ボチボチとボキの墓地を捜していたら、なんと桜の樹の下に候補地があったのだ。嬉しかったねぇ。まだまだ死にたくねぇけど。
宝生流謡曲 西行桜というのがある。あらすじは、以下のとおりである。
京都、西行の庵室。春になると、美しい桜が咲き、多くの人々が花見に訪れる。しかし今年、西行は思うところがあって、花見を禁止した。 一人で桜を愛でていると、例年通り多くの人々がやってきた。桜を愛でていた西行は、遥々やってきた人を追い返す訳にもいかず、招き入れた。西行は、「美しさゆえに人をひきつけるのが桜の罪なところだ」という歌を詠み、夜すがら桜を眺めようと、木陰に休らう。その夢に老桜の精が現れ、「桜の咎とはなんだ」と聞く。「桜はただ咲くだけのもので、咎などあるわけがない。」と言い、「煩わしいと思うのも人の心だ」と西行を諭す。老桜の精は、桜の名所を西行に教え、舞を舞う。そうこうしているうちに、西行の夢が覚め、老桜の精もきえ、ただ老木の桜がひっそりと息づいているのだった。
社団法人日本能楽協会による
山家集で有名な西行である。
山家集というと、ボキは実に苦い思い出があるのだ。一番最初に在学した大学学部時代に二年連続で山家集の単位を落としてしまったのである。マジに苦い思い出であった。歌人の教授で、大学の大先輩であったからなおのこと情けなかったのだ。
もっとも、ボキは学部時代に苦学していたから、和歌を学ぶ必然性を感じていなかったのだ。和歌なんか、このオレの苦境になんの役に立つことがあろうかと思っていた。ひたすらドストエフスキーとか読んでいた。暗かった。現実にうちひしがれていた。絶望しかなかった。だから、和歌のように気楽に生きていられる高貴な身分の方々が許せなかったのである。
しかし、今はそんな程度の理解しかナカッタ自分を恥じている。白洲正子女史の著書でも西行を扱っていたが、西行もまた暗い時代を背負って生きていたのだ。時代の変遷に流されていたのである。ダンダンとわかってきたのであるが、そんなことは。まだ18歳くらいの少年には無理だった。理解しようとしても、受け入れるだけの許容量がなかった。その日暮らしで、精一杯であったのだ。
西行は、こんなくだらないブログで一気に書ける程度の人物ではナイ。ましてや、ボキごとき超劣等生が書いてはいけない。でも、感想なら書けるのだ。そんな程度である。
結局、西行は僧侶という範疇に属していなかったとボキは思っている。
欲望を捨てようとしたのでもない。人格高邁で、ボキのような一般大衆を救済しようとされたのでもない。ひたすらもの狂いに生きたのではないのかと思う。数寄者としての一生涯ではなかったのか。
桜を追い彷徨した姿は、まさに人生の実相を物語る。欲望を捨てようとしたのではなく、むしろ大欲を持っておられたのである。大欲というのは美の追究であり、歌道の完成であったのであろう。
ちなみに和歌の修辞法というのは実に難しい。大学受験で、塾の生徒に教えることがある。非常に苦心している。教える方が困難なのである。申し訳ないと思いつつ、毎日ボキも勉強している。昨日も、塾で和歌の修辞法の参考書を持参していってチラチラ見ていたのだが。
否、今日はそんなことを書くつもりで打鍵しているのではない。
冒頭に書いたように、とうとうボキが入りたい墓地を見つけたからである。
なんと「桜の樹の下」にあったのだ。その墓地が。数本あるのだ。桜が。
一度で気に入った。
これで愚かなボキは、西行の真似をして死ねるのだよん。バカですなぁ。どこまで数寄者であることか。と言っても、偽モンだけど(^_^)。
今日は天気がいい。さすがに九十九里浜である。あったかい。風はちと強いが。
床屋でも行くか。明日、県立の文化会館でイベントがあるので。ボキ、そのイベントに出席しなくてはならない。審査員をやってきたから。久しぶりにスーツも着る。似合うだろうなぁ。まだ桜は咲いていないけど。あ、それだと死ななくちゃならないから、しぶとく生きているつもりじゃが。
わははっっははっっははっはははは。