小聖は山にこもり、大聖は街中に潜むということをしみじみ思ってしまったよ。感謝である。感謝。
町内の役員(評議員)をさせていただいているのだが、組長と一緒にいろいろとやってきた。特に今年度は町内で亡くなる人がいて、3人の方が亡くなった。そして、この3月の6日にもうお一人亡くなった。4人目である。ご多分にもれず、高齢者が多い町内である。ボキの町内も。
もっとも、町内の役員と言ってもボキは町内の事情に疎い。疎いから、あまり役に立っているとは言いがたい。かえってご迷惑をおかけしているという実感の方がまさっているけど。
神社の世話とか、祭の準備とかそういう仕事ならできた。できたから、やってきた。あまりアタマを使わなくてもいい仕事限定ならである。朝早く起きて、神社まで行って(徒歩)、祭りに来られる方に火をおこして暖を取ってもらうとかの準備程度である。そんな程度である。
しかし、昨日はびっくりした。ある方が亡くなったのであるが、そういう方が町内に住んでおられることを知らなかったのである。役員失格ですな。まったく。
そのお方は、某県立高校の先生であったのだそうな。それも知らなかった。数学の先生で、退職されてから千葉大学大学院、東大大学院と学ばれたという。しかし、九十九里浜からどうやって通学されたのであろうか。そう思った。タブン、東大から近いところに単身で住んでおられたのであろう。だったらできる。
この先生は、ボキよりもずいぶん年長である。そんなことをやっておられたということについては、まったく知らなかった。大聖は、人知れずボキの町内にも住んでおられたのである。
その先生のFacebookもTwitterも残っていたから、さっそく調べてみた。生涯学習の泰斗である。大学学部は、東大とは縁もゆかりもなかったが、それだけの意欲をお持ちであったということをボキは学ばなければならない。
基本的には学歴ロンダリングというのは、ボキは否定的である。理由は書かない。そういう方々がたくさんおられるのは、愚かなボキでも知っているからである。それにしても凄いことである。生前、直接お会いしてご指導をいただければよかったと思っている。もう遅いけど。
だからエラそうにふんぞり返っていてはならないのである。
どんな方が近所に住んでいるかわからないからである。オノレ一人がエライのではない。
小聖は山にこもり、大聖は街中に潜む・・・これである、これ。オノレ一人の悟りを求める小聖は山にこもり、黙々と修行をかさねる。自らが悟ることで世界に貢献する。我を捨て世の中の人々の幸せを求める大聖は、街中で目立たず人知れずに人々の幸せに貢献する。本物も偽物もない。ごくごく普通の生活の中で光を投げかける。それも自然に。徳ある人は、謙虚である。舞い上がっていない。舞い上がった発言もなされない。
うううううううううむ。
ボキはどっちもできそうもない。
せいぜい、プチ修行とかデタラメを言って、書籍を読んで一人悦に入っているしかない。そもそもがマルデダメオですからなぁ。
中村元先生の仏教書をこのところ読んでいるが、そういうあまり役にも立たないことをやっていくしかない。大聖も小聖もボキにはご縁が無さそうだから。
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