あた子の柿畑日記

田舎での日々の生活と趣味のレザークラフトについて

石鎚村散策2 老之川から石鎚小中学校跡まで

2022-11-05 09:34:27 | 山登り・里山歩き
 諏訪神社を出て上流へ。3月に行った曽我部さんの家方面ではなく、割と広い林道を歩きました。最近補修されたらしいか所もあって、まだ使われている道のようでした。
 
 
 山側に残る苔むした石垣
 
 このように石垣を積み上げて上に行く道を作ったり、平地を作って家を建てたりしていたのでしょう。あまり崩れてなくしっかりした石垣でした。
 
 道端の花や草を眺めてはかわいいと写真を撮り、何の花かと訊ねたり、なかなか前へは進みません。
 
 もうすっかり覚えました。コアカソ、葉っぱが穴だらけです。
 
 
 花が咲いていました。 なんだかのれんみたいで面白いです。


 これこれ、
 前から疑問に思っていた植物です。 山でよく見る植物で、コアカソに似ているけどコアカソではない、何だろうかと思っていました。葉っぱだけできれいな植物なんです。

 ミズだと教えていただきました。

 それから私一人が大興奮。皆さんは、すでに知っている花でした。 いろいろな人のブログに登場して心に残っていた花、アケボノソウ。生まれて初めて実物を見ました。

 
 葉っぱだけは知っていたけど、実を見たのは初めて
 
 アカネ
 
 自分がどこにいるかさっぱりわからないけど、右へ行くと高瀑(たかたる)の滝へ行けるようです。けど、歩ける道はどこ?

 
 先生の話ではおいのかわ地区まで行って引き返すそうですけどー
 
 この橋の向こうがおいのかわ地区

 
 小枝や葉っぱが積もって腐葉土状態でした。 人が通った痕跡はありません。
 下を流れる川は
 
 
 かなり下のほうにありました。
 
 橋の名前はー
 
 あらら、こんな字でした。「老之川」
 どうしてこんな名前なのかな。なにかいわれがあるのでしょうか。この水を飲んだらいきなり年寄りになるとか、この橋を渡ったら老人になるとか、老人になったらこの橋を渡って向こうへ行かなければならないとか・・・・ 年寄りには不穏な想像をさせる名前です。

 でも。若い人は何も思わないらしく、私があれこれ想像するのを面白がって笑うだけでした。ねえ、本当にどうしてこんな地名なんでしょう。気になります。この老之川地区には数軒の民家があり、山で切った木を下の川に流して下流に運ぶ仕事に携わっていたそうです。今では下流にダムができて川を使う運搬はできなくなりました。

 
 散策はここまで。引き返します。植物にはあまり関心のないウマオやトラオはさっさと引き返し、予定時間をオーバーしているのが気になる先生も急ぎ足。私たち植物好きのおばさん(私はおばあさん)4人がのんびりと花を楽しみながら歩きました。すると、向こうから追いついてきた人が。
 
 この人こそ石鎚を天狗のように駆け下りてきた青年でした。物おじしないおばさまたちが声を掛けました。(石鎚登山成就社ルート 1 に登場します)
 
 高瀑へ行ってきたんですか
 はい
 今道は通れるんですか?
 きびしいですね。この間の台風でますますひどくなってました。
 遠いですか?
 わりと
 私たちも行けるかなあ
 登山に慣れた人がちゃんとした装備をつけて行かないと無理だと思います。
 
 高瀑の滝は昔は歩きやすい道だったそうですが、道が崩れて行きにくい場所になってしまいました。彼は行ってみたいという友人のために下見をしてきたんだそうです。腰には鉈とナイフ。道を切り開きながら行ったのだそうです。おばさまたちの質問攻めに、ついには撮ってきた動画まで見せてくれました。
 すごい。落差は今まで見た滝で一番大きいように思いました。若いときに行っておくべきでした。今となっては一生行けないと思います。多分テレビなどの取材クルーも入れないのではないでしょうか。動画を見せてもらってよかったです。幻の滝です。
 
 しばらく話してから彼は私たちの先を歩いて行ってしまいました。ところが、車を止めた場所で、彼はまた捕まっていました。気の毒に、私たちの足並みが揃わなかったから同じ話を二度する羽目になったのではないかと思います。
 
 車に乗り込んで帰る途中、旧石鎚小・中学校跡に立ち寄りました。前回、サルを見かけたので深追いしなかった場所です。
 
 草や苔で覆われていますが、校舎の土台だったと思われます。
 
 
 
 こんなに小さい教室だったんだぁ。大きな学校で学んだおばさまは感慨深げ。実はここに来るまでに保育所跡も訪ねて、こんな山深い場所にも幼児がいたのだという事実に心動か5されました。そして昭和50年代まではこの学校は存続していたのです。ばらばらと散らばる集落から遠い道のりを歩いてきたのかなあ。
 
 土台のそばに園芸店で売られている花が咲いていました。うちにもあったんだけど、なんだっけなあ?

 
 一方では野菊(正確な名前はわかりません)の群れ

 
 むかし、確かにここで学んだ子供たちがいた、それを象徴するかのような光景でした。 
 
 学校跡の向こう(サルが消えて行った場所)は河原でした。

 
 澄み切った水。 きれいな色でした。子供たちは壊れたこうもり傘の骨で魚を突いて取っていたそうです。 今の子供たちから見れば厳しく不便な生活だったでしょうが、山の学校で勤務したことのある私には、きっと楽しい暮らしだったのだろうなと思えました。純朴な数人の子供たちと、イモリを飼育して生まれた卵からえらのある幼生を育てたり、ドングリ団子を作ったり・・・教科書の勉強だけではない勉強をいっぱいしましたもの。

 
 孫たちは早速生き物探しをはじめました。カワゲラの仲間がいたみたいです。そして石投げー水面をだんだん飛ばしに滑ベラせていくあの遊びです。得意なおばさまに教えてもらって何度も挑戦しましたがうまくいかず・・・帰る時刻になってもまだやりたそうでした。
 
 
 だれかが語り部にならなければ・・・・案内してくれた小澤先生の言葉です。
 
 魚も下流に黒瀬ダムができたことで遡上しなくなり、村人の楽しみもなくなりました。 そして林業の衰退や車社会の発達とともに村を離れていったのです。黒瀬ダムは今も下流の地域の農業や工業に利用され、多くの人が恩恵を受けています。
 
 わたしは10月、3回もこの道を走りました。途中、今は営業してない数軒の旅館の建物が残っています。ロープウエイができるまで石鎚山は日帰りでは登れない山でした。信仰のために山に登る人のための旅館がいくつもあったそうです。しかしロープウエイの完成とともにそうした宿はなくなりました。
 
 ロープウエイとダムと。われわれの便利な暮らしと引き換えに故郷を離れた人々がいたことを忘れてはならないと思いました。時代の流れとしてしかたがなかったことではあるでしょうが、はるか昔からこのような暮らしをしていた人がいたからこそ途切れることなく続いてきた石鎚登山の歴史があります。ご先祖様とは、血のつながった人だけではなく今の暮らしにつながるすべての人々なのだとしみじみと思いました。
 
 もう一つ
 
 
 
 
 たしか新聞でも報道されたことがあります。戦争に翻弄された一人の女性の過酷な人生を伝える看板です。特攻兵の第1号は西条市の方だったと。戦時中は戦意高揚のために軍神とあがめられ、終戦後は戦争加担者として迫害されたということはその新聞記事で初めて知りました。その女性が亡くなったのがこの場所であったとは。こうして実際の場所を訪ねると、その事実の重さに言葉を失います。
 
 こうして廃村を訪れた者の一人として、私も何か伝えるべきではないかと考えながら書きました。最後まで読んでくださってありがとうございました。 
コメント (8)
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