忘れちゃいかん座右の銘・・・ボキの行動を左右しているものがこいつである
GESTALT GEBET
ゲシュタルトの祈り
Ich lebe mein Leben und du lebst dein Leben.
私は私のために生きる。あなたはあなたのために生きる。
Ich bin nicht auf dieser Welt, um deinen Erwartungen zu entsprechen -
私は何もあなたの期待に応えるために、この世に生きているわけじゃない。
und du bist nicht auf dieser Welt, um meinen Erwartungen zu entsprechen.
そして、あなたも私の期待に応えるために、この世にいるわけじゃない。
ICH BIN ich und DU BIST du -
私は私。あなたはあなた。
und wenn wir uns zufallig treffen und finden, dann ist das schön,
でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なことだ。
wenn nicht, dann ist auch das gut so.
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。
Frederick Perls
フレデリック・パールズ
このゲシュタルトの祈りはボキの座右の銘である。現役時代に、人間関係でいろいろあった時に、この座右の銘を唱えていた。気が楽になったもんじゃ。あまりも他人の視線を気にしすぎていたときである。息苦しくなったときには、このゲシュタルトの祈りが一番きく。
国分康孝先生の書籍で教わってから、ずっとボキはこのゲシュタルトの祈りのように生きてきた。それが、安楽だったからかもしれない。確かに、他人の視線を気にして生きているよりは、ラクだった。
最近、長女に教わったアンガーマネジメントも心理学という点では、このゲシュタルトの祈りと同様だろうと思う。要するに他人は他人、ボキはボキということである。ご縁は大切にしつつである。なにも関係性まで切ってしまうというのではない。
あくまでも生きているのは、自分自身である。他人に生きてもらうのではない。
その代わり、死ぬのも自分自身で死んでいかなくてはならない。誰かに代わってもらうわけにもいかない。ある日突然、ボキの代わりに死んでもらえますか?と聞いたら、そりゃ殴られるではないか。
そんな人はいない。イエス様くらいであろう。コルベ神父もそうか。
身代わりということである。崇高なる信仰がなければ、できるわけもない。
ボキのように万教帰一とかふざけたことを言っているようでは、話にならないではないか。聖書も、お経も、ヒンズー教も、コーランも全部興味関心があるってぇ案配じゃ、熱心な信徒に叱られてしまう。しかもただの趣味でやっているだけである。低レベルの。
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昨日、gymにいたときにボキのスマホに電話がかかってきた。
知人であった。二回ほどかかってきたので、こちらからかけてみた。
そしたら、日本語教育についてのボランティアをやってくれないかという長い長い依頼であった。快諾した。以前からやってみたかったからである。
中国語を教えてもらうようになってから、外国人がどうやって日本語をマスターしたのかということに興味関心が深くなったからである。
なぜ、なかなか話せないのかということにも興味関心がある。これは国語教育でメシを食ってきた我が身としては、死ぬまでにどうしても知っておきたいことのひとつである。
さらにある。なぜ、ボキは英語も中国語も話せないのか、できないのかという問題とも密接につながっている。
え?
そりゃぁ、能力がねぇからだろうって?
わははははっははははっはははっはは。
当たってますなぁ~~~~~~。
ゲシュタルトの祈りではないが、アンタはアンタ。
ボキはボキだから。
マジに。
ヾ(@⌒―⌒@)ノ