酒も呑まず、たばこもやらず、女にも触らず100まで生きたバカがいる
フォークナーを読んでいて、タイトルのようなことを思い出した。
彼は長編を書き上げた後、一週間は酒を呑みっぱなしであったからである。世には彼がアル中であったと評する研究者も多い。しかし、むしろ「渇酒症患者」とでも言ったほうがいい程度であったのだと評する研究者もいる。愚生は後者の方をとりたい。なぜか?簡単である。ファンだからである。
むろんフォークナーがそういう作家だったということではない。非常にすぐれた作家で、いまでもその読書スタイルはそのまま踏襲させていただいているからである。
愚生は、多読にまさる手法なしと思っているのだが、彼はもっと凄い。「多読、乱読、耽読」を言っている。さらにその程度はレベルアップしていくのであるが、文学的には古典愛好者と言っていいだろうと思う。現代の作者は相手にしていないところがあって、非常に共感できる。
しかもだ、彼は、一度読んだ本なら、場面、場面を、友達との立ち話のように、かいつまんで読んでもいいと言うのだ。これは救われる。愚生のように、長編小説を主体に読んできた人間にはかなりいい手法である。たとえば、10代の後半に狂ったように読書してきたドストエフスキーを再読せよと言われても、もうじじいの愚生にはできない。それだけの気力がない。それに、救済の叫びを求めてドストエフスキーを読んでいた身としては、今更の感もするのだ。救済されているとは今でも思わない。未だ、暗闇の中にいることは間違いないのだから。
しかし、フォークナーのように読んでもいいなら、これはある意味安心である。立ち話でいいのなら。
旧約聖書も毎年一回は通読するのだ。フォークナーも。愚生もすでに聖書は全体で7回ほど通読している。通釈書を片手に。旧訳の方が魅力的に思えてならないのだが、今でも。それはそれでいいだろう。新約はイエスの物語であるし、あれはあまりにも辛い話ではある。
韜晦趣味や、諧謔趣味もある。フォークナーには。愚生も真似させてもらっているけど。まだ彼のレベルほどの韜晦も、諧謔も言えない、書けない。屈折した部分もあって、愚生もまたかなり屈折している。しかも改めようともしないのだ。あはははである。
さらに芸術は環境では無いというフォークナーの考え方も好きだ。政治体制とか、誰かの責任とか、なんとかとか、愚生もまたあんまり考えない。いや、全く考えないというわけではない。考えるのだが、それよりも情報収集とフィールドワークが好きなのだ。行動優先。(^-^)/
そして「読んで、読んで、読みまくりなさい」という彼の教えは大変参考になる。ありとあらゆるものをである。駄作でもいいのだそうだ。古典であるなしに関わらずである。
ふうううううむ。いいな、実にいいな。
大工の棟梁を研究する弟子のようにである。読みなさいということである。ありがたいではないか。なんでも吸収することである。
多読、乱読、耽読は「復読・精読・味読」に変じる。そのことが「熟読吟味・吸収・血肉化」へと発展する。
さらに「書きたいときに書く」ことまで勧めている。勝手きままでいいのだそうである。これはこれは、愚生のようなバカもんに大きな声援となる。このマンマのじじい生活を送っておるからである。
タイトルのように、『酒も呑まず、たばこもやらず、女にも触らず100まで生きたバカがいる』という人間には愚生はゼッタイになれない。全部経験済みである。わははははである。たばこは20代で止めたが。女性?これはまったくご縁がない。たった一人を除いては。34年もおつきあいいただいておるし。100まで生きるかもしれないな。オレは。可能性としてはあるからねぇ。
酒。
問題はこっちだ。
呑めなくなってきたのだ。
日本酒が大好きで、地方の地酒をこよなく愛してきたのだが。これが加齢と共に、だんだんあっちの方から嫌われるようになってきたのだ。がっくりである。ヒジョーにがっくりである。女だったらまだいい。ずーっとあっちの方から嫌われていたから。酒は、嫌われたくない。(^_^)ε^ )したいくらに好きなんだ。日本酒が。
でも、ダメになってきた。
呑むと酔っ払っちまうのだ。
あたりめぇだろうとお叱りを受けそうだが。
それでも、オレは、育った東北の山並みを眺めながら、川のせせらぎの音を聞きながら、露天風呂に入り、野鳥や虫たちの声を聞きながら、旨い日本酒をちびちびと呑みたいのである。
たったひとつの趣味だから。
明日、東北の銀山温泉に行く。いちおうウルトラ・ノートブックなんかを持参はするが、拙ブログの更新はできないでしょう。しばらくさようならです。
お元気でね。
また会いましょう。