霜田静志先生のことを前々回書きました。(「育児法について」)
今日、読書ノートを見ていたら、1996年11月12日10時37分38秒に印刷したデータベースの資料が、A4バインダーに挟んであったのです。まさに国分康孝先生が霜田静志先生のことを書いてある部分を抜書きしていました。(「教師の教師」国分康孝著)よほど印象が深かったのでしょう。両方の先生とも心理学や哲学、カウンセリングなどの大学教授ですから、わたくしごとき人間がお付き合いいただけるような方ではありません。
「人をあてにせず、自力で生きる姿が霜田にはあった」
こんな思い出を国分先生は書いています。
「この道や、行く人ともなし 秋の暮れ」
霜田先生が語られた心境だそうです。「僕は、昔からこんな気持ちで生きてきたんだ」とも。
また、別の章では、「フロイドでもニイルでもなんのバックもなかった」と言われたそうです。
つまり、門閥・学閥にとらわれることなく、その影響も受けずに、自分が動かなければ人生が動かないという境遇に立つということは、最高に生命力を燃焼させることになるから、かえってよかったと仰る。これもまたしびれるような発言です。
自分の生き方・生活をバックボーンにしていないと、自分の思想・哲学を育てることはできません。世話になった方に教えていただくことはできますが、それだけでは自立していけない。その意味では確かに人間には限界があるのかもしれませんが。
自戒の意味を込めて言っているのですが、「***は~~~と言っている」「AAAAはBBBBと言っている」という引用・紹介オンリーの思考形式をとっていると、それだけで終わってしまいます。元になる原典があって、それをただ引用・紹介するだけなら、誰にでもできると思います。ましてやインターネットのこれだけ発達した世界では引用・紹介型では高が知れている。要は自分がどう考えたかであります。この点で、最近の大学生の特に国語関係の卒論は情けないと思っている一人でありますが。
バックがなかったということは、わたくしも同様なものでした。求めても相手にされずというところから、スタートしたわけです。あまり詳しくは書けませんが、そういうことです。だからこそ、ここに書いた先生方の生き方に共感したのかもしれません。国分先生は、最後は筑波大学の教授でお辞めになりましたが、ニイルの研究をすることによって、随分な回り道を強いられました。干されたことも幾たびかあったそうです。
覇気を持って生きるということをわたくしはこの両先生から学びました。誰もやっていない分野への切り込み隊長の気概です。フロイドも、ニイルもそれまでの学会に敢然と挑戦していったわけですから、いわゆるなぁなぁ主義ではありません。徹底して勉強されたのだろうと思います。それでなくては、あれだけの実績を残すことは不可能です。過去に縛られなかった方々なのかもしれません。
過去に縛られるというと、ああすればよかった、あの時あれさえなければ、こうしておけばと反省することです。わたくしも含めて、誰しもそうかもしれません。ついつい過去に目が行き、愚痴を言ってしまいがちです。
されど、縛られるのならばそれは過去ではなく、「今」です。過去の過ちを考えているより、今、たったこの瞬間に間違ったことをしていないかどうかを考えるべきであると思います。このあたりのことは、「言志四録」の「昨非と今過」にあります。つまり、過去を後悔するひとはあるが、現在していることの非を改めるひとは少ない、と。
「今」を志向しているのなら、バックがどうのこうのという発想はあり得ませんから。
在校生諸君!
過去に縛られることなく、今この瞬間から、自分の実力をつけるために、覇気ある行動で勉強しましょう。
がんばってください。
今日、読書ノートを見ていたら、1996年11月12日10時37分38秒に印刷したデータベースの資料が、A4バインダーに挟んであったのです。まさに国分康孝先生が霜田静志先生のことを書いてある部分を抜書きしていました。(「教師の教師」国分康孝著)よほど印象が深かったのでしょう。両方の先生とも心理学や哲学、カウンセリングなどの大学教授ですから、わたくしごとき人間がお付き合いいただけるような方ではありません。
「人をあてにせず、自力で生きる姿が霜田にはあった」
こんな思い出を国分先生は書いています。
「この道や、行く人ともなし 秋の暮れ」
霜田先生が語られた心境だそうです。「僕は、昔からこんな気持ちで生きてきたんだ」とも。
また、別の章では、「フロイドでもニイルでもなんのバックもなかった」と言われたそうです。
つまり、門閥・学閥にとらわれることなく、その影響も受けずに、自分が動かなければ人生が動かないという境遇に立つということは、最高に生命力を燃焼させることになるから、かえってよかったと仰る。これもまたしびれるような発言です。
自分の生き方・生活をバックボーンにしていないと、自分の思想・哲学を育てることはできません。世話になった方に教えていただくことはできますが、それだけでは自立していけない。その意味では確かに人間には限界があるのかもしれませんが。
自戒の意味を込めて言っているのですが、「***は~~~と言っている」「AAAAはBBBBと言っている」という引用・紹介オンリーの思考形式をとっていると、それだけで終わってしまいます。元になる原典があって、それをただ引用・紹介するだけなら、誰にでもできると思います。ましてやインターネットのこれだけ発達した世界では引用・紹介型では高が知れている。要は自分がどう考えたかであります。この点で、最近の大学生の特に国語関係の卒論は情けないと思っている一人でありますが。
バックがなかったということは、わたくしも同様なものでした。求めても相手にされずというところから、スタートしたわけです。あまり詳しくは書けませんが、そういうことです。だからこそ、ここに書いた先生方の生き方に共感したのかもしれません。国分先生は、最後は筑波大学の教授でお辞めになりましたが、ニイルの研究をすることによって、随分な回り道を強いられました。干されたことも幾たびかあったそうです。
覇気を持って生きるということをわたくしはこの両先生から学びました。誰もやっていない分野への切り込み隊長の気概です。フロイドも、ニイルもそれまでの学会に敢然と挑戦していったわけですから、いわゆるなぁなぁ主義ではありません。徹底して勉強されたのだろうと思います。それでなくては、あれだけの実績を残すことは不可能です。過去に縛られなかった方々なのかもしれません。
過去に縛られるというと、ああすればよかった、あの時あれさえなければ、こうしておけばと反省することです。わたくしも含めて、誰しもそうかもしれません。ついつい過去に目が行き、愚痴を言ってしまいがちです。
されど、縛られるのならばそれは過去ではなく、「今」です。過去の過ちを考えているより、今、たったこの瞬間に間違ったことをしていないかどうかを考えるべきであると思います。このあたりのことは、「言志四録」の「昨非と今過」にあります。つまり、過去を後悔するひとはあるが、現在していることの非を改めるひとは少ない、と。
「今」を志向しているのなら、バックがどうのこうのという発想はあり得ませんから。
在校生諸君!
過去に縛られることなく、今この瞬間から、自分の実力をつけるために、覇気ある行動で勉強しましょう。
がんばってください。