あっと思った。落語の桂歌丸師匠も、相撲の稀勢の里関も「二人とも壮絶なる不動明王なのだ」ということに気がついたのじゃ。
いやぁ~~~~壮絶だった。
昨日の成田国際文化会館で行われた桂歌丸師匠の落語である。演目は「ねずみ」であった。この「ねずみ」は、何回も聞いている落語である。飽きないのだ。人情味ある話でもある。さらに舞台が仙台である。左甚五郎が登場してくる。話の冒頭で、かわいい男の子が登場してきて、旅館の客引きをしている。よくよく話を聞いてみると、父親と一緒に暮らしている。旅館を経営していたが、番頭と後添えに貰った嫁さんに騙されて困っている暮らしから始まる。それを左甚五郎が、ねずみを彫って父一人子一人の旅館に寄贈するのである。そこからが愉快な話である。繁盛してしまうのである。怒ったのが、騙した方の番頭と後添えの女房ドノである。そして・・・オチは打鍵しない。マナーだから(^_^)。
去年、秋田県の東栗駒山荘に行ったときに、東北高速道路を運転していたのだ。途中で何度も歌丸師匠の落語を聞いていたのである。CDからである。特に、「ねずみ」は東北高速道路で大好きになってしまった。
だから筋書きは暗記していたのである。
しかし、直接聞くとまったく違う。なぜか。歌丸師匠の人柄からか。そうかもしれない。まさに、師匠の人柄が豊かなイメージを抱かせるものであろう。もっと感じたのは、師匠が鼻チューブをして出てきたからである。呼吸が困難になっているのは知っていた。病気で。しかしである。そうまでして登壇してくるその心構えに感動した。
いろいろな事情があるのかもしれない。引退できないということもあるんだろう。師匠でもって喰っている方もおられるだろうから。
ボキは、そういう師匠の姿を拝見していて、まさに生涯現役であると思ったのだ。生涯学習ごっこどころではない。それでもって喰っているのである。自分ばかりではない。多くの弟子達もである。あるいは、落語芸術協会の組織も支えておられる。
たいしたもんである。ボキなんかより、はるかに先輩であるにもかかわらずである。80歳である。ボキなんか小僧っ子である。憎たらしい洟垂れ小僧である。
わはははっははははっははははは。
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さらに壮絶だったと思ったのが、相撲の稀勢の里である。
昨日の優勝決定戦である。
ボキは、相撲が大好きなのである。しかも、稀勢の里が好きなのだ。何度も何度も横綱にチャレンジして、その都度跳ね返されてきたのだ。歯がゆかったが、とうとう横綱になった。嬉しかった。
ボキの長男よりも若い。息子みたいなもんである。それでもボキは、稀勢の里に学ぶ点が多い。それは諦めないという視点である。
欲望肯定、現実肯定の姿勢である。さらにある。
昨日の稀勢の里に、不動明王を見たような気がしたのである。さすがに不動明王の成田山新勝寺がある成田市である。ご縁があるんじゃよん(^_^)。
絶体的なこだわりへの姿勢。勝負事というのは、そういうもんではなかろうか。生きるも一時、死ぬも一時。瞬間瞬間の積み重ねが一生である。
落語の帰りに何度も愛車を止めて、コンビニの駐車場でNHKの相撲中継を見ていた。古女房ドノ共々。彼女も稀勢の里ファンであるから。
で、今日になってはたと気がついたことがある。落語の桂歌丸師匠も、相撲の稀勢の里関も「二人とも壮絶なる不動明王なのだ」ということにである。
実にいい体験をさせてもらったよん。
ありがたいものである。
感謝!