as thou art with sin 貌と罪
英二24歳3月
第84話 整音 act.12-side story「陽はまた昇る」
のどかになる、空と香のせいだろうか?
「きもちいいな、ヴァイゼ?」
寝ころんだ芝生に黒い耳ふれる。
寄りそうジャーマンシェパードは瞳ほそめて、尻尾ふっさり優雅になびく。
まだ風すこし冷たくて、けれど陽だまりの香あまく懐かしいのは記憶の花が咲いている。
あまい深い、すこし強い馥郁と緑あわい屋敷の庭、寝ころんだ空の青色に英二は微笑んだ。
「ヴァイゼ、標高4千メートルの空はもっと蒼かったよ、」
いま寝ころぶ視点はるかな世界、あの空が懐かしい。
あれは半年よりも前、それでも空あざやかな記憶に右手かざした。
「ブライトホルン、マッターホルン…アイガー、」
指を折り山を呼ぶ、その山に鼓動そっと軋む。
あの夜が無ければ違ったのだろうか?ひそやかな痛みに言葉が射す。
『そこまで想われるのに、なぜ彼を裏切ったのですか?』
その通りだ、なぜ「裏切った」のだろう?
「ごめん…周太、」
想い声こぼれて鼓動が軋む、心臓そっと絞められてゆく。
こんなに痛くて、それなのに選んでしまった夜が悶える。
―どんな理由でも俺は裏切ったんだ、結局は光一も傷つけて俺は、
アイガーの夜、あの一夜に自分が壊した。
『傍にいるだけ傷つける恋もあると知ってください。彼は傷ついていませんか?』
自分が壊した、そう知るから諌めてくれる。
言われて仕方ないと解かっている、だって後悔なんど噛みしめた?
それなのに俤ひとつ追いかける、迷ってしまう、自分は何を選べばいい?
どうしたら赦される?
「おんっ、」
声が呼ぶ、その響きに現実もどされる。
「来たのか、ヴァイゼ?」
いま寝ころぶ理由がやって来た。
そんな空気にジャーマンシェパードは一点を見つめる。
「おんっ、」
ひと声また鳴いて黒い首もたげる。
まだ立ちあがってはいない、それでも緊張かすめる愛犬に微笑んだ。
「大丈夫だよヴァイゼ、俺のこと確かめに来るだけだから、」
その先どうするんだろうな?
考え寝ころんだまま右手は愛犬を撫でて、そのむこう足音が止まった。
「宮田さん?何をしてるんですか、」
ほら、立ち止まった。
きっと驚いている、意表を突かれたろう?
そんな声と気配に笑って記憶どおりの声に呼んだ。
「こんにちは輪倉さん、よかったら隣どうぞ?」
この男は寝ころぶだろうか?
空仰いだまま笑った先、レザーソールの跫は来た。
「これはまた、見事なシェパードですね?」
話しかける声の賛嘆すこし途惑う。
それも無理ないだろう?微笑んで愛犬の首そっと撫でた。
「おいでヴァイゼ、」
「…くん、」
鼻ならし茶色の瞳じっと見つめる。
だいじょうぶ?そんな視線で黒い毛並ふっさり寄りそった。
「ずいぶん懐いている、宮田さんの犬ですか?」
「見ての通りです、」
笑いかけ答えた視界に初老の男ひとり入ってくる。
端正なダークスーツは仕立てが良い、高価な衣装の男に微笑んだ。
「こうして空を見ると気持ち良いですよ?山の空を想いだせます、」
この誘い、この男は頷くだろうか?
『どちらでもないかもしれませんよ?あなたに会うため来るのですから、』
あの言葉もし正鵠なら同じ行動を選ぶ。
そんな意図の隣、ダークスーツごろり寝ころんだ。
「ああ…これは良い、」
深呼吸ゆるやかに笑う、その声に貌もう解かる。
すこし近づいた距離に笑いかけた。
「空が高くていいでしょう?三千峰の空ほどではありませんけど、」
この単語すこし皮肉になる?
けれど白髪まじりの横顔は微笑んだ。
「でも山を想いだすよ…いいなあ、」
スーツの腕ゆっくり伸ばし手を開く。
天を掴む、そんな仕草の官僚は瞳細めた。
「山を登る自由も今の私はありません、だからなおさら渡部と、渡部のザイルパートナーを助けたいんです。ご協力いただけませんか?」
言葉の硲あわい風ゆるく前髪ゆらす。
額ふれる香かすかに甘い、遠く知っている香たどりながら発言者に笑った。
「やっと3年目の警官に、何の協力を求めるんですか?」
笑いかけながら香の記憶をたぐる。
底ほろ苦いような上品な甘さ、そんな馥郁の芝生にやわらかな瞳が笑った。
「この提案は宮田さんからでしょう?あの三分間で、」
あの三分間、
これはある意味で合言葉、それだけの意味がある。
まだ24時間も経たない言葉に笑いかけた。
「あの病院は寒かったですね、」
「雪の山麓ですからね。あの背の高い救助隊員、三分も廊下に出させて申し訳なかった、」
肯いて笑ってくれる言葉に昨夜から今朝を思い出す。
あの男たち今ごろきっと忙しい、気遣わしさ抱いたまま微笑んだ。
「山岳救助隊員はもっと厳しい雪山が日常ですよ?」
「そうでしたね、こことは別世界だ、」
空に瞳細める、その頬すこし窶れを描く。
それでも今日ここへ来た客人に微笑んだ。
「ずいぶん遠くへ来てしまった気がします、あの三分は昨夜なのに、」
ほんとうに遠くなってしまった、だって君がいない。
『だけど本当は英二と一緒ならここで死んでいいって想ったんだ、』
昨夜のあの言葉、どれだけ嬉しかったか、なんて君にも解からない。
もうあの言葉だけで満たされてしまった、そんな本音と仰ぐ空は青くて高くて、君から遠い。
「宮田さん、それとも鷲田さんとお呼びしたほうがいいですか?」
都会の地面で問いかけられる、こんな問答は君に聴かせられない。
だから遠くて良かった、哀しい安堵と微笑んだ。
「宮田と呼びたいのでありませんか、今の輪倉さんは?」
今この男が求めたいのは「宮田」の名だろう?
解かっているまま微笑んだ隣、半白の髪かきあげ男はうなずいた。
「そのとおりです、私は宮田次長検事の孫で司法試験首席合格者のあなたにお願いがあってきました、」
言葉に風ゆるやかに甘い、この香は懐かしい。
遠く優しかった時間の俤あまく香って、慕わしい尊敬の念ぶりかえす。
『いいかな英二、犯罪者と犯罪は別ものだよ?人と罪はイコールじゃない、人の尊厳には正解などないと私は想う、』
この言葉、あの声あの貌、どれくらいぶりだろう?
記憶の底ずっと眠らせていた想い、あの微笑に今もし逢えたなら。
「宮田さん、どうか渡部を不起訴にできないだろうか?エベレストに間に合わない、八千峰を志す宮田さんなら他人事ではないはずだ、」
空あおぐ芝生に訴えられる、この声あの微笑はどう聴くのだろう?
ただ雲ながれゆく青色の下、まっすぐ空を見つめて笑った。
「宮田の祖父と山ですか、俺の弱点よく調べましたね?」
この二つ並べれば説得できると思っている。
そんな相手に笑って英二は起きあがった。
「祖父に司法試験に山、人とプライドと夢と、三つおだてて利用するつもりですか?」
笑いかけた視界は見おろす、その真中で地面から官僚が見あげる。
高価なスーツ芝生ちりばめ寝ころんだ、そんな男は真直ぐ見あげて言った。
「そうです、渡部たちのエベレストを何しても叶えたいんだ、」
穏やかな声、けれど真直ぐ澱まない。
髪も半白に貫禄あるエリートの男、それなのに澄んだ瞳が笑った。
「山の自由を失くした私だから託したい、犯罪を犯してもエベレストを志す渡部だから私も賭けたいんだ、」
これは本心だろうか?そうだとしたら大馬鹿だ、けれど嫌いじゃない。
「ふっ、」
ほら笑ってしまう、だって嫌いじゃない。
こういう馬鹿こそ他人事に想えなくて、愉快で立ちあがった。
「茶の支度ができています、うちの家宰が淹れる紅茶はうまいですよ?」
笑いかけ右手さしだしてやる。
芝生の上スーツ姿も起きあがって、さしだした掌に官僚は微笑んだ。
「そんなに怪我だらけなのに、手を貸してくれるんですか?」
「手助けは本職です、どうぞ?」
笑って男の手を掴んで、右手一本ひきよせる。
反動きれいにスーツ姿は立ちあがって、穏やかな瞳ゆっくり瞬き笑った。
「腕力が強いですね、シュッとした印象なのに意外だな、」
「山の警官は筋力なしに務まりません、」
答えながら鼓動ふかく誇らしい。
こんな自分を祖父は見ているだろうか、そして何を想う?
笑うだろうか、叱られるだろうか?めぐらす記憶の貌に紅い三色菫がなつかしい。
(to be continued)
【引用詩文:John Donne「HOLY SONNETS:DIVINE MEDITATIONS」】
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