、この天主の愛を、教会のメンバーに与えるのです。聖パウロはローマ人に、こう言っています。「あなたたちは、再び恐れに陥るために奴隷の霊を受けたのではなく、養子としての霊を受けた。これによって私たちは、『アッバ、父よ』と叫ぶ」(ローマ8章15節)。

一般的に言って、キリストの教会を、いかなる人間社会をも超越する社会とさせるのは、聖霊の存在と働きです。教皇ピオ十二世は、こう言っています。「キリスト信者の社会を、自然の秩序全体から超越せしめているものは、われわれの贖い主の霊であり、それはあらゆる恩恵の、あらゆる賜物の、あらゆる奇跡の力の源として、世の終わりまで教会の内部に行き渡り、活動している」。(「ミステチ・コルポリス」63番)

結論

親愛なる信者の皆さん、キリストの教会は、ローマ・カトリック教会です。カトリック教会のメンバーであることによって、私たちはイエズス・キリストと一つになり、聖霊を、そのすべての賜物とともに、私たちの霊魂のうちに受けるのです。ですから、この聖霊降臨の祝日に、カトリック信者である、というこのおおきな恩寵に対して、私たちの主に感謝しましょう。また、多くの霊魂を、私たちの主イエズス・キリストを知り、愛するよう導くための、使徒の元后である聖母の道具になる、という望みを、新たにしましょう。


【参考情報】ヴィガノ大司教:新しい枢機卿の候補者の指名について:流血までの覚悟はあるのか?枢機卿として選ばれる条件とは?

2022年06月05日 | カトリックとは

【参考情報】USQUE AD EFFUSIONEM SANGUINIS(血を流すまで):次の枢機卿会議の候補者指名について

USQUE AD EFFUSIONEM SANGUINIS: Regarding the Nominations for the Upcoming Consistory

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教 2022年6月3日

大聖グレゴリオ、聖ピオ五世、福者ピオ九世、聖ピオ十世、そして尊者ピオ十二世に、枢機卿の聖なる緋色の帽子の授与を決定する際の評価の根拠を尋ねることができるとすれば、彼ら一人一人から例外なく、次のように聞かされることでしょう。聖なるローマ教会のプリンスとなるための主要な条件は、生活が聖であること、特定の聖徳に優れていること、教会戒規についての博識を持っていること、権威行使における知恵があること、そして使徒座とキリストの代理人に対して忠実であることである、と。これらの諸教皇がつくった枢機卿の多くは、後に自身が教皇となった人もいれば、教会の統治への貢献で有名になった人もいます。さらに、聖カルロ・ボロメオや聖ロベルト・ベラルミーノのように、祭壇の栄光に上げられたり、教会博士と宣言されたりするにふさわしかった人もいます。

同様に、大聖グレゴリオ、聖ピオ五世、福者ピオ九世、聖ピオ十世、尊者ピオ十二世によってつくられた枢機卿たちに、自分たちが上げられた尊厳をどのように考えているかを尋ねることができるとすれば、彼らは例外なく、こう答えることでしょう。自分はいただいた役割にふさわしくないと感じており、地位に応じた恩寵の援助を受けると確信している、と。最も有名な者から最も無名な者に至るまで、これらの人々はすべて、教会の不変の教導権に対する絶対的な忠誠の証拠、福音宣教および啓示された真理の擁護によって信仰の英雄的な証人である証拠、キリストの代理者にして使徒のかしらの後継者であるペトロの座に対して子としての従順の証拠を示すことが、自らの聖化のために不可欠であると考えていたのです。

教皇玉座に座っている者と彼が枢機卿に上げた者に、これらの質問を今日投げかける者は、枢機卿の任命が世俗の機関での名誉ある任命と同じものだと考えられていること、また枢機卿の任命は、枢機卿の聖務に必要な徳が、それやこれやの候補者の選択に至るというのではなく、むしろ候補者の腐敗の程度、脅迫されやすさ、これやそれやの政治的流れへの忠誠を発見して、大きなつまずきを覚えることでしょう。また、天主のことでは主の役務者が聖性の模範でなければならないように、チェザルのことでは統治する者が統治の徳に導かれ、共通善に動かされると仮定するならば、同じこと、実際には、おそらくもっと悪いことが起こるでしょう。

ベルゴリオの教会によって任命された枢機卿は、自分たちが代表するディープ・チャーチと完全に一致しており、ちょうど国家の大臣や役人がディープ・ステートによって選ばれて任命されるのと同じです。そして、もしこのようなことが起こるとすれば、それは、私たちが何世紀にもわたって、世界で、また60年間教会で目撃してきた権威の危機が、今や癌のように転移しているからなのです。

誠実で腐敗していない指導者は、信念のある忠実な協力者を求め、それを得ます。なぜなら、彼らの同意と協力は、善い目的(自分自身および他者の聖化)を共有し、それを達成するために道徳的に善い手段を用いることから来るからです。同様に、腐敗した不誠実な指導者には、腐敗した裏切る傾向のある部下が必要です。なぜなら、彼らの同意と協力は、犯罪での共謀、殺し屋と殺し屋を雇う者の脅迫、そして、命令に従うことに道徳的なためらいがないことから来るからです。

しかし、忘れてならないのは、悪を行う際の忠誠心は、常に一時的なものであり、そこには主人が権力を持ち続け、かつ主人に仕える人々にとってより魅力的でより利益のある代わりのものがないという、ダモクレスの剣があることです。逆に、善を行う忠誠心(これは愛と真理である天主に根ざしたもの)は、迷うことなく、王にして大司祭たる私たちの主の権威の代理者である霊的またはこの世の権威のために――usque ad effusionem sanguinis(血を流すまで)――命を犠牲にする覚悟さえあります。これこそが、枢機卿の服に象徴される「殉教」(martyrium)です。これはまた、それを冒涜しても、レオの壁によって【バチカンの壁に象徴される権威によって】守られると信じている者たちへの断罪となるでしょう。

したがって、脅迫に基づく権威が、脅迫に弱い人々で自らを取り巻いていることも、破壊的なロビーの代わりに行使される権力が、始められた路線の継続性を保証して、次のコンクラーベがワクチン販売人や新世界秩序の宣伝者とは違う教皇を選出することを阻止したいと思うことも、驚くべきことではありません。

しかし、色とりどりのあだ名や金銭・性的スキャンダルという重荷で、口汚いマスコミを賑わせている枢機卿猊下のうち、誰が自分の命を捧げる覚悟があるのでしょうか。それは、サンタマルタ館にいる主人――彼自身は、廷臣たちのために自分の命を捧げないように非常に注意することでしょう――のためだけではなく、私たちの主のためにもです。ただし、彼らがいつの間にか主をパチャママに代えていないと仮定すれば、の話ですが。

私には、次の点が最も重要な点だと思われます。「ペトロ、あなたはこの人たちよりも私を愛するか」(ヨハネ21章15-17節)。私には、ベルゴリオがどう答えるかをあえて考えるつもりはありません。その代わり、カリグラがローマの元老院を侮蔑していることを示すために自分の馬インキタトゥスにラティクラヴィウス(laticlavius 元老院議員の位)を授与したように、枢機卿の位を授与されたこれらの人物がどう答えるかを私は知っています。【ペトロがキリストを否んで言った言葉】「私はその人を知らない」(ルカ22章54-62節)です。

ぶどう畑の主人に対して、畑を荒らしているイノシシに正義を行いに来てくださいと懇願することは、カトリック信者(平信徒も聖職者も)の主要な仕事です。この堕落者と姦淫者のセクトが神殿から追い出されるまでは、世俗社会をつまずかせるというよりは社会に模範を示していかなければなければならない人々よりも社会が良くなることを期待することはできないでしょう。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2022年6月2日


カトリック聖伝のミサの報告 聖ピオ十世会日本 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2022年06月05日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖霊降臨の主日、おめでとうございます。

今日東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計108人でした。大阪では27人でした。

大阪では、聖霊の七つの賜物について、特に「主の敬畏」の賜物について黙想しました。また聖体降福式の時に聖霊降臨の讃課(Laudes)でうたう賛歌(hymnus)の Beata nobis gaudia を歌いました。【王たるキリストの晩課の賛歌 Te saeculorum Principem と同じメロディーでびっくりでした。】

来週の主日は三位一体の主日です。大阪でのミサは来週に限り午後になります。ご了承ください。

【報告】
Dear Fathers:
Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 108, including children.

09:00 mass
M: 23 (incl. 6 children)
F: 32 (incl. 9 children)
Total: 55 (incl. 15 children)

11:00 mass
M: 15 (incl. 1 child)
F: 16 (incl. 2 children)
Total: 31 (incl. 3 children)

12:30 mass
M: 12 (incl. 0 child)
F: 15 (incl. 1 child)
Total: 27 (incl. 1 child)

Total of 3 masses (excl. 5 people who participated in multiple masses)
M: 47 (incl. 7 children)
F: 61 (incl. 12 children)
Total: 108 (incl. 19 children)


聖霊降臨|聖霊の七つの賜物とは。七つという数字の神秘。聖霊降臨は第二の五旬祭。

2022年06月04日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年6月5日は聖霊降臨の主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨の主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

 


今年の聖霊降臨は、大阪の聖母の汚れなき御心聖堂がオープンして6周年です。

2022年06月04日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今年の聖霊降臨は、大阪の聖母の汚れなき御心聖堂がオープンして6周年です。

2016年の聖霊降臨は5月15日でした。日本の聖ピオ十世会の聖母の汚れなき御心に捧げられた常設の聖堂がオープンした日、初めてのミサ聖祭がそこで捧げられた日でした。

天主様に感謝!聖母の汚れなき御心に感謝!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田神父







不思議のメダイ:家族、恩人、友人、私たちが愛する彼らの永遠の救いについて、何ができるのでしょうか?

2022年06月03日 | お説教・霊的講話

不思議のメダイの使徒職についての説教

ドモルネ神父様 2022年5月29日 東京

はじめに

私たち皆のまわりには、家族、恩人、友人、あるいは、何らかの理由で私たちに思いやりを見せてくれる人で、私たちの主イエズス・キリストを信じていない人達がいます。私たちは、私たちの主を愛していますから、私たちの主がその人達に敬われていないことに、苦しみを感じます。私たちは、またその人達を愛していますから、彼らの永遠の救いについて心配します。私たちには、何ができるのでしょうか?

聖母に奉献された5月も終わりを迎え、また聖霊降臨が近づいていますから、今日は、霊魂を回心させるための特別な使徒職、つまり、不思議のメダイの使徒職についてお話ししようと思います。

1.第一の基本的なポイント:回心の恩寵という無償の賜物

理解すべき第一の基本的なポイントは、信仰は、超自然的な賜物(たまもの)だということです。イエズス・キリストを信じること、そして使徒信経にあるすべてのことを信じることは、天主からの賜物なのです。世界で最も知的で、最高の神学書を研究し、最も特別な奇跡を目撃した人であっても、天主からの特別な無償(むしょう)の御助けがなければ、イエズス・キリストの神性と教えを信じることはできません。なぜそうなのでしょうか? なぜなら、それらは、人間の知性が、自然的に把握することのできない、超自然的な現実であるからです。福音の一節を思い出してください。「主は使徒たちに、『人々は、人の子を誰だと言っているのか』と聞かれた。使徒たちは、『ある人は洗者ヨハネと言い、ある人はエリア、またある人はエレミア、あるいは預言者の一人だと言っています』」。言い換えれば、これらの人々は、イエズスを、ただの人間だと考えていたのです。「イエズスが、『ところで、あなたたちは、私を誰だと思うのか』と言われると、シモン・ペトロが、『あなたはキリスト、生ける天主の御子です』と答えた」。こう言って、聖ペトロは、イエズスの神性を宣言したのです。「イエズスは答えて、『シモン・バルヨナ、あなたは幸いな人だ。その啓示は血肉(けつにく)からのものではなく、天にまします私の父から出たものである』と言われた」(マテオ16章13-17節)。言い換えれば、聖ペトロが私たちの主の神性を信じることができたのは、天主が、そのための特別な恩寵を彼にお与えになったからなのです。

私たちが人を信仰に導くのは、見事な演説の力によるのでも、私たちの人間的な資質で人を引きつけることによるのでも、ありません。信仰は、天主からの賜物です。人を回心させるには、この賜物を得なければなりません。では、どうすればそれができるのでしょうか? それは、痛悔と祈りによってです。これは、童貞聖マリアがご出現のたびに、私たちに語っておられることです。痛悔は、その人の回心を妨げる罪を償うために、必要なものです。祈りは、信仰の賜物を得るために必要なものです。

2.第二の基本的なポイント:童貞聖マリアの取りなし

理解すべき第二の基本的なポイントは、童貞聖マリアの果たされる中心的な役割です。イエズスが悪魔を打ち負かされるのは、マリアを通してです。「私は、おまえと女との間に、おまえのすえと女のすえとの間に、敵対を置く。女は、おまえの頭を踏みくだき、おまえは、女のかかとを狙うであろう」(創世記3章15節)。イエズスがすべての人を救って天主の子としてくださるのは、マリアを通してです。「イエズスは母に、『婦人よ、これがあなたの子だ』と言われ、また、弟子には、『これがあなたの母だ』と言われた」(ヨハネ19章26-27節)。

不思議のメダイは、この聖母の役割をよく表しています。不思議のメダイをお持ちになっている方は、ぜひそれをご覧ください。メダイの表側では、聖母が地球の上に立っておられます。これは、聖母が天と地の元后(げんこう)であり、したがって、すべての人の元后であることを意味します。聖母は、地球の上にいる蛇を、踏みくだいておられます。これは、イエズスが、聖母を通して、地球上の悪魔とその手先たちを打ち負かされることを意味します。マリアがおいでになられるところならどこでも、サタンは踏みくだかれるのです。聖母の両手から、光線が出ています。これは、マリアが、ご自分に取りなしを願う者のために取りなしてくださる、すべての恩寵を意味します。「ああ原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依(よ)り頼み奉(たてまつ)る我らのために祈り給え」と刻まれた文字は、私たちが必要とする恩寵を得るために唱えるべき、単純ながら効果的な祈りを示しています。地球の上に書かれた「1830」という数字は、聖母がこのメダイを私たちにお与えになるためにご出現になったのが、1830年であったことを示しています。

メダイの裏面では、「M」の文字と十字架が、からみ合っています。「M」の文字は「マリア」を表し、十字架は、イエズスと、その贖(あがな)いのみわざを表します。このふたつがからみ合っていることは、贖いのみわざにおけるイエズスとマリアの深い一致を意味します。十字架は、「M」の文字の上にあります。これは、イエズスが、マリアを迎える霊魂たちに救いをもたらされること、また、マリアが、イエズスのご来臨を準備されることを意味します。12個の星は12人の使徒、したがって、12人の使徒の上に立てられたカトリック教会を意味します。「M」の文字と十字架は、12個の星の中心にあります。これは、キリストの教会はカトリック教会であり、イエズスとマリアは、カトリック教会を通して人々を救われることを意味します。二つの悲しみに満ちた聖心(みこころ)は、私たちが永遠の幸福を得る可能性を与えてくださるために、大いに苦しまれたイエズスとマリアの愛を意味します。

3.不思議のメダイの使徒職

では、質問です。私たちは、実際に、不思議のメダイの使徒職を、どのようにして実行することができるのでしょうか? それは、すでに述べた二つの基本的なポイントを当てはめて、次の二つの段階を踏むことです。

第一の段階は、不思議のメダイを人々に配ることによって、その人たちに、童貞聖マリアを紹介することです。メダイは、司祭によって祝福されたものであれば、なおよいでしょう。洗礼を受けているかどうかに関係なく、善意を持つと思われる人々には、だれにでも、メダイを差し上げるのです。メダイの意味を簡単に説明して、「このメダイを身につける人、特に首にかける人は、大きな御恵みを受けるでしょう」という聖母の約束を伝えます。実際、このメダイを首にかけることは、聖母に対する信頼を、公に示すことです。そのような信頼に対して、聖母は特別に報いてくださるのです。このメダイを首にかけたくない人には、財布やハンドバッグに入れるか、家に置いておくように勧めます。

相手の人がこのメダイをもらうことを受け入れるならば、このメダイの祈りである、「ああ原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉る我らのために祈り給え」を、時々唱えるように勧めます。この祈りは、メダイと一緒に渡すべき小さな説明のしおりに載っています。最後に、相手の人が家族や友人に配る、追加のメダイを渡すことも提案します。多くの場合、相手の人は快く引き受けてくれ、メダイを広めるのを助けてくれます。

第二の段階は、祈りと痛悔を通して、回心の恩寵を得ることです。祈りとは、特に、このメダイを持つすべての人々の代わりに、このメダイの祈りをたびたび唱えることです。また、私たちは、ロザリオの喜びの第二玄義を、特にその人たちの意向のために、祈ることもできます。それから、聖母が、ご訪問の日に、聖エリザベトのところへイエズスを連れて行かれたように、彼らのところへもイエズスを連れて行ってくださるように、聖母に祈ります。痛悔とは、このメダイを持つ人々の永遠の救いのために、ご受難のときのイエズスとマリアの御苦しみと一致して、あらゆる犠牲、日々の苦しみや悲しみをお捧げすることです。

結論

親愛なる信者の皆さん、このような使徒職を行うという考えについて、皆さんは、いささかの躊躇を感じるかもしれません。最初の何回かは、少しまごつく感じがするかもしれません。しかし、この躊躇の感覚は、すぐに、このメダイを配り、人々に聖母を知ってもらい、聖母を愛してもらうための、聖なる大胆さへと変わることでしょう。事実、皆さん自身のイエズスとマリアへの愛と信頼と信心が成長するのですから、この使徒職で最初に恩恵を受けるのは皆さん自身なのです。

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主キリストは私たちが聖となれるように、ご自分の霊を与えてくださる。私たちは律法の下ではなく、キリストの律法と共にいる。律法は私たちと共に歩んで天国に至る道へと導く友になっている。

2022年06月03日 | お説教・霊的講話

2022年5月29日 大阪の説教 御昇天後の主日

レネ神父様

私たちの主イエズス・キリストが天に昇られたのは、御父と共に聖霊を送ることをお見せになるためでした。「私はあなたたちに真実を言う、私が去るのはあなたたちにとって良いことである。私が去らぬなら、あなたたちには弁護者が来ないからである。しかし去れば、それを送る」(ヨハネ16章7節)。実際、聖霊は「父の霊」(マテオ10章20節)であり、また「キリストの霊」(ローマ8章9節。フィリッピ1章19節、ペトロ前書1章11節参照)でもあるのです。聖霊の派遣は、キリストの神性の(たくさんある)証拠のうちの一つですから、このことは非常に重要です。

さて、私たちの主イエズス・キリストは「至聖所」であり、主の霊は、聖性の霊である聖霊です。主は、私たちが聖なるものとなれるように、ご自分の霊を与えてくださいます。ですから、聖霊は聖化するお方、私たちに霊的な命を与えてくださる「命の与え主」なのです。この新しい命は、本質的には、天主の命にあずかることであり、天主を知って愛し、地上での愛に燃える信仰で始まり、天国での至福直観で完全な完成となる命です。

その新しい命は洗礼によって始まり、洗礼により、私たちは「霊によって生まれる」(ヨハネ3章6節)のです。それはちょうど、私たちの主イエズス・キリストが、「聖霊によって童貞マリアより人体を受け」(ニケーア信経)られたように、です。私たちが天国に行くためには、その新しい命が必要です。「まことにまことに私は言う。水と聖霊によって生まれぬ者は天の国に入れぬ」(ヨハネ3章5節)。なぜなら、天主の恩寵がなければ、私たちは「過ちと罪によって死んだ者」(エフェゾ2章1節)だったからです。

親愛なる兄弟の皆さん、皆さんは洗礼により、「聖霊によって生まれ」ましたが、そのとき受けた新しい命で、皆さんは何をしたのでしょうか。その命を、「世の心労と富と快楽」(ルカ8章14節)で、ふさがせてしまったのでしょうか。私たちは本当に、「罪に死んだ者、私たちの主キリスト・イエズスにおいて天主のために生き」(ローマ6章11節)たのでしょうか。聖パウロはガラツィア人に、それについての試験を出して、肉の実と聖霊の実を列挙しています。

「実に肉に望むことは霊に反し、霊の望むことは肉に反する。あなたたちが望みのままに行わぬように、それらは相反している」(ガラツィア5章17節)。彼はここで、私たち全員の中にある内なる戦いを指摘しています。少なくとも、私たちが善のために戦うのであれば、それは罪の傷、すなわち、これらの反逆への傾きのせいなのです。

聖パウロは続けます。「しかし、もしあなたたちが霊に導かれているのなら、律法の下にはいない」(ガラツィア5章18節)。つまり、聖霊の恩寵によって、私たちが、聖パウロがこれから以下に列挙する正しいことを行うなら、私たちは律法に押しつぶされることはなく(「律法の下にはいない」)、天主の律法はむしろ、私たちを天国に至る道へと導く友であり、それは、格言の書(箴言)が、「lex lux―律法は光である」(格言6章23節)と言うとおりです。

聖パウロは「私たちは律法の下にはいない」と言っています(多くの参照句あり。ローマ6章14、15節。コリント前書9章21節。ガラツィア3章23節。同4章5、21節。同5章18節)。プロテスタントはこれを、あたかも道徳律(十戒)さえも新約には適用されないかのように、もはや道徳律に従う義務はないかのように解釈することがよくあります。

聖アウグスティヌスは、さらに良い説明をしています。彼は、聖パウロが、コリント前書9章21節で、律法の下にいることと、律法と共にいることを対比して、自分は律法の下にいるのではなく、キリストの律法と共にいる、と言っていることを指摘します。そして、キリストの恩寵によって私たちが律法に従うため、律法は、もはや私たちを断罪するのではなく、むしろ私たちを承認し、したがって律法はもはや(重いものの下にいるように)「私たちを押しつぶす」のではなく、私たちと共に歩んで天国に至る道へと導く友になっていると説明します。つまり、「lex lux―律法は光である」。

その後、聖パウロは、悪しき行いを列挙し続けます。「肉の行いは明白である。すなわち、私通(しつう)、不潔、猥褻(わいせつ)、邪淫(じゃいん)、偶像崇拝、魔術、怨恨(えんこん)、争闘(そうとう)、嫉妬(しっと)、憤怒(ふんぬ)、喧嘩(けんか)、争乱、異説、猜忌(さいき)、殺人、酩酊(めいてい)、遊蕩(ゆうとう)、そしてそれらに似たことなどである。私は前にも言ったように、またあらかじめ注意する。以上のようなことを行う者は、天主の国を継がない」(ガラツィア5章19-21節)。さて、これは非常に明確であり、説明は必要ないでしょう。

彼は続けます。「しかし、霊の実は、愛、喜び、平和、忍耐、寛容、親切、善意、柔和、信仰、節度、節制、貞潔であって、これらのことに反対する律法はない」(ガラツィア5章22-23節)。それは彼が前に言ったことです。霊によって導かれる者、すなわち聖霊に従順な者は、律法の下にはいません。それが真のキリスト教的生活です。「愛、喜び、平和、忍耐、寛容、親切、善意、柔和、信仰、節度、節制、貞潔」。これらは聖トマス・アクィナスによって、聖霊の実と呼ばれています。

「キリストにある者は、肉をその欲と望みとともに十字架につけた。私たちが霊によって生きているのなら、また霊によって歩もう」(ガラツィア5章24-25節)。このような聖霊の実を結ぶためには、肉とその悪しき欲望に対抗して戦うことが必要です。

聖霊は、私たちが、そのような霊的生活を送るために大いに助けてくださいます。善を行うためには、私たちの主イエズス・キリストの恩寵が必要であり、恩寵は、祈る者に豊かに与えられるのです。「求めよ、そうすれば与えられる。探せ、そうすれば見いだす。たたけ、そうすれば開かれる。求める人は受け、探す人は見いだし、たたく人は開かれる」(マテオ7章7-8節)。

聖霊は、預言者ザカリアによって、「恩寵と祈りの霊」と呼ばれています。「私は、ダヴィドの家とエルザレムに住む人たちの上に、恩寵と祈りの霊を注ぐ。彼らは、自分が刺した私を見る。そして、独り子のためにするような嘆きで、彼のために嘆き、初子(ういご)の死のために泣くように彼のために泣く」(ザカリア12章10節)。

私たちを祈りへと導き、特に私たちの主イエズス・キリストのご受難を観想させてくれるのは、この霊です。「自分が刺した者」、「独り子」、多くの兄弟たちの中の「初子」。真の霊的生活とは、絶え間ない祈りの生活です。「私たちは、うまずたゆまず祈り、失望してはならない」(ルカ18章1節)のです。

その熱心な祈りは、私たちを愛の火で燃え上がらせます。「私の心は中で燃え、思いに思って火は燃える」(詩篇38篇4節)。これは聖霊の火であり、私たちの主が全地上で燃え上がらせたいと願っておられる火です。「私は地上に火をつけに来た。その火がすでに燃え上がっているように、私はどんなに望みをかけていることか」(ルカ12章49節)。天主の愛の火です。

天主は私たちに、信仰や愛などの賜物を与えてくださいましたが、それは、私たち自身の救いのためだけでなく、私たちを通して他の多くの人が同じ賜物を受けることができるようにするためです。「私が羊たちに命を、豊かな命を与えるために来た」(ヨハネ10章10節)。主は命そのものです。聖ヨハネは書簡の中で、美しくこう言っています。「初めからあったこと、私たちの聞いたこと、目で見たこと、ながめて手で触れたこと、すなわち命のみ言葉について――そうだ、この命は現れた。私たちはそれを見て証明する。御父のみもとにあって今私たちに現れた永遠の命をあなたたちに告げる――、あなたたちを私たちに一致させるために、私たちは見たことを告げる。私たちのこの一致は、御父と御子イエズス・キリストのものである。私たちの喜びを全うするために、私はこれらのことを書き送る」(ヨハネ第一書1章1-4節)。ですから、聖ヨハネは、その「命」を受けただけでなく、他の人にも与えるように配慮していたのです。

天主の賜物に感謝すればするほど、私たちは、それを他の人に与えるべきだと、もっと気がつきます。そして、私たちがそれを与えれば与えるほど、私たちは、もっと多くのものを得るのです。私たちが、愛に燃える真の信仰を広めれば広めるほど、私たち自身の信仰がもっと強められ、愛はもっと燃え上がるのです。

聖霊降臨の前のこの時、高間の家で聖母の周りにいる使徒たちとともに祈りましょう。聖霊の賜物を豊かに受けることができ、それによって、私たちの救いと多くの人の救いのために、その霊的生活を本当に生き、自分の周りにそれを伝えていくことができますように。アーメン!


2022年6月1日は、6月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2022年06月01日 | カトリックとは

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2022年6月1日は、6月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。

初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

 

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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