身につまされるなぁ・・・・・老人の生き方に
「最後の一葉」という小説がある。オーヘンリーの作品である。かなり有名である。しかも、幼児の時からなじんでいるのが日本人である。学校の授業でもやっていただいたことがあった。懐かしい話である。
日野原重明先生も、劇でこれをやった。日野原先生がやったということに意味がある。なんでだろうかと思っていたが。最近もしかしたら、日野原先生、我々に教えをくださったのではないのかと思い始めたけど。なにしろ100歳を超えていらっしゃる。我々、自堕落な庶民はこうした優れた方々から教訓を得るべきである。そう思っているから。
実は、NHKのラジオ講座で英会話を勉強している。これで今週は「最後の一葉」をやっている。だから打鍵し始めたのである。懐かしかったからである。
二人の女流画家が主人公である。一人は病気になって死にかけている。最後の一葉が散ったら、私は死んでしまうと思い込んでいる。しかし、ボキは最後の一葉を作ったGermanyなまりの老画家の方に興味がわいた。60歳ちょっとだそうだ。画家としては挫折した人だ。この一点に興味がわいた。
ドイツなまりの老人。挫折した老人。老人といってもまだ60歳ちょっとだけど。
なんでか。
ボキもまた挫折した老人だからである。挫折の繰り返しであったし。なんにもモノにならなかったただのジジイである。そして、決定的な失敗がある。健康を損ねてしまったことである。今思っても笑ってしまう。博士になりたくて、論文を書き損ねて失敗してしまったのである。一日10数時間も論文を書いていてとうとうエコノミークラス症候群になってしまったのじゃ。こんなんじゃぁ、そもそも博士を目指す方が狂っている。能力の前に、耐久力がない。だから、きれいさっぱり退学した。あ、能力もねぇけど(^_^)。
ともかく、この作品はいろんなことを教えてくれる。
最後の一葉は、この老人そのものであったとボキは思ったし。まるで神の生まれ変わりのようでもある。死から生へと観点の振り替わりをしてしまった女流画家の観点の変更である。
思い込みは、死まで招く。失敗も招く。逆に生きる力にもなる。それほど、心の中で決定したことは人を左右する。
結局、ボキはそう思ったのである。この作品を読んできて。そして、年齢を重ねてくると読む視点が変わってくる。幼い時は、残された葉っぱがかわいそうだった。さらに、なんで死にかけた女流画家が立ち直ったのかということもに関心があった。
しかし、今は老人の方である。それは、ボキ自身が同じ立場に立ったからでもある。
身につまされるということである。
ヾ(@⌒―⌒@)ノ