水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

ナレーション

2018年02月20日 | 学年だよりなど

 

    学年だより「ナレーション」


 試験はすべて終わった、または進路が決定した、という人も増えてきていることだろう。
 国立後期までチャレンジする人も、一ヶ月後には結果が確定する。当初(たとえば3年の初め)自分が思っていたとおりの目標を達成できる(た)人ばかりではないのが、現実ではないだろうか。
 今まで予定していたとおりに、もしくはそれ以上に努力を積み上げることができて、悔いの無い結果が得られている状態であるならば、素晴らしいことだ。今後も次の目標に向かって、そのまま突き進んでいってほしい。
 そうでない場合は、まずやるべきことは何か。
 18歳と何ヶ月かの時点での正味の自分を表した結果として、現実を受け入れることだ。
 後悔しつづける時間はムダな時間だ。
 現時点での「思わしくない現実」は、後々の成功のための大きな布石でもありうる。
 オリンピックですばらしい成果を手に入れた選手達はみな、例外なく大きな試練を乗り越えた後の「今」を迎えている。「今」の意味を決めるのは「未来の自分」だ。
 かりに、思いのほか「うまく」いっている「今」があったとしても、その幸運をただ享受しているだけだと、ゆくゆく予想外の不運に見舞われることもありうる。


 ~ 私たちは、今自分の身に起きているある出来事(人間関係であれ、恋愛事件であれ、仕事であれ)が「何を意味するのか」ということは、今の時点で言うことができない。それらの事件が「何を意味するのか」は100%文脈依存的だからである。
 「その事件が原因で私はやがてアメリカに旅立つことを余儀なくされたのであった」とか「その恋愛事件がやがて私の身に思いもよらぬ悲劇を引き起こそうとは、そのときは誰一人知るよしもなかった」とか「結果的にはそのとき病気になって転地したことが幸いして私は震災を免れたのである」とかいうナレーションは、物語を最後まで「読んだ私」にしか付けることができない。
 私たちはその「ナレーション」をリアルタイムでは聞くことができない。
 しかし、それにもかかわらず、私たち自身が恋愛事件のクライマックスや喧嘩の修羅場を迎えているときに、その場の登場人物の全体を俯瞰するカメラアイから自分を含む風景を見下ろし、そこに「ナレーション」がかかり、BGMが聞こえているような「既視感」にとらわれることがある。というか、そのような既視感にとらわれることがなければ、私たちはそもそも自分が「クライマックス」に立ち会っているとか、「修羅場」に向かっているというような文脈的な位置づけをすることさえできないはずである。 (内田樹『街場の現代思想』文春文庫 ~)


 今みなさんにはどんなナレーションが聞こえているだろう。今の自分が未来を作るのではない。
 未来の自分の声に耳をすまして、今の自分を動かしていこう。

コメント
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