近くの大学の今年最後の市民講座は映画「アマデウス」。宮廷作曲家サリエリとヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの映画です。ディレクターズカットの3時間版で、前後の解説を含めて4時間半、終わったのは5時半過ぎの夕闇どきでした。
モーツァルトと同時期に活躍したサリエリは、彼の天才的な才能を認めながらも次第に疎ましく思い始め対立もあります。
モーツァルトのハチャメチャな経済観念と弟子がつかない性格と新しい作曲への苦悩で次第に追い詰められ家庭生活も破綻状態。
モーツァルトの死を予感したサリエリは陰湿なはかりごとを巡らしました。モーツァルトに「レクイエム」を作曲させそれを自分の作曲として世に出すというものです。
衰弱したモーツアルトにはもう楽譜を書く体力がなく、サリエリが記述を手伝ううちに、再びモーツァルトの才能に驚愕します。この間の真に迫った二人の気迫あふれる作曲場面は心に迫るものがあります。
最後はモーツァルトの妻の機転でサリエリのもくろみはみごと失敗に終わりました。
サリエリの独白に、神は「凡庸な者に神の栄光をほんの少しだけでも分かち与えてやるよりも、自分が愛する者を破滅させる方を選んだ」という重たい言葉が何度か出てきます。そして、結局はサリエリはどうあがいても自分が忘却の縁に埋もれていく運命を受け止めなければならないのでした。
ストーリーはざっとこんなものですが、ウィーンでの音楽家の地位と生活、オペラを大衆のものにしようと挑戦するモーツァルトの苦悩など、ストーリーに合わせて最初から最後まですごい数の名曲演奏がばらまかれており、それが全体を壮大な映画にしています。
舞台となる大聖堂、宮廷、街並みなどの歴史的建造での大がかりなロケ、ウィーンの食の豪華さ、手を抜かない丹念な服装など、アカデミー賞の各賞を総なめしたことがよくわかります。
映画の中のモーツァルトが、ずっと前に読んだ文庫本のモーツアルト像と全くそぐわなくて、むしろ真逆でずっと違和感がありました。
行動に品がなく、子供っぽく、モーツァルトのあの苦悩のない、品格に満ちた素晴らしいメロディーとどうしてもそぐわなくて・・・。
ただ、最後の場面でモーツァルトが若くして亡くなり、亡きがらが淡々と墓地に向かう途中に流れたピアノコンチェルト第20番ニ短調第2楽章ロマンス、その澄み切った美しいメロディがエンドロールまで続いたのがせめてもの慰めで、自分なりにまた元のモーツァルト像に修正できてよかったです。