徘徊から22:50帰還してきたのだけれども(^_^)
春は桜の季節。
こころ穏やかではナイ。従って、ふらふらと出かけてしまう。きれいな花を追いかけて。
と、思ったらまだまだお江戸も咲いていない。マンカイに近かったが、マンカイではナイ。
仕方がないから美術館でも行ってみようかとなって絵を見ていた。西洋のをだ。行ったところはお江戸からさらに先。行き先はナイショ。記事には書かない。写真もアップしない。あくまでプチ修行だからだ。
なにを考えていたかというと、西洋画もまた山口瑞鳳先生の言われるとおりだということである。あくまでも、対象否定はない。実体否定もない。あまりにも分析的であり、二元論的である。
キリスト教的な文化背景の絵画は、おどろおどろしいくらいである。
あまりにも残酷な死が迫ってくる。そういう絵画を朝から晩まで見せられたら、こっちは狂ってしまうではないか。
イエスの死を扱った絵画も残酷そのものである。生と死。そこから愛を連想するって・・・・ボキには無理だ。
所詮、なにをやっても劣等生である。救いようのない絵画を見ていても時間の無駄である。そんなんだったら、桜の花に埋もれてふんわりしていた方がいい。
我慢して対象否定、実体否定もしないでいたって無理である。そもそも言語なんて、絶体なのではないのだし。わかったような顔をしていてもつまんねぇとマジに思っているから。
わははっはははっははっはははっは。
東洋人でありまするなぁ~~~ボキは。
西洋の文化がわからないんですがな。
というより、教養がないんですな。
そういうことである。
さ、西行でも読んで口直しといくか。
願わくは
花のもとにて
春死なむ
その如月の望月の頃
この和歌は西行辞世の歌とされているようだけど、そんなことはないとボキは思っている。ただただ風狂の人であった西行である。
ボキも相当な数寄者である。風のまにまに、狂った生き方をしちょるようである。所詮そんな程度の人間である。バカらしい。バカそのものである。
慚愧のまま生きていくしかないようである。
(_ _ )/ハンセイ
おやすみなさいませ。