恋い焦がれる女性と一緒のような本に出くわしてしまったよ
今日、県立図書館で読んでいた山口瑞鳳先生の書籍には(*_*) マイッタ。「評説 インド仏教哲学史」なる本である。著者は元東大教授にして、インド哲学者である。
非常に感銘を受けた。黄色のメモでもって、内容をメモしていたのだが、今まで読んだこともないようなことが書かれていた。
言葉の持っている実体認識のあやふやさを思い切り知らされたからである。そもそも、ボキ達は言語でもって対象を認識する。モノも概念もである。文学なんてぇもんは、まさに言語でもって対象を認識するものである。だから、文学の存在そのものが山口瑞鳳師にかかると、否定的になってしまう。
本書の特徴は、「仏陀親説の三つの時間観」という基準でインド仏教哲学の真偽を識別したことである。本書の四ヶ所で説明された「三つの時間観」を整理すると、次のようになる。
(1) 「知覚の原因としての外界」に関わる「先験的時間」 ⇔ 「勝義性」
(2) 「縁起生する知覚された結果の表象」に関わる「経験的時間」 ⇔ 「虚構性」
(3) 「表象から抽出された記憶」に関わる「観念的無時間」 ⇔ 「没時性」
本書の結論は、帯に示された「悟り」などというものはないという実体思想の否定である。
あるいは、以下のように言い換えることも可能であろう。つまり、仏陀以来の正統仏教では、「3つの時間」が意識されていた。
・知覚の原因としての外界
・知覚された結果の表象
・表象から抽象されて記憶されている観念
しかし、世間は、知覚表象が外界を補足しているとみなし、それらを表象から抽象した没時的形態観念とその「名」に照合して、外界を実体と認識し、そればかりか、外界を写すとされた言語表現に埋没して、実体「生・滅」の論理を現実と混同するため、「我執」に苦しむ。と山口瑞鳳師は分析された。
このことに驚いたのである。なかなか難しくて、メモもかなりの枚数になってしまった。しかし、こいつは驚いてしまった。このような仏教哲学書を初めて知ったからである。
チベット仏教が基本にあって、それからかなりレベルの高い記述がなされている。しかも、宗門系大学関係から出ている書籍には見られないような観点の違いがある。
もっと言えば、「寂護」のことを取り上げているのである。この観点からの分析は、山口瑞鳳師によると仏教哲学学会でも取り上げられていないのだそうな。面白いと思ったのはそういうことである。
この「名色」由来の言語表現が「没時間的恒常を本質にしているため、我々の心に実体への執着をもたらしている」と教えてくださっているということである。そして、それに気がついていたのが、かの空海であったとされている。ま、この点ははっきりと言い切ってはおられないけど。
この本、欲しい。
Amazonの中古本でも6000円くらいする。無理かなぁ。西洋哲学との比較も書かれているし。
ま、明日一日考えてみましょ。
恋い焦がれる女性と一緒ですな。
憧れるけど、遠い存在ってぇやつであるから(^_^)。
(-_-)zzz もう寝ます