人はどういうときに成長するのか。
商売柄、いつも頭の片隅にある「問い」であり、この問いに応えようと学校は存在する。
つまり、すべての活動がこの観点から検証され続けていなければ、われわれは仕事をしていることにならないのだろう。
だから、ちゃんと働こうとすると(すればするほど)、生徒さんたちには煙たがられ、反発されることもあるのはしょうがないのだ。
それがシステムなのだから。
Q「羅生門」は、粗く言ってどういうお話ですか。
A 下人が羅生門で老婆と出会い盗人になる話。
この下人の変化を「成長」といい、主人公を成長させる役割を果たす存在を対役といいます … 。
先日第10巻でみごと完結した『恋は雨上がりのように』は、ファミレス店長(45歳)と女子高生(17歳)との出会いと、もどかしい関係を描く。
高校記録を作るほどのスプリンターだった橘あきらが、アキレス腱断裂にみまわれ競技をあきらめていた頃、雨宿りもかねてたまたま立ち寄ったファミレスにいたのが、店長の近藤だった。
なかなか帰ろうとしないあきらに店長が、これはザービスだよとコーヒーをもってくる。
さえない中年男に、女子高生はほのかな恋心を抱くようになる(そんな設定ありえないと言うかもしれないが、おれはあると思うな。あってほしい)。
もちろん、近藤の方はそんな対象に自分がなるなどと思っていない。
少しでも店長のそばにいたいと、そのファミレスでアルバイトをはじめた、あきら。
二人の接点が増えるにつれ、近藤の方も意識せざるをえなくなる … という話が第一巻ぐらいだったろうか。
まさかこんなに長く続くと思わなかったが、初期のころは早く続きが読みたくて、「月刊スピリッツ」まで買ってしまっていた。
最初の頃、実写化するなら、橘あきらは橋本愛さまかなとイメージしていた。
映画『恋は雨上がりのように』は小松奈菜さん。もう、ありがとうというしかない。
店長の大泉洋さんもさすがのお芝居。
表面的には、歳の離れた男女の恋愛感情を描いているが、「羅生門」と同じように、異質な者同士が出会って成長する物語だと感じた。
コミック最終巻の方が、それが色濃くあらわれている。
作家になるという夢を捨てて屈託しながらファミレスで働いている店長と、けがで陸上競技を捨てようとしている女子高生。
自分のやりたいことが本当に自分のやりたいことなら、結果うんぬん以前に、やれるだけやってみようと思うようになれたのは、お互いに出会え、もどかしいやりとりを重ねてからだ。
自分にないものを相手は持っている。それはお互い様で、自分が0、相手が10、またはその逆ということはない。
それは、出会って、かかわってみないと気づかない。
羅生門の「雨やみを待つ下人」のくだりは、コミックの中でも引用される。
下人は、老婆と出会って、深い闇に包まれた都に向かい走っていく。おそらく雨は上がっていたことであろう。
コミックでも、あきらの屈託は雨のシーンで表現される。
羅生門とは逆に、雨上がりの青空に下に駆け出ることになった二人の成長に、せつないようなまぶしさを感じる。
人を成長させるのに、出会いに勝るものはないのかもしれない。
それにしても、映画館にはけっこうおっさんが一人で来てたなあ。おれもか。