⇑う~ん、尻が弱い…(-_-;)
動画は2/14に出た大田区大会、クリーン&ジャークの最終試技です。
ウエイトリフティングデビュー戦、ありがたいことに3位を頂戴しましたが、残念ながら試合当日にスナッチ、ジャークとも自己ベスト更新を飾ることはできませんでした。
3か月でスナッチ+20Kg、ジャーク+15kg更新するぞ!!!
なんて目いっぱい頑張っては見たものの、自分としては、ちょっと背伸びが過ぎる目標設定だったのでしょうね。(^^;)
結果はスナッチ+15kg、ジャーク+10Kg。
どちらも大会直前にマークした記録どまり。
悔しいですが、楽しかったし、あそこで失敗したこともそれはそれでよかったと感じてます。
上手くいっていたら、試合への参加に関してはこれで一区切りつけてしまっていたかもしれません。
それでは今後得られる発見も目減りしていたことでしょう。
だから、失敗に終わってよかった。
お陰で、これからも積極的に、貪欲に学ぶことができます。
一先ず、次の試合へ向けて何を準備すればいいのか、具体的に不足している能力も判りましたので、あとは進むのみです。
いつになるかわかりませんが、また試合の興奮を味わえるのかと思うとなんとなく得した気分です。(*´з`)
ここでちょっと脱線させてください。
すごく当たり前のことなんですが、
何がしかの挑戦を始めて、勝つにしろ負けるにしろ、何がしかの結果が出るわけで、
その結果の受け止め方もそれぞれで、しかも自由です。
ただ、その結果をその先に活かせるか?は、その結果をはじき出した自分の受け止め方によって変わってくると思うんです。
なので、個人的に「結果の受け止め方」って大切だと思うんです。
たとえば、
良い結果だと当然受け入れやすいわけですが、望まなかった結果が出た時にはなかなか受け止めるのが難しくなるのが人情ですよね。
でも、受け止めにくい結果、飲み下しにくい現実、それを真っ向から受け止めると、結構その先の成長への「具体的なヒント」が見えてくるもので、そうした意味では「勝ち」よりも「負け」の方が成長への糧としての栄養価は高いと思うんです。
ここで一番避けたいのは「負け」の理由を都合よく捻じ曲げることです。
望まない結果を振り返って
あれは偶然の悪戯だ!とか、
あそこでこうしてたら勝ってた!とか、
審判がわるかった!とか…
「たられば」を言いだしたら切りがないですし、折角の経験が具体的な次への一手を打つ材料になりません。
例えば偶然のラッキーパンチだって、それを放つための何千何万という繰り返しの紡いだ結果ですし、
『あそこでこう…』できなかったことが問題なのであって、その理由と向き合わなきゃ何の解決にもなりゃしない。
ねじ曲がった解釈のまま進めば同じ間違いの繰り返しが待っています。
苦い事実は甘い勝利の果実を手にするための肥やしになりますが、肥やしにできるかは「今の自分」と向き合う図太さを持てるかどうかにかかってくると思います。
客観性の放棄は一番避けたいところです。
苦い事実も『苦いじゃん…(-"-)』って思いつつもガリガリ噛み砕いて飲み下すこと。
とはいえ、
『たら…れば…』
若いころの私にはそんな言葉が心に渦巻いてました。
でも、そんな思考が成長するための挑戦の脚を止めていたんだということを、今は知っています。
脚を踏み出せたのは大切な人達のお陰だったから、偉そうに語ることはできませんが、
たら…れば… という言い訳をしているうちに、夢見ている先の「自分」を手に入れるチャンスは刻々と指の隙間からこぼれる砂のように消えていってるっていう恐ろしい現実。
リアルな現状と向き合うと、そうはのんびりしていられないことに気が付くものです。
40を過ぎて思うのは、一生のうちで大きな挑戦ができる回数はそう多くはないな、ということです。
できる!そうなりたい!と望むものがあるなら、目指した結果に向けてガッツリ踏み込むのも大いに「あり」です。
小出しにしてたら、いいとこ小出しの勝利、だいたいは小出しの敗北に出会うばかりの日々だと思います。
大負けはしないけど、目指した大きな勝利には消して届かない。
私は、消え入る刹那に『あの時、本気を出していたら、きっとできていた…』なんて自分を慰めるのだけはまっぴら御免です。
ガツンと勝負して、『あの時』おもっきりぶつかった自分をホッコリ笑って最後と向かい合いたいなって、少なくとも私はそう思うんです。
いきなりどうした!?って思われそうですね(^^;)
ただなんとなく、です。
はい。
なんだかわかんない感じですが、とりあえず、そんなところで。
さ、次の試合に向けて尻っぺタ鍛えるぞ!!!!( ゜Д゜)/