Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【質問】チゼック神父様の回想は実話なのでしょうか。

2024年01月22日 | 質問に答えて

アヴェ・マリア・インマクラータ!

【質問】チゼック神父様の回想は実話なのでしょうか。収容所では話をすることもできないのに、多くの人々に黙想のポイントを話しているし、ホスチアもぶどう酒も聖具も入手できるはずはないのに、どうしてミサをささげることができたのでしょう。チゼック神父様の回想もフィクションではありませんか。

【答え】チゼック神父様の回想は実話です。イエズス会司祭、天主のしもべウォルター・チゼック神父【Servant of God Fr. Walter Ciszek, SJ (1904-1984)】は、1937年に司祭叙階されポーランドに任命されました。1939年に戦争が開始するとロシアに入国し、1941年にスパイ容疑で逮捕されました。

逮捕された後はモスクワのルビアンカ刑務所に7年間収容され、バチカンのスパイとしてシベリアの収容所で15年の強制労働の刑を受けました。

収容所にはカトリック司祭たちもいました。そこで早朝、あるいは夕方に、こっそりと一人に黙想のポイントを伝えます。告解も隠れて聞きます。収容所の囚人でも、クリスマスのころに一年に一回ほどは、手紙や荷物を受け取ることができました。複数の司祭たちが、ミサの道具を受け取って、それをシェアしていました。

1955年に、与えられた労働量よりも遥かに多くをこなしたという理由で、早めに収容所を出ることができました。ノリルスクという町に移り住みます。死んだと思われていた神父様でしたが、ついにアメリカにいる家族に手紙を書くことが許されました。

1963年、ケネディー大統領によるネゴシエーションで、チゼック神父と一人のアメリカ人生徒が、アメリカで逮捕された二人のソビエト工作員と引き換えに、アメリカに帰ることができるようになりました。アメリカに帰国後、ペンシルベニア州にあるフォーダム大学で、1984年に死ぬまで働きました。

アメリカでロシア時代の回想録を書きました。その中で「He Leadeth Me」【主は私を導き給う】という手記はとても感動的です。日本語の訳はまだないようです。ちなみに韓国語には訳されています。


新年小黙想会二日目の黙想 その一 エジプトへの避難

2024年01月22日 | お説教・霊的講話

新年小黙想会二日目の黙想 その一 エジプトへの避難

真夜中、天主のお告げを伝えようとして、静かに眠っている聖ヨゼフのもとに天使がやってきます。

この世の楽しみや世間で大事だと考えられているものを、天主はどうお考えになるかを理解することができる恵みを求めましょう。
私たちがより親しく私たちの主を知り、よりよく天主への愛に燃え、御跡に従うために神秘の奥深くまで達するお恵みを願いましょう。
天主に近づこうとする人に、天主が何をお求めになるのでしょうか?
苦しみと謙遜の価値を私たちが理解することができるように祈りましょう。

【1:天使のお告げ】
「起きよ。御子とその母をつれてエジプトに逃れ、私たちが知らせるまでそこに留まれ。ヘロデが御子を探して殺そうとしている」(マテオ2:13)。

天使は、任された任務を正確に果たす忠実な使者です。天使は、天主の母となることを告げるために、聖母のところにつかわされました。おそらく同じ天使が、聖ヨゼフに聖母の子は聖霊によるものであることを保証しにもこられました。きっと同じ天使が、東の国の博士たちに、ヘロデを避けて違う道を取って帰るようにと警告したと思われます。今また、聖ヨゼフのもとに帰ってきました。

天使は誰に向かって告げているのでしょうか?私たちは、イエズスか聖母に告げてもよさそうにとも思います。何故ならお二人とも品位においても、重要さにおいても、能力においても、聖ヨゼフよりまさっておられるからです。しかし天主は、家長である聖ヨゼフのもとへ天使を遣わします。

これが天主の摂理です。天主が人間を導く普通のやり方です。天主は、私たちがその場合どんな重要な者であっても、私たちひとりひとりに個人的に告げるという方法はとりません。たとえ私たちの目上の人が、生来の能力とか私たちへの思いやりとかにどんなに欠けていたとしても、目上の人の命令を通して私たちにお伝えになるからです。

主キリストのいわれるように「律法学士とファリザイ人は、モイゼの座にすわってきたのだから、かれらの声を聞きなさい。かれらのいうことは、ことごとく守り、おこないなさい。しかしかれらの行為にならってはならない」(マテオ23:2~3)。

この命令について考えると、これを実行するには、多くの困難が伴いました。幼子とその母をつれて、荒地を通って数百キロメートルの長い旅をすることを意味していたからです。エジプトへの道には盗賊が出没しました。私たちの主が後に、よきサマリア人のたとえ話の舞台になさったことによって推定できます。野獣もいました。ひつじ飼いたちがたえずひつじの番をしていたことは、狼などの凶暴な野獣がいたことを示しています。そのような危険な長旅のための食糧をもたずに、聖家族はすぐ出発しなならなかったのです。天使はただこう言うだけです。「起きよ。そして御子とその母をつれて・・・」。

それまで助けてくれた人々に、別れをつげる間もありませんでした。聖母とヨゼフが行ってしまった後で、二人のことを何と思ったでしょうか?「二人は罪人だったのかね」「とにかく礼儀も心得ていない人たちだね」。

この命令は、不合理な命令にも思えます。天使はなぜ朝まで待って、夜中ぐっすり眠った後で、気持よく出発させることができなかったのでしょうか。どうしてエジプトまで行かなければならなかったのでしょうか。どこかもっと近い家に、もっと容易に避難することことはできなかったのでしょうか。たとえば、エリザベトの家に行くこともできたかもしれません。そこには若い洗者聖ヨハネが無事で住んでいました。

主がメシア守ってくださるのではないでしょうか?詩篇にはこうあります。「天主はみ使いに命じて、すべての道であなたを守らせる。み使いたちは、あなたの足が石につまずかないように手であなたをささえるであるであろう」(詩篇90:11~12)。 

何年かののちにゲッセマニの園で、主キリストは聖ペトロにこう断言することがでことができました。「私が私の父に求めることができないと思っているのか。そうすれば父は、すぐに十二軍団の天使を私にくださるだろう」(マテオ26:53)。

ヨゼフはどのように従ったでしょうか?不平をいい、天使に交渉したでしょうか。それとも言われた通りにして、後でその命令が理にかなわないと不平を言ったのでしょうか。福音書にはただこうあります。「彼は起き、幼子とその母をつれて、夜、エジプトに立ち去った」。

聖ヨゼフの従順は敏速かつ無条件で、的確な実行でありました。聖ヨゼフは天使の命令を文字通りに実行したのです。

【2:外国での生活】
聖家族がエジプトで、多くの困難にたち向かわねばならなかったことは、容易に想像できます。聖家族は、外国でした。言葉の問題がありました。誰かが聖家族を待っていて、その家にむかえてくれるような友人がいたなどと考えることができるでしょうか。

信心深いユダヤ人として身のまわりいたるところで見る異教徒の習慣に、聖家族はどう反応したでしょうか。エジプト人たちは、自分たちが軽蔑するユダヤの民族の聖家族にどういう反応を示したでしょうか。もしも私たちが外国でジャップ・ジャップと馬鹿にされたとしたら、私たちはどう思うでしょうか?

聖家族は一文なしでした。どうやって自活したのでしょうか。大いそぎで出発したので、たくさんのものを持って行くわけにはいきませんでした。天使は旅行の準備をしてくれませんでした。天使がエジプトへ行ってからのヨゼフの職の保証をしてくれたわけではありませんでした。

少なくともはじめの数年間は、聖家族はその日暮らしの生活をしなければならなかったと思われます。天主はなぜそれをお求めになったのでしょうか。

それは、キリストのそばにいるものは、キリストと共に苦しまねばならないからです。
それは天主の摂理についての教えを聖ヨゼフに授けるためでした。

イエズスは山上の説教の中で、こういわれます。「私はあなたがたに言う。生命のために何を食い身のために何を着ようかと思いわずらってはならない。これらは結局異邦人の求めるものであって、あなたがたの天の父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じです。だから、まず天主の国とその義とを求めよ。そうすれば、これらのものは、みなあなたがたに加えられるであろう」(マテオ6:31~33)。

三人がエジプトで異境の生活を続けたのですから、天主は明らかに、ご計画に適う限り彼らに必要な他をお与えになったに違いありません。

聖家族は決して余分なものをもっていませんでしたが、いつも充分なものをもっていました。これは、聖母とヨゼフをいつも天主のおそば近くにいさせるための手段でもありました。何故なら、暇や金をもち過ぎるとしばしば種々の誘惑が起こるからです。

「殉教者の血は教会の種子なり」。聖家族のたえしのんだ苦離は実を結びます。何世紀もたたないうちに、エジプトの隠者によって実行された英雄的徳行もそうです。さらにキリスト教がエジプト全体にわたって、ほとんど奇跡的にひろまりました。

【3:幼児の大虐殺】

「ヘロデは博士たちにあざむかれたのを知って大いに怒り、博士たちから聞いていた時から考えて、ベトレヘム及びその四方の地の二才以下の男子をことごとく殺させた」(マテオ2:26)

キリストとその教えに対して、この世と肉と悪魔が示す反抗の最初の徴候が見えます。
この反抗は、キリストが公生活をおはじめになったとき、キリストのまわりに結晶し、キリストの十字架の死において、最高点に適します。

キリストは当然の遺産として、教会がいつもこれと同じ世間の反抗に対していくことをお望みになっています。「弟子はその師にまさってはいないし、しもべはその主人にまさってはいない。人々が家父をベルゼブブと名づけたのなら、その家族はそれ以上の何であろう」(マテオ10:24~25)。

日本でも、地方の仏教の強力なところでは、今日でも教会は公然と反対されています。仏教の力の比較的弱い大都会では、日本人はキリストの外面的裝飾だけを取り入れて、その精神はしりぞける傾向があります。日本では、教会の影響が増しはじめるときまって種々の反抗が合体します。

教会だけがキリストの迫害の遺産を受けているのではありません。
キリストは、信徒ひとりひとりも、同じようにそれをうけることをお望みになっています。
聖人は、何の苦もなく迫害を天主の聖寵としてうけ取ることができました。聖イグナチオ・ロヨラはかれが創設したイエズス会が迫害からまったく解放されることのないようにと現に祈りました。

不幸にも、追害が私たち自身に加えられると、私たちは、どんなに強い敵がたくらむすべての陰謀であっても、天主がそれをお許しにならなければ起こらないということを、忘れてしまいがちです。

私たちは障害に出合うと、第一原因である天主のことを考えるかわりに、あまりにたやすく二次的原因である人間のほうを考えてしまうのです。私たちはまた、迫害は、それをうける人にとって、祝福となるものであることを忘れがちです。

私たちの主は山上の説教の中で、こうおっしゃっています。
「私のために人々があなたがたをのろい、迫害し、またあなたがたについてあらゆる悪口を放つとき、あなたがたは幸いである。よろこべ。あなたがたは、天において、大いなる報いをうけるであろう」(マテオ5:11~12)。

幼児たちの殉教の結果は、彼らの永遠の栄光となり、そしてその母たちの永遠の栄光ともなったでしょう。
もしこの幼子たちがもっと長く生きていたら、天国へいけたでしょうか。これは、キリストと同じときに生まれた少年たちへのキリストの誕生祝いのおくりものだったと言えます。

信心の品を祝別するとき、司祭はその上に十字を切ります。主は十字架とともに祝福をあたえられるからです。全ての悲しみ・苦しみは、私たちの愛する主の御手によるものです。主を愛する者ためのものです。「主は愛する者を苦しめる」といわれています。

その逆に、もし私たちにいつも苦悩がなかったとしたら、私たちのキリストへの奉仕に何か誤りがあると疑って良いとさえ言われています。


1793年1月21日フランス王ルイ16世の死の意味:ルイ16世に取次を祈る

2024年01月21日 | お説教・霊的講話

1793年1月21日フランス王ルイ16世の死の意味:ルイ16世に取次を祈る

2024年1月20日土曜日ミサ説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は、教皇殉教者聖ファビアノと殉教者聖セバスチアノのミサを行っています。王権学会の方から特に頼まれて、フランス王ルイ16世の殉教の記念のための意向でミサをしています。

そこで、ルイ16世、フランス革命にあった悲劇について、日本の皆さんはあまりよくご存じないかもしれないので、一言、なぜミサをするのかというということを申し上げたいと思っています。

今日、ルイ16世の記念してミサをしていますが、実は、正確には、フランス王ルイ16世は、1793年の1月21日、つまり明日、いまフランスのコンコルド広場といわれるところにおいて、ギロチンで殉教しました。しかし明日は主日のため、今日一日早くミサを行っております。

このルイ16世は、いったいなぜ殺されたのでしょうか。彼が暴君だったとか、人民を苛めたとか、あるいは人民から不当な金をとったなどということは、まったく違います。

ルイ16世は、カトリック信仰を代表していたから、そして王たるキリストの代理者であったがゆえに、信仰の憎しみのために、殺されました。

ピオ6世は、その六か月のちに、やはり同じ年の6月11日に、枢機卿たちを集めて、ルイ16世についてこう言っています。「彼は非常にやさしく、人民に対する愛があり、そしてカトリック教会に対する熱意があった。信心が深い男であった」と。
また、捉えられて、圧迫を受けたがためにサインをしてしまった聖職者に共和国への忠誠を義務づける憲章を撤回して、それを放棄したことを暗示させて、天主に赦しを請うたと、ルイ16世が死ぬ前に牢獄で書いた遺言について、言及しています。

ルイ16世は、遺言の中で、カトリックの信仰において、ローマ・カトリックと一致してこの死を受ける、自分の犯したすべての罪の赦しを天主に請い求めると言いました。

本当は告解をしたかったのですが、カトリック司祭を呼んで告解を受けることは拒否されました。そこで天主に罪の赦しを請うた後に、自分を殺すような人、自分に害をなすすべての人々に対して、「赦す」と言いました。ちょうどイエズス様が十字架の上で、あるいは最初の殉教者聖ステファノがそれを求めたのと、同じです。

ピオ6世は、ルイ16世が「信仰のための憎しみによって」殺された、屠られたと言っています。つまり彼が殉教者であったと言っています。同時に「彼は地上の一時的な儚い王冠の代わりに、いまでは決して失われることない永遠の百合の王冠を被っていることだろう」と言っています。

なぜこのような悲劇があったかというと、フランスの王というのは、王たるイエズス・キリストのこの地上における代理者であったからです。これの憎しみのために、陰謀がありました。プロテスタントのカルバン派、それからフリーメイソンによってこの陰謀が遂行されました。

フランス王をギロチンで殺したということは単なる王個人の問題ではなくて、「王たるキリストをギロチンにかけて殺す」という意味がありました。「フランス・カトリックを破壊する」という意味がありました。フランスがいままで保ち続けてきたすべての信仰の遺産に対して反対する、という犯罪でした。

そこでピオ6世教皇は、この日に、ルイ16世に対して犯された罪、カトリック信仰に対して犯された罪、それらの罪を償うためにミサを捧げることを強く勧めました。

フランスは今でも王たるキリストを拒否しています。フランスが宗教を否定し、人権宣言を宣言し、ますます不幸になりました。そしてそれを世界に広めています。その影響は世界中に及んでいます。世界中を巻き込んで、天主に対して逆らい、天主から独立しようとして、天主から分離しようとしています。

しかし、そうすればするほどフランスは、ますますその国威は失墜し、そして人々は苦しみ、社会は崩壊しつつあります。フランスがイエズス・キリストの宗教を認めない限り、イエズス・キリストがフランスを見捨てられるかのように思われるほど失墜してしまうでしょう。

ですから、ルイ16世に、そして、天国のすべての聖人たちに、お祈りいたしましょう。私たちの霊魂、そしてフランス、そしてヨーロッパ、そして世界、そして私たちの国日本にも、私たちの王イエズス・キリストが王として君臨し、祝福をくださいますように、と。

フランス革命の結果、イエズス・キリストを否定した結果、いま世界に起きている総ての不幸――家庭が崩壊され、あるいは堕胎がなされ、あるいは自然に反するものが祝福されようとしているいまこのようなものがすべて――わたしたちを不幸にするものが無くなりますようにお祈りしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


五月には秋田巡礼があります:5月3日から6日まで

2024年01月21日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

インドネシアには、秋田の聖母の聖堂のレプリカが造られました。

The Our Lady of Akita Prayer Park: Location and Visiting Rules - Brain Over Brawn

場所は、インドネシアの、Pantai Indah Kapuk (PIK) 2、秋田の聖母の祈りの公園(The Our Lady of Akita Prayer Park)に、101回の涙を流した秋田の聖母のレプリカが、あります。この木の御像は、聖母の涙を実際に見た浦野一郎さんが制作しました。聖母像と聖ヨゼフの像も、日本で作られて、インドネシアに運ばれました。

日本に住む愛する兄弟姉妹の皆様は、インドネシアにまで行く必要はありません。今年の五月に私たちは恒例の秋田巡礼を行うからです。私たちのために涙を流された本物の聖母像に祈りに行きましょう。
日時:2024年5月3日(木)から6日(月:振替休日)
(5月2日(木)夕方までに秋田集合)
2024年も、最低三名の指導司祭が、巡礼者の方々のお供をいたします。

 

 


【参考情報】シュナイダー司教による「聖なる教皇たちの時代」が来ることを懇願する祈り

2024年01月19日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】シュナイダー司教による「聖なる教皇たちの時代」が来ることを懇願する祈り

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

シュナイダー司教さまが「聖なる教皇たちの時代」が来ることを懇願する祈りを作られました。参考情報としてご紹介いたします。

Bishop Schneider publishes new prayer begging God for 'an era of holy popes' - LifeSite

Bishop Schneider Issues Prayer Imploring the Lord to Provide an Era of Holy Popes - Edward Pentin

シュナイダー司教のメッセージ

イエズス・キリストに賛美!

親愛なる忠実なカトリック信者の皆さま、特に、私たちの聖にして母なる教会が未曾有の危機の中にいるのを目撃して苦しんでいる方々。親愛なるカトリック家庭の父親と母親の皆さま! 親愛なるカトリックの若者たち! 親愛なる無垢なカトリックの子どもたち! そして特に、教会の霊的宝石である観想修道女の皆さま! 親愛なるカトリックの神学生たち! 「イエズスの聖心の愛」である親愛なるカトリック司祭の皆さま!

教会内部の混乱は、私たちが、エステルの言葉をもって主に祈らなければならないほどのところまで来ております。「私たちにはあなたのほかに助け手はありません」(エステル4章31節/14章3節)。それゆえ、聖なる教皇を懇願する毎日の祈りを通して、マリアの汚れなき御心を避難所としましょう。詩篇作者とともにこう叫びましょう。「起き給え、主よ、なぜ眠り給うのか。起き給え、主よ、われらを助け、救い給え」(詩篇43篇23節)。

2024年1月18日、ローマの聖ペトロの教座の祝日

+アタナシウス・シュナイダー(アスタナの聖マリア大司教区補佐司教)

聖なる教皇たちを嘆願する祈り  

キリエ・エレイソン! クリステ・エレイソン! キリエ・エレイソン! 主イエズス・キリストよ、御身は善き牧者なり! 全能の御手をもって、各時代の嵐の中を旅する巡礼者なる教会を導き給え。

聖なる教皇たちで聖座を飾り給え。この世の権力者を恐れることなく、時代の精神に妥協することもなく、自らの血を流すまでカトリック信仰を保存し、強め、擁護し、ローマ教会の由緒ある典礼を遵守し、保護し、継承する聖なる教皇たちで!

主よ、「救いは主以外の者によっては得られない。全世界に、われらが救われるこれ以外の名は、人間にあたえられなかった」(使徒行録4章10-12節参照)と使徒たちの熱意に燃えて全世界に宣言する聖なる教皇たちを通じて、われらのもとに戻り給え。

願わくは、聖なる教皇たちが出る時代を通して、カトリックかつ使徒継承の信仰を推進するすべての人々にとっての祖国である聖座が、全世界のための真理のカテドラ(座)として常に輝かんことを。主よ、われらの祈りを聞き給え。教会の母なるマリアの汚れなき御心の執り成しにより、われらに聖なる教皇を与え給え! われらに多くの聖なる教皇たちを与え給え!われらをあわれみ給え。われらの祈りを聞き給え! アーメン。


2024年 新年小黙想会 天使たちの大軍は玉座に座っている方を礼拝し讃美する。私たち人間も天主を讃美するためにこの地上にいる。

2024年01月19日 | お説教・霊的講話

2024年1月8日黙想会 ミサ聖祭説教 小野田神父

聖父と聖子と聖霊との御名によって、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

黙想会を続けましょう。今日は二日目です。昨日は私たちは私たちの人生の究極の目的――いったい何のために私たちはこの地上に生活しているのか――私たちは天主を知りこれを讃美しこれに仕え、そして永遠の幸せを得るためにそうしているということを黙想しました。そして、その目的を容易に達することができるためにイエズス様が私たちを照らすために、私たちがそのあとを通るべき道としてお生まれになったことを黙想しました。

ところで、チゼック神父様というイエズス会のアメリカ人司祭は、ソ連時代のシベリアの収容所で15年の強制労働をしていた時のことを回想しています。

毎日、毎日、単調で厳しい労働の日々を過ごしていました。休暇もなければ、なんの変化もなく、リクリエーションもなければバカンスもありません。労働、労働、労働の毎日です。もしも変化があるとしたら、天気がかわるかあるいは仕事の内容が変わるかだけです。人間には何かをやり遂げたという誇りやあるいは尊厳が必要です。しかし収容所に入れられた人々にとって唯一の達成感というのは、厳しいシステムの中で今日もようやく生き延びることができた、と言うことだけでした。労働には終わりがないように思われました。毎日、毎日、毎日。厳しい労働が待っていました。なぜかというと、敢えて重い重労働をこのような収容所にいた人々に課していたからです。なぜかというと彼らは共産党に批判した、国家に逆らった、社会主義に逆らった、という罪を償わなければならないとされていたからです。

食料は最低限で、夜にはバラックに帰って来ると疲れて、疲労困憊、いつも腹を空かせて、いつも疲れており、逃げることもできずに、隠れることもできずに、反乱することもできずに、話もすることもできずに、集団を作ることもできずに、グループを作ることもできずに、ただ疲れて寝るだけでした。一日十四時間から十五時間の労働ののちに、キャンプにちょっとしたスープを飲みに帰り、ひっくり返って寝るだけです。毎日、毎日、毎日がそうだったと、神父様は書いています。収容所にいる人々は希望がなく、ただ共産党の上からの命令にキャンプのその管理者の命令に服従するしかありません。唯一の希望は、一日をどうやって生き延びるか、ということでした。

収容所では常にプロパガンダの洗脳がありました。労働の価値を叩き込まれます。社会主義国家の建設のために労働に価値があるということを何度も何度も聴かされます。新しい社会主義の世界秩序を建設しなければならない、だからもっと労働しなければならない、もっと働かなければならない。人々はそのような中でそのプロパガンダに耳を閉ざし、生き延びることしか考えていませんでした。

しかし、チゼック神父さまが言うには、人々は誰も食べ物では足りない、日々の生活の意味をその価値を知らなければ、生きることを絶望してしまう。私たちには霊的な糧が必要だ。そこで、チゼック神父は 収容所で秘かに黙想会を指導しました。ミサも隠れて捧げました。

収容所で黙想会を指導するのは、これは、あとでどのように処罰されるか、どのような拷問を受けるか、どのように食べ物を減らされるか、ということを覚悟しなければなりませんでした。しかし人々は霊的な糧に飢えていました。ですから、神父様は一人ひとりに指導する形をとって、きわめて朝早くに皆が仕事に出る前に黙想のポイントを静かな場所を探して話します。人々はどうやったら食べ物をもっと得ることができるか、どうやったら仕事をさぼることができるか、どうやったら薬をもらうことができるか、などということに忙しい時に、一人ひとりずつを選んで、特に司祭などを呼んで、黙想のポイントを話します。三十分ぐらいはなしたそうです。そしてそれから労働に出かけます。夕方にもう一度、静かなところに退いて、黙想のポイントを話します。二、三日の簡単な黙想会でした。しかし、こうすることによって、キリストの招きに応じて、毎日をキリストともに、毎日をキリストともに苦しみを捧げることができるようになったのです。

収容所でミサも捧げました。ミサは誰も見ていないようなところで隠れてしなければなりませんでした。ミサに与る人もいました。当時、ピオ十二世教皇はミサの前聖体拝領前三時間から断食をするように緩和しましたが、当時は夜中の十二時から何も食べてはいけないという規律がありました。ですから、朝は非常に忙しくミサを捧げることができなかったのですが、お昼のお休みのとき、朝ごはんも食べずにお昼のミサを捧げるために、重労働に耐え、そして、ミサに与る人々がたくさんいました。中にはお昼に隠れてミサを捧げることができなかったので、夕方まで何も食べずに労働したのちに夕食をスキップして、ミサに与り、御聖体拝領するという人達もたくさんいました。そのような司祭たちもいました。そうして、天主のみ旨を果たすために、霊魂の救いのために、天主に対して犯された罪の償いのために、キリストの御国の拡張のためにという明確なビジョンをいつも確固として持って生活していました。

厳しい収容所でも、このような黙想会、ミサ聖祭によって、厳しい収容所の生活を多くの人が生き延びることができました。ですから私たちもこのチゼック神父様にならって、収容所にいた人々にならって、黙想会を続けましょう。

私たちはこの二〇二四年、確かに社会主義のプロパガンダのもとにある休みも休息もない収容所にいるのではありません。強制労働をさせられているのでもありません。しかし、もしかしたら本質的には似ているのかもしれません。

私たちは確固として何のためにこの地上にいるかこの日本にこの二〇二四年に生活しているのか、知らなければなりません。天主を知り、天主のみ旨を知り、天主を讃美し、これに仕え、霊魂を救うため、罪を償うため、キリストの御国の拡張のため、明確なビジョンを持って私たちはこの一年を過ごさなければなりません。

今日ミサの最初で、天使たちの大軍が玉座に座っている方を礼拝していた、讃美していたとありました。ちょうどクリスマスの時も同じでした。その地方に野宿して、羊の番をする羊飼いたちがいたんですが、主の栄光があたりをてらして、主の天使たちがあらわれました。天使が救い主が生まれたということを告げると、天の大軍がいと高き所には天主に栄光を地には善意の人々に平和あれと主を讃美しました。

天使たちも、天に栄光あれ、天主に栄光あれと、常に讃美しています。私たちも、人間も、それに真似て、私たちの生活を以って讃美するためにこの地上におります。

天主の御言葉は人となって、ますます天主がどれほど素晴らしい方かお知らせになりました。それを見れば見るほど、私たちは天主を讃美せざるを得ません。

天主の智恵を見てください。私たちの傲慢の罪を償うために、なんと永遠の無限の天主の御言葉はご謙遜によって小さくなり、人間となり、人間の赤子となり、奴隷のようになり、そして私たちの傲慢の罪を打ちくだこうと償おうとされました。なんという深い知恵でしょうか。

天主の力を見てください。まったくくっつけることができないと思われる正反対のように思われる無限の天主の存在、永遠の力、を、無に等しい私たち限られたちっぽけな存在、この時間の存在に、一致させた。何という全能の力でしょうか。天主のみがそれをすることができます。永遠が時の中にお生まれになった。何という全能でしょうか。

天主の正義が、御子がお生まれることによって、輝きだしました。なぜかというと、無限の正義を満足させるために、罪によって損なわれたこの無限の正義を満足させるために、御父と同じ本質である御子が人間となって、そして正義を満足させようとされたからです。天主の知恵、天主の全能の御力、天主の無限の正義、何と讃美にふさわしいものでしょうか。

天使たちと声を合わせてわたしたちは讃美しなければなりません。しかし、天使たちが讃美しても受けることができなかったものがあります。それは私たち人間のみが受けたものです。天主のあわれみです。

天主のあわれみ!私たちの罪を償うために、全ての天上の宝をわたしたちにすべてあたえるために地上の全く惨めで憐れなものを、天の高みに引き寄せる、イエズスの聖心のなかに入れるために、愛の竈の中で私たちの惨めさをすべて燃やすために、愛である天主が私たちのために人となり私たちにご自分をすべてお与えになりました。

天主の無限の御憐み、これを幼きイエズス様は私たちに示しています。天の大軍は 天のいと高き所に天主に栄光あれ、と歌い、讃美し、そしてこの歌はいつまでも絶えることがありません。私たちもそれに声を合わせるように招かれています。「天のいと高き所には主に栄光!主の名によりて来たるものにホザンナ!天のいと高きところにホザンナ!」

天主は眼に見えるものも目に見えないものも、ご自分の栄光のために創造されました。銀河も大宇宙も、鉱物も、動物も植物も、人間も天使たちも、全ては天主の栄光のためでした。天使や人間たちが、主と同じ、三位一体の栄光の命、至福を得ることが、天主の讃美の栄光のためでした。なぜかというと、天主の憐れみと天主の栄光が輝き出るからです。主の聖寵の賛美が輝き出るからです。

御子を受けたにもかかわらず、人間は罪を犯しました。天主に逆らいました。自ら進んで天主の敵となってしまいました。旧約時代、エザウは、豆のスープ一杯で長子権を全部売り飛ばしてしまいました。アダムは、木の実を味わうという罪のために、天主の友人関係を捨て、永遠の至福の特権を売り飛ばしてしまいました。子供としての遺産相続権を失ってしまいました。なぜかというと、善と悪の知識の木の実を食べることによって、自分の力で天主のようになろうとしたからです。

この罪、人間の犯した罪は、無限の天主の御稜威を犯すものだったので、無限の邪悪さがありました。有限の被造物に、無限の償いを捧げつくすことができませんでした。しかし、天主の御言葉が人となって、人間の犯した罪を人間として償い、そして正義を満足させるにふさわしい無限の償いを天主としてお捧げになってくださいました。

御言葉は私たちのためにすべてを与えられました。人間となって私たちにすべてを与えられました。イエズス・キリストのものは、すべて私たちのものです。ですから、御子は私たちと一致して、天主を讃美し、償いを捧げるなら その御子イエズス様がなさった功徳はすべて私たちのものです。私たちもイエズス様が人となったからこそ、イエズス様とともにイエズス様によって、御父をふさわしく礼拝することができるようになります。正義を満足させる償いを私たちも果たすことができるようになります。ふさわしい讃美を感謝と祈りを捧げることができるようになりました。聖パウロはこう言っています。「み旨のままにすべてを導かれる方のあらかじめ定められた計画にしたがって、また、主において、私たちは、予定され、世嗣とされた。それは、前もってキリストに希望をおいていた私たちが、天主の光栄のほまれとなるためであった。」(エフェゾ1:11~12)

私たちはこの二〇二四年を、主を知り主を讃美しそして主につかえるためにお捧げいたしましょう。イエズス・キリストと一致してこれをお捧げいたしましょう。天使たちとともに、天のいと高き所に主に栄光と、歌う祝ぎ歌を歌いましょう。黙想会を続けましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によって、アーメン。


2024年 新年小黙想会 黙想1:人間の目的

2024年01月18日 | お説教・霊的講話

2024年 新年 小黙想会 

黙想1 人間の目的

"Notum fac mihi, Domine, finem meum, et numerum dierum meorum quis est, ut sciam quid desit mihi." (Ps 38:5) 
「主よ、私の終わりを知らせ給え。私の人生の日数を知らせ給え。私に何が足りないかを知るために。」(詩篇38:5)。

人生に何の目標もない人は、汽車に乗っていても、切符をもたずに、どこへ行くかという考えもなく乗車する人のようなものです。人生に何の目標もない人は、目的地を知らないで船を運行させる船長のようです。遭難するか、座礁するか、難船するか、です。船長がたとえ船の操縦の仕方を最高度に知っていたとしても、どのような豪華船であっても、どれほど大きなスピードで移動することができても、どこのどの港に、どうやって行くのかを知らなければ、それが何の役に立つでしょうか?

この黙想の第一は、私たちがどこに向かっているのか、私たちの人生の目的は何なのかをもう一度確認するためにささげられます。私たちの一切の道徳的な組立の基礎です。この土台を深くすえることができれば、私たちの霊的な建築の全体が、それだけ堅固なものになります。私たちの霊的な生活には、知的な基礎が必要です。熱情や情緒はあてにならないからです。それは通り過ぎていくものです。決してそういうものにたよることはできません。私たちは「岩の上に家を建てた」賢い人のようでありたい。「雨が降り、彼が寄せ、風が吹いて、その家を打った。それでも家は倒れない。岩の上に建てられているからである。」

私たちが創造された目的は公教要理に書かれています。「人間は、主なる天主を賛え、敬い、また天主につかえるために、そしてそれによって自分の霊魂をすくうために、創造された」。

私たちの主と聖人たちがこの真理を理解なさったのと同じく、私たちも理解できるように、主のお助けをお願いしましょう。

【1】「人間は創造された」
この言葉はまったくはっきりしています。最初の人間がいたに違いないということは、理性もみとめます。したがって人間がいないときがあったに違いない。私たちの心に何の疑いものこらないように、天主御自ら「創世記」の中でこういわれる。「それから天主は「われら自身にかたどり、われらに似せて人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、野のすべての野獣また地をはうすべてのものを、人に支配させよう」といわれた。そして天主はご自身にかたどって、人間を創造なさった。天主にかたどって人をお造りになったのです。天主は人間を男と女にお造りになった。」

【人間】
「人間は創造された」というとき、この「人間」とはすべての人間です。若い人も、年寄りもある。政治家も、日傭い労働者も、支配者たちも、人民も、異教徒も、キリスト信者も含まれます。すべての人間といえば、日本人も、ロシア人、アメリカ人もそうです。いま生きている人、教皇聖下も、天皇陛下も、プーチンも、バイデンもそうです。百年前に生きていた人、小さき花も、スターリンも。いまから百年後の人、現在私たちのそばにいる人たちの子や孫や曾孫にあたる人も。そしてすべてそのようにこの世界に住んで来た、あるいは住むであろう幾億万の人々の中のひとりが私です。

「人間」とは何でしょうか。天主にくらべれば、人間はまったく何でもありません。日光の中にただよう小さなホコリのようなもの、海の一粒の砂のようなものです。けれども物質的なものの中では、人間はいちばんすばらしい能力と可能性をそなえた傑作です。人間は聖霊がきわめて妙なる調べをかなでることのできるバイオリンのようなものです。現に聖霊は何百万の聖人の霊魂からそういう調べをひきだしました。しかしそのバイオリンが聖霊のタッチに応ずるものでない場合には、いやなキーキー音を出して、天主の世界の調和をみだすことになります。人間は、天使のようにも、悪魔のようにも、野獣のようにも生きることができます。

【創造された】
「創造された」とは、無から造られたということです。人間は自分のもっている素質も才能も所有物も、どれも人間自身に帰することはできません。人間そのものが全体として、完全に天主からのたまもので、ほどこしです。人間が自分の努力でえたものについても、人間がそれを得ることができるには、その前に人間が存在を与えられていなくてはなりませんでした。人間の本性に属する能力についても天主のたまものです。人間とその創造主との関係は、芸術作品とその作者、着物と仕立屋、本とその著者、機械とその発明者の関係と同じです。「粘土が焼物師に向かって、私にはあなたは必要がないといえるであろうか。」

【天主によって】
人間は誰によって創造されたのでしょうか。全能の天主によって、創造されました。自己充足の天主によって、人間を必要としない天主によってです。しかし天主は無限の智恵によって、天主にふさわしい目的がなくては、何もお造りになりません。天主は、理性と自由をそなえた被造物が、天主のお考えになる目的をみたすように、お望みになり、お求めになりました。天主は人間がこの目的を成就することにみ心をくばり、み心にかけていらっしゃいます。

【2】「天主を讃え、敬い、また天主につかえるために」

天主が私を創造なさった動機は何でしょうか。ただ天主が良い方だからです。無限に賢明で絶対的な自由の選択によって、天主は私を創造されました。天主には私たちが必要でなかったのに、純粋な善意によって、私が存在するようにしてくださったのです。

天主は、はっきりした目的をもって私を創造されました。そしてこの目的は、天主御自らのほかにはありえません。最高の技能をそなえた芸術家として、天主は、ご自身の外において、御自分の栄光のために私を創造されました。その栄光は、私の精神が認識によって完成し、私の意志が愛によって、私の全存在が幸福によって完成すれば、達せられるはずです。

天主が、天主ご自身のためという必然的な目的のために、私をお造りになったのは、天主に必要や不足があったからではなく、全くただ天主の至高の卓越性、天主の善良さの故です。それは私たちが天主の限りない完全性を、私自身の精神と意志と存在の中に反映するためでした。私たちがここに存在するのは、完全になるため、私の天の父が完全であられるように完全になるためでさえあります。天主ご自身は私の精神と意志のもっとも完全な、もっとも価値ある対象であられるから、天主を知り、天主を愛することによってこそ、私はくらべるもののない幸福に達することができるのです。その幸福のために、天主は私を存在に呼び入れてくださったのです。私は天主のために造られています。その天主は永遠の愛をもって私を愛し、私の真実の幸福を最大の栄光となさる方なのです。

「天主を賛える」

あらゆる創造のみ業は、人間を除けば、それぞれの不動の法則に盲目的にし たがうことによって、天主の栄光を反映します。動物はその本能にしたがうことによって、遊星は定まった軌道にしたがうことによって、天主の知恵と力と善意をあらわすのです。「天は天主の栄光を告知する。」「主よ、私たちの主よ、全世界を通じて、御身の名はいかにはむべきものであろうか」「わが骨のすべては叫ぶ、主よ、誰が御身に似ているか。」

人間だけが、自分の意志の意識的なはたらきによって、天主を賛えることの選択をまかされています。人間は天主のみ業に同意することによって、天主を賛美することができます。結局、賛美とは同意を意味します。ヨブはこう言いました。「主はおあたえになり、主は取りたもうた。主のみ名は賛美せられさせ給え」と。

人間は、自分が天主をどんなに善いかたであると思っているかを、天主に告げることによって、天主を賛美することができます。私たちに多くのお恵みをくださるのだから、何と良いかたでしょうか。

「私は私の子らに対して、私がした以上に、何をすることができたか?」
「われらがいつも、どこでも、聖なる主、全能の父、永達の天主なる御身に感謝することは、真にふさわしく、正しく、私たちの救いに役立つことなり。」

「天主を敬う」

敬うというのは、普通の意味では、何か他人のすぐれた点に対する尊敬です。それは私たちの評価できるものをみとめること、認知することです。素朴な人は自分よりすぐれたものに対して、本能的な尊敬をもちます。名選手の前に出た少年を見たことがありますか。

傲慢な人がうやうやしい限度をとりにくいのは、自分よりすぐれたものをみとめようとしないからです。天主に対する尊敬は、私たちが天主を私たちの創造主として、無限に善良なかたとして、私たちの愛に値するものとしてみとめる深い尊敬です。

人間はその創造主に向かって、どうやって尊敬をあらわすのでしょうか。明らかに、人間は何よりもまず、自分が完全に天主に依存すること、人間自身には何もないことを、心の中に深くみとめなければなりません。聖パウロは言います。「あなたのもつものの中に、あなたが受けたのでないものがあるでしょうか。受けたものであるなら、何故あなたは受けたのでないかのように誇るのであるか。」

それ以上に、人々のまえで、また人々とともに、誰にも共通な天主への依存関係をみとめなければなりません。公の礼拝をするのは、はっきりした掟です。「人々のまえで私をみとめる人を、私は天にいます私の父のまえでみとめるであろう。」「私の記念として、これをおこなえ。」

「天主につかえる」

「人間は天主の意志にしたがうべきものであって、自分の意志にしたがうべきものではありません。それは人間が天主によって創造されたということから必然に生ずる結論です。キリストはこのことを繰り返えし繰り返えし教えて、弟子たちにさとらせようとされました。
「私の掟を聞いて守るものは、私を愛する。」
「私に向かって、主よ、主よというものが、すべて天国に入るわけではなく、私の掟を守るものこそ天国に入る。」
「もしあなたが私を愛するなら、私の掟を守りなさい。」

人間は自分勝手な道を行くように、創造されたのではありません。自分の気まぐれにしたがうように、気ままに振る舞うように、自分で自分の主となるように創造されたのでもありません。

人間の価値は、天主の眼には、全く相対的なものです。人間には絶対的な価値はありません。
人間の価値は、人間が創造された目的を果たすその果たし方によるものです。ある道具がその製造された目的をみたさなければ、その道具は役に立たないものと見なされて、捨てられるのです。

「これによって自分の霊魂を救うために」
天主に対する人間の奉仕は、その人間自身の益となります。天主の無限の知恵と善意だけが、天主への奉仕を、人間の受けられるかぎり最大の幸福に、結びつけることができます。人間が天主の意志を完全におこなえばおこなうほど、人間自身の幸福がそれだけ完全なものになります。

人と人とのあいだでは、雇い人や従者がおこなう奉仕は、雇い主や主人の利益のためのものです。もしも雇い人も同時に幸福なら、それは結構なことです。しかしそれが雇い主の第一の関心事ではありません。

天主は知性をそなえた自由な存在として人間を創造なさったので、人間の幸福がある程度まで人間自身の協力の結果になるようにという意図を持たれました。

そうでなかったとしたら、人間はべての幸福を、人間自身の方に何の功徳もないのに受けとることになって、当惑することになり、したがって少しばかり不幸になるでしょう。もし私たちが友だちから大変りっぱな物をうけたのに、こちらからはまったく何のお礼もできないとしたら、私たちはどんなに当惑することでしょうか。

私たちは、自分が戦いに値するように、天主への奉仕をすべきです。そうすれば天主には、私たちに褒賞をくださる理由ができて、天主は私たちに永遠の喜びをくださることができるのです。


2024年 新年 小黙想会【導入と準備】どのようにして黙想会に与るのか

2024年01月17日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2024年1月7日(主日)と8日(成人の日)の二日にかけて 新年 小黙想会を行いました。
さまざまな事情で参加したかったのに参加できなかった方々からの依頼がありましたので、そのお話の内容をご紹介いたします。ご参考になれば幸いです。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【導入と準備】
2024年を迎えました。新しい年が良き聖なる年となるために、小黙想会を行いましょう。
この聖なる黙想会を、聖霊に対して祈ることによって始めましょう。

天主である聖霊が私たちに教えて下さいますように。私たちが聖霊の御恵みを受け、その聖霊の浸透を受ける事ができるように、心を開いて下さるようにお祈りしましょう。私たちが、全ての天主からの光と恵みを受ける事ができるようにお祈りしましょう。「こいねがわくは汚れたるを清め、乾けるをうるおし、傷つけられたるをいやし給え。固きを柔げ、冷えたるを暖め、曲れるを直くし給え。」
聖霊の特別の道具、これは無原罪の聖母です。御子イエズス・キリストの玄義の中に深く入る事ができるようにお祈りしましょう。

【どのようにして黙想会に与ったら良いのか】
私たちの主は、今回の二日間の小黙想会の間に特別な巨大な御恵みを準備されています。
毎回二つの講話があります。講話の後に、皆さんはご自分で黙想をなさって下さい。
黙想会というのは、霊的講話をただ聞くだけの会ではありません。霊的講話は、黙想する題材料を提示する事であって、大事なことはそれを黙想することです。
私たちが耳から聞いた事が、黙想する事によって心に留まります。黙想を深くすればするほど深く心にまで届きます。

よい黙想会をするのに必要なお恵みと寛大な心をお願いしましょう。

【要点一】私たちは何故この黙想会をしているのでしょうか。

私たちがこの黙想をしているのは単にしなければならないからではありません。私たちは新しい年のために、来るべき困難な年のために、力を得ようとして、この黙想をしています。
「私の誘惑はへるよりもむしろ増えていくようだ。おそらく私のなすべき仕事のために祈りの時間は前よりもかえって少なくなっている。でも今回は、少なくともひとりで天主といっしょにいることができる――この機会を私はいちばんよく利用しよう。今年一年、霊的向上のために、天主のみ旨をおこなうことができるように、強い基礎をきずきあげたい。」

私たちの日々の行動を、ふだんとは違った角度から眺めるための特別のときが今です。外国語を習う学生のためのテープ・レコーダーのようなものです。学生に自分の声とどう違っているか、その国の人のように話したいならどこに最大の努力を向けるべきであるかを知らせてくれます。

【要点二】どうしたらよい黙想ができるか。

【信頼・委託】
心を楽にして――天主が私の霊魂へささやかれるにまかせましょう。聖霊の働きに信頼し、委託しましょう。私たちが望むものをえようとして緊張することはうぬぼれです。何故ならそれは天主が私にお望みになることを、私たちが自分でよく知っていているということ、私たちが自分でそこに到達できると考えていることだからです。その時、私は何もできなくとも、天主が私の霊魂の中でどれほど多くの働きをなさるかということを、私たちは忘れています。

天主は私たちを愛しておられます。天主は全能です。「天主といつも一緒にいる」という事は、私たちの霊魂にとって特別の利益があります。この黙想会の間、「天主と共に、天主の現存の内に生きる」のです。私たちは、天主の無限の御稜威の前で、礼拝の心、尊敬の念を持たなければなりません。

【沈黙】
私たちは、沈黙を守りましょう。天主ひとりと対話するために、この機会が与えられています。
天主はたいへんお優しい愛の方です。天主は私たちが他の人と話しているときには、決してそれをさえぎることをなさらないし、私たちが何かほかのことを考えようとしているときには、天主は決して私の注意をそらそうとはなさらない方です。私は聖霊がいつ私に話しかけるのか、その正確なときを知りません。それは霊的な読書のときであるかもしれないし、食事のときであるかもしれないし、また休息のときであるかもしれません。

天主は「沈黙の天主」であって、叫んだり騒いだりしません。沈黙の内に私たちの心にささやきかけます。この地上で行われた全ての事を、天主様は深い沈黙の内において行われました。無からこの全宇宙を創った時にも、沈黙の内において行われました。天主の御言葉が人となられた時も、沈黙においてでした。静けき真夜中にイエズス様はお生まれになりました。イエズス様の30年間の私生活も、沈黙の内に行われました。イエズス様の三年間の公生活も、沈黙の祈りにおいて満たされていました。三時間十字架の上に釘付けにせられた時も、深い沈黙の内におられました。主イエズスが三日目によみがえる迄、沈黙の内におられました。イエズス様が3日目によみがえられた時も、大沈黙の内に復活されました。イエズス様は世の終わりまで、御聖櫃において、真に在しつつ、沈黙を守ります。イエズス様がどれほど沈黙を愛されることでしょうか。

沈黙というのは、「この世の喧騒から離れて、天主の為に心を静めて沈黙させて、天主の方に心を向ける」という事です。沈黙とは、この世に開かれている私たちの心のドアや窓を閉じる事です、天主に大きく開く事です。天主が私たちの心に語りかける条件が“沈黙”です。

この世に開かれたドアや窓を閉じるとは、おしゃべりしないのみならず、携帯の電源を切って、コンピューターのスイッチを切る、という事です。全てこの世の事が皆さんの元に入って来るのを遮断するのです。天主とそして聖母と共に居る事を愛して下さい。そうすれば皆さん大きな報いがあります。

頭の中に起こり来る多くの考えやファンタジーを取り除いて、天主の為に空にして下さい。ご家族の方や親戚の方について考えないで下さい。今現在、世界で行われている政治・経済問題について考えないようにして下さい。黙想会とは関係ないような事が、私たちの心に、頭の中に起こった時は皆、イエズス様の聖心とマリア様の汚れなき御心に全て放り込んで下さい。

【償いの精神】
償いの精神を持ってください。償いの精神というのは、黙想会を遂行するにあたって、何らかの難しいこと、困難な点があっても、それにも関わらず良い黙想会をする、という事です。たとえば、寒い、おしゃべりができない、あまり快適じゃない、何か不都合がある、このような小さな不都合なものは、私たちが償いをする為に、主から与えられたものです。

【寛大な心】
寛大な心をもとめましょう。私は旧約聖書のサムエルの言葉を思い出しましょう。「主よ、お話しください。あなたのしもべがここにおりますから」。

私たちの主キリストのお約束を思い出しましょう。「与えよ、そうすればあなたたちも与えられる。押しいれ、揺すりいれ、あふれるほどの、充分なはかりのものが、あなたたちの服のひだに入れてもらえる」(ルカ6:38)と。

お恵みに対して寛大な心をもつ決心をしましょう。黙想会の始めにあたっては、聖霊が私に何をお求めになるかということについてではなく、何をお求めになろうとも、それに対して寛大に応えたいという大きな望みを持ちましょう。気を散らす誘惑に抵抗しましょう。私たちはこの年の初めの黙想会が大事なものであることを確信しています。今年、私たちが天主のためにどれだけ働けるかということは、いま私たちが貯えておくお恵みの大きさに比例するとも言えます。もしかしたら、この特別の黙想会は私には最後のものになるかもしれません。私が行うさまざまな黙想会の中で、どれか一つが最後のものになるはずです。そうすると私の永遠にわたる天国の地位は、その最後の黙想の成果となった私の霊的生活の密度によって決まるはずです。

「寛大である」とは天主に「全て」を与えることです。黙想会に与る一番良い与り方とは、大きな心を持って黙想会に与ることです。50%ではなくて100%全ての力で、黙想会に与ります。私たちが今やっているこの黙想会を、自分の出来る限り最善を尽くしてやるという事です。悪魔は、私たちが良い黙想会をすることがないように、邪魔します。私たちはそれに戦いを挑んで、黙想会を遂行しなければなりません。悪魔は、私たちが黙想会をする事がないように、黙想会でしなければならない事以外の事をさせようとします。

【落胆しない心】
落胆しない心をもってこの黙想会をしましょう。悪魔は、私たちが落胆するように全ての事をします。私たちが黙想する時に、黙想ができないかもしれません、集中できないかもしれません。隣に座っている人が、嫌な事をしだすかもしれません。そういう時には、妨害にもめげずに「やるべき事をやる」のです。もしも悪魔が「黙想会以外の事をさせよう」と誘惑したら、いや、聖霊と聖母と共に黙想会をするのだと勇気を持って黙想を続けてください。

前の黙想会で貧しい成果しかあげられなかったからといって、善い決心が上手く守られなかったといってくじけないようにしましょう。「何の役に立つのか。もう何回も黙想会をしても、前の通りに不完全だ。やさしくなるどころか、毎年むずかしくなるように思われる」という誘惑に、抵抗しましょう。それは次と同じようなものです。「食べたり飲んだりしても、何の役に立つのだろう。私は何千回も食事をしたのに、二十代の時より丈夫になってはいない。かえって一日一日と弱くなっているように思われる」と。

天主は霊魂を徐々に完徳にみちびかれます。しかし成聖のすべての過程を一瞬の中に成就することも、天主にはできます。主は絶対に自由であり、天主はそういう力を無限にそなえておられます。「この石からアブラハムの子らを起こすことが、私にできないと思うか」。たとえ私たちが年をとっていて、多くの年月を比較的怠けて過ごしてしまったとしても、天主の憐れみによって、私は真の聖性に進することができます。

私たちが前に決心したことについては、それが完全に守られることや絶えず破られることを思って決心したのではなく、その決心を実行するように祈り、学び、骨を折ろうとして決心したことを思い出しましょう。自分がきわめて弱いものであることをまじめに認めていても、あまり向上しないからといって、落胆したり失望したりする理由はありません。一層の努力と、自分をはげますために、経験を利用しましょう。

【聖霊に祈る】
聖霊がくださるお恵みをすべていただくことができるように、霊魂を開いてください。聖霊が何をお求めになるかということを、私は何も考えません。けれども何をお求めになるにしても、私たちがそのお求めに応ずることができますように。力と勇気をおあたえくださるように祈りましょう。聖霊は私の霊魂に、静かに語りかけてくださいますから、どんなに小さなささやきをも聞き逃さないように、私の耳を敏感にしてくださるように、聖霊に祈りましょう。

イエズス様とマリア様に信頼して下さい。全てイエズス様の聖心とマリア様の汚れなき御心に私たちの事を委ねて信頼して下さい。

イエズス様は私たちにこう仰います。
「この黙想会の間、あなたの全てを私に下さい。あなたの家族の事やお仕事の事を全て、私に下さい。ただ、私の事だけを考えて下さい。そうしたら私は、あなたの心配事について全て解決しましょう。」


家族の中での夫と妻それぞれの役割は何か?家族の平和、幸福、聖化の第一条件は、夫婦のそれぞれが自分の役割を力の及ぶ限り果たすことにある

2024年01月12日 | お説教・霊的講話

夫婦それぞれの家族での役割についての説教

ドモルネ神父 2024年1月7日

はじめに

今日、私たちは、イエズス、マリア、ヨゼフの聖家族の祝日をお祝いしています。教皇レオ十三世とベネディクト十五世は、聖家族を模範として、家族制度を守ることと、家族を聖化することの重要性を強調するために、この祝日を制定しました。家族とは、婚姻の契約による男性と女性の結合を基礎に成立し、子どもたちの誕生によってさらに拡大するものです。家族の平和、幸福、聖化の第一条件は、夫婦のそれぞれが自分の役割を力の及ぶ限り果たすことです。今日は、家族の中での夫と妻それぞれの役割を、皆さんに思い出していただきたいと思います。

1.家族における夫の役割

天主の計画により、夫は家族のかしらです。聖パウロは、エフェゾ人にこう言いました。「妻よ、主に従うように、自分の夫に従え。キリストが教会のかしらであるように、夫は妻のかしらである。…教会がキリストに従うように、妻はすべてにおいて夫に従え」(エフェゾ5章22-24節)。夫は家庭のかしらですから、天主が家族の物質的・霊的な生活の世話をする使命を委ねておられるのは、夫に対してです。そして、夫がその使命を果たすことができるように、天主は夫に、妻と子どもたちに対する権威を委託しておられるのです。では、その使命のゆえに存在する夫の義務について考えてみましょう。

夫の第一の義務は、妻と子どもたちが物質的に必要とするもの、つまり衣食住を提供することです。どのように提供するのでしょうか。教皇ピオ十二世はこう言いました。「夫は、仕事によって、家族に日ごとの食事と住まいを提供し、家族の生計と適切な衣服を確保しなければならない。夫の思慮分別と活動によって夫から提供される保護の下で、家族が幸福と平安を感じられるようでなければならない」。夫の仕事は、何よりもまず、家族のためのものです。言い換えれば、夫は、家族の安定と安全を最も確実にする職業を選択しなければなりません。教皇ピオ十二世は、これについてこう述べています。「結婚している男性が、それを越える権利を持たない限界というものがある。その限界は、非常に重大な理由もなく、妻と、すでに生まれているか、これから生まれる子どもたちの安全、平和、最低限の生活を危険にさらさないという責任によって決まる限界である」。

夫の第二の義務は、家族を統治することです。夫は、妻と子どもたちを乗せた船の操舵士のようなものです。良い統治とは、正しい目的を決定し、その目的を達成するための正しい手段を選択し、秩序正しく効率的にその手段を実行することです。家族を統治することは夫の義務です。したがって、家族の目的を定め、適切な手段を選択し、その手段の実行を保証することは、妻の合意を得つつも、夫に属するものです。この家族の目的には、例えば、子どもたちの出産や教育、学校教育、家の選択、社会的活動、家族の娯楽などが含まれます。しかし何よりも、夫は家族を永遠の幸福へと導くように統治しなければなりません。つまり、家族の間で天主への愛を優先するようにしなければなりません。家族の活動はすべて、天主に向けられていなければ、意味がありません。夫の最高の目的は家族を天国に導くことであり、それは夫に大きく依存しているのです。したがって夫は、家庭の中で天主の掟と教会の掟が守られるようにさせ、子どもたちにカテキズムを学ばせ、妻と子どもたちに秘跡を受ける機会を与えることに心を配らなければなりません。家族の夕の祈りを先唱するのも夫の役割です。夫はすべてにおいて、まず第一に、自分の良い模範によって家族を導きます。最後に、夫は家族の永遠の救いを脅かすものを、家庭から断固として排除しなければなりません。

夫の第三の義務は、妻を愛することです。聖パウロはこう言っています。「夫よ、キリストが教会を愛し、教会を聖化するために、教会のために命を与えられたように、あなたたちも妻を愛せよ」(エフェゾ5章25-26節)。しかし、私たちはこれを不思議に思うかもしれません。なぜそのような特定の勧めが与えられるのでしょうか?夫が妻を愛することは難しいことなのでしょうか。教皇ピオ十二世はこう説明しています。「夫における指導者としての力には、自分より弱く、自分に依存している妻に対して与えられるべき優しさが、必ず必要である」。言い換えれば、妻は夫の愛を感じる必要があり、そのため夫は妻への愛情を外的に表すことを忘れてはなりません。では、夫はどのようにすればよいのでしょうか。妻に対する評価、尊敬、夫婦としての愛情をはっきりと示すことによって、妻が行ったことに対する感謝を示すことによって、家事や子どもたちの教育において妻を手伝うことによって、です。キリストが教会への愛のために死なれたように、夫も、必要であれば、妻と子どもたちを救うために自分の命を犠牲にする覚悟がなければなりません。

2.家庭における妻の役割

さて、家族における妻の役割について考えてみましょう。

女性には、特定の資質、傾向、生来の心構えがあり、これらは男性にはないものです。なぜ女性にそのような特質があるのでしょうか。なぜなら、天主は男性ではなく女性に対して、明確に、母性という欠かすことのできない使命を与えておられるからです。女性に、その肉体的な形質、霊的な資質、特に寛大さ、愛情深さ、気配り、優しさ、洞察力を与えることによって、天主は女性を肉体的あるいは霊的な母性のために造られたのです。ところで、注意していただきたいのは、修道女だけでなく、この世に生きている未婚の女性も、霊的な母性を持つように造られていることです。天主のお許しがあれば、将来このテーマについてお話しすることになるでしょう。

妻は家庭の中で母性を成長させ、発揮します。このため、母性の使命の論理的帰結として、家庭に上手に気を配ることは、妻に属しています。妻は「家の女主人」であり、家のインテリアを整え、家庭を物質的にも霊的にも快適で健全なものにし、家族の間の平和と愛の雰囲気を育て維持することに責任を負っています。こういったことは妻以外にはできません。聖書の中で、天主は、「手の行き届いた家の優雅な女性は、主の山にのぼる太陽のようだ」(集会書26章21節)と言っておられます。教皇ピオ十二世は、この言葉についてこう述べています。「そう、妻、母は、家族の太陽である。彼女が家族の太陽であるのは、寛大さと献身、たゆまぬ支援、夫と子どもたちの生活を明るくするあらゆるものを提供する際の用心深く先を見通した思慮深さのゆえである」。

妻の第二の義務は、夫に対して、信頼と愛情を込めて服従することです。天主が夫を家族のかしらとして定められたことは、すでに述べました。したがって、妻は夫の権威の下にありますが、それは協力者という立場においてです。一方で、夫の権威は、妻への全面的な信頼と献身を伴うものであり、他方では、妻の服従は、夫への深い愛情と忠実さによって気高いものとなります。夫婦には自然な相補性があるため、互いに助け合うことができるのです。妻の使命は夫を助けることです。外科医に対する看護師のように、妻は夫に対して従属的ではあるものの、相補う役割を担っています。妻の助けはしばしば精神的、心理的、感情的なものです。妻が夫の奴隷になったり、家政婦に格下げされたりすることは決してあってはなりません。

最後に、妻の第三の義務は、子どもたちの教育、特に子どもたちの人生の最初の何年かの教育をすることです。この点で、妻の役割は不可欠にしてかけがえのないものです。教皇ピオ十二世の言葉を引用すると、「天主は、子どもたちの最初の数年間の教育を女性に委託された。子どもたちにとって、他人から受ける最良の世話であっても、決して母親の愛情に満ちた配慮に匹敵するものではない」(1941年9月10日の演説)。ですから、親愛なる親御の皆さん、皆さんの子どもたちを保育所に入れるのは大きな間違いであり、政府に皆さんの幼い子どもたちを公立学校に入れさせるのは大きな間違いなのです。教皇ピオ十二世は、子どもたちの教育について次のように語ることで、母親たちに対して、子どもたちの宗教教育における母親の特別な役割を思い起こさせました。「母親は、子どもたちに天国を示し、息子たちや娘たちに祭壇のもとにひざまずくことを教え、時には彼らに最も崇高な思いと望みを抱かせる最初の人なのです」(1941年8月20日の演説)。

結論

親愛なる信者の皆さん、平和なくして幸福はありません。しかし、平和とは秩序が静かであることです。夫婦が互いに自分の責任を寛大に引き受けるとき、家族の中には秩序があり、平和があり、相互の愛と真の幸福が花開くのです。何年にもわたって夫婦が自らの責任を引き受けるために払ってきた犠牲や共同の努力は、夫婦の相互の愛を深める助けとなるのです。

聖家族が、私たちの家族を祝福してくださいますように。聖ヨゼフが夫の模範となってくださり、聖母が妻の模範となってくださり、幼子イエズスが子どもたちの模範となってくださいますように。


聖なるミサのいくつかの儀式の意味についての説教(2)

2024年01月11日 | お説教・霊的講話

聖なるミサのいくつかの儀式の意味についての説教(2)

ドモルネ神父 2023年12月17日

はじめに

二週間前、私はミサのいくつかの儀式の意味を説明しました。それは、2回の告白の祈り、ミサ典書の移動、ぶどう酒に一滴の水を混ぜること、そして奉献のときのホスチアとぶどう酒への撒香の方法です。他のいくつかの儀式の意味を説明しながら、今日も同じテーマを続けます。

1.ハンク・イジトゥル

ミサの第三部は、序誦からパーテル・ノステルまでです。それは「典文」と呼ばれます。これは、ミサの中で最も重要な部分であり、このとき、司祭がパンとぶどう酒を私たちの主イエズス・キリストの御体と御血に変えます。

司祭は、パンとぶどう酒の全実体変化を行う前に、カリスの上に両手で按手します。この時、ミサの侍者はベルを一回鳴らします。このしぐさにはどのような意味があるのでしょうか。この両手で按手する第一の意味は、私たちの主が御血で私たちの罪をすべて贖ってくださるよう、私たちの罪を主に移すことです。この儀式は、旧約のモーゼの典礼で、すでに天主によって確立されていました。「アロンは、その雄やぎの頭の上に両手を置き、イスラエルの子らのすべてのあやまちと、掟に背いた彼らの罪のすべてを告白して、その罪を雄やぎの頭の上に負わせるよう祈りながら、雄やぎを荒れ野に放つ」(レビ16章21節)。このカリスの上に両手で按手する儀式の第二の意味は、天主への愛のために進んで自らをいけにえにし、天主のお怒りを招くものすべてを進んで自らにおいて滅ぼし、天主に進んで完全に身を捧げるということを知らせることなのです。

司祭は、私たちの罪をいけにえであるキリストに移すと同時に、私たちの主によって行われた贖いの実を私たちに与えてくださるよう天主に祈ります。その実とは、地上の内的・社会的平和、地獄を免れること、天国への入場許可です。

2.2回の聖変化

さて、聖変化について話しましょう。司祭が2回の聖変化を行うのはなぜでしょうか。司祭がパンをイエズスの御体に、そしてぶどう酒をイエズスの御血に変えるのはなぜでしょうか。聖変化の後、私たちの主は、御体、御血、ご霊魂、ご神性とともに、ホスチアの中に完全に現存されています。では、ホスチアだけを聖変化させ、そうすることでイエズスを天主に捧げるだけで、十分ではないでしょうか。いいえ、それだけでは十分ではありません。ミサは十字架のいけにえの更新であり、ミサの間に、イエズスは御父への愛のために、ご自身をいけにえとされ、すなわち、十字架上で行われたように、ご自身の命を捧げられます。従って、ミサの間に、このいけにえが実現されるものだと知らせなければなりません。しかし、それは2回の聖変化によって知らせるのです。司祭は、まずパンをイエズスの御体に変え、次にぶどう酒をイエズスの御血に変えることによって、イエズスの御体と御血を分離します。人の体の血をなくしてしまうことは、その人を死なせることです。ですから、2回の聖変化によって、司祭はイエズスの十字架上の死を神秘的に知らせ、それを実現させるのです。

12世紀、ベレンゲルという名前の異端者が、聖変化後のパンとぶどう酒の外観の下にキリストが現存されることを否定しました。この異端に対する反動として、ホスチアとカリスの奉挙の儀式が発展しました。この2回の奉挙の目的は、私たちの主をたたえ、キリストの真の現存に対する信仰行為を行う機会を信者に与えることです。この理由で、奉挙の際、信者はホスチアと尊き御血を、愛をもって見つめ、「わが主、わが天主」と唱えることによって、心の中で信仰行為を行うよう勧められています。使徒聖トマスが死者の中から復活されたイエズスへの信仰を告白したのは、この言葉によってでした。

3.小さい奉挙

さて、ミサの第三部である典文を締めくくる小さい奉挙について考えてみましょう。司祭は、ホスチアの入ったカリスの上で十字架のしるしを3回行い、カリスの前でさらに十字架のしるしを2回行い、最後にカリスとホスチアを一緒に少し持ち上げます。ミサの侍者は、この時ベルを1回鳴らします。これらのしぐさにはどんな意味があるのでしょうか。これらのしぐさは、司祭が唱える祈りとともに行われます。私たちの主について、司祭はこう唱えます。「彼によって、彼とともに、彼において、全能の父なる天主よ、聖霊との一致において、御身はすべてのほまれと栄光を受け給う。世々に至るまで」。「彼によって、彼とともに、彼において」と唱えることによって、司祭は、「彼」が誰であるかを知らせ、その度にカリスに十字架のしるしをするのです。「彼」とは、パンとぶどう酒の形態の下に本当に現存される、十字架につけられたイエズス・キリストです。

次に、司祭は、父なる天主と聖霊なる天主の御名を唱えながら、カリスの上ではなくカリスの前で、ホスチアによって十字架のしるしを2回行います。司祭がこのようにするのは、司祭が、もはやパンとぶどう酒の外観の下にあるイエズス・キリストについて述べているのではなく、十字架のいけにえとミサが捧げられる天主について述べているからです。最後に、司祭は、私たちの主イエズス・キリストを賛美するしぐさとして、カリスとホスチアを一緒に持ち上げます。

次に信者は「アーメン」と唱えます。この信者によるアーメンは、いけにえと、典文で司祭が捧げる祈りとの一致を表すため、重要なものなのです。

4.パーテル・ノステル

ミサの第四部は「聖体拝領」と呼ばれます。これは、パーテル・ノステルからミサの終わりまで続きます。この部分はパーテル・ノステルを唱えることで始まります。ミサのこの時、典文の直後に、この祈りを唱えるのはなぜでしょうか。それはただ、ミサの典文で行われるイエズスのいけにえが、私たちを天主と和解させ、私たちを天主の子へと回復させるからです。ですから、ミサの典文の直接の効果は、私たちが天主を「われらの父よ」と呼ぶことができるようにしてくれることなのです。

私たちの美しい典礼にある興味深い細かな点に注目してください。司祭はパーテル・ノステルを唱えるとき、ホスチアにおられるイエズスを見つめなければなりません。なぜそうするのでしょうか。それは少し驚くことですが、ホスチアにおられるのは、父なる天主ではなくイエズスだからです…。つまり、司祭がパーテル・ノステルを唱えるときにホスチアを見つめるのは、イエズスが「私を見た人は父を見た」(ヨハネ14章9節)と言われたからなのです。

5.ホスチアを裂くこと

最後に、ホスチアを裂くことについて考えてみましょう。パーテル・ノステルの後、司祭はホスチアを裂き、その小さな一片をカリスの中の尊き御血に混ぜます。この儀式があるのはなぜでしょうか。司祭はホスチアを裂くことによって、最後の晩餐において、使徒たちにご聖体をお与えになる前に、ご聖体を裂かれた私たちの主イエズスをまねているのです。しかしそれだけではなく、司祭は私たちの主イエズスのご復活を知らせています。司祭は、典文の間にイエズスの御体と御血を別々に聖変化させることによって、イエズスの死を知らせます。司祭は、カリスの中でイエズスの御体と御血を再び一致させることによって、命へ戻ること、すなわちイエズスのご復活を知らせるのです。

ミサの間に私たちの主のご復活を思い起こし、知らせることは重要です。ミサは、過去の出来事の単なる記念、すなわちイエズスのカルワリオでの死の記念ではありません。ミサにおいて、活動し、天においても祭壇上でも十字架のいけにえを神秘的に更新されるのは、生きておられるイエズスなのです。ミサの間にイエズスのご復活を知らせることは重要です。なぜなら、それは、十字架のいけにえとミサのいけにえを通して私たちの罪の償いが天主に受け入れられたことのしるしだからです。

結論

親愛なる信者の皆さん、この説教を、聖なるミサを終えるときと同じように、デオ・グラチアス、天主に感謝申し上げます、と唱えて終えたいと思います。そうです、ご自分のいけにえを無限に更新するために聖なるミサを制定された、私たちの主イエズス・キリストに感謝申し上げます。聖なるミサを通してご自分にふさわしいいけにえを捧げる可能性を私たちに与えてくださった、父なる天主に感謝申し上げます。ローマ典礼を通して驚くべき神秘を人間の方法で表す特別な手段を私たちに与えてくださった、聖霊なる天主に感謝申し上げます。


ミュラー枢機卿の「フィドゥチア・スプリカンスに反対する声明は、福仁カトリック神学校生命倫理研究センターによって中国語にも訳されました。

2024年01月05日 | プロライフ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ミュラー枢機卿の「フィドゥチア・スプリカンスに反対する声明は、福仁カトリック神学校生命倫理研究センターによって中国語にも訳されました。

2023年12月18日、バチカンは聖職者が同性カップルを祝福するための枠組みを提供する「信仰の嘆願者」声明を発表し、この文書が公布されるとすぐに司教やその他の教会指導者の間で広範な議論を引き起こしました。 一部の司教会議が自国でのこの文書の実施に対する反対を促進しているという深刻な懸念が提起されています。
2012年から2017年までバチカン信仰省を率いていたミュラー枢機卿は、2023年12月21日の記事で、この文書は「矛盾」しており「更なる説明が必要だ」と述べました。
ミュラー枢機卿は、「バチカンの文書「フィドゥチア・スプリカンス」の声明は、カトリックの教えに明白に反してはいないのか。信者は、この新しい教えを受け入れる義務があるのか。司祭は、つくり出されたばかりのこのような新しい実践を行ってよいのか。また、教区司教は、それが自分の教区で行われる場合、それを禁じることができるのか。これらの質問に答えるために、この文書が具体的に何を教え、どのような論拠に基づいているのかを知る必要がある」と述べました。 」



穆勒樞機:《懇求的信賴》(Fiducia Supplicans) 聲明是「自相矛盾」
翻譯:輔仁聖博敏神學院 生命倫理研究中心
2023年12月18日梵蒂岡頒佈《懇求的信賴》(Fiducia Supplicans)聲明,為神職⼈員對同性伴侶進⾏降福提供框架,文件頒佈後立刻在主教和其他教會領袖中引起廣泛辯論。有⼈提出嚴重關切,⼀些主教團在他們的國家推動反對實施該⽂件。
從2012年到2017年曾帶領梵蒂岡信理部的穆勒樞機在2023年12月21日⼀篇⽂章中表⽰,這份⽂件是「⾃相⽭盾的」並且「需要進⼀步澄清」。
穆勒樞機表示:「此聲明並沒有明確地違反天主教會的教導嗎?信徒是否有責任接受這個新教導?神⽗是否可以執⾏剛剛被發明的這些新做法?如果這些新做法在主教所在的教區內發⽣,教區主教是否可以禁⽌它們?為了回答這些問題,讓我們看看這份⽂件到底教導了什麼,以及它依賴的是什麼論據」。


2024年1月7日と8日は、新年の小黙想会を行いましょう。

2024年01月03日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2024年1月7日と8日は、新年の小黙想会を行いましょう。
次のような予定で、イエズス・キリストの神秘を黙想しましょう。

一日目(1月7日 主日)

8:30 読誦ミサ Low Mass
10:00 ロザリオ Rosary
10:30 歌ミサ Sung Mass
12:30 お昼休み Lunch Break
13:30 ロザリオ Rosary
14:00 霊的講和(1) 1st talk
15:30 霊的講和(2) 2nd talk
16:30 御聖体降福式 Benediction
17:00 第一日目の終了  

二日目(1月8日 成人の日【祝日】)

10:30 ロザリオ Rosary
11:00 読誦ミサ Low Mass
12:30 お昼休み Lunch Break
13:30 ロザリオ Rosary
14:00 霊的講和(3) 3rd talk
15:30 霊的講和(4) 4th talk
16:30 御聖体降福式 Benediction
17:00 第二日目の終了  

お弁当をご持参すると便利です。暖かいお弁当を注文したい方は、当日の10時半までに受け付けの方にご注文下さい。


2024年1月5日(初金曜日)の聖伝のミサは、夕方の午後6時からです。ミサの後に聖体降福式があります。

2024年01月03日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2024年1月5日(初金曜日)は、大宮の新聖堂で夕方の午後6時から聖伝のミサがあります。
ミサの直後に、御聖体降福式を行い、イエズスの聖心への信心を行いましょう。

天主は、私たちを憐れみ深い愛によって愛されています。2024年の最初にあたり、イエズス・キリストの聖心の計り知れないほどの愛と天主としての無限の御稜威とに感謝するためです。

聖マルガリタ・マリア・アラコックにイエズスの聖心はこう訴えました。
「人びとをかくも愛したこの聖心を見よ、彼らに自分の愛を見せるために一切何も惜しまず、自分を空にし尽くし、燃えつくした聖心を。そのお返しに私はそのほとんどの者たちから、この愛の秘蹟における私に対して示される忘恩と軽蔑と不敬と冒涜と無関心とだけを受け取った。しかしさらに悪いのは、私に奉献された霊魂たちが、私をそのように取り扱うことだ。」(聖マルガリタ・マリア・アラコックへのイエズスの聖心の言葉)

"Behold this Heart, which has so loved men that it has spared nothing, it has emptied itself and consumed itself in order to manifest its love for them; and, in return, I received from greater number only ingratitude, contempt, irreverence, sacrileges, the indifference manifested for Me in this Sacrament of love." 

 


2024年1月3日は、1月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2024年01月03日 | カトリック・ニュースなど

愛する兄弟姉妹の皆様、

あけましておめでとうございます。
今日、2024年1月3日は、1月の初水曜日(月の初めての水曜日)で、2024年の最初の水曜日でもあります。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。

初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


【加筆しました】2023年のクリスマスから年末、新2024年のミサの予定をお知らせいたします。

2024年01月01日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2023年のクリスマスから年末、新年のミサの予定をお知らせいたします。

● 12月23日(土)から、土曜日にも大宮の新聖堂で午前11時からミサを行います。

●2024年元旦からは、大宮の新聖堂で月曜日を除く毎日、つぎのような新しいスケジュールで聖伝のミサが捧げられるようになります。基本的には次の通りです。ただし特別の事情によって例外や変更がある場合があります。ご了承ください。

【新聖堂でのミサのスケジュール:2024年1月1日から】
主日:08:30 読誦ミサ、 10:30 歌ミサ
月曜:【特別の機会をのぞいて新聖堂ではミサの予定はありません】1月1日は16:00 から歌ミサがあります。
火曜:07:00 ミサ聖祭
水曜:07:00 ミサ聖祭
木曜:07:00 ミサ聖祭
金曜:18:00 ミサ聖祭【金曜日は午後6時です】
土曜:11:00 ミサ聖祭

●2024年1月7日と8日(成人の日)は、愛する兄弟姉妹の皆様を全て招いて、新年の小黙想会を大宮の新聖堂で行います。イエズス・キリストの御降誕の神秘を一緒に黙想いたしましょう。
●2024年1月8日(成人の日)には、札幌で午前9時から聖伝の歌ミサを予定しています。

【東京】 東京のミサは11月26日から新しい場所で捧げられています。

住所: さいたま市大宮区東町2ー256ー8 林ビル2F

Google マップ: <https://goo.gl/maps/3AiQkmFkdGYtVC2B6>
※ JR 大宮駅から北東方向に1キロメートルほど歩いたところにある、ベージュ色の3階建のビル、林ビルの2階です。

大宮駅まで: JR 大宮駅へは、JR 宇都宮線・高崎線で東京駅から 31 分、上野駅から 25 分です。
大宮駅から: JR 大宮駅東口から、北東方向に歩いて約 14 分です。(ファイル New Chapel in Omiya-20231009.pdf をご覧ください)

大宮駅から新しい聖堂へ歩いての行き方ファイル:Walking from Omiya Station to the New Chapel

【「暁の星の聖母」修道院】

住所:埼玉県さいたま市見沼区大和田町2丁目820番地3
日本聖ピオ十世会:「暁の星の聖母」修道院
T 337-0053

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

【名古屋】愛知県名古屋市中村区名駅南1-3-14 石原ビル6階
2024年01月28日(日)17:30(午後5時半) ミサ聖祭


 12月31日(日)
【大 宮】09:00, 11:30 ミサ聖祭
【新大阪】18:00 ミサ聖祭

2024年【年末年始は、大宮の氷川神社の参道あたりの駐車場には混みあうことが予想されます。できるならば電車のご利用がお勧めです。大宮駅の西口の方の駐車場は、もしかしたら、少しは空いているかもしれません。】

 1月01日(月) 
【大 宮】16:00 歌ミサ 
【新大阪】09:00 歌ミサ
 1月02日(火)
【大 宮】10:30 ミサ聖祭
 1月03日(水)
【大 宮】07:00 ミサ聖祭
 1月04日(木)
【大 宮】07:00 ミサ聖祭
 1月05日(初金)
【大 宮】18:00 ミサ聖祭
【新大阪】18:30 歌ミサ
 1月06日(初土)
【大 宮】11:00 ミサ聖祭
【新大阪】10:30 歌ミサ
 1月07日(日)
【大 宮】08:30 読誦ミサ 10:30 歌ミサ
【新大阪】10:30 歌ミサ
 1月08日(月)
【大 宮】11:00 ミサ聖祭
【札 幌】09:00 歌ミサ
 1月09日(火)
【大 宮】07:00 ミサ聖祭
 1月10日(水)
【大 宮】07:00 ミサ聖祭
 1月11日(木)
【大 宮】07:00 ミサ聖祭
 1月12日(金)
【大 宮】18:00 ミサ聖祭
 1月13日(土)
【大 宮】11:00 ミサ聖祭
 1月14日(日)
【大 宮】08:30 読誦ミサ 10:30 歌ミサ
【新大阪】18:00 歌ミサ
 1月15日(月)
大宮でのミサはありません
【新大阪】06:30 ミサ聖祭
 1月16日(火)
【大 宮】07:00 ミサ聖祭
 1月17日(水)
【大 宮】07:00 ミサ聖祭
 1月18日(木)
【大 宮】07:00 ミサ聖祭
 1月19日(金)
【大 宮】18:00 ミサ聖祭
 1月20日(土)
【大 宮】11:00 ミサ聖祭
 1月21日(日) 
【大 宮】08:30 読誦ミサ 10:30 歌ミサ
【新大阪】18:00 歌ミサ
 1月22日(月)
大宮でのミサはありません
【新大阪】06:30 ミサ聖祭

【名古屋】愛知県名古屋市中村区名駅南1-3-14 石原ビル6階
2023年12月17日(日)17:30(午後5時半) ミサ聖祭
2024年01月28日(日)17:30(午後5時半) ミサ聖祭

My dearest Brethren!
I would like to inform you about the Holy Mass schedule for Christmas and New Year.

NEW TIME for the Mass at Omiya chapel from January 3, 2024

From New Year's Day, 2024, the Holy Masses will be offered at the new Chapel in Omiya every day (except Monday) with the new schedule. The rule is as following. However, there may be exceptions or changes due to special circumstances.

New schedule of the Holy Mass at the new Chapel.
Sunday (NEW MASS-TIMES!):
08:30 Low mass
10:30 Sung mass

Monday:
No mass, unless specified otherwise

Tuesday, Wednesday, Thursday:
07:00 Low mass

Friday:
18:00 Low mass

Saturday:
11:00 Low mass

Special mass schedule for the coming Christmastide

December 24 (Sunday) - Christmas Eve:
09:00 Sung mass
11:30 Low mass

December 25 (Monday) - Christmas Day:
18:30 Sung mass

December 31 (Sunday) - Sunday within the Octave of Christmas:
09:00 Sung mass
11:30 Low mass

January 1 (Monday) - Octave Day of Christmas:
16:00 Sung mass

January 2 (Tuesday) - Holy Name of Jesus:
10:30 Low mass

● On January 7 and 8, 2024 (Public holiDay), we invite all of you to attend the days of recollection at the New Chapel. Let us meditate together on the mysteries of the Nativity of Jesus Christ.
● On January 8, 2024, we are planning to have Sung Mass at 9:00 a.m. in Sapporo!

 Dec. 15 (Fri) [Priory] 07:15 Holy Mass, [Shin-Osaka] 18:30 Holy Mass,
 Dec. 16 (Sat) [Priory] 11:00 Holy Mass, [Shin-Osaka] 10:30 Holy Mass,
 Dec. 17 (Sun) [Omiya] 09:00, 11:30 Holy Mass, [Shin-Osaka] 10:30 Holy Mass, [Nagoya] 17:30 Holy Mass
 Dec. 18 (Mon) [Priory] 07:15 Holy Mass
 Dec. 19 (Tue) [Priory] 07:15 Holy Mass
 Dec. 20 (Wed) [Priory] 07:15 Holy Mass
 Dec. 21 (Thu) [Priory] 07:15 Holy Mass
 Dec. 22 (Fri) [Priory] 07:15 Holy Mass
 Dec. 23 (Sat) [Omiya!] 11:00 Holy Mass
 Dec. 24 (Sun) [Omiya] 09:00, 11:30 Holy Mass [Shin-Osaka] 18:00 Holy Mass, 21:00 Matines of the Nativity, 24:00 Holy Mass of the Nativity of the Lord
 Dec. 25 (Mon) [Omiya] 18:30 Holy Mass of the Nativity of the Lord [Shin-Osaka] 10:30 Holy Mass
 Dec. 26 (Tue) [Priory] 07:15 Holy Mass
 Dec. 27 (Wed) [Priory] 07:15 Holy Mass
 Dec. 28 (Thu) [Priory] 07:15 Holy Mass
 Dec. 29 (Fri) [Priory] 07:15 Holy Mass
 Dec. 30 (Sat) [Omiya!] 11:00 Holy Mass
 Dec. 31 (Sun)
[Omiya]09:00, 11:30 Holy Mass
[Shin-Osaka]18:00 Holy Mass

2024

 Jan. 01 (Mon)
[Omiya] 16:00 Sung Mass
[Shin-Osaka] 09:00 Sung Mass
 Jan. 02 (Tue)
[Omiya] 10:30 Holy Mass
 Jan. 03 (Wed)
[Omiya] 07:00 Holy Mass
 Jan. 04 (Thu)
[Omiya] 07:00 Holy Mass
 Jan. 05 (First Fri)
[Omiya] 18:00 Holy Mass
[Shin-Osaka] 18:30 Holy Mass (Sung Mass)
 Jan. 06 (First Sat)
[Omiya] 11:00 Holy Mass
[Shin-Osaka] 10:30 Holy Mass (Sung Mass)
 Jan. 07 (Sun)
[Omiya] 08:30 Low Mass 10:30 Sung Mass
[Shin-Osaka] 10:30 Sung Mass
 Jan. 08 (Mon)
[Omiya] 11:00 Holy Mass (11:00)
[Sapporo] 09:00 Holy Mass (11:00)
 Jan. 09 (Tue)
[Omiya] 07:00 Holy Mass
 Jan. 10 (Wed)
[Omiya] 07:00 Holy Mass
 Jan. 11 (Thu)
(Omiya) 07:00 Holy Mass
 Jan. 12 (Fri)
[Omiya] 18:00 Holy Mass
 Jan. 13 (Sat)
[Omiya] 11:00 Holy Mass
 Jan. 14 (Sun)
[Omiya] 08:30 Low Mass 10:30 Sung Mass
[Shin-Osaka] 18:00 Sung Mass
 Jan. 15 (Mon)
No Holy Mass in Omiya
[Shin-Osaka] 06:30 Holy Mass
 Jan. 16 (Tue)
[Omiya] 07:00 Holy Mass
 Jan. 17 (Wed)
[Omiya] 07:00 Holy Mass
 Jan. 18 (Thu)
[Omiya] 07:00 Holy Mass
 Jan. 19 (Fri)
[Omiya] 18:00 Holy Mass
 Jan. 20 (Sat)
[Omiya] 11:00am Holy Mass
 Jan. 21 (Sun)
[Omiya] 08:30 Low Mass 10:30 Sung Mass
[Shin-Osaka] 18:00 Sung Mass
 Jan. 22 (Mon.)
No Holy Mass in Omiya
[Shin-Osaka] 06:30 Holy Mass


[Nagoya] 6F Ishihara Bldg. 1-3-14 Meieki-Minami, Nakamura-ku, Nagoya-shi, Aichi
December 17, 2023 (Sun.) 17:30 (5:30 P.M.) Holy Mass
January 28, 2024 (Sun) 5:30 P.M. Holy Mass

 


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】