と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

山口瑞鳳先生の書籍には(*_*) マイッタ

2017年04月02日 21時51分54秒 | とーま君の流儀2017

恋い焦がれる女性と一緒のような本に出くわしてしまったよ

 

 

今日、県立図書館で読んでいた山口瑞鳳先生の書籍には(*_*) マイッタ。「評説 インド仏教哲学史」なる本である。著者は元東大教授にして、インド哲学者である。

非常に感銘を受けた。黄色のメモでもって、内容をメモしていたのだが、今まで読んだこともないようなことが書かれていた。

言葉の持っている実体認識のあやふやさを思い切り知らされたからである。そもそも、ボキ達は言語でもって対象を認識する。モノも概念もである。文学なんてぇもんは、まさに言語でもって対象を認識するものである。だから、文学の存在そのものが山口瑞鳳師にかかると、否定的になってしまう。

 

本書の特徴は、「仏陀親説の三つの時間観」という基準でインド仏教哲学の真偽を識別したことである。本書の四ヶ所で説明された「三つの時間観」を整理すると、次のようになる。

(1) 「知覚の原因としての外界」に関わる「先験的時間」 ⇔ 「勝義性」

(2) 「縁起生する知覚された結果の表象」に関わる「経験的時間」 ⇔ 「虚構性」

(3) 「表象から抽出された記憶」に関わる「観念的無時間」 ⇔ 「没時性」

本書の結論は、帯に示された「悟り」などというものはないという実体思想の否定である。

あるいは、以下のように言い換えることも可能であろう。つまり、仏陀以来の正統仏教では、「3つの時間」が意識されていた。

・知覚の原因としての外界

・知覚された結果の表象

・表象から抽象されて記憶されている観念

しかし、世間は、知覚表象が外界を補足しているとみなし、それらを表象から抽象した没時的形態観念とその「名」に照合して、外界を実体と認識し、そればかりか、外界を写すとされた言語表現に埋没して、実体「生・滅」の論理を現実と混同するため、「我執」に苦しむ。と山口瑞鳳師は分析された。

 

このことに驚いたのである。なかなか難しくて、メモもかなりの枚数になってしまった。しかし、こいつは驚いてしまった。このような仏教哲学書を初めて知ったからである。

チベット仏教が基本にあって、それからかなりレベルの高い記述がなされている。しかも、宗門系大学関係から出ている書籍には見られないような観点の違いがある。

もっと言えば、「寂護」のことを取り上げているのである。この観点からの分析は、山口瑞鳳師によると仏教哲学学会でも取り上げられていないのだそうな。面白いと思ったのはそういうことである。

この「名色」由来の言語表現が「没時間的恒常を本質にしているため、我々の心に実体への執着をもたらしている」と教えてくださっているということである。そして、それに気がついていたのが、かの空海であったとされている。ま、この点ははっきりと言い切ってはおられないけど。

この本、欲しい。

Amazonの中古本でも6000円くらいする。無理かなぁ。西洋哲学との比較も書かれているし。

ま、明日一日考えてみましょ。

恋い焦がれる女性と一緒ですな。

憧れるけど、遠い存在ってぇやつであるから(^_^)。


(-_-)zzz   もう寝ます

 

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孫を連れて帰ってしまう長女を見ていて、オンナは・・・・と思ったのだ(^_^)

2017年04月02日 08時34分10秒 | とーま君の流儀2017

オンナは強い。どこでも生きていけるというもんじゃ。アメリカでも、九十九里浜でも。もっとも、アメリカは九十九里浜の隣ですなぁ!

 

 

今日で孫が帰っちゃうのだ。毎度ながらサミシイですなぁ。春休みを堪能してくれただろうとは思っている。千葉市の動物公園にも行ったし、ゾウさんやキリンさん、名前覚え立てのアメリカバイソンとか見て興奮してきた。孫もボキもである。孫が来なければ、アメリカバイソンなんて興味もわかなかっただろうから。

来月のゴールデンウイークにまた来るのだそうだ。一週間も爺婆の家にいると、アパートに帰りたくなってしまうらしい。今回は、パパがいないから、パパと会いたいというわけである。それが正常である。正常だからなんも心配はしていない。

狭いアパート暮らしだ。たまには田舎暮らしをしている爺婆の家で思い切りかけっこをしたり、楽しむことである。本もいくらでもある。ボキンチには。ただし、童話や図鑑の類いはあまりないから、その都度買ってあげるのだが。

しかし、オンナは強い。どこでも生きていける。場所は関係がないのだ。

これって西部劇を見てもそう思う。「シェーン」だって、開拓農民の生き方がもう一方にあるではないか。シェーンに密かに思いを寄せる人妻のマリアン(ジーン・アーサー)との心の交わりなんかもいいもんじゃ。たくましく生きているというのがもっといい。そういう強さがあるから、アメリカ大陸に渡ってチャレンジしていけるわけである。たいしたものである。

アメリカの強さというのは、西部劇に出てくる開拓時代にルーツがあるのではないかと思う。一昨年にそのアメリカ開拓の舞台であるモニュメントバレーに行ってみたが、マスコミに登場してくるような格好のいい西部劇の舞台なんてぇものではなかった。想像を絶していた。あまりも荒涼たる原野であった。電気も来ていないから、自家発電だということであった。実際に、インディアンの子孫も住んでいたし。開拓農民の子孫も、家を離れないという。若い人でもそうだという。ここらあたりがアメリカの強さなのではないのかとしみじみ思った。

日本人はどうだろうか。そういう根性がなくなっているのではあるまいか。

なんでもかんでも、大都会に出て行って、大学とは名ばかりの大学を出て就活をしてサラリーマンになっていってしまう。それが憧れだという。まるで鶏小屋のようなマンションという長屋に住んで得意がっている。こぎれいなマイホームに住んで、会社批判、上司批判、政権批判(家族批判)ばかりやっているではないか。なんか違うのである。なんかが狂ってしまっている。

九十九里浜に住んでいると、そういう土地に根ざした生き方がどんなに大切であるかということがよく分かる。アメリカのような開拓時代の根性が、まだ九十九里浜にはあるからだ。農業然り、漁業然りである。なにしろ食糧自給率全国一であるからだ。

紀州から九十九里浜に渡ってきた人々も、チャレンジ精神の旺盛な方々であったのだろうから。

ま、そういうことである。

ボキ?

ボキは、もう流れていくところもない。後は、この土地でくたばるだけである。

わははっははははっははっはははは。

 

ヾ(@⌒―⌒@)ノ

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4月1日(土)のつぶやき

2017年04月02日 05時02分40秒 | とーま君の流儀2017
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/