「男性の中の女性像。(アニマ Anima)」「女性の中の男性像。(アニムス Animus)」
ユングのいうところの「アニマ・アニムス」の考え方は、なかなか参考になる。つまり、お地蔵様と不動明王の関係を考えるときに、実に納得したからである。もっとも、ボキだけかもしれないのだが。こんなことを思っているのは。一昨日あたりから、そう思い始めただけであるし。まだまだ最近のことであるから。
現代の日本女性は、まさに男女関係をおおいに見直している最中である。アニムスの発達に心ひかれているからだ。そして、それを成し遂げつつある。男性もそういう時代になったのなら、アニマの発達に興味関心を持ち始めていると思う。いわゆるジェンダー論というのは、そういう背景もあるのだろうと愚かなボキは感じているのだが。
心理学「も」素人なので、知ったかぶりはしない。あくまでお地蔵様と不動明王である。こっち「も」素人であるけど。
つまり、母性的な概念としてお地蔵様、男性的な概念として不動明王という位置づけで考えているのじゃ。包み込むような柔軟なやさしいお顔のお地蔵様もいるからである。逆に不動明王は恐ろしい、男性的な力感溢れる表情をしておられる。クチをキクのもはばかられるような感じになっちまう。
女性というのは、包み込むという感じが一番あたっているような気がする。ドストエフスキーの「罪と罰」に登場してくる酔漢マルメラードフが、あるいは主人公ラスコリーニコフが、娼婦ソーニャに見いだした安心感というようなものが、包み込むという感覚に近いのではないのか。ドストエフスキーのこの作品を、「男性の中の女性像。(アニマ Anima)」「女性の中の男性像。(アニムス Animus)」という観点から読んだらおかしいのかもしれない。しかし、ボキは実際十代後半にドストエフスキーにムチュウになっていたときにそう思ったのである。新聞販売店の狭い二段ベットで読んでいたから、なおさら貧乏なラスコリーニコフがまるで自分のことのように迫ってきたっけ。酔漢マルメラードフもまた同じであった。絶望と苦しみ。貧乏が追いかけてくる苦学生時代に、まったく身にしみたドストエフスキーである。娼婦のソーニャは、苦しい生活を送っていたボキにはまさに包み込んでくれるような存在であったのだ。お地蔵様であったのだ。少なくとも、かの恐ろしい不動明王ではなかったのだ。
そして、一昨日、この「アニマ・アニムス」の観点から仏教を考えていたのが明恵であるとはたと思ったのである。
明恵は、有名な禅僧である。樹木の上で座禅を組んでおられる絵図が有名である。明恵上人像(樹上座禅像)・高山寺蔵というのを見ながら打鍵しているのだが、実はボキこの高僧が嫌いだった。樹木の上で座禅をしているなんて、あまりにも見え透いたウソだと思っていたからある。虚構がまかり通っていると思っていた。
しかし、史料は別の面を物語る。夢を語り、それを記録していたからである。「夢記」である。こういう高僧もなかなかおられないだろう。恋愛もされたらしい。おっと、これを書くと寺院の方々に叱られてしまうからこれくらいにするが。
ともかく、こういう観点からお地蔵様と不動明王を考えていくのも楽しいことである。
もっともアレか。
不動明王様が恋慕していたというのは、考えにくいが。あの顔だしねぇ。もっともボキも人のこたぁ言えねぇけど。
わははっははははっはははは。
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