ありふれた奇跡
ありふれた奇跡
最終回
2009年3月29日(日)
私は、このドラマを見て、ロミオとジュリエットを思い出した。
モンタギュー家とキャピレット家が血で血を洗う抗争を繰り返していたが、ロミオとジュリエット二人の死を目の当たりにして、事の真相を知り、ついには両家が和解するというものだ。
ドラマの方は、加奈に子どもが生まれないということが、翔太と加奈の両家の争いになっている。
争いの原因は、ロミオとジュリエットでは「死」、ドラマでは「誕生」と異なってはいるが、いずれも「生命」に係わる問題だ。
このドラマが人々を引き付けるのは、人にとって最も普遍的で根源的な「生命」ということを素材にしているからではなかろうか。
このドラマでは、「家族」についても、問いかけている。
翔太も加奈も三世代家族の設定だ。翔太の家族は、がんこ祖父が登場し、古き良き時代を偲ばせる。家族関係が濃密である。加奈の家族は裕福だが家族関係は希薄である。
私は第二回のレビューで、「翔太と八千草が出会う設定は、ドラマならではのものだが、とにもかくにも、両方の家族が二本の糸で結ばれた。これから、この糸が増え、紡がれるのだろうか。」と書いた。
ドラマでは確かに色んな糸が紡がれた。その特徴は、それぞれが様々な苦悩を持ちながら、時に対立し、時に共感しあうとう関係だ。
第八回のレビューに、夕日のことを次のように書いた。
「タイトルバックに夕日が出るように、この夕日には重要なメッセージを持たせているのだろう。
一回目は、翔太が自殺しようとしたことを加奈に告白し、嗚咽する場面だ。
二回目は、翔太と加奈が抱擁し、シルエットのように重なる場面だ。
三回目は、このドラマが完結するときだろう。」
しかし、ドラマの完結で出たのは、翔太と加奈がホテルの窓から望む朝日だった。
夕日は癒しを感じるのに対して、朝日は力を与えてくれるように感じる。
翔太の祖父は、「翔太が強くなったのは、加奈さんに会ったからだ。」という趣旨の発言をするが、強くなったのは、翔太だけではない。翔太と加奈の問題に係わることで、全ての登場人物が「変わり強く」なった。
私は、このドラマの流れは、ベートーベンの交響曲第9番「合唱」の「苦悩を通して歓喜へ」ということに繋がるものがあるように感じた。その「歓喜」とは、子どもを生むことができない加奈が見せた、捨てられようとした赤ちゃんを抱いている時の幸せな表情に表れている。
我々は、得られないものがあっても、それを克服することができる。
第十回
2009年3月19日(木)
この回は二つの物語。
一つは、藤本が、翔太と加奈の接着剤になろうとすること。
藤本は、翔太の祖父、そして加奈の父親に会い、翔太と加奈の結婚に理解をするよう説得を試みる。
二人が命の恩人だからということだが、そのことで、ここまでするか?
加奈は、子どもが産めないこと、そういう状況で翔太と結婚することは翔太を不幸にするというわだかまりがどうしても克服できなくて、二人で会っても、切ない会話が続く。切なさを紛らわせようと、ケルト人の話をするが、翔太が生き生きするからか。
二つは、翔太の両親が復縁すること。
翔太は復縁した両親の家を訪ね、母親から初めて離婚に至った話を聞く。両親が激しい喧嘩をしても、なぜか翔太は、なごんだ顔をしている。子どもにとって両親の存在というのは、二人セットなのだろうか?
次回は、いよいよ母親同士が対面する。ずけずけものを言う翔太の母と、時にキレル加奈の母親で、どんな衝突が見れるか楽しみだ。
第九回
2009年3月11日(水)
二人の関係になかなか解決策を見出せず、刹那的になった加奈は、これまでのことは一切なかったことにして、初めて会ったようにして会おうと翔太に言う。
しかし、翔太は現実からなかなか離れることができない。
翔太と加奈の間で、現実と仮想が交錯した、難しい会話が交わされる。
翔太は言う。「どうしてこの街は、自分だけ苦しい、寂しいと思えてしまうんだろう。」
加奈は、「ホテルをとってある。」と翔太を誘うが、翔太は加奈の刹那を見破り、加奈の誘いにのらない。
そのホテルで、加奈の母親は加奈に、屈辱的な不倫体験を話す。
皆苦しんでいるのだ。
「自分だけ苦しいと思えてしまう」ことから「皆が苦しんでいることが分かる」ことに、どうしたらつなげることができるのか? このドラマの主題があるような気がする。
第八回
2009年3月1日(日)
このドラマは、二人の家族の対比が実に見事に描き出されている。
翔太と加奈の父親同士は、女装趣味で一致している。翔太の父親は、その女装趣味がなければ自分の人生に何も残らないとまで言う。加奈の父親は、翔太を罵倒する場面で、加奈の母親に「そんな風に人を攻撃することで部長になったのね」と見下される。
そこには、高度経済成長時代の労働疎外・人間疎外が伺われる。
母親同士は、不倫である。翔太の母親は翔太が若くして男を作り家を出てしまう。母親の愛情を受けていないと思っていた翔太は、母親が翔太が子どもができないのではないかということを親身に心配する姿を見て、それまでの誤解に苦笑いする。
加奈の母親は企業戦士のような夫に満たされないものを感じ、人形の先生と不倫の関係になるが、逃げられてしまう。満たされない気持ちを、加奈を抱きしめることにより癒そうとする。
翔太の家には昔ながらの茶の間がある。ちゃぶ台を囲んで3人が言い合う場面は、古き良き時代を思わせる。
加奈の家は洋風で、テーブルだが、家族全員が食事する場面はない。必ず誰かが抜けている。
そのことにより、親密な家族関係と希薄な家族関係を描き分けている。
翔太の祖父(井川)と加奈の祖母(八千草)は、親世代以上に、翔太又は加奈のことを理解している。人生経験の深さを感じる。
その井川に、二人の結婚は反対だと言われ、加奈は絶望的な表情になる。しかし、山田太一はなぜか、井川に「私の気持ちだが」というセリフを言わせている。
絶望的な表情になった加奈ではあるが、八千草を病床に見舞った場面では、捨て猫を優しく愛撫する姿と重なるように、一転優しい表情になる。もう、自殺を企図したときの加奈ではない。優しさという「力」を持っている。
タイトルバックに夕日が出るように、この夕日には重要なメッセージを持たせているのだろう。
一回目は、翔太が自殺しようとしたことを加奈に告白し、嗚咽する場面だ。
二回目は、翔太と加奈が抱擁し、シルエットのように重なる場面だ。
三回目は、このドラマが完結するときだろう。
第七回
2009年2月25日(水)
第七回は、何とも哀しかった。
加奈は子どもが産めなくなった理由を話すが、翔太はその加奈をかばって、自らの意思で子どもをつくらないと言う。
そのことで、翔太と加奈をとりまく人達は、翔太の方が子どもを生めない原因だと誤解するのだ。
加奈の父親に罵倒されようとも、翔太は決して本当の理由を告げようとしない。
一方、加奈の心は揺れに揺れる。翔太との子どもが欲しい。しかし、それは適わない。翔太に当り散らすが、今の加奈にはどうして解決できるのか、先が見えない。
加奈は、翔太に結婚しないと言うが、二人はメイルでお互いに「ばかやろう」とまで言う関係になっている。もう分かれることはできない。
私が期待した、八千草と井川の対面の場面であるが、八千草は井川に対して、「加奈はやれない」と言う。八千草は加奈の孫がどうしても欲しいのだ。しかし、真の原因が加奈にあることを知った時の八千草の衝撃はいかばかりだろうか。
加奈の家族は、加奈が子どもを産めないということ、自殺をしようとしたことに衝撃を受けるだろうが、真に衝撃を受けるのは、そんな加奈を守ろうとする翔太の「優しさ」にだ。
その優しさは、自殺しようとまでした翔太の苦悩から生まれてきている。そして、その「苦悩」は加奈の父親が蔑み罵倒したことだ。
第六回
2009年2月18日(水)
加奈は、とうとう自殺をしようとした訳を話す。モトカレの子どもを中絶したことが原因だという。
翔太の場合は、訳を話すことにより、その呪縛から解放されたが、加奈はより苦しむ。翔太との子どもが欲しいということ、そして翔太への「愛」ゆえだ。
翔太は、加奈をかばうため、自らが「子どもはいらない」と加奈の祖母に話す。
このことが、両家の誤解を生み、加奈の父親と翔太の祖父・父親は対立する。
加奈は自らが行った行為を、「若くてカーッとなって冷静でなかった」というが、それを救ってくれるのは、誰だろうか?
次回、私が第二回のレビューのとき期待した、八千草と井川が対面する。「若くない」二人が、どのように二人の関係を想像し、解決へ導くか、私はこのドラマのクライマックスだと思っている。
第五回
2009年2月11日(水)
加奈は、遂に翔太に話す。子どもができない身体であり、その原因は自らだと。翔太のなぐさめも、今の加奈には通じない。加奈はまだそれ以上言うことができない。二人だけでかかえる問題としては、あまりに大きいのだ。
誰にも言えず悩む加奈の母を、八千草薫がその悩みを見抜き、自らの経験を話す。八千草の方から話すということだが、加奈の母が誰かに訴えることと同じことなのだ。
翔太と加奈の関係に「触媒」のような役割をする陣内孝則に、加奈は「生きるのよ」と激しく言うが、それは自らに言っているようである。他者を通じて自らが見えたのだろう。
「人間」とは字のごとく、人との関係において成り立っているのであり、このドラマは、人は他者との関係において問題が解決されるということを描いているように思う。
人間は、他者の悩み・問題は客観的に見える。そして、その者の悩み・問題を解決する力になれる。お互い同士がそうなのだ。
そのように見てくると、二人の父親同士の「女装」シーンには辟易したが・・、様々な悩み・問題を抱えている人間同士を対面させる必要があるのだろう。
「女装を止めると、人生に何も残らない」と言う翔太の父親に、加奈の父親は「約束を破った」と厳しい視線を浴びせるが、この二人、翔太と加奈の関係を複雑にさせそうである。
第四回
2009年2月4日(水)
加奈が翔太の家を訪れることを聞いて、翔太の父(風間杜夫)と祖父(井川久志)は大はしゃぎだ。加奈も翔太の父と祖父にすぐ馴染む。
アイリッシュダンスに興じた後、夕日が射す窓辺に映る二人の重なり合うシルエットは、それまでの、「翔太は」、「加奈は」という関係から、「二人は」に進展していることを暗示する。
二人の家族の対比も描かれる。
加奈の母(戸田恵子)は、不倫相手の男に体よく逃げられる。当然そのことを家族に言えるはずなく、一人苦悩する。将来に展望が開けない苦しみだ。
一方、翔太の父は、男をつくって逃げた女房を許す気持ちにはなれないが、翔太の母親であり翔太への愛ゆえ、「ほっとけないだろう」とお金を渡す自らの矛盾に悩む。愛ゆえの悩みであり、いつか何らかの形で昇華する可能性がある。
加奈は、まだ自殺しようとした理由を語ることができない。フラッシュバックで、不気味な人物が行き交う場面がでるが、それが何を暗示しているのか。加奈が翔太に家まで案内してもらうシーンで、「子どもがいない」という言葉に暗く反応していたのが気になる。
最後の場面は、これは、サスペンスではないのか。
翔太の父と加奈の父(岸辺一徳)は、お互いを良く知っているが、名前も職業も知らないという奇妙な関係だ。しかも、お互いの家族に隠したいことがあるのだ。
お互いの家族同士が色んな糸で結ばれてきたが、父親同士のそれは、もつれそうな予感がする。
第三回
2009年1月27日(火)
夕日の美しいシーンが印象的だった。
翔太と加奈の二人は、より知り合う関係になり、翔太は加奈に自殺しようとした理由を告白することにする。
会社での屈辱的な出来事を話し出し、翔太は激しく嗚咽する。引き攣ったように泣く翔太を加奈は抱きすくめる。
その二人を、オレンジ色の暖かく包み込むような夕日がやさしく照らす。
加奈に吐露した翔太は、PTSDの呪縛から解き放たれる。
次は加奈が話す番だ。
加奈は酔って翔太に話そうとするが、まだ話せない。
仲間由紀恵の酔った演技がたまらなく上手い。いや魅惑的だ。男たるもの、こういう女性を目の前にしてみたい。(バカ)
加奈は翔太をもっと知ることにより、自殺の理由を話せると考えたのか、翔太の家に行きたいという。
加奈もPTSDから解き放たれたいのだ。そのためには、同じ痛みを共有する翔太が必要なのだ。
いよいよ、次回は、加奈と翔太の家族が紡ぎだす。
第二回
2009年1月18日(日)
このドラマ展開は、弁証法的手法ではないのか?
冒頭の場面と最後の場面は、若い二人が喫茶店で会うという同じ設定なのだが、「進展」しているのだ。
冒頭の場面、加奈(仲間由紀恵)は、翔太(加瀬亮)と喫茶店で会うが、気持ちのすれ違いで気分を害し、店を飛び出してしまう。
加奈は、自殺をしようとした者同士として、気持ちが通じるものがありはしないかと、それを求めようとするが、翔太は、デイトの相手として見てしまう。
最後の場面、翔太は加奈に対して、自分を曝け出す。左官の作業着を着て喫茶店に来るのだ。作業着から埃を落とす翔太を見て、従業員がたまらず注意する。加奈はそのことに腹を立て、翔太を連れて店を飛び出してしまう。二人の気持ちは一気に近づく。
二人の家族の対比も描かれる。
翔太は父(風間杜夫)と祖父(井川比佐志)の3人家族。父親に女ができたのではないかと、翔太と祖父がお節介ともいえるほどの心配をする。濃密な家族関係だ。
加奈は、父(岸部一徳)、母親(戸田恵子)、祖母(八千草薫)の4人家族。母は人形展を開くが、加奈は見に行きたくない。裕福で華やかな家族だが、人間関係が、希薄である。
その中でも、八千草薫は、「食器は手触りで洗っている」という感覚で、加奈のことを見透かしている。
翔太と八千草が出会う設定は、ドラマならではのものだが、とにもかくにも、両方の家族が二本の糸で結ばれた。
これから、この糸が増え、紡がれるのだろうか。
私は、井川と八千草の出会いを楽しみにしている。
3回目は、22日木曜日だ。
第一回
2009年1月14日(水)
山田太一のドラマ展開は、関心を起こさせる。
ドラマは、見知らぬ若い男女が、自殺しようとしている中年男性を助けるところから始まる。
そして、最後の場面は、その男女に対して、その中年男性が、あなた達は「自殺をしようとしたことがあるのではないか?」という問いかけで、次回に続くのだ。嫌が応でも、次回を見たくなる。
見知らぬ男女が近しい関係になる筋書きは、多少強引だが、これもドラマチックでワクワクさせられる。
男女のそれぞれの家族環境の描写も、「家族とは何か」という山田太一が追い求めているテーマに不可欠だ。
女性の家族は、裕福だが、家族関係はバラバラである。男性の方は、頑固オヤジ(ではなく祖父だが)が、日本の古き良き時代の家族を思い起こさせる。
山田太一のドラマは、「短いセリフ」がポンポンと投げ合うようなところが特徴だ。私のように頭の回転が鈍いと、その意味合いを想像しようとして、ドラマに引き込まれる。
明日15日、第2回が放送される。
ありふれた奇跡
最終回
2009年3月29日(日)
私は、このドラマを見て、ロミオとジュリエットを思い出した。
モンタギュー家とキャピレット家が血で血を洗う抗争を繰り返していたが、ロミオとジュリエット二人の死を目の当たりにして、事の真相を知り、ついには両家が和解するというものだ。
ドラマの方は、加奈に子どもが生まれないということが、翔太と加奈の両家の争いになっている。
争いの原因は、ロミオとジュリエットでは「死」、ドラマでは「誕生」と異なってはいるが、いずれも「生命」に係わる問題だ。
このドラマが人々を引き付けるのは、人にとって最も普遍的で根源的な「生命」ということを素材にしているからではなかろうか。
このドラマでは、「家族」についても、問いかけている。
翔太も加奈も三世代家族の設定だ。翔太の家族は、がんこ祖父が登場し、古き良き時代を偲ばせる。家族関係が濃密である。加奈の家族は裕福だが家族関係は希薄である。
私は第二回のレビューで、「翔太と八千草が出会う設定は、ドラマならではのものだが、とにもかくにも、両方の家族が二本の糸で結ばれた。これから、この糸が増え、紡がれるのだろうか。」と書いた。
ドラマでは確かに色んな糸が紡がれた。その特徴は、それぞれが様々な苦悩を持ちながら、時に対立し、時に共感しあうとう関係だ。
第八回のレビューに、夕日のことを次のように書いた。
「タイトルバックに夕日が出るように、この夕日には重要なメッセージを持たせているのだろう。
一回目は、翔太が自殺しようとしたことを加奈に告白し、嗚咽する場面だ。
二回目は、翔太と加奈が抱擁し、シルエットのように重なる場面だ。
三回目は、このドラマが完結するときだろう。」
しかし、ドラマの完結で出たのは、翔太と加奈がホテルの窓から望む朝日だった。
夕日は癒しを感じるのに対して、朝日は力を与えてくれるように感じる。
翔太の祖父は、「翔太が強くなったのは、加奈さんに会ったからだ。」という趣旨の発言をするが、強くなったのは、翔太だけではない。翔太と加奈の問題に係わることで、全ての登場人物が「変わり強く」なった。
私は、このドラマの流れは、ベートーベンの交響曲第9番「合唱」の「苦悩を通して歓喜へ」ということに繋がるものがあるように感じた。その「歓喜」とは、子どもを生むことができない加奈が見せた、捨てられようとした赤ちゃんを抱いている時の幸せな表情に表れている。
我々は、得られないものがあっても、それを克服することができる。
第十回
2009年3月19日(木)
この回は二つの物語。
一つは、藤本が、翔太と加奈の接着剤になろうとすること。
藤本は、翔太の祖父、そして加奈の父親に会い、翔太と加奈の結婚に理解をするよう説得を試みる。
二人が命の恩人だからということだが、そのことで、ここまでするか?
加奈は、子どもが産めないこと、そういう状況で翔太と結婚することは翔太を不幸にするというわだかまりがどうしても克服できなくて、二人で会っても、切ない会話が続く。切なさを紛らわせようと、ケルト人の話をするが、翔太が生き生きするからか。
二つは、翔太の両親が復縁すること。
翔太は復縁した両親の家を訪ね、母親から初めて離婚に至った話を聞く。両親が激しい喧嘩をしても、なぜか翔太は、なごんだ顔をしている。子どもにとって両親の存在というのは、二人セットなのだろうか?
次回は、いよいよ母親同士が対面する。ずけずけものを言う翔太の母と、時にキレル加奈の母親で、どんな衝突が見れるか楽しみだ。
第九回
2009年3月11日(水)
二人の関係になかなか解決策を見出せず、刹那的になった加奈は、これまでのことは一切なかったことにして、初めて会ったようにして会おうと翔太に言う。
しかし、翔太は現実からなかなか離れることができない。
翔太と加奈の間で、現実と仮想が交錯した、難しい会話が交わされる。
翔太は言う。「どうしてこの街は、自分だけ苦しい、寂しいと思えてしまうんだろう。」
加奈は、「ホテルをとってある。」と翔太を誘うが、翔太は加奈の刹那を見破り、加奈の誘いにのらない。
そのホテルで、加奈の母親は加奈に、屈辱的な不倫体験を話す。
皆苦しんでいるのだ。
「自分だけ苦しいと思えてしまう」ことから「皆が苦しんでいることが分かる」ことに、どうしたらつなげることができるのか? このドラマの主題があるような気がする。
第八回
2009年3月1日(日)
このドラマは、二人の家族の対比が実に見事に描き出されている。
翔太と加奈の父親同士は、女装趣味で一致している。翔太の父親は、その女装趣味がなければ自分の人生に何も残らないとまで言う。加奈の父親は、翔太を罵倒する場面で、加奈の母親に「そんな風に人を攻撃することで部長になったのね」と見下される。
そこには、高度経済成長時代の労働疎外・人間疎外が伺われる。
母親同士は、不倫である。翔太の母親は翔太が若くして男を作り家を出てしまう。母親の愛情を受けていないと思っていた翔太は、母親が翔太が子どもができないのではないかということを親身に心配する姿を見て、それまでの誤解に苦笑いする。
加奈の母親は企業戦士のような夫に満たされないものを感じ、人形の先生と不倫の関係になるが、逃げられてしまう。満たされない気持ちを、加奈を抱きしめることにより癒そうとする。
翔太の家には昔ながらの茶の間がある。ちゃぶ台を囲んで3人が言い合う場面は、古き良き時代を思わせる。
加奈の家は洋風で、テーブルだが、家族全員が食事する場面はない。必ず誰かが抜けている。
そのことにより、親密な家族関係と希薄な家族関係を描き分けている。
翔太の祖父(井川)と加奈の祖母(八千草)は、親世代以上に、翔太又は加奈のことを理解している。人生経験の深さを感じる。
その井川に、二人の結婚は反対だと言われ、加奈は絶望的な表情になる。しかし、山田太一はなぜか、井川に「私の気持ちだが」というセリフを言わせている。
絶望的な表情になった加奈ではあるが、八千草を病床に見舞った場面では、捨て猫を優しく愛撫する姿と重なるように、一転優しい表情になる。もう、自殺を企図したときの加奈ではない。優しさという「力」を持っている。
タイトルバックに夕日が出るように、この夕日には重要なメッセージを持たせているのだろう。
一回目は、翔太が自殺しようとしたことを加奈に告白し、嗚咽する場面だ。
二回目は、翔太と加奈が抱擁し、シルエットのように重なる場面だ。
三回目は、このドラマが完結するときだろう。
第七回
2009年2月25日(水)
第七回は、何とも哀しかった。
加奈は子どもが産めなくなった理由を話すが、翔太はその加奈をかばって、自らの意思で子どもをつくらないと言う。
そのことで、翔太と加奈をとりまく人達は、翔太の方が子どもを生めない原因だと誤解するのだ。
加奈の父親に罵倒されようとも、翔太は決して本当の理由を告げようとしない。
一方、加奈の心は揺れに揺れる。翔太との子どもが欲しい。しかし、それは適わない。翔太に当り散らすが、今の加奈にはどうして解決できるのか、先が見えない。
加奈は、翔太に結婚しないと言うが、二人はメイルでお互いに「ばかやろう」とまで言う関係になっている。もう分かれることはできない。
私が期待した、八千草と井川の対面の場面であるが、八千草は井川に対して、「加奈はやれない」と言う。八千草は加奈の孫がどうしても欲しいのだ。しかし、真の原因が加奈にあることを知った時の八千草の衝撃はいかばかりだろうか。
加奈の家族は、加奈が子どもを産めないということ、自殺をしようとしたことに衝撃を受けるだろうが、真に衝撃を受けるのは、そんな加奈を守ろうとする翔太の「優しさ」にだ。
その優しさは、自殺しようとまでした翔太の苦悩から生まれてきている。そして、その「苦悩」は加奈の父親が蔑み罵倒したことだ。
第六回
2009年2月18日(水)
加奈は、とうとう自殺をしようとした訳を話す。モトカレの子どもを中絶したことが原因だという。
翔太の場合は、訳を話すことにより、その呪縛から解放されたが、加奈はより苦しむ。翔太との子どもが欲しいということ、そして翔太への「愛」ゆえだ。
翔太は、加奈をかばうため、自らが「子どもはいらない」と加奈の祖母に話す。
このことが、両家の誤解を生み、加奈の父親と翔太の祖父・父親は対立する。
加奈は自らが行った行為を、「若くてカーッとなって冷静でなかった」というが、それを救ってくれるのは、誰だろうか?
次回、私が第二回のレビューのとき期待した、八千草と井川が対面する。「若くない」二人が、どのように二人の関係を想像し、解決へ導くか、私はこのドラマのクライマックスだと思っている。
第五回
2009年2月11日(水)
加奈は、遂に翔太に話す。子どもができない身体であり、その原因は自らだと。翔太のなぐさめも、今の加奈には通じない。加奈はまだそれ以上言うことができない。二人だけでかかえる問題としては、あまりに大きいのだ。
誰にも言えず悩む加奈の母を、八千草薫がその悩みを見抜き、自らの経験を話す。八千草の方から話すということだが、加奈の母が誰かに訴えることと同じことなのだ。
翔太と加奈の関係に「触媒」のような役割をする陣内孝則に、加奈は「生きるのよ」と激しく言うが、それは自らに言っているようである。他者を通じて自らが見えたのだろう。
「人間」とは字のごとく、人との関係において成り立っているのであり、このドラマは、人は他者との関係において問題が解決されるということを描いているように思う。
人間は、他者の悩み・問題は客観的に見える。そして、その者の悩み・問題を解決する力になれる。お互い同士がそうなのだ。
そのように見てくると、二人の父親同士の「女装」シーンには辟易したが・・、様々な悩み・問題を抱えている人間同士を対面させる必要があるのだろう。
「女装を止めると、人生に何も残らない」と言う翔太の父親に、加奈の父親は「約束を破った」と厳しい視線を浴びせるが、この二人、翔太と加奈の関係を複雑にさせそうである。
第四回
2009年2月4日(水)
加奈が翔太の家を訪れることを聞いて、翔太の父(風間杜夫)と祖父(井川久志)は大はしゃぎだ。加奈も翔太の父と祖父にすぐ馴染む。
アイリッシュダンスに興じた後、夕日が射す窓辺に映る二人の重なり合うシルエットは、それまでの、「翔太は」、「加奈は」という関係から、「二人は」に進展していることを暗示する。
二人の家族の対比も描かれる。
加奈の母(戸田恵子)は、不倫相手の男に体よく逃げられる。当然そのことを家族に言えるはずなく、一人苦悩する。将来に展望が開けない苦しみだ。
一方、翔太の父は、男をつくって逃げた女房を許す気持ちにはなれないが、翔太の母親であり翔太への愛ゆえ、「ほっとけないだろう」とお金を渡す自らの矛盾に悩む。愛ゆえの悩みであり、いつか何らかの形で昇華する可能性がある。
加奈は、まだ自殺しようとした理由を語ることができない。フラッシュバックで、不気味な人物が行き交う場面がでるが、それが何を暗示しているのか。加奈が翔太に家まで案内してもらうシーンで、「子どもがいない」という言葉に暗く反応していたのが気になる。
最後の場面は、これは、サスペンスではないのか。
翔太の父と加奈の父(岸辺一徳)は、お互いを良く知っているが、名前も職業も知らないという奇妙な関係だ。しかも、お互いの家族に隠したいことがあるのだ。
お互いの家族同士が色んな糸で結ばれてきたが、父親同士のそれは、もつれそうな予感がする。
第三回
2009年1月27日(火)
夕日の美しいシーンが印象的だった。
翔太と加奈の二人は、より知り合う関係になり、翔太は加奈に自殺しようとした理由を告白することにする。
会社での屈辱的な出来事を話し出し、翔太は激しく嗚咽する。引き攣ったように泣く翔太を加奈は抱きすくめる。
その二人を、オレンジ色の暖かく包み込むような夕日がやさしく照らす。
加奈に吐露した翔太は、PTSDの呪縛から解き放たれる。
次は加奈が話す番だ。
加奈は酔って翔太に話そうとするが、まだ話せない。
仲間由紀恵の酔った演技がたまらなく上手い。いや魅惑的だ。男たるもの、こういう女性を目の前にしてみたい。(バカ)
加奈は翔太をもっと知ることにより、自殺の理由を話せると考えたのか、翔太の家に行きたいという。
加奈もPTSDから解き放たれたいのだ。そのためには、同じ痛みを共有する翔太が必要なのだ。
いよいよ、次回は、加奈と翔太の家族が紡ぎだす。
第二回
2009年1月18日(日)
このドラマ展開は、弁証法的手法ではないのか?
冒頭の場面と最後の場面は、若い二人が喫茶店で会うという同じ設定なのだが、「進展」しているのだ。
冒頭の場面、加奈(仲間由紀恵)は、翔太(加瀬亮)と喫茶店で会うが、気持ちのすれ違いで気分を害し、店を飛び出してしまう。
加奈は、自殺をしようとした者同士として、気持ちが通じるものがありはしないかと、それを求めようとするが、翔太は、デイトの相手として見てしまう。
最後の場面、翔太は加奈に対して、自分を曝け出す。左官の作業着を着て喫茶店に来るのだ。作業着から埃を落とす翔太を見て、従業員がたまらず注意する。加奈はそのことに腹を立て、翔太を連れて店を飛び出してしまう。二人の気持ちは一気に近づく。
二人の家族の対比も描かれる。
翔太は父(風間杜夫)と祖父(井川比佐志)の3人家族。父親に女ができたのではないかと、翔太と祖父がお節介ともいえるほどの心配をする。濃密な家族関係だ。
加奈は、父(岸部一徳)、母親(戸田恵子)、祖母(八千草薫)の4人家族。母は人形展を開くが、加奈は見に行きたくない。裕福で華やかな家族だが、人間関係が、希薄である。
その中でも、八千草薫は、「食器は手触りで洗っている」という感覚で、加奈のことを見透かしている。
翔太と八千草が出会う設定は、ドラマならではのものだが、とにもかくにも、両方の家族が二本の糸で結ばれた。
これから、この糸が増え、紡がれるのだろうか。
私は、井川と八千草の出会いを楽しみにしている。
3回目は、22日木曜日だ。
第一回
2009年1月14日(水)
山田太一のドラマ展開は、関心を起こさせる。
ドラマは、見知らぬ若い男女が、自殺しようとしている中年男性を助けるところから始まる。
そして、最後の場面は、その男女に対して、その中年男性が、あなた達は「自殺をしようとしたことがあるのではないか?」という問いかけで、次回に続くのだ。嫌が応でも、次回を見たくなる。
見知らぬ男女が近しい関係になる筋書きは、多少強引だが、これもドラマチックでワクワクさせられる。
男女のそれぞれの家族環境の描写も、「家族とは何か」という山田太一が追い求めているテーマに不可欠だ。
女性の家族は、裕福だが、家族関係はバラバラである。男性の方は、頑固オヤジ(ではなく祖父だが)が、日本の古き良き時代の家族を思い起こさせる。
山田太一のドラマは、「短いセリフ」がポンポンと投げ合うようなところが特徴だ。私のように頭の回転が鈍いと、その意味合いを想像しようとして、ドラマに引き込まれる。
明日15日、第2回が放送される。