ボキは、自分が出来損ないであるから、塾で苦労しながら英語も数学も国語もやっているのじゃよん(^_^)。
知人が中世史と某市との関連について、講演を行った。ちょっと前の記事で拙ブログでも取り上げてみた。重厚な人格者である。大好きな人物である。今は、ある大学の非常勤講師をしている。去年までは、別の大学で教授もなさっていたのだ。言わば、知的エリートというわけである。
ボキは、その講演会に行きたかったが、行けなかったので残念であったとその記事で書いた。知人は専門家である。学芸員もなさっていたからである。高校の教員から、博物館、最後は進学校の校長までなさった御仁である。
そしてその講演会であるが、講演内容を地元大衆紙が取り上げてくれた。なんと昨日で6回目になっている。県立図書館で全部有料コピーサービスを使って、ありがたくコピーさせていただいて拝読している。今日も、県立図書館に行ってみるけど。あったら、またコピーさせていただく。
さすがである。内容が充実している。
で、昨日ふと思った。これだけ充実していると、もしかして聞いている方々には難解であったのかもしれないということである。
どうやら大衆紙の書き方は、録音をそのまま記事にしているようだからそう思ったのである。
そうだとすると、かなりのレベルで話をしていたことになる。
実際その場にいたのではないから、なんとも言えないのだけれども。
人を見て法を説けと言われる。つまり、聞いている方の実態にあわせて話をせよということである。これは教育の基本である。教育というモノは、生徒の実態によって手段方法が違ってくるのだ。当然である。
ボキのようなだらしない、ただのアホが聞いていたらわかるように教えるのは至難の技である。まずは、机に座ることから始めなくてはならない。教科書もノートも持っていないから、準備をさせていかなくてはならない。それから初めて教育が始まる。要するに自堕落なのである(ボキのように)。
もしかして、知人の講演会はレベルの低い方はまったくおられなかったのではないかとも思った。これくらい難解な話だと、それなりのレベルでないと聞いていてもしょうが無い可能性もあったのではないかとふと思ったのである。
居住地でも類似の話があった。居住地に生まれ育って東大教授にまでなられた方が、県立の文化会館で記念講演をされたことがあった。宇宙物理学の話であったそうな。そうなというのは、こちらもボキは参加しなかったからである。去年亡くなった義母は、その東大教授が自分の家にも小中高時代に遊びに来ていたからというわけで、聞きに行ったのである。
帰ってきて「どうでしたか?」と聞いてみたら、案の定である。難しかったというわけである。当然だろうなぁと思った。話す方と、聞いている方のレベルが違いすぎるとこういうことになる。むろん、レベルにあわせて話せばいいではないかと言われるかもしれない。しかし、知的エリートというのは、あまり聞いている方にあわせてくれない。つまり、一方的なのである。
だから知的エリートになるわけである。
ボキは、自分が出来損ないであるから、苦労している。英語も数学も国語も非常に苦労しながら塾で教えている。未だに教材研究は欠かせないのである。だから惚け防止になるのである。
かえってありがたいのだ。そういうことが。
知的エリートでなくて良かったとしみじみ思う。
もっともそんなのは当たり前だのクラッカーである(ずいぶん古いCMですなぁ=誰も知らないだろうけど)。※前田製菓という会社があったのだ。てなもんや三度笠という番組であった
わはははっははははっはははは。
オシマイ。
さ、今日も身体を鍛えましょう。天気も良いし。ジジイの青春である。
(^_^)ノ””””