Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【参考資料】ヴィガノ大司教のマリアの御潔めの祝日についての説教:キリストの光が、この試練の時に私たちの心を照らし、愛徳で心を燃え立たせ、今度は私たちが〈万民を照らす啓示の光〉となるように

2023年02月09日 | カトリック・ニュースなど

【参考資料】ヴィガノ大司教の至聖なるマリアの御潔めの祝日についての説教

【解説】1962年の典礼法規の変更までについては、ルフェーブル大司教の学識ある判断によって、カトリック的であると受け入れることができた。聖ピオ十世会は、この1962年の典礼法規に従ってミサ聖祭を捧げ続けてきた。ヴィガノ大司教は誤解しているようだが、1962年のヨハネ二十三世の改革でも、まだ、御潔めの祝日は、御潔め(In purificatione B. Mariae Virginis)という名称をとどめている。
しかしそれ以後の典礼改革は、1970年の新しいミサに至る革命の段階であって、カトリック的な要素を急激に無くしている。1970年の新しいミサは、プロテスタントの牧師らと一緒に創られたものであり、オッタヴィアーニ枢機卿やバッチ枢機卿がパウロ六世に言ったように、「新しい司式はその全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第22総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱している。」…「聖伝からのこのように重大な逸脱を支持するような司牧上の理由は、たとえそれらの理由が仮に教義上考察した上で正しいものだと考えられたとしても【実際は教義上カトリック神学から逸脱している】、私たちには十分だとは思われない。」
従って、重大な神学上の理由、司牧上の理由により、カトリック信仰を守るために、聖ピオ十世会は新しいミサを拒否している。新しいミサを拒絶するあまり反動的になるヴィガノ大司教の気持ちは理解できるが、しかしピオ十二世教皇の行った典礼改革(1955年)やヨハネ二十三世の典礼改革(1962年)については、(たとえ残念な点があるにしろ、その当時全カトリック世界が受け入れたように)私たちは受け入れる。何故なら、典礼は有機的に発展してきているもので、キリストの花嫁であるカトリック教会が定めるものだからだ。ピオ十二世、ヨハネ二十三世の行った典礼改革は、たとえ残念な点があるにしろ、カトリックではないと言うことはできないからだ。言い換えると、パウロ六世が作った新しいミサのような断絶があるとは言い切れない。

2023年2月2日(木曜日)

Viganò Homily On the Feast of the Purification of Mary Most Holy
カルロ・マリア・ヴィガノ

LUMEN AD REVELATIONEM
啓示の光

Tu es qui restitues hæreditatem meam mihi.
御身こそ私に私の遺産を返したもうべき者なれ。(詩篇15篇5節)

「私の目は、もう主の救いを見た。その救いは万民のために備えられたもの」。この言葉によって、年老いたシメオンは、預言の成就に立ち会うことができ、古い法の規定に従って割礼を受けるために神殿に連れて来られた幼子のメシアを、その腕に抱くことができるという特権を与えてくださった主を讃美します。この短くも深遠な讃歌は、毎晩終課で繰り返されます。なぜなら、教会が毎日の終わりに唱えるこの祈りは、私たちの顔を私たちの主の方に向けさせて、私たちにこの世という追放の終わりの準備をさせるからです。

今日の祝日は、1962年の改革までは聖母の御潔めに捧げられたもので、したがって、紫色の祭服が示すように、悔悛的な性質をもつマリアの祝日でした。それはちょうど、すべてのユダヤ人の母親が出産後40日間受けなければならなかった潔めの儀式が悔悛的であったように(レビ12章2節)です。聖なる教会もまた、「ローマ儀式書」(Rituale Romanum)の中で、出産した母親に対する特別な祝福を保持しています。これは現在では使われなくなっていますが、その霊的な意味を回復させれば敬虔な実践となるでしょう。ヨルダン川での私たちの主の洗礼の儀式と同様に、御潔めの儀式も、無原罪の御宿りのおかげで最も清らかで罪がないため、至聖なるマリアには、厳密に言えば意味も効力もありませんでした。聖母は当時効力のあった律法に服従することにより、私たちが怒りの子【エフェゾ2章3節】であること、そして私たちの救い主が十字架上のご受難と死によって私たちのために獲得された無限の功徳という理由のみで、恩寵を受けるに値するということを忘れないように、宗教上の掟への従順の模範を示しておられるのです。

ロンカリ【教皇ヨハネ二十三世】の改革は、ピオ十二世のもとで聖週間の改革を行い、その後、モンティーニの典礼で〈典礼の体〉(corpus liturgicum)全体の改革を行った多くの専門家によってなされたもので、祝日の名称を「聖母の御潔め」から「私たちの主の神殿での奉献」に変更しました。その動機は、このお祝いをキリスト中心主義の光のもとに置くというもので、それ自体は合法であり、したがって教区司祭はこれを歓迎しました。実際には、1962年の改革の作者たちの目的は、〈聖週間の式次第改革版〉(Ordo Hebdomadæ Sanctæ instauratus)で始まった公会議の〈オヴァートンの窓〉を開けることでした。その言及できない目的とは、その理由で、将来の発展を損なわないように厳しく隠さなければならなかったのですが、親プロテスタントの様式で聖母と聖人たちへの崇敬を弱めることだったのです。そのことは、例えば、聖人周期の祝日の再分類から分かります。次に、私たちが理解することは、彼らの願望とは、無害で教理的に受け入れやすい変更を装って、典礼周期の中で私たちの主の中心性を強調するのではなく、エキュメニカルな対話の障害と考えられていた天主の御母を排除する口実として、主の中心性を利用することだった、ということです。こうして、革新主義者は、小さな段階を経ることで、至聖なるマリアの仲介および共贖という教理を、明確に否定することなく、忘れさせることに成功したのです。

カトリック教徒は、聖母に〈特別崇敬〉(hyperdulia)という崇敬を捧げることは、天主の御稜威に捧げられるべき〈ラトリア〉(latria)の礼拝を損なうものではなく、むしろ御子が御母において奇跡を起こされ、最も崇高な御母を通して恩寵を与えてくださることをよく知っています。〈全能者が私に偉大なことをされたからです〉(quia fecit mihi magna qui potens est)。その反対に、異端者たちは聖母の名を挙げるだけでも恐怖を示します。なぜなら、聖母の謙遜と従順は、異端者たちの父であるサタンの高慢と不従順に対して、耐え難い侮辱を与えるものであるからです。そして、主がその無限の知恵において、汚れなき童貞がいにしえの蛇の頭を踏み砕くように望まれたのならば、なぜ私たちは――プロテスタントのように――主が十字架のふもとで母および代願者として私たちにお与えになった力ある仲介者を軽んじ、主と直接話をするふりをしなければならないのでしょうか? 〈エルザレムの栄光、イスラエルの喜び、われらの民の誉れ〉である聖母を軽視し、信頼していないように対応することで、主の御怒りを招くことにならないでしょうか?

これらの観察はさておき、この祝日の神秘を黙想してみましょう。この祝日には、真の宗教が迷信に勝利し、それまでの異教徒の祝日に代わって、ろうそくの祝福の典礼が行われます。教皇聖ジェラジオがこの祝日を制定しようと考えたのは、5世紀末のローマにはまだ偶像崇拝に行う人々がいて、松明を持って街を歩いていたためでした。そのため、〈世の光〉(Lux Mundi)であるキリストは、ご自分から異教徒に奪われた光の象徴を再び利用することになったのです。この意味で、聖アンセルモの神秘的解釈を思い起こすことは重要です。彼は、蜜蜂の作ったものである蝋はキリストの肉であり、内側にある芯はキリストの霊魂、上部に輝く炎はキリストの神性である、と述べています。肉、霊魂、神性。これらの要素の結合により、私たちの主は、人類のかしらとして私たちを贖われ、原罪と世の終わりまで人間が犯すすべての過ちの償いとして御父の御稜威(みいつ)にお捧げになった主の犠牲、人間にして天主であるお方の犠牲そのものの無限の価値のおかげで、アダムの無限の罪を償われたのです。

〈私の目は、もう主の救いを見た。その救いは万民のために備えられたもの〉(Quia viderunt oculi mei salutare tuum, quod parasti ante faciem omnium populorum)とシメオンは言います。救いはすべての民に拡大された出来事であり、「選ばれた民」とは異なり、キリスト教徒の民は人種によってではなく、養子相続によって区別されるのです。聖パウロが言うように、私たちが天主の子、天主の世継ぎ、キリストとともに世継ぎ(ローマ8章14-19節)とされるのは、実際には洗礼によってなのです。それはまた、詩篇作者が〈主は、私の遺産と私の杯の分け前〉(詩篇15篇5節)と歌うように、です。ですから、救いは〈万民のために〉用意され、すべての民は真の天主を知り、礼拝し、仕えるように召されているのです。〈もろもろの民よ、主をほめよ〉(Laudate Dominum omnes gentes、詩篇116篇1節)、〈王たちはみな、彼を拝み、異邦の民はみな、彼に仕える〉(et adorabunt eum omnes reges terrae; omnes gentes servient ei、詩篇71篇11節)。

〈異邦人を照らす啓示の光、み民イスラエルの栄光〉(Lumen ad revelationem gentium, et gloriam plebis tuæ Israël.)。異邦人を照らす啓示の光と、天主の民――聖なる教会――の栄光は密接に関連しています。宣教なしには啓示はなく、啓示なしには天のエルザレム、新しいイスラエルの栄光はありません。しかし、会堂がキリストの光を認識することに忠実でなかったことが、会堂の没落とその子らが散り散りになるのを引き起こしたとすれば、新しい永遠の契約のもとに生き、キリストにおいて新たに生まれ、キリストとともに復活しながら、天主が天主なる御子のご受難によって成し遂げられた救いを説かない人々の不名誉はどれほど大きいものでしょうか?

私たちの主が神殿で律法学士に会って聖書の意味を説明し、特に預言がご自身においてどのように成就したのかを示されたとき、会堂はまだ天主との契約に忠実でした。しかし主が天主を冒涜した、つまり自らを天主と宣言したとして、最高法院(サンヘドリン)からポンシオ・ピラトに告発され、その結果、死刑に処せられることになりますが、大司祭たちは信仰を否定し、メシアの到来によって、自分たちの名声を失うのではないかという恐怖で目がくらんだのです。ユダヤ人はメシアを、霊的な救い主とみなしていただけでなく、何よりも現世的、政治的な救い主とみなしていたからです。旧約の中にある真理は、宗教を時代や状況の都合に合わせようとする彼らの試みを否定し、イスラエルの最後の預言者たちから多くの厳しい戒めを受けていたのですが、彼らが背教したことで、彼らは、その真理を沈黙するに至りました。当時の宗教的権威によって無知なままにされていたユダヤの民は、自分たちの素朴な信仰がベトレヘムの町でメシアが誕生する時が来たと教えていたため、確かに困惑し、つまずきになりました。このため、レビ族という司祭階級全体が、皇帝ティトゥスによる神殿の破壊とともに散り散りになってしまいました。今日でも、会堂の子らは、礼拝の場所もなく、また犠牲を捧げるレビ人の系図を復元することもできずに、世界中に散らされているのです。それは、司祭の裏切りを原因とする、民族の悲惨な運命なのです!

しかし、主が役務者を裁かれる厳しさ――特に彼らが神聖な義務を怠り、信者を欺くとき――の証拠に直面したとしても、新約の聖職者たちは、自らの欠点や自らの不忠実を軽く考え、誤謬を宣べ伝え真理を否定したり沈黙を守ったりする人々の前で自らも沈黙を守ることをあまりにも軽く考えているように思えます。彼らの中には、同じ〈高慢〉(hybris)、つまり、天に逆らう同じ愚かな厚かましさが見られます。それは、〈報復〉(nemesis)――権威の濫用および高慢という致命的な罰を与える者――によって、容赦なく罰せられることになります。世俗や教会の役職に就いているこの世の専制君主たち、そして彼らに卑屈な敬意を払っている――流れに逆らうように見えたり、「硬直的」「原理主義者」「包括的でない」「分裂的」と指摘されたりすることを恐れて――人々は、このことをよく覚えておきなさい。また、権威を正当化している目的とは逆の目的のために権威を不正に利用して、自分たちが臣民らを支配できると信じている人々も、同様です。つまり〈罰せられずにいるものは全くないだろう〉(Nil inultum remanebit.)と。

ですから、天主への聖なる恐れを抱きつつ聖なるいけにえ【ミサ聖祭】に近づき、頻繁に告解を受けることによって自らを罪から清め、過ちを犯したならすぐ悔い改める心で「痛悔の祈り」を唱えましょう。自らを改め、天主の秘跡にふさわしくない者でなくなろうとする私たちの霊的な心構えが、聖体拝領において、黙想と熱意をもって、御聖体を迎える助けとなりますように。キリストの光が、この試練の時に私たちの心を照らし、愛徳で心を燃え立たせ、それによって今度は私たちが〈万民を照らす啓示の光〉となることができますように。私たちの人生が真の天主の子であることを日々証しするものとなり、詩篇作者とともに、〈主は、私の遺産と私の杯の分け前〉Dominus pars haereditatis meae, et calicis mei と叫ぶことができるようになりますように。

アーメン。

2023年2月2日
童貞聖マリアの御潔めの祝日に
In Purificatione Beatæ Mariæ Virginis

英語版 Viganò Homily On the Feast of the Purification of Mary Most Holy

イタリア語版 Lumen ad Revelationem. Omelia di Mons. Vigano nella Festa della Purificazione.


新しいミサの典礼にはなくなってしまった「七旬節」とは?その意味とは?

2023年02月08日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年2月5日は七旬節の主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「七旬節の主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

 

 

 


殉教とは何か?殉教者の称号に値する条件とは?殉教に対して与えられる報いは何か?

2023年02月08日 | お説教・霊的講話

殉教についての説教

ドモルネ神父

はじめに

今日は七旬節の主日ですが、私たちの東京の聖堂の保護の聖人である、長崎の二十六殉教者の祝日でもあります。そこで、今日は殉教についてお話しします。殉教とは何か、殉教者の称号に値する条件、そして殉教に対して与えられる報いについてです。

1.殉教とは何か

カトリック教会では、殉教とは、肉体の死を受けることによって、キリスト教の真理を証しすることを意味します。私たちの主イエズス・キリストの、み言葉を思い出してください。「体を殺しても、そののち、それ以上何もできぬ人々を恐れるな。あなたたちの恐れねばならぬのは誰か教えよう。殺したのちゲヘンナに投げ入れる権威あるお方を畏れよ。…人々の前で私の味方だと宣言する人を、人の子もまた、天主の天使たちの前で彼の味方だと宣言する。しかし、人々の前で私を否む者は、天主の天使たちの前で否まれるだろう」。(ルカ12章4-5、8-9節)。殉教者は、このイエズスのみ言葉を成就させるのです。殉教者は、天主への愛を守り、永遠の命を得るために、地上のすべての財物を、自分の肉体の命までも、捨てることを選ぶのです。では、殉教者になるための条件を見てみましょう。

2.殉教者の称号を得る条件

第一の条件は、実際に死ぬことです。私たちの肉体の命は、私たちの物質的財物の中で、最も重要で大切なものです。したがって、天主に対して罪を犯すよりも、むしろ死ぬことを選ぶということは、天主への愛の最も強い証しとなります。私たちの主イエズス・キリストは、こう言われました。「友人のために命を与える以上の大きな愛はない」(ヨハネ15章13節)。長崎の二十六殉教者は、1597年2月5日、十字架に縛り付けられ、槍で刺されて、肉体的に亡くなりました。キリスト教の真理のために迫害されても、実際に死なない人は、殉教者ではありません。このため、煮えたぎる油の中に投げ込まれても、奇跡的に助かった福音史家聖ヨハネは、厳密に言えば、殉教者ではありません。

殉教者の称号を得るための第二の条件は、キリスト教の真理に対する憎しみから殺されることです。私たちが、私たちの主イエズス・キリストの教えを信じ、それを実践するとき、私たちは、言葉と行いによって、キリスト教の真理を告白します。もし誰かが、私たちにその告白をやめさせるために私たちを殺すとすれば、その人は、キリスト教の真理に対する憎しみから、私たちを殺すのです。たとえば、洗者聖ヨハネは、婚姻の神聖さを擁護し、ヘロデ王とヘロディアを、姦通を行っているとして非難したため、ヘロデ王らは、聖ヨハネを黙らせるために、死刑に処しました。洗者聖ヨハネは、キリスト教の真理への憎しみから殺されたのです。長崎の二十六殉教者は、キリスト教徒であるというだけの理由で、太閤秀吉の命令で殺されました。彼らは、キリスト教の真理への憎しみから殺されました。

逆に、キリスト教の真理の敵によって殺されたのではない人々は、殉教者ではありません。たとえば、ハワイでハンセン病患者の世話に専念し、そのためにハンセン病で亡くなったダミアン・ド・ブーステル神父は、愛徳の英雄ですが、殉教者ではないのです。

殉教者の称号を得るための第三の条件は、私たちに与えられる死を、自ら進んで受け入れることです。私たちは、自分が何をしているかを自覚し、キリスト教の真理を捨てるよりも、自ら進んで死ぬことを、選ばなければなりません。ですから、寝ている間に殺された人は、殉教者の称号を受けません。しかし、幼い子どもたちは例外です。もし、幼い子どもたちが、キリスト教の真理に対する憎しみから殺されるなら、たとえ理性を用いることがないとしても、殉教の称号と栄光を受けるのです。なぜ、幼い子どもたちは、それを受けるのでしょうか。イエズス・キリストのために血を流すことは、洗礼の秘跡と同じ効果を、霊魂に生み出すからです。これが、「血の洗礼」と呼ばれる理由です。幼い子どもたちが、理性を用いることがなくても、洗礼を受け、成聖の恩寵を受けるように、イエズス・キリストのために血を流す幼い子どもたちは、殉教の栄光を受けるのです。この理由で、ヘロデ王に殺された聖なる幼子たちは、本当に幼かったにもかかわらず、殉教者なのです。

長崎の二十六殉教者は、自ら進んで、勇気をもって、そして喜びさえもって、自分たちに与えられた死を受け入れました。捕らえられた時から死ぬ時まで、1カ月以上ありました。もし、彼らがそうしようと思えば、私たちの主イエズス・キリストを否む時間がありました。しかし、彼らはそうしませんでした。それどころか、1月の大阪から長崎までの旅の苦しみを耐え抜き、キリスト教の真理を捨てる誘いを一切拒否し、自分たちの周りの異教徒たちにキリスト教の真理を説き、他のキリスト教徒たちに、キリスト教の真理を捨てるよりもむしろ死ぬよう勧め、槍で刺されるのを待つ間にも、喜びから聖歌を歌ったのです。

3.殉教の報酬

では、天主が殉教者に与えてくださる報いを見てみましょう。

殉教の第一の効果は、霊魂を義の状態にすることです。このことは、殉教者が、原罪、大罪、小罪というすべての罪から清められる、ということを意味します。洗礼を受けているかどうか、子どもであるか大人であるかは、関係ありません。しかし、大人の場合は、心の中で、自分の人生の罪を、心から悔いることが必要です。

殉教の第二の効果は、過去の罪による罰をすべて赦されることです。このことは、殉教者が死んだ後、煉獄に行かずに、直接天国に行くということを意味します。

殉教の第三の効果は、成聖の恩寵と、その結果としての天国での栄光を大きく増やすという功徳を、天主から得られることです。

最後に、殉教者は、「殉教者の栄冠」と呼ばれるものを受けます。「栄冠」とは、ある特定の善業に対応した、天国での非常に特別な報いのことです。童貞、博士、殉教者の、三つの栄冠があります。童貞は、肉の欲に対する抜きん出た勝利を得たことにより、栄冠に値します。博士は、真理を宣べ伝えることによって悪魔とその嘘に対する抜きん出た勝利を得たことにより、栄冠に値します。殉教者は、この世と信仰の敵に対する偉大かつ非常に困難な勝利を得たことにより、栄冠に値します。これらの栄冠のうち、最も偉大なものは、殉教者の栄冠です。

結論

親愛なる信者の皆さん、長崎の二十六殉教者は、死んだ後、すぐに天国に行きました。殉教によって、彼らは、天国で抜きん出た栄光と幸福を得ました。彼らは、殉教者の栄冠を受けたのです。彼らの模範は、たとえ私たちがキリスト教の信仰のために苦しんで死ぬことがあっても、恐れずにその信仰を生き、告白するよう、私たちを鼓舞するものに間違いありません。

天国にいる長崎の二十六殉教者は、私たちの模範であるだけではありません。彼らはまた、私たちの友人であり、協力者でもあります。彼らは、私たちが真摯なキリスト教徒になるよう助けたいと願っています。私たちの主イエズス・キリストと童貞聖マリアが、日本で知られ、愛されるようにするために、私たちと一緒に働きたいと願っています。そして、そのため、私たちが彼らに願うならば、彼らは私たちのために多くの恩寵を取りなしてくれることができるのです。ですから、今日は特に、彼らにこれらの恩寵を願いましょう。そして、願いすぎることを恐れないようにしましょう。彼らの寛大さは、私たちの寛大さよりも、はるかに大きいのですから。


第二のアダムは、王国を回復するために十字架の木を使う。私たちの王の玉座は十字架にある。聖伝のミサは決して廃止されることも壊されることもありえない。十字架は悪魔の力に打ち負かされることがない。

2023年02月07日 | お説教・霊的講話

2022年10月30日主日、名古屋にて、説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は2022年10月30日、王たるキリストの祝日を祝っています。
今日、教皇ピオ十一世の命によって、イエズスの聖心に全人類を奉献する祈りを唱えます。

今日は、王たるキリストの祝日です。そこで一緒に、イエズス様が王であるということはどのようなことであるか、私たちにはどのような意味があるのか、私たちは何をしなければならないのか、ということを一緒に黙想いたしましょう。

イエズス様の王であるというのは、一体どういうことでしょうか。今日の聖パウロのコロサイ人への手紙にすべてが凝縮されています。この全宇宙を創造されようとするその時、計画がありました。永遠の昔からの天主の計画でした。それはすべてを御子において一つにまとめるということでした。

【第一のアダムは王として創られたが、王国を失った】

天主は、全くの自由の愛を持って人間を無から創造しました。造りあげました。人間には普通の動植物にはない特別な力を与えました。それは知性を持って、真理を見抜き、自由意志を持って善を選ぶことができるようにする理性です。

人間が、いろいろな手段の中から最もよい方法を選んで善を選んで、天主の成聖の恩寵という天主の生命(いのち)に生きることができるようにしました。つまり、天主の友として、天主の家族の一員として、この地上での生活を終えたのちには、永遠の生命(いのち)を天主の三位一体と分かち合うことができる特別の地位を下さいました。これは普通の動物にはないことです、植物にもありえないことです。人間だけが、天主と同じ天主の本性に参与することができる、という特別の高い地位を受けました。そして、アダムが全宇宙の全被造物の王となりました。

どういうことかというと、アダムが天主・三位一体に従っている限り――非常に簡単な掟があっただけでした――それに従っている限り、全被造物はアダムに服従していました。アダムは動物に命令をすれば、動物はその言うことを聞きました。これは本当のことです。またアダムは自分の身体を全て支配していました。智慧に満ちていました。

ところが残念なことに、私たちの生物学的な元祖であるアダムは罪を犯しました。天主に逆らいました。反抗したのです。そのために天主との友情関係をすべて捨ててしまって、超自然の生命(いのち)も失ってしまいました。そのためにその子孫である私たちは、それを失ったままこの地上に生れて来ました。私たちは最初から超自然の生命(いのち)に造られていたので、人間は超自然の生命(いのち)が無ければ欠陥商品なのです。不完全です。うまく機能しません。

どれほど機能しないかというと、ちょうど飛行機が空を飛ぶためにある、ここにものすごい飛行機があります。アルミニウムで軽くて丈夫で、超高性能のコンピューターもついている。内装はどんなに偉い立派な方が来ても大丈夫なようにカーペットがあって、機内には高級なシャンペンがあって、シャワーもついていて、ものすごい飛行機ですが、翼がありません。最も大切なものが欠けています。

ここにものすごい船があります、ダイヤモンド・プリンセス。全てが高級なもので飾られていて、どんなに大きな波があってもびくともしないほど、頑丈な船です。しかしスクリューがなくて、底に穴が開いるので、水の中にいれば沈没してしまいます。動くこともできません。

超自然のいのちがないと、私たちは成聖の恩寵がないと、天国に行くという私たちの究極の目的を果たすことができません。ですから、私たちの状態はプロペラの無い飛行機、羽根の無い飛行機よりも悪い状態なのです。何故かというと生まれたまま、ついには地獄に行くしかないからです。

【第二のアダム、イエズス・キリストは贖いの王として、人間ために王国を回復させた】

そのような私たちを誰が助けるでしょうか。誰が悪魔の支配から、この世のプリンス・悪魔たちの闇の支配から私たち助け出してくれるでしょうか。第二のアダム、イエズス・キリストです。

旧約聖書を読むと、そのすべてが、来るべき第二のアダム、イエズス・キリストの贖い、その御受難について語っています。その一つ一つについて具体的に話せば話すほど、私たちは本当に驚くほどです。なぜ天主はすでにこのことを計画されていたのか、なぜ旧約聖書にこのようなことが起こったのか、なぜこうなのか、というようなことは、イエズス・キリストのことがわかれば、イエズスがすべて鍵となって、その旧約の意味が解ります、その謎が解けます。

なぜ天主はエワをアダムと同じように土から造らなかったのか。天主は、アダムが起きていたとしても、もしも必要ならば、痛みもなく肋骨をとることができたではないか。なぜアダムは眠りにつかなければならなかったのか、…聖ボナヴェントゥラは言います…これはキリストの死を意味するためにわざと天主がそうしたのだ。なぜエワがこのあばら骨から取られたかというと、十字架の上で死の眠りについた、そして三日目に目をさます、第二のアダムのわき腹から水と血が出て、それが第二のエワ、キリストの花嫁だ、教会を意味するためにわざとそうしたのだ、教父たちは説明しています。

旧約聖書の全ての話は調べれば調べるほどすべてがイエズス・キリストのことを語っています、驚くほどです。イエズス・キリストが王であることを語っています。

しかしかつて楽園に住まっていた王、第一のアダムは、罪によってその王国を失ってしまいました。エデンの園から追放されてしまいました。地獄に落ちる身となってしまいました。

第二のアダムは、その王国を回復するために十字架の木を使います。イエズス・キリスト、私たちの王の玉座は、十字架にあります。十字架に、ナザレトのイエズス・ユダヤの王と宣言されます。ラテン語・ギリシャ語・ヘブライ語、全世界はイエズス・キリストが王であることを知らなければなりません。しかしその玉座は、十字架です。十字架の木によって王として私たちを支配します、統治します。王国へと導きます。

イエズス・キリストのその玉座につくためには、キリストは王冠を被らなければなりませんでした。イエズスさまが被った王冠は茨の冠でした。ローマ人たちが嘲りの王として――しかし本物の王でした――被らせていたのは茨の冠でした。屈辱の冠でした。この王冠の戴冠式のためには、イエズス様はゲッセマネの園にて、祈って祈って準備しなければなりませんでした。鞭うたれてその戴冠式を準備しなければなりませんでした。緋の王の衣を被せられなければなりませんでした。

【私たちは、イエズス・キリストの御旗のもとに招かれている】

では、このイエズス様が王であられることは私たちにはいったいどのような意味があるでしょうか。イエズス様は、超自然の王国を失った王国をわたしたちに回復させるために、王となったからです。そして、私たちも同じく天国で王として永遠に勝利を喜ぶようにと、招いています。イエズス・キリストとともに王国に留まるのであれば、イエズス・キリストとともに永遠に私たちも王の座に着く、アダムが失ったその王の地位をまた受けることができるようになる、ということです。

イエズス・キリストは、三位一体の第二のペルソナ、まことの天主、光よりの光り、天主よりの天主、まことの天主よりのまことの天主、すべては主によりて造られました。主は必ず王として全宇宙に君臨します。

しかしその前から、この地上にいる今から、私たちはその王国の僕として参与していなければ、参加していなければ、国民として名を連ねていなければなりません。この世のプリンスは、つまり悪魔は別の王冠を私たちに差し出すかもしれません。あま―い快楽の王冠を。しかしそれは、嘘のいっときだけの王冠にすぎません。イエズス・キリストの王国だけが永遠に続きます。それは聖ガブリエルがマリア様にそう言いました。その御国は終わることがない、と。

イエズス様は両手を広げて、その玉座のなかから私たちを招いておられます。御血を全て流して、そして私たちはその血で洗われて、天主の生命(いのち)に参与するものとなった私たちは、王国の御旗のもとに、十字架の御旗のもとに、立ち止まるように、来るように、集うようにと招かれています。

【遷善の決心】

私たちは、ではいったい遷善の決心に何をしたらよいでしょうか。

愛する兄弟の皆さん、私たちが贖われた真の代価、私たちのために準備されているその偉大な善、宝、その栄光、喜び、幸せ、幸福、至福を考えてみてください。キリストとともに永遠に王の席につながる、この為に、私たちはすべてをかけて、イエズス様とともにいるようにいたしましょう。イエズス・キリストは私たちの王ですから、私たちをもしも統治するその権利があると認めるのならば、私たちはそのイエズス様に従う義務があります。

イエズス様に従う義務があるというのは、イエズス様の聖心に適うことをする務めがあるということです。イエズス様の聖心に適わないことがあれば、私たちの心から取っていただくようにお願い致しましょう。

イエズス様の御国のその旗は十字架です。この十字架はこの世界です。どこにあるかというと、ミサ聖祭に置いてあります。なぜかというと、ミサ聖祭の祭壇はカルワリオの生け贄(いけにえ)の再現であるからです。

ですからミサ聖祭を、カトリックのミサ聖祭を、聖伝のミサを愛するようにしてください。これに集うようにしてください。この聖伝のミサはどのような敵があっても決して廃止されることも壊されることもありえません。この世の終わりまで続きます。なぜかというと、十字架は決してどのような悪魔の力にも打ち負かされることがないからです。勝利の御旗であるからです。

このミサを廃止させようと地獄の勢力はすべてを尽しました。しかし何もすることができませんでした。今でも続いています。これからも世の終わりまで続きます。

ロザリオを唱えてください。ロザリオの特にロザリオのまん中の玄義は、荊の冠、イエズス・キリストが王であるというその戴冠式を祝っています。また主から送られた十字架を、私たちもイエズス様のために受け取るようにしましょう。地獄と天国の違いは何かというと、それはイエズス様を愛するか愛さないかにあります。もしも私たちが十字架を送られた時に、イエズス様をお愛ししないならば、その苦しみは苦しみのまま留まって何の価値もありません。

しかし苦しみが与えられた時に、イエズス様をお愛ししてそれを受け取るならば――もちろんそれは苦しみは苦しみのまま残りますけれど――しかし喜びに変わります。愛に変わります。イエズス様を愛するがためにこれを苦しむことができるから、イエズス様を愛するがためにこの苦しみを捧げることになって多くの霊魂を天国に導くことができるようになるから、イエズス様をお喜びにならせることができるから、苦しみながらにも関わらず喜びに変わります。これが十字架の神秘です。これが諸聖人たちがやって来たことです。これがミサ聖祭です。これがキリストの王国の市民のやっている生活です。

マリア様に最後にお祈りいたしましょう。マリア様はいつも十字架のもとに佇んで、イエズス様の流れる愛を御血の恵みを全て受け取った方でした。そして私たちの母となった方です。元后つまり女王となった方です。イエズス・キリストが王であれば、マリア様は元后・女王です。母であり女王であるマリアさまに、私たちがいつもイエズス様の御国のよき臣下よき市民でありますように、そのお恵みを請い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサの報告 Traditional Latin Mass in Japan SSPX Japan

2023年02月07日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2023年2月5日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計122人でした。大阪では29人でした。天主に感謝いたします。

愛する兄弟姉妹の皆様のしもべは、今、ソウルにおり、きたる堅振の秘跡の準備をしているところです。ソウルでは27人が堅振の秘跡を受けることを希望しております。お祈りください。聖霊来たり給え!

二週間後の2月22日は、灰の水曜日です。大小斎の日です。修道院では午前7時から(ミサの前に)灰の式があります。東京では入谷ホールで午後6時30分から灰の儀式とミサが行われます。札幌でも聖伝のミサが午後6時から「北海道青少年会館 Compass 会議室1」であります。愛する兄弟姉妹の皆様のお越しを歓迎します。

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today and the amounts of donations received and payments made.

The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 122 including children.

09:00 confirmation and mass
M: 36 (incl. 9 children)
F: 31 (incl. 7 children)
Total: 67 (incl. 16 children)

11:30 mass
M: 27 (incl. 3 children)
F: 30 (incl. 3 children)
Total: 57 (incl. 6 children)

Total of 2 masses (excl. 2 persons who participated in multiple masses)
M: 62 (incl. 12 children)
F: 60 (incl. 10 children)
Total: 122 (incl. 22 children)

 


堅振式の説教(東京) 聖ピオ十世会フェレー司教様|この地上での死よりも悲劇的なのは天主との友情を失う永遠の死。これはあまりにも重大で深刻な問題です。堅振による霊の刻印は天主の保証・約束。

2023年02月05日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、YouTubeでフェレー司教様による「堅振式の説教(東京)1月29日」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

 


堅振式の説教(大阪) 聖ピオ十世会フェレー司教様|私たちはいま戦いのなかにいます悪魔はキリスト信者の勤めを果たすとどれほどの霊魂を救うかを知っているのです

2023年02月05日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、YouTubeでフェレー司教様による「堅振式の説教(大阪)1月28日」の動画をご紹介いたします。

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天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


【参考文献】ヴィガノ大司教の聖パウロの回心の祝日の説教「教会にいる現代の『サウロたち』の回心のために祈ろう」

2023年02月01日 | お説教・霊的講話

ヴィガノ大司教の聖パウロの回心の祝日の説教「教会にいる現代の『サウロたち』の回心のために祈ろう」

Abp. Viganò on Feast of St. Paul’s Conversion: Pray for the Conversion of Modern-Day “Sauls” in the Church
カルロ・マリア・ヴィガノ大司教 2023年1月28日

VAS ELECTIONIS EST MIHI ISTE
彼は私が選んだ器である

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教の
使徒聖パウロの回心の祝日についての説教

Egregie Doctor Paule, mores instrue,
Et nostra tecum pectora in cœlum trahe;
Velata dum meridiem cernat fides,
Et solis instar sola regnet caritas.
傑出せし教師パウロよ、掟を教え、
われらの胸を御身とともに天国へ引き寄せ給え。
おぼろげなる信仰が真昼のごとく鮮明となり、
愛のみが太陽のごとく治めるに至るまで。
【聖パウロの回心の祝日の讃歌】

聖パウロの回心は聖ステファノが勝ち取ったものであり、神聖なる典礼がこの祝日(1月25日)を、最初の殉教者の祝日(12月26日)の数日後(30日後)に置いたのは偶然ではありません。旧約の法に忠実で大司祭たちの意志を忠実に実行したユダヤ人サウロは、目の前でステファノが殉教するのを見ており、おそらくサウロ自身も、自分がすべての正統派ユダヤ人の守る戒律に合った行為を行っていると信じてステファノを殉教者にさせたのでしょう。ドン・ゲランジェ修道院長は、こうコメントしています。「われらの偉大なる王の宮廷を完成させるためには、ユダヤ人の使徒と異邦人の使徒という教会の力強き二本の柱が、まぐさ桶の両側に掲げられるのが正しいことであった。その柱とは、鍵を持つペトロと剣を持つパウロである。こうしてサウロは、厳格なユダヤ教徒でありかつキリスト教徒の迫害者から、異教徒を福音へと勝ち取る者パウロとなるのである」。

今日、キリストの力が敵を倒れさせ、そしてキリストの御あわれみがその敵を立ち上がらせ、信仰の擁護者にして使徒たちのかしらの伴侶とし、彼とともにローマで血を流すことになるのです。O Roma felix, quæ duorum Principum es consecrata glorioso sanguine と、私たちは讃歌「デコーラ・ルクス」(Decora lux)で歌います。「幸せなローマよ、二人のかしらの栄光ある血によっておまえは聖別されたり」。キリストへの愛のために注がれたその血からは、死ではなく生が、敗北ではなく勝利が、拷問の屈辱ではなく殉教の掌の栄光がもたらされるがゆえに、その血は栄光あるものなのです。

牧者たちが天主に従い、この世の惑わしを追い求めなかったころにさかのぼれば、ローマの聖ペトロの司教座の祝日(1月18日)から聖パウロの回心の祝日(1月25日)まで、非カトリック教徒、離教者、異端者、異教徒の回心のための八日間の祈りが行われました。第二バチカン公会議の路線を踏襲する新しい教会は、その使命を否定し、セクトや偶像崇拝者と私たちを隔てるものを隠し、彼らの信じるものが私たちを一致させると強調しようとしています。そして、その祈りの期間が、真の信仰を宣べ伝えるという超自然の使命よりも、不健全なエキュメニズムという目的を優先させる「キリスト教一致祈祷週間」となってしまったのです。ですから、私は皆さんに、善きカトリック教徒を迫害する聖職者たちや司祭たちのために、また、サウロのように、自分は誤謬の中にいながら律法の戒律を守っていると信じている人々のために、祈るように勧めます。異邦人の使徒が回心したように、主が彼らに御自身をお示しになり、彼らを回心させてくださるよう願いましょう。

これから提示する比較に驚かないでください。救い主の十字架上の死の瞬間に引き裂かれた神殿の幕(veil)は、旧約を終わらせ、キリストの教会を新しいイスラエルとし、洗礼を受けた人々を新しい選ばれた民としました。この新しい永遠の契約は、神殿のいけにえが前表であった小羊【キリスト】の血で封印され、メシア預言に照らされて主の奇跡によって確認された多くの会堂の子らを歓迎しました。その子ら中には、サウロのように、イエズス・キリストにおいて聖書の成就を示した恩寵に触れるまでは、律法を遵守した者も多くいました。そして、背信による盲目により、人々が世に入って来た光を見ることができず、その光を拒絶したとき、また、最高法院(サンヘドリン)が、自分たちの権力が危うくなることを恐れてピラトと共謀し、イザヤと聖なる預言者たちの巻物に記されている真理を素朴な人々から隠したとき、また、サウロがすべての会堂で、脅迫をもってキリスト教徒に強いて冒涜を言わせ(使徒行録26章11節)、つまり、キリストの神性と約束されたメシアとしてのキリストの来臨を強いて否定させようとしたとき、天主に関するすべての事柄と同様に、即座に、直ちに、稲妻のように、回心という大いなる奇跡が準備されたのです。

回心の道は、時につらくて長く、困難と挫折に満ちているものです。しかし、主が真理の光と愛徳の炎で私たちに触れられるとき、主には可能な強さと力をもって、回心そのものが起こるのです。「主よ、あなたはだれですか」と、馬から落ちたサウロが尋ねます。「私はあなたが迫害しているイエズスである」(使徒行録9章5節)。キリストの声が響くまばゆい光の中で、神殿で最も恐れられた審問官の一人【サウロ】が奇跡を認識し、天主が奇跡の作者であると悟り、「主よ」と呼びかけ、ダマスコに行くようにという命令に従います。彼は目がくらんで3日間盲目になったまま、3日間断食をし、キリストの現れを受けるための神秘的な準備をするのです。

別の奇跡によって、アナニアがタルソのサウロのところに行って彼を癒やすように指示されると、アナニアは驚きました。なぜなら、そのユダヤ人は「あなたの御名を呼び求める人々を捕らえる権限を大司祭たちから受けている」(使徒行録9章14節)からです。すると、主はアナニアに答えられます。「行きなさい。彼は私が選んだ器である。私の名を異邦人や王やイスラエルの子らにもたらすのは彼である」。アナニアはサウロのもとに行き、按手してから彼を癒やし、彼の目から盲目の幕(veil)【うろこ】を落とします。この幕は、霊魂の視力がくらむことを象徴しています。聖霊に満たされたサウロは、直ちに洗礼を受け(使徒行録9章18節)、パウロと名乗るようになりました。

今日でも、第二バチカン公会議の信奉者からなる最高法院は、聖伝のカトリック教徒を迫害するために諸会堂に役務者を送り込み、彼らを罰し、彼らを捕らえて改革された儀式を遵守させます。今日でも、信者を探し出しては、「強いて天主を冒涜させ」、キリストの教えを否定させ、大司祭たちや民の律法学士たちに従わせる、熱心で恐ろしいサウロたちがいます。彼らの多くは、自分たちが正義であり、律法を守っていると信じています。しかし、高慢な者たちを転覆させて倒す天主の御力は、第一のサウロと同じように、このサウロたちの霊魂に触れたいと望んでいるのです。親愛なる信者の皆さん、皆さんを祈りにお招きします。主がその御力をお示しになり、彼らを岩のような確信という馬から落とし、高慢な彼らの目をくらませてくださいますように。そして、彼らに対する御あわれみを用いて、彼らを立ち上がらせ、霊的な視力を回復させ、聖霊で満たし、主の使徒としてくださいますように。

今日、チェザルに敬意を表しながら王たるキリストを認めようとしないローマの最高法院に従っている高位聖職者たちや司祭たちが、主の恩寵によって照らされるように祈りましょう。彼らがパウロのように諸会堂に戻り、「イエズスは天主の御子であると述べ」(使徒行録9章20節)、「イエズスはキリストであることを証明し」(使徒行録9章22節)、新しい永遠の契約の犠牲が今日までその犠牲を迫害してきた人々の祭壇で新たにされると宣べ伝えることができるように祈りましょう。あのモンシニョール、あの司教、あの枢機卿についても、次のように言われるように祈りましょう。「しかし、あの人はエルザレムでその御名を呼ぶ人々を迫害していたではないか。わざわざ来たのは彼らを縛って、大司祭のところに引いていくためだったのではないか」(使徒行録9章21節)。

私たちが、主への信仰と、私たちの最も神聖な宗教の鼓動する心臓にして霊魂であるミサの聖なる犠牲への忠実を証しする方法を知っているならば、私たちは、恩寵に触れられたこれらの霊魂に対して、弟子たちがダマスコで行ったことを行うことができるでしょう。それは、キリストについて彼らに話し、「主を恐れながら生活する」(使徒行録9章31節)ために私たちと共にいるよう彼らを招くことです。おそらく、私たちを強いて改革された儀式を受け入れさせるために来たあの高位聖職者は、聖伝の聖なるミサを捧げ、自分の司祭職がその神聖な典礼によってどれほど多く裏付けられ養われているか、レビ人としての自分の霊魂が祭壇で、救い主がご自分をただ一度だけ十字架上で犠牲になさったように、その言葉を繰り返すことでどれほど完全な満足を見いだすか、と思うことでしょう。おそらく、戦いに臨むような意図をもって到着したあの司教は、最高法院の命令によってキリストを迫害した後、自分がキリストを迫害していることを自覚し、キリストの使徒にして弟子になりたいと思うようになることでしょう。

そして彼は、――私たちがそれにふさわしくないにもかかわらず、天主の恩寵によって理解したように、――「私の名のために、どれほど苦しまねばならぬか」を理解するでしょう。

これが私たちの心からの願いであり、私たちの祈りであり、私たちが証しする理由なのです。

アーメン。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

In Conversione Sancti Pauli Apostoli
2023年1月25日
使徒聖パウロの回心の祝日に

英語版 Abp. Viganò on Feast of St. Paul's Conversion: Pray for the Conversion of Modern-Day "Sauls" in the Church - Catholic Family News

イタリア語版 Viganò. Omelia nella Festa della Conversione di San Paolo Apostolo.


2023年2月2日 聖母の御潔めの祝日

2023年02月01日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

明日、2月2日は聖母の御潔めの祝日です。修道院ではいつものように午前7時15分からミサがありますが、ロウソクの祝別は典礼法規に従ってミサの前に午前7時から行います。早めにお越しください。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

 

2月2日の聖母マリアの御潔めの祝日:Adorna thalamum tuum, Sion:Κατακόσμησον τὸν νυμφῶνά σου Σιών - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

アヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様、2月2日は聖母マリアの御潔めの祝日です。大阪で聖伝のミサがあります。イエズス・キリストのご降誕から40日目...

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2018年2月2日(初金)  童貞聖マリアの御浄め 「私たちはシメオンです。」 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2月2日 童貞聖マリアの御潔めの祝日 ろうそくの祝別式と行列の部分の式次第(1962年版の典礼法規) - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2月2日 童貞聖マリアの御潔めの祝日 聖伝のミサ(1962年版の典礼法規) - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた


2023年2月1日は、2月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2023年02月01日 | カトリック・ニュースなど

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2023年2月1日は、2月の初水曜日(月の初めての水曜日)でもあります。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。

初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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