正月休みはテレビなぞ見ないで歴史本を読むことにしている。
昨年は幕末(勝海舟)だったので、今年は関東戦国史の太田道灌。
黒田基樹氏の『図説太田道灌』(戎光洋出版 1800円)は、
江戸城の創設者太田道灌についての最新の研究成果と、
関連史跡・史料の写真や図版、子孫が語る太田道灌、
そして史料的価値のある「太田道灌状」の翻刻原文と現代語訳がついている。
太田道灌関連の書はほかにいくつも出ているが、この書は基本文献となろう
(読むのに時間はかからない)。
道潅の有能さは充分承知しているが、むしろ読んでいて気になったのは、
道潅の主人筋の関東管領上杉氏と対立した古河公方・足利成氏(しげうじ)の強さ。
関東公方であることを将軍家から否定された成氏より、
室町将軍とつながっている関東管領側の方が
権力的にも名分的にも有利かと思いきや、
だいたいの戦いで成氏側が勝ってしまう。
なんでだろう。
兵器や軍略に明確な差はなかったはずだから(道潅の軍略は別)、差があるのは兵の数と志気だろう。
つまり、在地の武士団・領主たちにとっては、遠い京の権力の代弁者(上杉)より、
自分たちの棟梁(鎌倉府)をかつぎたかったわけだ。
これは平将門以来の、京権力に対して自立志向の強い坂東武者の伝統。
上杉氏の家宰筋・長尾景春の乱が広範囲に拡がったのも、在地の長尾氏への支持が強かったから。
だから同じ長尾でも越後の長尾景虎(上杉謙信)が、
圧倒的な強さと関東管領の威を将軍家から借りて、関東に君臨しようとしても、
関東の武士は面従腹背だったわけだ。
関東制覇に4代を要した後北条氏も、関東の主権を正当化するには、
西国から来た伊勢氏のままではだめで、
鎌倉執権北条氏の後裔を名乗ることが効果的だと判断したわけだ。