Drown my world with my weeping earnestly 一滴の真実
英二24歳3月
第84話 整音 act.11-side story「陽はまた昇る」
さて、どうしたものか?
「いかがですか、英二さん?」
尋ねながら鉢皿また置いてくれる。
ほろ苦い香が清々しい、出された白和えに箸つけて言った。
「うまいよ、中森さん腕またあげた?」
応えながら左手はページめくる。
二冊目の報告書ながめながら箸うごかして、傍ら穏やかな声が微笑んだ。
「ありがとうございます、御飯のおかわりは?」
「ありがとう、」
茶碗を渡してページまた戻らす。
綴られる事実の羅列に思考めぐらせ組み立てる、この結論は何だろう?
―総務省なら観碕の影響力がある、でも輪倉は?
総務省官房審議官 輪倉義勝
この肩書だけで「後輩」だと解かる、けれど「近い」だろうか?
プロフィールに一人の男をたどってゆく、その出身校に尋ねた。
「中森さん、東大の法科って結束固い?」
この男なら内情よく知るだろう?
そのままにチャコールグレイのニット姿は口開いた。
「同胞意識と秘密主義はあると思います、嫉妬も強いですが、」
「秘密主義?」
訊き返しながら箸はこんで歯ざわり良い。
これも山菜だろうか?やわらかな苦みと甘みのむこう家宰は言った。
「はい、たとえば公開講座の参加資格は東大法科の在籍者か卒業生です、身内だけに開くことを公開という世界ですよ?」
可笑しいでしょう?そんな眼ざしが笑っている。
明朗な毒舌家に惣菜を呑みこんで笑った。
「公開の意味も世間一般とは別格ってことか、選民意識で結束を固める空気?」
「そういうことです、めんどうですよ?」
なにげない返事、けれど辛辣だ。
それだけの時間を生きてきた男に問いかけた。
「中森さんもそこにいたんだろ、なんで官僚にならなかった?」
この男にヒントはあるだろうか?問いかけた真中で深い瞳は微笑んだ。
「私は国に仕えたいと想えません、強盗に仕えたがる人間などいますか?」
いつもの毒舌、けれど違う。
その言葉まっすぐ見つめて遠い知らない時間に訊いた。
「もしかして中森さん、戦争で家も家族も失くした?お国のためにって、」
この男は「強盗」された。
だからこの男は今この家にいる?
そう見つめた言葉ひとつに深い瞳しずかに笑った。
「そうです、」
静かな声、静かな瞳、だからなおさら傷が映る。
こういう瞳を前にも見た、あの初冬の俤なぜか思いだす。
『山ヤになって、医者を志して、そして…自分が山で死んでしまった、雅樹は帰ってこなかった、』
志して、そのために斃れて帰らない。
そんな命いくつ人間を奪うのだろう、その一人に微笑んだ。
「これからは月に一度は帰ってくるよ、中森さんの飯食べたいから、」
失くした、それなら新しく得ればいい。
その一欠けらに自分もなれるなら?願いの真中で老いた青年は微笑んだ。
「うれしい約束ですね、実現なればですけど?」
いつもの毒舌また返してくれる。
遠慮ない率直は温かで、そんな昔なじみの笑顔に言った。
「俺は約束は守るよ、絶対にね?」
「それは頼もしいですね、期待しましょう、」
笑ってくれるトーン温かい。
この温もり隠しこんだ素顔に問いかけた。
「さっき祖母で言ってたこと、中森さんも考える?」
「どのことでしょう?」
訊き返しながら汁椀のおかわり注いでくれる。
出汁の馥郁やわらかな湯気ごし、英二は言葉そのままなぞった。
「顕子様は亡くされた方たちの分も彼の幸せを願われるから無茶も厭わないのでは、って言ってたろ?中森さんも祖父に同じこと願ってる?」
ことん、
碗ひとつ置かれて静寂たたずむ。
三月真昼、それなのに白いダイニングの窓辺で深い瞳が微笑んだ。
「そうですね、似ているけれど少し違うと思います。顕子様は肉親ですから、」
血の繋がり、その温度がロマンスグレイにたゆたう。
そこにある過去たちへそっと笑った。
「俺はね、家族の誰よりも中森さんが近いよ?」
こんな本音、哀しいことかもしれない。
けれど嘘なんか吐けなくて書類めくりながら言った。
「宮田の祖母も姉ちゃんも面倒みてくれたし、父も俺にかまってくれたよ。宮田の祖父は誰より尊敬できるって今も想ってる、でも本音の全部は言えない、」
ぱさり、ページ繰りながら文字が刻まれる。
頭脳に読みとりながらも感情は別で、ただ素直に笑った。
「俺さ、家の中では中森さんに一番本音を言えるんだ、だけど中森さんの一番は祖父だろ?だから周太のこと捉まえたかった、」
捉まえたかった、君のこと。
唯ひとり君だけは傍にいてほしかった、ずっと一緒にいたかった。
だから無理やり抱いてしまった夜を真昼のダイニングで笑った。
「俺も誰かの一番になりたいんだ、唯ひとりだって見つめてほしいよ?周太のためなら俺、みっともないことでも何でもする、」
ただ君のため、それだけだ。
そのために今もここに座っている、そんな本音と箸を置いた。
「うまかったよ、ごちそうさま、」
笑いかけ書類ふたつと立ちあがる。
傍らチャコールグレイのニット姿は会釈して、その衿元ネクタイ少し直すと言った。
「先ほども申し上げましたが、私はただ英二さんが好きです。だから克憲様の命令よりも今あなたの声を聴いています、」
このタイミングそんなこと言ってくれるんだ?
その言葉ごし深い瞳は穏やかで、昔のまま笑いかけた。
「ありがとう、だけど俺が鷲田でも宮田でも無かったら?」
二人の祖父どちらとも無関係、それでも自分は選ばれる?
こんな問いかけ子供じみているかもしれない、それでも見つめた相手は微笑んだ。
「申し上げたでしょう?私はただ英二さんが好きなのです、」
ただ好きだ、
そんな言葉に記憶そっと揺すられる。
こんな言葉を他にも言われた、そのどれより長い時間の相手は微笑んだ。
「あなたの厄介な性格も、克憲様と宮田様の孫である事実も、あなたの全てを知って好きだと言ってるんですよ?彼との感情とはまた違いますが、」
厄介な性格、孫である事実。
こんなふう隠さずただ言ってくれる、その眼ざし深く笑ってくれた。
「私はただの使用人です、それでも私なりに英二さんを愛しています。だからいつも遠慮なく正直に言わせてもらうのです、あなたがただ可愛くて、」
こんなこと、初めて言われた。
「いま、かわいいって言った?」
この自分が「可愛い」なんて初耳だ?
慣れない言葉に見つめた真中、ロマンスグレイの笑顔ほころんだ。
「言いました、いろんな意味で可愛いくて仕方ないんですよ?息子のようで孫のようで、困り者の友人みたいでもあり、弟の時もあります、」
こんなこと自分が言われるなんて?
「ふっ、」
可笑しくて笑ってしまう、だって意外すぎる。
こんなこと誰も自分に言ってくれなかった、その初めてに笑った。
「俺、そんなふうに言われたの初めてだよ?」
「そうでしょうね、カッコイイは聞き飽きているでしょうけど、」
率直な声また笑ってくれる。
こういう男だから祖父も離さないのだろう?あらためて知る貌に問いかけた。
「観碕と祖父と、輪倉さんの同胞意識はどっちにあると想う?」
同門ふたり、どちらを輪倉は選ぶだろう?
問いかけた先で同じ母校の男は笑った。
「どちらでもないかもしれませんよ?あなたに会うため来るのですから、」
自分に会う、それが目的だろうか?
思考たぐりながらシャツの胸元ふれて、記憶ひとつ尋ねた。
「鍵は?」
いつもある金属の輪郭、今それが指先にふれない。
「俺、首から鍵を提げてたろ?病院で外されたんだろうけど、今どこにある?」
あの鍵は失くせない、なにがあっても。
それなのに今の今まで気づかなかった、ただ愕然に掌さしだされた。
「お預かりしていました、どうぞ?」
大きな掌のなか古い鍵ひとつ輝きあわい。
繋がれた革紐ちゃんとある、ほっと息吐いて受けとった。
「ありがとう、」
黒い革紐いつもどおり首から提げる。
シャツの底ひそやかに金属は冷たい、けれどすぐ温まる肌感覚に訊かれた。
「よほど大切な鍵なのですね?古い物のようですが、」
「うん、古いぶんだけ大事だよ?」
微笑んで応えながら胸もと金属の輪郭なぞる。
硬いくせ温かい、感覚ごと慕わしい記憶に想い尋ねた。
「さっき中森さん訊いたろ、なぜ裏切ったのかって。あれは俺が周太を裏切ってるってこと?」
なぜ?
その問いかけ自分でも知りたい。
そんな質問者は静かに微笑んだ。
「英二さんがそう感じたのなら、」
「俺が後ろめたがってるってことか、周太への気持ちに探りいれたんだ?」
訊き返し見つめて、その先で深い瞳が微笑む。
ただ静かに穏やかな眼ざしは落ちついた声で言った。
「英二さん、幸せにならなくてはいけませんよ?あなたも彼も、誰もがです、」
彼も、誰もが。
ならべられた言葉にあらためて気づく、この男は有能だ?
そうして調べられた身辺に可笑しくて笑った。
「中森さん、俺が誰と何あったのかも調べたんだろ?」
「今後を考えるには必要でしょう?」
応えてくれる声は穏やかに落ちつかす。
後ろめたい欠片すこしもない、その言葉に笑って訊いた。
「俺に見合いの話ってことか、政略結婚イマドキあるんだ?」
だから身辺調査したのだろう?
解かっている現実に家宰は微笑んだ。
「ございます、ですが先ほど申し上げた通りです。不幸な結婚に縛られるより、借り腹で健やかなお子様が恵まれるなら克憲様も喜ばれます、」
あらためて告げてくれる、その言葉は厳しく優しい。
これに自分はどう答えたら良い?考えながら報告書二通と微笑んだ。
「その話、輪倉さんが帰った後でいい?」
「英二さんのご気分次第でかまいませんよ、」
微笑んでダイニングの扉を開けてくれる。
開かれた廊下の窓ふる空が青い、早春の空に嬉しくて笑った。
「ヴァイゼと庭にでるよ。飯の間ずっと待ってたろ、ヴァイゼ?」
笑いかけた脚もと茶色の瞳が見あげてくれる。
はずんだ愛犬の眼ざしに家宰も肯いてくれた。
「上着をきちんと着てくださいね、まだ走るのもダメですよ?」
「走らないよ、なあヴァイゼ?」
応えながら黒い耳そっと撫でてやる。
つぶらな瞳細めて心地よげ、そんな愛犬のむこう家宰が言った。
「上着が嫌ならマフラーはしてください、それから、ひとつ聴かせて頂けますか?」
訊いてくれる声は穏やかに変わらない。
その眼ざし真直ぐ英二を見つめて、静かな微笑は言った。
「山は絶対に離れたくない仕事であり夢だと仰っていましたね、そのお気持ちは五十年後も変りませんか?」
なぜ、あらためて訊くのだろう?
すこし不思議で、それでも率直に笑った。
「変わらないよ、俺はずっと山に生きたい、」
ずっと、あの場所で生きていたい。
そのために過去の全て捨てたかった、けれど今ここにいる。
こうして戻ってきたことも自分で選んだ、そんな今を静かな瞳は肯いてくれた。
「わかりました、」
穏やかな静かな瞳は笑っている、この微笑は何を想う?
(to be continued)
【引用詩文:John Donne「HOLY SONNETS:DIVINE MEDITATIONS」】
【引用資料:Blaise Pascal『Pensees』/『世界の名著24パスカル』訳:前田陽一・由木康】
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