さらに温泉である。ぬるめのお湯にじ~っとしているのがいい。
目標にしたい方々 人がいいというタイプの方がいる。実に好ましい。何人もそういう方を知っているが、たいてい他者のためを慮っ...
さらに温泉である。ぬるめのお湯にじ~っとしているのがいい。
目標にしたい方々 人がいいというタイプの方がいる。実に好ましい。何人もそういう方を知っているが、たいてい他者のためを慮っ...
ち!へたくそ。何度教えたら分かるんじゃぁ!
人は誰でも他人を値踏みしている。その場合、自惚れがあるから、他人を低く値踏みしてしまうところある。だから危険があるのである。... goo.gl/p0y88s
本当の芸術は、耐えられないほどの悪や罪を描きます。悲劇の名作なんか、本当に耐え難いものです。でも、それが舞台という魔術的な次元に移しかえられることによって、ホメオパシー的方法で観客の中に逆方向の力を呼び覚まします。観客をかえって健康にしてくれる力です。それが芸術の秘密です。
”「隣近所になる」「職場で同僚になる」ことに関しては、米国より日本のほうが抵抗を示す人が少なく、「友達になる」に関しては、逆に日本のほうが抵抗を示す人が米国の1.5倍ほど多かった。” sciencebook.blog110.fc2.com/blog-entry-767… 『心の病へのまなざしとスティグマ 全国意識調査』
人間は決して人間同士の関係の中だけで生きてはいけない。自然と人間の文明が、きわどいところで対峙しているところで人間は生きているわけだし、決して囲われた安全な所で人間同士の葛藤や悶着だけでことがすんでいるわけではないんです。
amzn.to/rtWT7U
「人は見かけによる」というのもまんざら間違いではない。ただし、見る人に見る目があるということが前提だ。見る目のある人なら直感的に人物を判断する。朗読の評価も同様だ。それは聴き手にどれほど読みの表現を聴き取る能力があるかによる。だが、残念ながら聴き巧者と言える人はじつに少ないのだ。
今日でお別れ。
愛車のアテンザと。
10万キロが区切りだと思っていたし、事実あちこち故障がちになってきた。長距離が苦手になってきた。意地悪なせーねんに挑戦をされても、若い頃は対抗できるほど速かった。馬力もあった。チカラも強かった。
そしてなにより美しかった。すっと伸びた横のラインにほれぼれとしたものだった。
通勤にも使っていたから、乗りこなすこと自体が楽しみだった。エンジンの音も、愚生だけだが、その日の気分を象徴するように低音で響いてきた。
「アテンザ~!」
「カムバック!」
そうなのである。シェーンのように、リリシズムに酔っているのである。今朝の愚生は。
と、ここまで書いてきて、あれ?これはまるで老年となった愚生のことを云っているだけだと気がついた。
あちこち故障がちになって、
長距離が苦手で
せーねんと競いあう気力も失せ
馬力も、
チカラもなくなってしまったアテンザと愚生。
わけぇ女性を助手席に乗せようとしても見向きもしてくれない。
「このクルマなに~?」
「だっせ~」で終わりである。
ま、最初からそんな気もないけれどもね。
わはははっはである。
クルマも老いた。
運転する愚生も老いた。
仕方がないではないか。
時間は残酷である。
別れを強いてくるからである。
そのお別れの時刻は、もうすぐである。10時にはヘラクレスのようなせーねんと、愚生の家のガレージで交代する。選手交代である。
ありがとうね~。
45年間の無事故無違反記録は、さらに更新していくからねぇ~。
見守っていてね~。
さよなら。
生涯学習一点張りではなくて、「おじいちゃん日記」とタイトルを変更したら、わりあいフリーに書けるようになりました。
生涯教育というより、やはり生涯学習ですねぇ。教育というと、授けるという意味合いも強く、学習の方が自分で学んでいるというべきなんでしょうか。
それと、現役時代の記事も非公開にしないで、そのまま据え置きにしときまひょ。
検索キーワードで探してくださる方もおられるようですから。
ブツブツ・・・・・・・・・・・
いいなぁ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
別離のリリシズム。
「シェーン!!カムバック!!」必死でひきとめるジョーイの叫びを背景に、シェーンはワイオミングの山へと去っていった。
「グッバイ!シェーン…」
ジョーイの最後の別れの声に送られるように。
去っていった友人たちとも、もう会うことも無いのだろうなぁ~、愚生の場合は。
同性とは限らないけど。
シェーン!
カムバック!
そう言っても、もう、過ぎ去った時間は戻ってこないのだ。
過去は、流れ去っていくだけだ。
ドライに切られてしまったのだ。人間関係を。
「おまえなんか大嫌いだよ」って、別れの言葉を云われて。
それでも、シェーンを応援しているのだ。
頑張ってよーって。
どっかで生きていろよーって。
また会うことがあれば、その時は、ちょっとだけでいいから
思い出してなーって。
こういうの、ドライとは反対の「未練」っていうのだけれども。
日本人しかわからない心情かもなぁ。
そういう孤独に耐えて、少年は大きくなっていく。
じーさまもそうか。。。。(^0^)
中国・大連の日本語学校
凄いよ!
根性ですよ!
これくらいでないと、語学はマスターできないのですねぇ~(>_<)ゞ
見えた・・・ずっと疑問に思っていたある種のことが
見えた・・・けど、ずいぶん勝手なものだと感じた。 1 全共闘世代の文学 村上春樹の「鼠」の台詞 「俺は俺なりに頑張ったよ。自分でも...
ち!へたくそ。何度教えたら分かるんじゃぁ!
人は誰でも他人を値踏みしている。その場合、自惚れがあるから、他人を低く値踏みしてしまうところある。だから危険があるのである。他人に対してアドヴァイスをするときに、そこのところには気をつけた方がいい。つまり、相手の自己評価と、こっちの他者評価がつながらないことが多々生じるからである。
相手は相手で、低い評価をされた時はハラが立つであろう。だから十分留意して話をしたいものである。そして、もっと注意したいことは、たった一言の他者評価が相手を傷つけてしまって、もう修復不可能なことがあるからである。
中国語でもそうである。「ち!へたくそ。何度教えたら分かるんじゃぁ!」とか云われると、気の弱いオレなんか挫折してしまう。(幸い、そういうセンセはいないけど・・)英語もそうである。数学もそうである。国語もそうである。教育学もそうである。これはオレが関わっている分野であるから、経験済みなのである。
だから忍耐強く教育して、けっして軽々しく相手を評価しないことである。これは実に大切なことを云っているつもりである。
そもそも、いくら偉そうにしたって、教えている当人が自惚れていたら話にならんではないか。自分の得意分野を教えているのだから、教わっている方より優秀なのは当たり前である。教わっているほうはその辺りは分かっているから、相手にしないだけである。上から目線でいる輩をである。
所詮、ソンな程度なのである。
値踏みという点では、日本人は、妙なところがあって、難しい試験を突破した人間をやたらに尊敬する。一番究極にあるのが、東大の試験に合格したということであろう。谷沢永一先生あたりになると、「日本の大学は東大と、東大以外の大学の二つしかない」(『人間通』新潮選書)とまで書いている。もっと辛辣である。「京大は張出横綱だ」とまであった。
笑ったなぁ。
確かにそうであろう。相撲にかこつけて大学問題を論じていくとこれはなかなか面白くなっていく。だったら大関はどこの大学だ?とか、関脇は?小結は?と続いていく。十両は?とも云うことができるだろう。幕下陥落で、引退の危機にある大学は?というのもあり得る。わははははっはである。なんも関係の無い一介の生涯教育人としては、まだまだ修行がたりねぇぞと、お若い方の無明ぶりにちと気の毒になってくるからだ。そりゃそうだろうよん。これから就職して、バリバリ稼ぐのだから、大学番付はかなり深刻なんだろうと拝察している。
でもねぇ、ほら横綱は負けちゃいけないのだろうから、きついらしいのですよ。
オレのような瘋癲老人に、重箱の隅をつつかれるような質問をされて逆ギレされていたら、アカンですぞな。ま、オレごときを投げ飛ばすことなんぞ簡単でしょうけど。(^0^)負けてばっかりの人生でしたからねぇ~、オレは。
結局、根底には、日本人の「難しい試験に受かった人」を意味も無く尊敬してしまうという性向にある。科挙制度と一緒である。今の、国家公務員の上級職に受かった人間を丸呑みで尊敬する気持ちと通じる。だから、日本人は逆らえないのである。そんなエリート様がお決めになられたことだ、間違いはない。オレも含めて一般大衆は、だまってついていけばいいというようなものであるからだ。
つまりお上のいわれることに間違いはないだろうと盲従してしまうのである。ここらへんが、日本人の限界なのだろうと最近のオレは感じるところがあるのだ。
これくらいにしましょう。
これくらいに。
サッカーも負けちゃったし。
今日は一日、ひねくれていました。
(^_-)-☆
ツイッターでは何回も指摘していますが、さも知った顔をして「昭和天皇の人間宣言が…」などと発言し、神道を非難する人は、極めて高い確率で史料を読んでいません。彼らが「人間宣言」と呼称するのは、昭和21年1月1日の詔勅のことですが、その詔勅に「人間宣言」といった内容はありません。【続】
残業手当なき残業。それは無償の心。しかしそれには上がある。それは即ち、研究の為の残業。大学人にとって、残業して研究する事により得られる追加的経済的利益は限りなく無に近い。にも拘らず、時に人は嬉々として研究の為に無償で残業する。その姿は飽くまで清らかであり、真摯な修行者を思わせる。
厚い雲に覆われていてもその向こう側からわかる満月の光。力強いです。大潮の頃の月夜好きです( ???? ?)?? pic.twitter.com/ycBCK2nkAO
オレは、簡単に、ドライに人間関係を切ることができないようである
昨日の中国語講座(jiu主催)で、受講生仲間、つまりclassmateたちに云われた。「中国語話せないな... goo.gl/Eg49Me
岩波書店の「新日本古典文学大系 梁塵秘抄 閑吟集 狂言歌謡」が届いたので早速読んだ。狂言に出てくる謡の詞章に関しては完全一致というわけではないのだけど、解説が書かれてあるので狂言を観た後で確認したり、公演の前に予習したりするには良い感じ。閑吟集には聞いたことのある歌がちらほら。
twitter.com/nyanya4649/sta…
竹田恒泰氏の根っこには、「(笑)的な態度」がある。ヘイトに傷つき悲しみ、抗議したりする人たちに対し、「何を顔を真っ赤にしてるんだ?」「だから嫌われるんだよ」などと、マジョリティを焚きつけるような嘲笑で応じるのが、彼らの流儀だ。
「近藤さん、あんた日本外史の愛読者だが、歴史というものは変転してゆく。
そのなかで、万世に易(かわ)らざるものは、その時代その時代に節義を守った男の名だ。新撰組はこのさい、節義の集団ということにしたい」(「燃えよ剣」) goo.gl/tRd8
現役時代の記事はパスワード管理にしました。
雑多なカテゴリーは、隠棲日記に移動しました。
オレという一人称で書く記事は可能な限り「私」... blog.goo.ne.jp/tym943/e/4378a…
師匠に言われて、今日はエッチラ・コッチラと利根川を遡って我孫子にある
川村学園女子大へ。
初めて行った... goo.gl/GkYxqe
師匠に言われて、今日はエッチラ・コッチラと利根川を遡って我孫子にある
川村学園女子大へ。船ではありませんぜ。クルマ、クルマ。しかも、これで
最後のクルマ旅。月曜日にはさよならである。愛車と。お世話になりました。
しかし、この大学、初めて行ったのだ。女子大学だから縁はないなぁ。
(^_^)
本当なら郷土史の講座があったので、郷土史は欠席である。ま、こんなことも
ある。
いろいろ勉強になりました。
しかし、クタビレテしまったなぁ。
ボクは。
あ、違った。私は。
ふふふふっふふ。
現役時代の記事はパスワード管理にしました。
雑多なカテゴリーは、隠棲日記に移動しました。
オレという一人称で書く記事は可能な限り「私」を使うつもりですが、
どこまでやれるか・・・・(^_^)
ブログタイトルも変更しました。
来年、生涯教育を受けられない可能性もあるので。。。
旨いそばを喰ってみたい
「そばは東京がいい。それに、トンカツと蒲焼きが京・大阪よりまさっている」という文章が、司馬遼太郎の「街道をゆく 38 本所深川散歩・神田界隈」と... goo.gl/GLwd5K
日本の公的ブラック企業『教職』の情けない実態 - NAVER まとめ matome.naver.jp/odai/213716091…「子供達が最初に身の回りで見ている「社会人」がブラック企業的であるという現実を直視する必要がある。」。
『休み時間は、子どもにとっての休み時間であり、子どもがいる間の教師にとっては、ほとんど1日中連続勤務である(十分な体力を養っておこう)』
ブラック会社はあくまで建前上ホワイトもどきを演じるくせに、実習要項に堂々とこんなこと書いてるとかもう隠しようのないブラックさ。
流石教員。
教職員の成績付けや部活動監督、授業の事前準備等に費やされた残業や休日出勤は、全て自主的な活動って最高裁が認定しちゃってるのね。国のお墨付きブラック労働:教職。 app.m-cocolog.jp/t/typecast/798…
飲食業と教職の就職してから三年以内の離職率が断トツで高いらしいけど、飲食業は安月給で過酷な労働環境のブラックなのは分かるけど、給料それなりに高いのに離職者が後を絶たない教職も相当ブラックだよね……いや、どう考えてもブラックだけど
財務省 教職員1万4000人削減を主張 nhk.jp/N4AA6Y7X ようやく少人数学級が広がりつつあるのに、教員を減らすなんてありえない。今でさえ日本の教育予算の割合はOECDの中で最低なのに。人員削減ではなく拡充して下さい。教育に効率を求めるのは間違い。
残業代を!とは、まだ強く思わないし何よりこの仕事を楽しんでるから痛くもないけど、生半可な気持ちでこの職には就けないことを広めたいね。しかし、この“まとめ”読むと教職って本当にブラックなんだな。
『公的ブラック企業/教職』matome.naver.jp/m/odai/2137160…
残業代出ないわりには残業していると『税金泥棒!』と電話かかってくる。
大抵保護者が電話とれるのは17時以降なので確実に残業が求められる。
会議で勤務時間超過しても誰も帰らない。
公的超絶弩級ブラック企業『教職』 - NAVER まとめ matome.naver.jp/odai/213716091…
オレは、簡単に、ドライに人間関係を切ることができないようである
昨日の中国語講座(jiu主催)で、受講生仲間、つまりclassmateたちに云われた。「中国語話せないなら、福建省はムリだなぁ」って。オレもそう思う。行かない方が安全である。その他の外国旅行のことも話題になって、いろいろ諸注意をいただいた。皆さん、ベテランである。中国に長期出張でおられた方もあって、やはり直接体験された方のアドヴァイスはいいものである。知らないことだらけであるからだ。
目蓮救母では、まず国内から影響されている民俗芸能を見に行く方が先だなぁと思い始めた。伝承芸能をである。こっちを先にこの夏は見に行くしかない。岩手県と能登半島だ。クルマを買ったので、それで行こうと思っている。月曜日にはクルマが来るから、余生は共に生きていくことになるだろう。こっちのごついので。民俗芸能の旅に。SUVだから耐えられるだろう。オレと一緒の長旅に。嫌だというかなぁ。(^0^)
加齢をしてきて焦っているのが、旅をしても体力がモタナイと感じ始めてきたのである。ノートや、カードを片手に、つまり民俗調査と云ったらおこがましいが、そういうことをやり続けたいのである。そして原稿を書いていくというスタイルである。投稿マニアみたいなものである。
それしかできないのだから、しょうもない。男子は一つのことしかできないのである。司馬遼太郎センセの書かれたとおりである。あれもこれもと多芸なGuyもいるが、オレは当てはまらない。むしろ不器用である。一つのことしかできない。
中国語講座でも話題になったことで、非常に興味を持った事がもう一つある。中国人のみならず、外国の方々はドライだということである。昨日、一緒に食事をしたから次の日に会って、「やぁ~昨日はどうもお世話になりました」というと、笑われるというのである。えっ?と思った。昨日は、昨日なんだそうである。なるほど。そりゃぁそうだ。細やかな気配り、思いやりというのは日本人だけだとも云われていた。
そうだったのだ。なるほど。ドライな人間観を基層に持っているのだったら、非常に良く理解できることである。
これは、日本人でもいることはいる。
ビジネスマンに多い。あるいは、現役でバリバリ働いている方々に多い。さらに云えば、アメリカあたりに留学したり、結婚していて海外生活が長い人々である。簡単に人間関係を切ってくる。つまり、「メリットがあるからつきあう」「デメリットが多いから、つきあわない」というのである。経済用語観念である。
そうか、そういうことなんだと理解できた。
オレには、できない。師匠と思ったら、一生師匠である。感謝とともにあるのだから。
そもそもドライに人間関係を構築することができないのだ。仕方がないではないか。もうじじいである。今までの生き方を変えることもできないからだ。だから、年をとってきたのである。さらに、オレにはメリット、デメリットという用語自体がアタマの中に無い。知らないのである。儲かるからこいつとつきあうとか、損するからつきあわないというのではないからである。そりゃ、つきあうと損するというのではいかがなものかとは思うが。例えば、スナックに呑みに行って、オレだけ相手の飲み代も毎回持つというのは勘弁願いたいからである(^0^)。そういうのでは長続きしない。自然消滅である。
そんなことを思ったのである。
今日は、我孫子の川村学園女子大学に行く。学会があるから、一般参加で参加してくる。師匠に厳命されているし、聞きたい発表がいくらでもあるからである。愛車アテンザとの旅である。お世話になった。10万キロ以上共に走った。まだまだエンジンは快調なのだが、高齢化してしまった。長距離が苦手となっていくだろうと思って、引退をしていただくことにした。友達のようなものだ。
月曜日にはお別れをする。
お世話になりました。
と、クルマにまで挨拶しているのだから、オレはドライにはなれないのだろうなぁと思う。簡単に別れたり、くっついたりできないのである。せっかくオレのようなGuyとくっついてくれたクルマである。こんなことを書いていると、まるでおなごに未練を持っている若いおとこのみっともない未練話だねぇ~。
ああああああああああああああああ。
別れが辛いよん。
わはははっはははっはははっは。
旨いそばを喰ってみたい
「そばは東京がいい。それに、トンカツと蒲焼きが京・大阪よりまさっている」という文章が、司馬遼太郎の「街道をゆく 38 本所深川散歩・神田界隈」という朝日文庫にあって、お気にいりである。なんということもないちょっとした司馬遼センセの感想で他意はないのだろう。しかし、こういうシンプルな文章ではあるが、それ故にこそ納得している。
なるほど、「そばは東京がいい」というのはわかるような気がする。
東京というのはなんでも威勢がいい。江戸時代からいろいろなところからの流入が多かった土地であるから、他人を監視するようなところがない。良い意味でも、悪い意味でもある。
たとえば火の用心にしても、江戸は不用心である。と、司馬遼センセもこの本で書いていた。独身の職人が、仕事をめいっぱいしてきて、夕方ちょっと晩酌をして、あとは布団をひっかぶってちょいと寝てしまう。だから火の用心まで気が回らない。したがって、江戸の大火は多かったというくだりは、非常に納得した。そもそも、江戸は独身者が多かったそうで、だから家の火の用心まで気が回らなかったというのはわかる。でも、カミさんを持てたのはなかなかの働きものでしかできなかったであろうとオレは思った。そうだとすると晩婚化を嘆いているオレは、あわてもんの横丁の隠居でしかないということになる。粗忽じじいというやつである。
最近は、日本の少子化を心配されている政治家が多い。しかし、日本の適正人口というのは何人なんだろうかということも、オレは考えることがある。富国強兵で、産めよ増やせよとやっていた時代が明治維新後あったわけで、今は少子化で問題になっている。
教育もどうなるのだとも思っている。
変わっていかないという「思い込み」があるから、既存のシステムというものが有効なのであって、そこに安住していたら間違いを犯す。安住はよくない。伝統のある地域に住んでおられる方々は、安住しているとまでは云わないが、他者監視が厳しい。
つまりよそ者に対して監視が厳しいわけである。
どこに行くのか、何をしているのかということについて隣近所に目をくばっている。こういう文化は、京・大阪あたりの関西伝統文化圏に多い。なぜか。火の用心から来ているというのが司馬遼センセなのだ。これはこれは、目から鱗である。
他者監視も厳しすぎるとうっとうしいが、ある意味必要性はある。
なぜか。
幼児達が亡くなっているからである。五歳児が餓死していたという事件があった。父親が食事も与えないで、育児を放棄した事件だ。「パパ、パパ」とすがりついて父親を追っていたとも新聞に書いてあった。
オレは、こういうのが完全に許せない。腹を空かして死んでしまった幼児の無念さを思うと、こういう畜生にも劣る人間に子供を作る資格はないのだ。泣けてくる。かわいそうに。
昨日の夕方、オレは家の雨戸を閉めていた。
そしたら、チュンチュンと雀が犬走りを歩いていた。幼鳥であった。まだうまく飛べない。巣立ちをしたばかりであろうと思った。
自分で餌を探して食っていけるのだろうかとも思った。オレの家は先祖代々、二階の瓦で生まれ育っていく雀が少なくとも3家族はいると踏んでいるのだが、こういうのも仕方ないと思うしかないのだ。
だって、雀を追い払うために、二階の屋根に登って、じじいのオレがそこから転落して死んでしまったら、話にならないではないか。
だったら、そのまんまがいい。
廃れていくのもまた仕方なしである。
今日もあちこちかけずり回る。
在籍大学で論文書きをする。クルマを買ったので、そちらの関係書類も用意したりする。Jiuの中国語講座も受講する。郷土史の講座が明日あるのだが、明日は我孫子の川村学園大学で学会があるから、そちらで研究発表を聞いてくる。師匠に命じられたことであるから、最優先である。gymにも行かなくちゃならない。
しかし、そばを喰ってみたい。
旨いそばをである。
できれば江戸で。
ムリだな。
ムリ。
良い天気である。さ、今日も元気でやっていきまひょ!